第14話

 ※


 別れ際、奥さんがティッシュにくるんだ黒砂糖を、三太君のつなぎの胸ポケットに入れてくれた。三太君はありがとうと言う代わりに、目の前に屈んでいる奥さんにではなく、なぜか奥にあるガジュマルの大木に向かって頭を下げた。

 夫婦はこれから知り合いのところへ行くということだったから、もしもよろしかったら車で送ってゆきましょうか? と申し出たのだけれど、いえいえ、ここからほんのすぐ近くですから、どうぞお構いなくであります、ということだった。それでぼくたち三人も次の場所に移ることにして、夫婦と共にその場所をあとにした。

 ガジュマルの大木の前でお互いに手を振って別れたあと──三太君だけは振らなかった──、車へ向かっている途中で、あのお爺さんとお婆さん、なんだかガジュマルの妖精みたいじゃなかった? あの『しわ』がさ、と訊いてみたのだけど、てんなも思ったよ! おばあちゃんしゅわしゅわしてたよ! と起きたと同時に叫んだてんなちゃんとは対照的に、三太君は怪訝そうな表情でぼくの顔を見上げただけで、何も答えてはくれなかった。

 帰りのフェリーの時刻まで、まだ充分に時間があることを確かめたあと、ぼくたちは614号線沿いに位置するスリ浜という海岸まで移動して、海を眺めながら白い砂浜を少しだけ歩き、木陰になっている適当な場所に腰を下ろした。

 浜にはぼくたちの他に、レジャーシートの上で日光浴をしている男女や、水着を着て走り回っている小学生らしき男の子二人等の、わずか数人の観光客しかいなかったけれど、辿り着くまで老夫婦以外まったく人間を見かけなかったせいか、とても賑わっているように見えた。

 三太君とてんなちゃんは、二人で砂山を作ることに決めたようだった。てんなちゃんが三太君に「ねえさんたくん、おしろつくろ!」と大声で『耳打ち』し、気の進まなそうな三太君を引っ張っていった。三太君が珍しくゲームをしなかった理由は、車中でぼくの言った、「知ってる? ハブってゲーム機の電波が好きらしいんだよねー」という冗談を真に受けたのかもしれなかった。

 ぼくは一人ケンムン座りをしながら、二人が危ない目に合わないか見張りつつ、周囲の風景を観察した。

 三太君は嫌そうな顔を保っていたものの、黙々と手を動かしているところからして、内心は張り切っているようだった。てんなちゃんは必死で砂をかき集めて山を作ろうとしていたけれど、どういうわけか、いつまでもできないでいた。それで三太君が作った城山を、手のひらで叩いて固める役に徹することにしたようだ。軽やかな足取りで砂山の周囲をくるくると回りながら、山の表面をペタペタと笑顔で叩き続けている──ふと、ぼくはいつの間にか、てんなちゃんばかり見ている自分に気が付いて、慌てて視線を三太君に移した。成長した優衣をてんなちゃんに重ね合わせ、やりきれなくなっている自分に気が付いたからだ。


 スリ浜をあとにすると、時刻表通りに生間の港へ行き、フェリーに車を載せ、古仁屋港へ向かった。

 帰りのフェリー上でも、行きのときと同様、三太君とてんなちゃんは、二階のデッキの手すり越しに海を眺め、ぼくは後ろにある椅子に座って二人のことを見ているという構図だった。横を向いたてんなちゃんが三太君の肩を、たたたたたっ、と叩いたあとにどこかを指差し、三太君がエイハブ船長の顔で斜めに微かに頷くというのもやっぱり同じだった。

 ただ、三太君の眉間のしわが、思いの外深くなっているような気がして、もしかして気分とか悪かったりする? と訊いてみたのだけど、彼はまったく表情を変えることなく、左右に一度、ゆっくり首を振っただけだった。

 無事古仁屋港に着くと、フェリーから車を降ろし、国道58号線を北に上って、名瀬市にあるみよこ伯母さんの店へと向かった。それまではすべて南子姉さんのメモ通りにことは運んでいて、ぼくたち三人は、なんの問題もなく店に戻る予定だった──けど、途中で『あの』アクシデントが起きた。


「帰りは平気だよ、道はちゃんと憶えてるから」

 来たときと同じようにカーナビの画面を食い入るように見つめている後部座席の二人にぼくは言った。てんなちゃんはにかっと笑ったけれど、三太君は無反応だった。眉間にしわを寄せたまま、一心不乱に画面を見つめているだけだった。その表情は、とても六歳とは思えないほど鬼気に迫っていた。いよいよぼくは気の毒になって真実を告白することに決めた。

「あのさ、聞き逃すと無線の向こう側にいる人が怒るっていうあれ、実は嘘だったんだ。ほんとはこの声、全部機械なんだよね。ごめんね、騙しちゃって」

 言い終えて恐る恐るバックミラーを覗き込むと、三太君の頬がわなわなと震えているのが見えた。汚い大人に騙された怒りを必死で我慢しているのかもしれない。しかもよく見ると、上半身の全体までもがわなわなと言うか、今ではもうぶるぶると打ち震えていた。ぼくは本当に悪いことをしたと思ったものの、いやそうじゃなくて、どこか具合が悪いのかもしれない、という考えにまもなく行き当たって、すぐに路肩に車を停車させると、シートベルトを外して振り返り、直接彼の顔を覗き込んだ。

「三太君?」

 よく見れば顔も青ざめている。今やどう見ても尋常じゃない雰囲気だった。ぼくは帰りの船での彼の表情を思い出した。やはりあのときから気分が悪かったのかもしれない。

「ねえ、どうかした?」

 熱があるかどうかを確かめようと、ニューヨークヤンキースのキャップを横向きにずらし、小さなおでこに手のひらを当てた。エアコンを強めに効かせているのにもかかわらず、うっすらと汗ばんでいる。一体彼の身に何が起こっているのかはわからなかったけれど、大至急病院に向かった方がよさそうだった。事態に気が付いたのだろうか、てんなちゃんも心配そうな顔で三太君の肩をたたたたたっと叩いては、顔を覗き込むという行為を繰り返している。

「今すぐ病院に連れてくからね」

 ぼくは病院の場所を訊くために、助手席に放っていた携帯を取ってスライドさせると、急いで南子姉さんに電話をかけた。なかなか出てくれないもどかしさから、ハンドルを握っている手に力がこもる。落ち着け竺、落ち着け、落ち着くんだ……。脂汗と共に、あの日の記憶がじわりと胸内に滲み出し始める──と、「ジクおじちゃん、でたって!」というてんなちゃんの声に振り返ってみると、愉しげににかにかと笑っているてんなちゃんと、もうまったく震えてはいない、三太君の姿が見えた。つんと横を向いている三太君の顔色はすっかり元に戻っていて、頬には赤みまでもが差し込んでいる。──え、どうして? とそう思った直後、てんなちゃんが自分の鼻を指でつまむのと同時に、微かなアンモニア臭が鼻先を掠めた。ぼくはてんなちゃんが言った言葉の意味に、ようやくはっと気が付いた。

「もっしもーし、竺? どないしたと?」

 あっけらかんとした南子姉さんの声が電話越しに響き渡った。ぼくは後続車が来ないことを確認すると、車を降りながら応答した。

「姉さん? えーとね、さっき予定通り、本島の方に帰ってきたからさ、これからそっち帰るよ」

 ぼくは後部座席のドアを開けた。三太君が心配そうな顔でじっとこっちを見上げている。きっと密告を恐れているに違いない。ぼくは力強いオーケーマークを三太君に向けて作って見せた。

「何、そんだけ?」拍子抜けした声で姉さんが訊き返す。

 三太君の座っているシートの下にできた小さな世界地図が視界に入る。うんそんだけ、とぼくは言った。

「なんだー」とほっとした声で姉さん。「電話なんかしようから、なんかあったかと思うたよ」

 ないない、とぼく。「っていうか普通はするんじゃないかな、電話」

「それはわかっとんのやけどね。ただ、ちょっと嫌な予感がしてたんよ。──あ、竺を信用しとらんてわけじゃなかからね?」

 さすがだな、とぼくは思った。みよこ伯母さんの娘だけあって、姉さんの勘は昔から鋭いのだ。わかってるよ、と彼女の気遣いに感謝しながらぼくは言った。

「じゃ、気を付けて帰ってきんさい」

「あ、でもどっか寄り道するかもしれないから、ちょっと遅くなるかも。まだ店終わんないし」

「仲良くやっとるんだ」

「今や大親友だよ」

 言いながらぼくは、三太君を見た。三太君は不安そうなまなざしでこっちを見つめ続けていて、てんなちゃんは鼻をつまみながら、にかにかと笑い続けている。

 はいはい、と姉さんが言った。「店が終わるまでに帰って来れば、それでよかから」

「じゃあそういうことで」

「はいはーい」

 ぼくは携帯を縮めると、三太君に言った。「大丈夫だよ、ちゃんと内緒にしといたから。って言うか、トイレ気付かないでごめんね。てんなちゃんは平気?」

 三太君がエイハブ船長の顔で前を見て、鼻をつまんだままのてんなちゃんが大きく頷く。そのあとまたてんなちゃんが三太君の肩を、たたたたたっと叩いたあとで顔を覗き込みながら、もらしちゃったね! くさくてかっこわるいけど、へいきだよ! あいしてるから! やくそくどおりけっこんしてあげるね! と、空よりも明るい鼻声で言った。

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