18.その背中が見えなくなるまで

 穴の外から轟音が聞こえる。穴をふさぐ岩に波が当たり小刻みに震える。しかし、岩は動かない。


 オトは鼻をすすり、涙の枯れた目を擦る。ずいぶん時間がたったように感じる。しばらく、呆然としていると外が静かになる。嵐が去ったのだとオトは理解する。


 必死に呼吸を整え、深く息を吸う。小さな両手を口元に当てる。大きく口を開ける。


「誰かぁぁ、助けてくださぁぁぁい!!」


 声は岩で塞がれた穴の中で反響し、岩の隙間からわずかにもれる。再び息を吸い、助けを求める。何度も繰り返すうちに声は掠れ、弱くなる。


 岩の隙間から差し込む光もわずかになる。夜が迫っていた。オトには、その光だけが希望だった。外へと続く道しるべ。


 オトは疲れはて、体を丸めたまま脱力する。疲労と恐怖で思考が鈍る。意識も遠くなっていく。オトは口から意識が抜けるように深い息を吐いて眠りにつく。徐々に深い夜がオトのいる窪みの穴を黒く染めていった。


 音が聞こえる。浅い眠りの中、夢か現実かの区別がつかない。オトはその窮屈さと岩壁に体が擦れる痛みで現実に帰ってくる。


 今の音は?夢?でも確かに聞こえた。水面を魚が跳ねる音が。誰かいる。人魚かもしれない。小さな小魚では岩をどかせないが、大人の人魚なら力がある。助かるかもしれない。


 オトは必死に叫び続けた。返事がない。誰かの気配は気のせいか、声が届かないだけか。わからない。でも、なにも見えない暗闇でオトにできるのは声を出し続けることだけだった。


 海中が揺れる音がする。誰かが近づいてくる気配がある。声は掠れ、オトの気持ちだけが大声を出す。気づいて気づいてと念じながら岩壁を必死に叩く。手のひらに血がにじむが痛みにまで意識が向かない。


「大丈夫ですかー?誰かいますかー?」


 男の声がする。大人の男の人。オトは息をのむ。緊張からの安堵、気持ちの変化に思考が追い付かない。息を吐く。呼吸が短く乱れる。涙が溢れてくる。必死に呼吸を整え返答する。


「はいっ。いますっ。助けて下さぁぁい!!」


 その声に相手は慌てた様子になるが、しばらく間を置いて落ち着いて語りかけてくる。


「わかりました。今から私がこの岩をどかします。安心していいですよ。」


 男の声は優しく安心感をくれる。穏やかな口調にオトも落ち着きを取り戻す。男はオトを不安にさせまいとさらに語りかける。


「あなたは誰ですか?おなまえは?」


「オト」


 オトは短く答える。男が岩を押してるのがわかる。岩は少しずつ揺れる。


「そう、オトさん。大丈夫ですよ。もう少しですからね。安心して。」


 男は何度か岩に体当たりしているようだ。激しくぶつかる音が耳に届く。岩の隙間が少しずつ広がったことをわずかな月明かりが知らせる。

 

「オトさん。あなたはおいくつですか?」


「8つ」


「そうですか。8歳。怖かったでしょう。不安だったでしょう。よく耐えました。よく頑張りました。」


 男の優しい言葉にオトの呼吸は乱れる。8歳の少女は、顔いっぱいで泣いた。鼻をすすり、声がもれる。涙は溢れて視界を霞ませる。それでも心の底からは暖かいものが込み上げてくる。


「大丈夫。大丈夫。もうすぐですよ。」


 大丈夫、大丈夫、男は何度もオトを励ました。何度も何度も岩に体をぶつける。隙間は徐々に広がりやがてオトが這い出せるくらいのものとなった。


 オトは体をねじ込み必死に這い出した。岩に擦れて服や、体が傷ついた。尾ひれが抜けるとオトは全身で伸びをした。出られた解放感と安堵で再び頬がぬれる。


 そして、男を見つけて抱きついた。顔をぐちゃぐちゃにして礼を言う。ありがとうの言葉は上手く聞き取れないが、男は優しい顔でオトの気持ちを受け止める。


 泣き止むとオトは男から離れ、頭をさげておじぎをする。それから男はオトを海底都市まで送り届けてくれた。


 「私はここで」と男は海底都市の手前で別れの挨拶をする。オトは親代わりの神官たちに言ってお礼をしたいと言ったが男は丁重に断る。


 去り際、オトは再びお礼を言って男の名を尋ねた。男は、はっとして答える。


「おっと失礼、まだ名乗っていませんでしたか。申し遅れました。

私、〝スズキ〟と申します。以後お見知りおきを。」


 イルカのスズキさんは器用に尾びれで水中に立ってお辞儀をする。そして、振り返って泳ぎ去っていく。月明かりがイルカの背を照らす。


 オトはその背中が見えなくなるまで手を振り続けた。

 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る