第5話

 それから律君と玄関に座るのが、少しだけ当たり前になってきた。


 律くんは、何も言わずに毎日やってくる。

 私も、何も言わずに座る。

 その静かなやりとりが、妙に安心するようになっていた。



 今日も同じように、チャイムが鳴いた。

 私は布団の中から、躊躇なく起き上がった。


 律くんが来ることは、私の密かな楽しみになってきた。


 玄関を開けると、

 いつもより髪が少し乱れた律くんがいた。


「……雨、降ってた。途中まで走った」


 そう言って、濡れた前髪を手で払った。



 私は一瞬、返事をしようか迷って、

 けどやっぱりうまく言葉が出なかった。


 喉の奥がきゅっと鳴った。


 それでも律くんは気にする素振りを見せず、

 袋を渡してきた。


「今日、コンビニになんもなかったから……カレーパン。辛いかも」


 私は小さく、首を傾けた。

 それは、嫌だという意味ではなかった。

 ただ、驚いただけ。


 律くんは、少しだけ目を細めたような気がした。


「……もしかして、甘口しか食べない?」


「……べ、つに」


 ぽろっと、声が出た。


 思っていたより、自然に出ていた。

 自分で驚いてしまって、すぐに口を閉じた。



 律くんは、何も言わなかった。

 でも、視線が一瞬だけこちらに向いて、

 それから、またいつものようにゲーム機を取り出した。



 その日は、私の方が先に操作を始めた。


 それも、律くんに渡される前に、

 黙ってそっと手を伸ばして。


 律くんは、少しだけ眉を上げて見てきた。

 何も言わず、何も聞かず、

 ただもう片方のコントローラーを握った。



 二人でプレイが始まった。


 まだ喋らない。

 でも、キャラクター同士が画面の中で何かをやり取りしていると、

 つられて、ほんの少しだけ口元が緩む。


 私の顔の筋肉が、少しずつ“笑うこと”を思い出している気がした。


「……うまくなったな」


 律くんが言った。


「……」


 私は返さなかった。


 でも、言われたことは、

 胸のどこかにちゃんと届いていた。




 帰り際、律くんがぽつりとつぶやいた。


「そろそろ……さ。

 プリント、直接じゃなくて、学校でもらってみるのも、ありじゃね?」


 私は返事をしなかった。

 できなかった。


 でも、“その言葉”は、

 耳に残った。


 昨日より、少しだけ深く。

 少しだけ長く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る