12.蛙たちの合唱のように
白い車体が地上の風景を切りとるように横切る。車窓の景色が激流のように変わっていく。夏休み初日の新幹線の車内は満員、賑やかで通路にまで人が並ぶ。おそらく車体と車体の間のデッキも例外ではないだろう。
そんな賑わいとは対象的に、彼女は安堵し、落ち着きを取り戻していた。湊 葉月(みなとはづき)、ーーソラの母親である。
葉月は隣に座る担当作家を横目で見る。彼は窓にカエルのようにへばりつき、流れていく風景を眺めている。幼い子供がショーケースの中のオモチャに目を輝かせるように。葉月は視線がやや軽蔑気味になるのを自覚した。
はぁ、と吐息がでる。今日、何度目だと思い指を折りはじめて馬鹿らしくてやめる。頭をかき、髪をとかしながら冷静さを取り戻す。
新幹線の中は蛙たちの合唱のように人々の声で溢れている。皆が長期休み初日の解放感と帰省や旅行の高揚感に満ちている。(私の憂鬱をよそに。)これなら、隣人の変人行為を気にする者もいないだろう。
年下の天才作家。才能と財力は申し分なくルックスも悪くない。髭は剃り残しがなく、爪は丁寧に切り揃えられている。シンプルな服装はいつ見てもシワ一つない。潔癖症、神経質さが清潔感として現れている。
もしも彼が常人の感性をもち、常識の中を生きていればどれほど男性として魅力的に映るだろうかと思う。
たが、現実は違う。彼は人目など気にせず自身の創作意欲と好奇心を満たす為に生きている。その為なら他人の都合など関係ない。
事実、関係ないのである。彼の感性は多くの利益を生み出す。その感性で描かれる物語を待つ熱狂的な読者が無数にいる。
葉月もその一人である。編集者としてはもちろん一読者としても。はじめ読者として彼の作品に触れたときの衝撃と興奮は今でも色褪せない。
淡々と静かに描写される物語、しかしホラーシーンになると一転する。文章のリズムを操り読む者の恐怖を煽る。
五感を刺激し、リアリティを増す。気づけば文字で、文章で、舌を引きずり出されるような嫌悪感を覚える。自然、えずく。
なんと気持ちの悪い体験だろう。しかし、気になる続きが怖いもの見たさが知的好奇心を刺激し、最後まで読んでしまう。そして、次を求める。
見てみたい。彼の切り取る世界を、彼の見えている世界を。読者は皆、そう感じてしまうのだ。
葉月の日々の彼への不満は、完成原稿を一読すると消え去ってしまう。その文章は彼の性格を表すように、配慮のない表現があり指摘事項はある。
しかし、あとは完璧。言葉選び、物語構成、人間心理、全てが想像を超えてくる。書くたびに進化しているようにさえ感じる文章体験。
人間心理的に至っては、「これは私のことだ」と共感し納得してしまう。これほど常識外れの男のどこにそれ(共感)を描ける精神があるのだろうと葉月はいつも疑問に思う。
完成原稿を読み終えた葉月は余韻に震える。作風はホラーでありながらなぜか彼の作品は恐怖とは違う感情を心に残す。
おそらく、彼自身はホラーとして書いていない。彼の書きたいものは極限状態の〝人間〟なのだ。ホラーは彼の表現に最も適したジャンルに過ぎない。
この作家の最初の読者になれることを光栄に思う。その為なら葉月自身の生活も多少犠牲にするのは仕方ないとも思う。
だが、息子の、ソラの貴重な16歳の時間を犠牲にしたのは親として後悔は残る。
「海に行くって約束したじゃん!」
葉月の脳裏にその時のソラの様子がよみがえる。今にも泣き出しそうな切ない顔が思い出され胸を締め付ける。顔が歪み、心の中で思わず謝罪の言葉がでる。
そんな彼女をよそに変人作家は車窓の景色に鼻を鳴らす。ときどき、賑わう車内で大声がすると彼はそっちを見る。興味を持って立ち上がり、近づいて行くのではないかと一瞬ヒヤヒヤする。しかし、再び彼は窓にへばりつく。彼の後頭部を葉月は睨んだ。
失礼ながら、葉月はこの男は一生結婚できないだろうなと思う。そもそも、恋愛感情など持ち合わせているのかと疑問に思う。
しかし、同時にもしもこの男が、結婚し子育てをすればどう作品に影響する?とも思う。
圧倒的な感性をもつ人間。恋愛、結婚、育児、それを通して作風に影響を及ぼさないわけがない。私でさえ、子育ての中で変化し多くの学びを得た。いや、今も。
それは決して一人ではできない。隣にはいつも彼(夫)がいた。葉月はふと夫のことを思い出す。
二人で行った水族館のことが不意に脳裏に甦った。巨大な水槽の中を優雅に漂う魚たち。それを目で追う彼の横顔が青白い光で照らされた光景が思い出される。
夫もまた不思議な感性をもった人間の一人だった。
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