第2話

「心を明るくしてくれる、魔法みたいなお菓子よ」


リラはそう言って、優雅に微笑んだ。彼女の言葉はいつも私の心を温かくしてくれる。チャイの湯気が、部屋に満ちたカルダモンの香りをさらに甘くした。


「ありがとう、リラ。でも、何かが違うの。ガジャラージ神様に捧げるには、まだ何かが足りない気がして」


私はカップを両手で包み込みながら、正直な気持ちを打ち明けた。完璧なレシピ、最高の材料。手順に間違いはないはずなのに、あの特別な輝きが生まれない。


「足りないもの、ね。それは、どんなものかしら?」


リラは首を少し傾けた。長い黒髪がきらめくサリーの上を滑る。彼女の問いかけは、いつも私の考えを整理する手伝いをしてくれる。


「喜びのきらめき、とでも言うのかしら。食べた瞬間に、ぱっと心の中に光が灯るような、そんな感覚。以前は、もっと自然にできていたはずなのに」


自分でもうまく言葉にできない感覚だった。技術の問題ではない。もっと心の奥深く、根本的な何かが影響しているような気がする。


「そうねえ。もしかしたら、アマラ自身の心が、少し曇っているのかもしれないわね。お菓子は作り手の心を映す鏡のようなものだから」


リラの言葉は、静かに私の心に染み込んだ。確かに、最近は「最高のラドゥを作らなければ」という気持ちばかりが先走って、純粋にお菓子作りを楽しむ心を忘れかけていたかもしれない。焦りや気負いが、無意識のうちにお菓子の輝きを奪っていたのだろうか。


「私の心が……」


「ええ。あなたは少し考えすぎてしまうところがあるから。完璧を求めるのは素晴らしいことだけれど、時には心を解き放ってあげることも大切よ」


リラは立ち上がると、私のそばに来て優しく肩に手を置いた。


「ねえ、アマラ。少し気分を変えに行かない? 中央市場へ行きましょう。新しい材料を探しながら、街の空気を吸えば、きっと何か良い考えが浮かぶわ」


「市場へ……」


リラの提案は魅力的だった。市場の活気は、いつも私に元気を与えてくれる。それに、彼女の言う通り、新しい材料との出会いが、新しい発想に繋がるかもしれない。


「そうね。行きましょう。最高のギーと、それから新しいスパイスも見てみたいわ」


私は頷き、少しだけ軽くなった心で立ち上がった。二人で簡単な身支度を整え、家の外に出る。デヴァプラの街は、今日も生命力に満ち溢れていた。色とりどりのサリーをまとった女性たちの笑い声、露店の商人たちの威勢の良い呼び込み、そしてどこからか聞こえてくるシタールの陽気な音色。それらすべてが混ざり合って、街全体が生き生きと呼吸しているようだった。


中央市場は、街の心臓部だ。巨大なガジュマルの木が広げる木陰の下に、数えきれないほどの店がひしめき合っている。私たちはまず、スパイスの香りがひときわ強く漂ってくる一角へと向かった。


「こんにちは、アマラさん、リラさん。今日は何をお探しで?」


スパイス屋の店主、ラージューさんが人の良さそうな笑顔で迎えてくれた。彼の店には、赤、黄、緑、茶色と、色鮮やかなスパイスが小さな山を作って並べられている。シナモン、クローブ、カルダモン、ターメリック、クミン。それぞれの香りが混ざり合い、むせ返るような芳香を放っていた。


「こんにちは、ラージューさん。今日はラドゥに使うカルダモンを探しているの。いつもより、もっと香りが良くて、新鮮なものを」


「それなら、とっておきがありますよ。カイラス山の麓で今朝摘まれたばかりのものです。香りが段違いですよ」


ラージューさんはそう言うと、奥から小さな布袋を取り出してきた。袋の口を開けた瞬間、爽やかで、それでいて甘く深い香りがふわりと広がった。それはまるで、緑の森の朝の空気そのものを閉じ込めたような香りだった。


「すごいわ。こんなに力強い香りのカルダモンは初めて」


「でしょう? これを使えば、きっと素晴らしいお菓子ができますよ」


私はそのカルダモンを少し分けてもらうことにした。支払いを済ませて礼を言うと、ラージューさんは「ガジャラージ様もきっとお喜びになるでしょう」と笑ってくれた。


次に私たちが向かったのは、ギーを専門に扱っているお店だった。ギーはインドのお菓子作りには欠かせない、聖なるバターオイルだ。ここでは、様々な種類のギーが大きな壺に入れられて売られている。


「あら、アマラじゃないか。今日はどんなお菓子を作るんだい?」


店の女主人のシーターさんが、ふくよかな体を揺らしながら声をかけてきた。彼女の作るギーは街で一番だと評判だった。


「こんにちは、シーターさん。最高のラドゥを作りたくて。そのために、最高のギーを探しに来たの」


「ほう、最高のラドゥかい。それなら、これ以上のものはないよ」


シーターさんは自信たっぷりに、店の隅に置かれた一際美しい装飾の施された壺を指差した。


「これはね、聖なる牝牛スラビー様の乳から作った、特別なギーなんだ。月に一度、満月の夜にしか作らない特別な品でね。普通のものとは輝きも香りも全く違うよ」


蓋を開けてもらうと、中には黄金色に輝く液体が満たされていた。それはまるで溶かした太陽のようで、ナッツのような甘く香ばしい、豊かな香りが立ち上った。一口試させてもらうと、口の中に濃厚なミルクの風味が広がり、すっと溶けていった。


「なんて……なんて素晴らしいギーなの……」


「だろう? これを使えば、どんなお菓子も神様への捧げものにふさわしい逸品になるさ。ただし、お値段もそれなりにするけどね」


シーターさんはいたずらっぽく笑った。値段は確かに安くはなかったけれど、私は迷わなかった。このギーこそ、私が探し求めていたものだと直感したからだ。


「これをいただくわ」


最高のカルダモンと、奇跡のようなギー。新しい材料を手に入れたことで、私の心は少しずつ高揚してきた。リラも私の様子を見て、嬉しそうに微笑んでいる。


「よかったわね、アマラ。あなたの顔、来た時よりもずっと明るくなったわ」


「ええ、本当に。二人で来てよかった。ありがとう、リラ」


市場の喧騒の中、私たちは次にひよこ豆の粉、ベサンを買いに向かった。ラドゥの主材料であるベサンは、その品質がお菓子の味を大きく左右する。私たちはいくつかの店を見て回り、最もきめ細かく、新鮮な豆の香りがする粉を選んだ。


全ての買い物を終え、市場の隅にあるチャイ屋で一休みすることにした。熱々のチャイをすすりながら、市場の活気を眺める。子供たちが元気よく走り回り、商人たちの声が飛び交う。この街の日常そのものが、私に力を与えてくれるようだった。


「やっぱり市場はいいわね。ここにいるだけで元気になる」


「ええ、本当に。みんな一生懸命生きていて、その力が満ちている場所だわ」


リラがそう言った時だった。突然、市場の一角がひときわ騒がしくなった。人々の歓声と、子供たちの甲高い声が聞こえる。


「パワンプトラ様だ!」

「消防団の隊長が来たぞ!」


声のする方を見ると、身軽な猿神、パワンプトラが店の屋根から屋根へと軽々と飛び移りながら、こちらへやってくるのが見えた。彼は街の消防団と警備隊の隊長を兼任していて、その力強さと明るい性格から、街の人気者だった。特に子供たちからは英雄のように慕われている。


「よお、アマラにリラ! いい匂いがすると思ったら、お前たちか!」


パワンプトラは私たちの目の前の屋根からひらりと地面に降り立った。その動きには一切の無駄がなく、力強くしなやかだった。


「こんにちは、パワンプトラ様。お勤めご苦労様です」


私が挨拶すると、彼はニカっと白い歯を見せて笑った。


「おう! 街の平和を守るのが俺の仕事だからな! それにしても、お前たちの周りはいつも甘くていい香りだな。今日は何かうまい菓子でも作ってるのか?」


「ええ。最高のラドゥを作ろうと思っているんです」


「最高のラドゥ! そいつはいいな! ガジャラージ様もきっとお喜びになるぜ!」


パワンプトラはそう言うと、くんくんと鼻を鳴らして私が持っている買い物袋の匂いを嗅いだ。


「ほう、こりゃすげえな! スラビー様のギーか! それにこのカルダモンも極上品だ。材料は文句なしだな!」


彼は満足そうに頷いた。そして、何かを思い出したように、私の顔をじっと見つめた。


「だが、アマラ。何か顔が硬いぜ? 最高の菓子を作るなら、最高の笑顔がなくっちゃな!」


彼はそう言うと、大きな手で私の頭をわしわしと撫でた。その手は少し乱暴だったけれど、不思議と温かかった。


「最高の笑顔、ですか?」


「そうだ! どんなに良い材料を使っても、作り手がそんな難しい顔をしてたら、菓子も気難しい味になっちまうぜ! ガハハハ!」


パワンプトラは豪快に笑った。その単純明快な言葉は、私の心の靄を吹き飛ばす風のようだった。難しく考えすぎていたのかもしれない。最高の材料、最高の技術、そして最高の笑顔。彼の言葉は、とてもシンプルで、だからこそ真実味があった。


「ありがとうございます、パワンプトラ様。なんだか、元気が出てきました」


「おう、そうか! それならよかった! 何か困ったことがあったら、いつでも俺を呼べよな! それじゃ、俺は巡回に戻るぜ!」


パワンプトラは言うが早いか、再び近くの建物の壁を駆け上がると、あっという間に屋根の上へと消えていった。その姿が見えなくなるまで、子供たちが手を振って見送っている。


「ふふ、相変わらず嵐のような方ね」


リラがくすくす笑いながら言った。


「でも、彼の言うことにも一理あるわ。あなたの笑顔は、お菓子を美味しくする一番のスパイスですもの」


「一番のスパイス……」


私は自分の頬にそっと触れた。確かに、パワンプトラに言われるまで、自分がどんな顔をしていたかなんて意識もしていなかった。きっと眉間にしわを寄せて、思い詰めた顔をしていたに違いない。


「帰りましょう、リラ。そして、もう一度作ってみるわ。今度は、笑顔で」


私たちはチャイ屋を後にし、家路についた。市場の活気、新しい材料との出会い、そしてパワンプトラの屈託のない励まし。それら全てが、私の心を少しずつ、でも確実に軽くしてくれていた。


帰り道、リラがふと足を止めた。彼女が見つめる先には、街の中央図書館の美しい建物があった。


「ねえ、アマラ。少しだけ、寄っていかないかしら」


「図書館に?」


「ええ。館長のヴァーニ様なら、何か知っているかもしれないわ。『喜びのきらめき』について、何か古い言い伝えのようなものを」


リラの提案は、思いがけないものだった。知恵と芸術の女神であるヴァーニ様。彼女が管理する図書館には、この世界のありとあらゆる知識が集められているという。


「ヴァーニ様が……」


確かに、彼女なら何かヒントをくれるかもしれない。最高の材料は手に入れた。笑顔の大切さも教わった。それでもまだ埋まらない最後のピースが、そこにあるような気がした。


「そうね。行ってみましょう。ヴァーニ様にお会いして、お知恵を拝借できるかもしれないわ」


私たちは、再び歩き出した。目指すは、街の知の殿堂。そこには、まだ見ぬ答えが待っているかもしれない。期待と少しの緊張を胸に、私たちは図書館の大きな扉へと向かった。太陽の光が、建物の白い壁をきらきらと照らし出していた。

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