第13話
※ ※ ※
最初の目的地だった於斉に到着してから少しだけ歩き、島で一番大きなガジュマルの大木を見ているときに、一組のある老夫婦と出会い、しばらくの間話をした。二人はお揃いではないものの同じ茶系の着物を纏っていて、なんとも珍しい髪の色──意地悪な見方をすれば白髪染めを失敗したような──をした夫婦だった。ぼくたちはガジュマルの大木の近くに置かれていたベンチに、奥さん、てんなちゃん、旦那さん、三太君、ぼくの順番で並んで腰かけて、奥さんが風呂敷に包んで持ってきていた黒砂糖のかけらを全員で舐め、これも奥さんが持ってきていた熱いほうじ茶を水筒の蓋で回し呑みしながら──子供たちは飲まなかった──、小一時間ほどの間、のんびりと話をした。ベンチはちょうどガジュマルの木陰に置かれていて、穏やかでやわらかい風が時々吹き抜けていって、涼しくて気持ちがよかった。てんなちゃんは途中からずっと奥さんの膝に跨がるように乗っていて、おへそが見えてしまうくらい全力で奥さんの胸に背中を預け、本当のおばあちゃんにするかのようにべったりと甘えていた。
夫婦がその場所を訪れたのは八度目らしく、その日がちょうどダイアモンド婚式と言われている、六十回めの(!)結婚記念日ということだった。奥さんは無口な性格らしくほとんどしゃべらなかったのだけど、その分笑顔がとてもチャーミングだったことを憶えている。旦那さんの方が八十歳をとうに過ぎているにもかかわらず、中々の饒舌家に加えての博識家で、「今から六十年前の本日に、この場所で家内に求婚をしたのであります!」という昭和の兵隊めいた言い回しの話を皮切りに、戦時中の話や、島尾敏雄の小説の話、そして南子姉さんがぼくを脅かすために散々話して聞かせ、仮面まで作ったという『いわく』を持つ、ガジュマルの木に住んでいるという妖怪、ケンムンについても教えてくれた。
「一体どんな妖怪なんですか?」
ぼくが質問すると、旦那さんはガジュマルの幹──正確にいうと気根と呼ばれる、幹から無数に伸びた細い根っこ──のように顔をくしゅくしゅにさせながら、孫の話でもするかのように、自慢気な口調で話し始めた。
「あれは体が小さく、人間で言うと、三歳児ほどの大きさをしているのであります。全身を赤い粘膜質の皮膚と産毛に覆われているのが特徴で、髪の毛も同じように赤く、たいていはおかっぱ頭をしているのであります」
二、三歳の子供とおかっぱ頭という言葉を聞いた途端、反射的にぼくは優衣のことを思い出し、はっと息を呑んだ。けれどすぐに忘れるよう強引に務める。今はそんなときじゃない。
「顔は猿、猫、犬などに似ていると言われておりますが、実際は、人間とたいして変わりません。ただ、彼らのどれもが皮膚や毛が赤いために、人間とはすぐに見分けることができるのであります。手足が長く、あたかも竹のように細いので、尚さらでございます。そして座るときには、必ずと言ってよいほどに、両膝を立て、間に顔を挟むようにして座ります。それしかできないという訳ではないのですが、そうするのが心地よいのだそうです。その座り方に由来してか、この地方では両膝を立てて座ることを、昔からケンムン座りと言っているようです」
旦那さんはそこで息をついた。ケンムンをあれと言ったり、自分が人間じゃないような言い回しが気になると言えば気になったけれど、その辺は個人の自由だから気にしないことにした。
「本来はそのような姿なのですが、何にでも化けられるという特技を用い、人前に姿を見せるときには、小さな子供に化けている場合がほとんどなのであります。そのため、気付かないことの方が多いかもしれません。子供に化けるのは、自分よりも大きなものに化けられないことや、言葉があまりうまくないというのもありますが、あれ自身、子供が大好きだからのようです。また、口からよくよだれを垂らしていて、時々びゅっと泡を吐いたりもしますので、もしもさような子供を見かけたら、そしてその子供が膝を立ててしか座らないようだとしたら、それはもしかしたら、ケンムンが化けている可能性が高いかもしれません」
言い終えた旦那さんがにっこりと笑いかけてくれたのだけど、ぼくは何も答えることができないままに、目前のよじれた大木の幹を、ただ機械的に眺めているだけだった。優衣のことを考えていたからだ。
強引に忘れようとすればするほどに、ぼくは優衣のことを、よりいっそう強く考え始めてしまっていた。いつかの赤いケープを巻いた、おかっぱ頭の優衣のことを。
その優衣は、赤いドレスを着ている優衣や、赤いゆかたを着ている優衣や、赤いパジャマを着ている優衣に次々と変化していった──そう、あの子は他のどんな色よりも、赤色が好きだった。何よりも真っ赤な赤が、大好きだった。
頭の中の優衣は、やがて袖のすぼまった白い半袖シャツの上に、エプロンのような形をしている赤いワンピースを着ている姿へと変化した。
足元は白いフリルの付いた靴下に合わせ、エナメル素材で作られた赤い靴を履いていて、髪型はもちろん、黒いおかっぱ頭だった。
カチューシャ付きの大きな赤いリボンを着けていて、それが優衣の一番のお気に入りの髪型と格好で、麻凪とぼくの一番のお気に入りでもあった。
まるでアニメの中から飛び出してきた女の子みたいだね、そう言って二人で笑うと、優衣はとびっきりの笑顔で応えてくれた。
麻凪とぼくだけに向けられた、ぼくたちだけが完全に理解することのできる、最高の笑顔。
そんな優衣の姿を思い浮かべながら、ケンムンという妖怪が大の子供好きというのなら、たとえ幽霊でもかまわないから、どうか優衣を連れて来て会わせてほしい、いや、いっそケンムンが化けたものでもかまわないから、どうか優衣の姿でぼくの前に出てきて欲しい、出てきて……といつからか強く強く願っているぼくに向かって、いかが、されたのでありますか? と訊ねながら旦那さんがぼくの顔を覗き込んだ。
はっと我に返ると同時に、いえ、とぼくは言った。
「あるいは、お身体の調子でも?」
「大丈夫です。お話を聞いているうちに、ちょっと思い出したことがあったもので」
「それが何か、悲しいことでなければよいのですが」
その思いがけない優しい言葉に、彼の膝に突っ伏して泣き喚いてしまいたい衝動に駆られたけれど、そんなことができるはずもない。ガジュマルの大木を見つめるふりをして、気持ちが落ち着くのを待っているぼくに旦那さんが続ける。
「あなたさまの『空』は、現在とても大きくなっており、『能』が極めて鋭敏になっているようですからね。こちらの坊ちゃんも同様です」
「……?」
「元々の素質もおありでしょうが、土地の力が加わっているせいもあるのかもしれません。こちらの坊ちゃんに限っては、幼い年齢ゆえでございますが。いずれにせよ、『暗』に呑まれぬよう、お気を付けくださいませ」
「……と、言いますと?」
「わたしからは、言ってはならんことになっているのであります」
そこで旦那さんはぼくの方に顔を寄せると、立てた手を口元に添えて、奥さんをしきりに気にするような口ぶりでこっそりと言った。
「しかしご安心ください。一つについては『もうすぐ』、わかるときが訪れるでありましょうから」
「そう、なんですね……?」
「ええ」
とそこで旦那さんに煙草を勧められたのだけど、丁重にぼくは断った。旦那さんは当然のように奥さんに煙草を差し出し、奥さんも当然のように一本を引き抜いて咥えると、旦那さんが年季の入った木製のジッポライターで火を点し、二人してうまそうに吸い始めた。いつの間にか眠ってしまったてんなちゃんと3DSに熱中している三太君に煙がかからないように、さりげなく気を付けながら。なんてワイルドでクールな老夫婦なんだ、と内心で密かに感動するぼくだった。
旦那さんのおかげで持ち直すことができたぼくは、改めて訊ねてみた。
「それで、そのケンムンというのは、悪い妖怪なんですか?」
悪いことでも訊いてしまったのだろうか。とんでもございません! とびっくりしたような顔で旦那さんは言った。
「あなたたち人間にとっては、むしろ良い妖怪にあたるのではないでしょうか。何しろあれは、驚くほど大量の魚を捕るのでありますが、片方の目玉しか食せずに、身の方を棄ててしまうのでございますからね。事実魚の目玉というものは、非常に美味なので致し方ありませんが」
食の好みというのは人それぞれなのだから、ぼくは何も答えずにおくことにした。と、そこで奥さんが差し出した、兜型に折った和紙の中に、たん、と一度灰を落としたあとに旦那さんが続ける。
「ただ、その不気味な容貌ゆえ、度々人間たちより、差別や非難を浴びせかけられ、持ち前の並外れた能と純真な心とを、富の獲得のために、利用されたことがゆえんでしょう。誠に残念ながら、ときに少々度が過ぎる行為に出るようになってしまいました」
「どのようなものなんでしょう?」
「目玉をくり抜く、一族とその家を焼き払う、一生悪夢をもたらす、などとなっております」
「……絶対に怒らせてはいけない妖怪のようですね」
旦那さんは頷いた。
「とは言え、それは復讐行為ですので、こちらが何もしない限り、被害は決してありません。普段はあくまでも、人懐っこい、陽気で子供好きな、至って無害な妖怪なのでございます」
とそのとき、特に風が吹いたわけでもないのに、ガジュマルの葉っぱがざわっと揺れた。
ちらっと上を見た旦那さんが、にっこりとぼくに笑いかけた。
「どうやらあなた方に、大変興味がおありのようでございますな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます