3.15 グロテスクな笑顔
藤川らが去り二人きりになった事務所で、本郷はなんと声をかければいいか迷っていた。
思ったことは口に出す。
言葉はまっすぐに伝える。
目を真正面から見つめる。
それが彼女の常であったにもかかわらず、それができないことが何度もあった。
口にして良いのか。
彼ならきっと、最後は折れて助けてくれるんじゃないか。
鋭い彼なら何も言えない私を察して、助けてくれないか。
しかしそんな淡い期待を抱いても、事態は何も変わらないことを悟った本郷は、彼女にしては珍しく言葉を選び口を開いた。
「……珠厨音、さすがにやりすぎじゃないか? もっと穏当な方法はないのか?」
「穏当な方法とは、何に対して?」
振り返る少年の瞳には地獄に灯る火が燃え盛っていた。
彼女は知っていた。
一七の少年が浮かべるには剣呑すぎるその表情は、狂気と憎悪だ。
何があっても殺してやる。
何をしてでも殺してやる。
覚悟が極まったどん底の犯罪者たちが浮かべるのと同じ顔。
それでも彼女は、少年を信じたい一縷の望みを捨てきれなかった。
「罠に嵌めて、不意打ちで射殺することだよ」
警視庁と魔法連盟京都支局の悪魔討伐共同作戦は、とんとん拍子で煮詰められた。
襲撃する場所、時間帯、武器、配置。SATの警官が案出し、珠厨音が助言する。
同時並行して、池原の偽の情報を流し誘き寄せる手筈も進めていく。
少年の頭脳は恐ろしいまでに、市木ともども悪魔を殺す作戦に専心していた。
「従前説明した通り、悪魔との契約を破棄させることなんて無理ですよ。あのヴィェルディゴニが万一にでも自由の身になれば、その時こそ京都、いや日本が地獄になりますよ? 正しいことをなすためには、時に苛烈な暴力も必要です」
「それはわかってる。けど、君の執拗な殺意はそれだけじゃないだろ。ヴィェルディゴニという悪魔は……君がアフリカで仕留め損ねた悪魔だな?」
少年は憎悪に沸き滾る目を細め、口を吊り上げた。
「珠厨音、君のこれはもう正しさのための戦いなんかじゃない。私怨だ。君にとっていま何より大事なのは、仲間を裏切らせた悪魔への復讐を果たすことだろ」
少年は何も答えなかった。
「私たちは殺し屋じゃない。警官だ。なんで市木さんが池原さんを追ってたのか、本当に市木さんが禍具の横領犯なのか、まだ確定したわけじゃない。冤罪があってはならん。本当にそんな人間なのか、何を願って悪魔を讀んだのかまずは調べるべきじゃないか?」
「潤さん。市木氏が何を条件にヴィェルディゴニと契約したのか僕は知りません。でも彼はあれを喚びました。喚び出される悪魔は、召喚者の願望とそぐう本質をもつ者です。市木氏の望みは、ヴィェルディゴニに相応しい種類のものだったのでしょう。そして契約が果たされればあの大悪魔が自由になる。ならそれで十分です。不可避の死は、あんなものを召喚した者への相応の報いです」
少年は耳を貸す気などない。
何を言ってもその怜悧で狂気じみた知性に反駁され正当化される。
鈍感な本郷でもそれだけはわかった。
そして自身の偏執的な欲望のためにすべてを正当化する彼を、初めて怖ろしく思った。
魔法を剥奪されてしまった彼に、ヴィェルディゴニを討つ力はもうない。
それでも諦めず、言葉巧みに警視庁の藤川たちを説得して、彼らの力を利用して目的を達しようとしている。
彼は何をしてでも誰を犠牲に払ってでも、憎き悪魔を殺したいと欲す怪物だ。
本郷は、相棒と認めた少年の善性を信じたかった。
ともに死線を乗り越えた彼は信頼できる。
彼ならきっとまだ。
そう判断しようとした瞬間、本郷は教えられた通り「ちょっとまて本郷潤」と無意識に呟いていた。
少年の冷たい言葉が脳裏をよぎる。
「それは信じるに値するものでない。ただそう信じたいだけだ」。
そして本郷は、少年にとっての自分も所詮は、藤川たちと同じく目的のための手段にすぎなかったのでないかと猜疑にとらわれた。
どうして珠厨音は私の捜査に協力した?
仕事をしないと、本部に目をつけられるからでないか。
そしてその仕事をするための魔法を使えず非力だった、だから戦力として自分を迎え入れたのでは?
自分は彼にとっての道具でしかなかった?
猜疑に囚われると、昨日まで愛おしく見えた少年の何もかもがグロテスクに映った。
「あの悪魔を捕まえて召喚者へ悠長に尋問をする余裕なんてありません。お願いです潤さん。僕にあなたという名刀を振らせてください」
深淵のように濁った目が、こちらを覗き込んでくる。
そして気づく。
その目が自分という人間を見ているようで見ていないことに。
本郷は、視線を泳がせることもなく、不自然な動きをしたがる下肢や首も制御して、顔に浮かびそうな嫌悪の微表情すらも殺しきる。
少年から教わった通りに眦を下げて、本物の笑顔に見えるように表情を調整して、笑ってみせた。
「……わかったよ。珠厨音がそう言うのなら、そうしよう。私は刀だ」
鷹揚に頷く本郷へ、少年が無垢な笑みを返した。
「ありがとうございます、潤さん」
*
本郷はその日、事務所に泊まる気になれなかった。
すっかり慣れ親しんだ京都の町をひとりで歩く。
点々と灯る街灯に照らされた木造の町はもう寝静まっていて、自分の足音だけが自分を追い立てるように思えた。
「珠厨音、君は……」
自分が相棒と呼び、信じていた人間はきっとはなから自分を道具としてしか見ていなかった。
裏切られたというのすらおこがましい。
最初からそんな関係でさえもなかった。
肺が空気を押し出し、息を吐き出させる。
吐き出すほど、頭が重くなり、眩暈がしてくる。
泣けばいいのか、怒ればいいのか、どうすればいいのかもうわからなかった。
久方ぶりに帰る安ホテルへの道は随分遠く思えた。
そのとき、思考を妨げるように私物のスマホが震えた。
知らない連絡先からだった。
「……はい、本郷です」
「俺だ、市木宗輔だ。不躾ですまん。本郷、助けてくれ」
「宗、さん!?」
本郷の声が裏返った。
久々に聞いた恩人の声は、焦るように途切れ途切れだった。
「何があったんですか、あなたに? 私たちは、あなたが横領犯だから追えって上から、まさかあなたが……」
「ハメられた! 罠だ。犯人が誰かは知らんが、気づいたら横領犯にされて、悪魔と契約を結ばされていた。頼む、かつての仲間でいま頼れるのはお前しかいない、時間がない助けてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください、どういうことですか、今どこにいるんですか?」
「いま京都にいる。監察に追われてる。冤罪なんだ。犯人を見つけて、無実を証明しなきゃならん。頼む、東京からでもいい、力を貸してくれ。もう後がない」
本郷の全身から汗が噴き出す。
心臓が早鐘のように打ち、息がもつれた。
ぐちゃぐちゃの思考がまとまらない。
こんな時どうすればいいかわからない。
不意に、珠厨音の顔が浮かぶ。
浮かんだのは、田口を追っていたときの彼の言葉だった。
「本当にやるべきことは、他人を信頼せずに一人でもやるべきだ」。
それはやけに耳に残る言葉だった。
一瞬、珠厨音に相談するか惑った。
だがすぐに、殺意に満ちた彼が彼女の話なんて取り合わず、殺せと命じてくるのが明白だと悟る。
誰を信じればいい?
自分はどうしたらいい?
惑う本郷の喉は、我知らず本心を語っていた。
「くわしく話を聞かせてください、宗さん。自分も京都に今いますから、そちらに向かいます、会えますか?」
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