2.7 おはよう



 それはこれまで何度も見た、英国魔法学院での去りし日の夢だった。



 精緻に積み上げられた莫大なる魔法陣の中央。

 硫黄と鉄血の臭いが研究室ラボいっぱいに立ち込める。


 喚び出したるその悪魔は、黒く巨大で醜悪。

 六足、六腕、六尾。

 喚ばれた時点でそれは既に満身創痍なれど、六六六の眼球冠を頭蓋に戴く悪魔は一抹たりとも威厳を損ねず、地鳴りのような声で問うてきた。



『貴公が、吾との契約を乞う愚者か』



 学内への大悪魔の降臨に、絶叫を響かす警報。

 慄然とする学舎。

 居合わせた研究室の同輩たちはみな、大悪魔の放つ汚穢と怖気に震え上がり、地獄の底へ落とされたように息をなくしていた。


 その只中。

 僕は静かに頷く。

 悪魔と契約してでも必要だった。

 大事なことを果たすための力が。


 そんな僕の欲望を見抜いてか。

 大山がごとき、見る者総てを慄かせる醜悪な悪魔が嗤った気がした。


『愚劣なる覚悟たるやし。然れば吾が力を与えん』


 魔法陣の境界すれすれまで悪魔が手を伸ばす。

 僕も迷いなく手を伸ばす。

 悪魔が吠えた。


『なれど只とは云わぬ! 契約は守ってもらう! 努努忘るる勿れ、貴公の務めは――……!』



 そのとき。

 珍しく血相を変えた師が、戦闘用霊杖を構え走り来る。

 愚かにも悪魔と契約せんとする弟子を止め、満身創痍の悪魔をうちはらうべく。


 しかし時は既に遅し。

 僕はもはや異形の悪魔と手を重ね、碌でもない契約を締結していた。





               *





 最悪の記憶だ。

 いつもそこで目が醒める。

 見るたび、鼻腔に蘇る硫黄の悪臭と、汚れた事務所の床に吐き気を覚える。


 しかし今日は何かが違った。

 肌をなでる爽やかな風。

 後頭部の温かな感触。

 朝の澄んだ空気。


「――起きたか珠厨音。おはよ」


 頭上で声がする。


 かすむ目を開くと、本郷がいた。

 僕は本郷の膝で寝ているらしかった。

 窓は開けっぱなしだというのに、まったく寒くない。

 体には本郷のジャケットがかかっていた。


 慌てて身を起こし、距離をとる。

 ペタペタ自分の体を触るが、何かされた痕跡はなかった。


「………………おはよう、ございます」


「いくらなんでも、警官の私が未成年者キミに手を出すわけないだろ。ハハ、珠厨音はほんとに可愛いな」


 そう笑う本郷も、さっき起きたばかりという感じだった。


 外はすっかり陽が高くにのぼっていた。

 僕は、人前で寝ていたことに驚いた。

 すっかり綺麗になった部屋に吹く五月の風が、不思議と心地よかった。





                *






「珠厨音はいつも風呂とか洗濯ってどうしてる?」


 シャツの匂いを嗅ぎながら本郷が問う。


「近くに、コインランドリ―と銭湯があるので」


 僕も自分のパーカーを嗅ぎながら答える。

 汗と、微かに本郷の匂いがした。

 けれどなぜか吐き気はなかった。


「よし! じゃあ服洗ってる間に風呂入ろう。なにか大きめの服貸してくれ。体を綺麗にしてからブランチとしけこもう」


 こともなげに本郷が僕へと言う。


 ……この人、他人の服を着るのに抵抗とかないんだろうか?

 僕なら絶対イヤだ。


 できることなら他人に服も貸したくなかったが、僕の事務所の掃除のせいで本郷に迷惑をかけた手前、断ることもできなかった。

 適当にみつくろったオーバーサイズのパーカーとハーフパンツを受け取る本郷は、部屋の真ん中で躊躇なく着替えはじめた。


 一枚脱ぐほど露わになる鍛え抜かれた肢体。

 絞られたウェスト。

 谷のような腹筋。

 下着の上からでも形の良さがわかる、上向きの乳房と臀部。

 美術館でダビデ像の横にでも飾られるべき、健康的な美を体現する肉体。

 男性を彷彿とさせる中性的な容貌でも、体は幾分女性だった。



 さしもの僕も異性が部屋で着替えて晒す肉体に気まずさをおぼえる。

 そうしてなぜか家主であるのに、部屋からの退出をせき立てられていた。





――――――――――――――――――――――――――

 ここまで読んでくださるあなたに感謝を。

 これからもあなたの日々の娯楽となる物語をお届けしてまいります。

 今後ともよろしくお願いします。

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