第26話 サインはΩ

「覚醒後の運用は薄出力、精度優先。大出力は非常時のみ」


 俺の言葉に、天音が端末から目を上げる。


「青圧、乱れなし」


「薄出力・精度優先——覚醒後の運用に従う」


 彼女の声は冷静だが、その瞳の奥には確かな安堵が滲んでいた。


「前の"二度まで"は使わないのね」


「使わない。壊さず"扱う"方で回す」


 力を振るうことは簡単だ。だが、制御することこそが真の力だと、俺はようやく理解し始めていた。


***


 夜の片付けは、いつも静かだ。

 壊れた灯籠の石を積み直し、焦げた畳の端を切り揃える。救急班が去ったあと、境内には薄い煤の匂いだけが残っていた。月光が境内を白く染め、破損した箇所だけが影のように沈んでいる。


 祭具庫の隅で、細い残滓の糸がまだ震えている。

 (出力は上げられる。けれど——残滓が騒ぐ)

 胸の奥で、黒い何かが蠢く感覚。それは牛頭鬼を倒してから、ずっと俺の中に巣食っている。力を使えば使うほど、その存在感は増していく。


 俺は深く息を吸い、青圧を薄く延ばした。札の端を糸にそっと触れさせ、極細の輪を作る。まるで針に糸を通すように、慎重に、丁寧に。


「祓い分け」


 黒いトゲだけが音もなく抜け、細い光が残った。光はひびの入った柱へ吸い込まれ、揺れていた結界がひと呼吸ぶんだけ落ち着く。世界が、ほんの少しだけ正しい場所へ戻っていく。


「漏れない。——それ、覚醒後の安定だね」


 天音が横で小さく目を細める。普段の彼女からは想像できない、柔らかな表情だった。

「切らずに外す。今はそれで行く」


 美琴が縁側から顔を出す。紅葉が彼女の足元で、心配そうに俺たちを見つめていた。


「救護班から連絡。負傷者ゼロ、応急処置のみ。……尚、無理はしないで」


「してない。運用ルールは守る」


 戦いは終わった。ここからが、俺たちの仕事だ。

 現場検証は短く、正確に。俺と天音は記録札と塔の生ログを並べ、時刻を合わせて照らし合わせる。淡い光の波形が二本、半透明に重なった。データは嘘をつかない。そこに真実が隠れている。


「……見て」


 天音が指先で端をなぞる。その動きが、一瞬止まった。


「二度目だけ反応が目に見えて速い。学習は続いている。そして——」


 俺は札を持ち替え、さらに拡大する。波形の終端、ほんの針先ほどの欠けが同じ角度で現れては消えた。まるで、誰かの署名のように。


「Ω」


 言葉にすると、空気が締まる。


「観測者の指紋だ。前回と同じ手が触っている」


 美琴が眉を寄せる。「どうして、わかるの?」


「偶然じゃ起きない癖だから。遅延の短縮と、この一画の欠け。二度目で揃った。——学習されてる」


 敵は進化している。俺たちの動きを見て、対策を立てている。背筋に冷たいものが走った。

 天音は頷き、メモに短く記す。指先が微かに震えている。彼女も、この事実の重さを理解しているのだろう。


「結界塔ログ:同座標侵入×2。二度目の遅延0.2秒短縮、終端にΩ。推測→実証に更新」

「次は囁きを常時切る。侵入窓は前倒しで潰す」


 天音が頷いた。


 俺は息を吐いた。胸の中の緊張が、別の形に固まっていく。

 敵は顔がない。だけど今、癖をひとつ掴んだ。見えない相手でも、必ず痕跡を残す。その痕跡を追えば、いつか辿り着ける。


***


 夜明け前の会議室は、紙の匂いがする。

 生徒会・現場・塔管理——三つの席に三本の鍵が置かれ、議事録の用紙がきちんと並んだ。窓の外はまだ暗く、蝋燭の明かりだけが部屋を照らしている。会長の透華は黙って頷き、俺に視線を投げる。その瞳に、静かな期待が宿っていた。

 天音が訊ねてくる。


「前の"二度まで"は個人の話よね」


「規約は手順で縛る。限界値は各人の運用メモに落とす」


 俺は資料を開き、一文字一文字を確認しながら読み上げる。


「共同運用規約 v1.0。権限は現場/生徒会/塔管理の三分割。現場での書き換えは原則禁止、必要時は三者一括承認で一回限り。パラメータ調整のみ即時可。処置後は生ログ即時提出と相互照合を必須とする。負荷の高い処置は冷却判定をシステム計算——係数に応じて自動提示。閾値未満は施行不可」


 読み上げる声が、早朝の静けさに吸い込まれる。誰も口を挟まない。ただ、言葉の重みだけが空間を満たしていく。


 保守派の白髪の男が手を上げた。皺だらけの顔に、懐疑の色が浮かんでいる。


「若いの、現場判断が過ぎると事故るぞ」


「だから三分割です」


 俺は鍵を指で弾く。金属音が、優しく鳴った。透き通った音色が、緊張を少しだけ和らげる。


「誰かが走りすぎたら、残り二者が止める。橋は一本より三本のほうが強い」


 天音が資料を一枚差し出す。数字が並んだ、簡潔な報告書だった。


「試験導入の結果、無駄出動は解消。待機体制も安定。文書は千枚を短時間で要点化できています。ログは改ざんなし。Ω二件を検出。観測者の継続を示唆」


 会議室の空気が変わる。数字は静かに刺さる。事実は、どんな言葉よりも雄弁だ。

 透華が短く告げた。


「採決」


 挙がる札は、思ったより多かった。白い札が、朝日を受けて輝く。

 俺はペン先で最後の句点を打つ。

 理念は、手順になった。これでようやく、土俵に上がれる。


***


 解散のあと、廊下で三人だけになる。

 窓の外は白く、瓦の端が冷たく光っていた。夜が終わり、新しい一日が始まろうとしている。この静けさが、妙に心地よかった。

 美琴が俺の手首を取る。脈を、二つ分だけ数える癖は変わらない。彼女の指先は温かく、その温もりが俺を現実に繋ぎ止めてくれる。


「……早いけど、安定してる」


「出せるけど、出さない」


 俺は笑った。自分でも驚くほど、自然に。


「薄く、正確に。壊さず扱う。当分はそれで行く」


 天音が前を向いたまま言う。


「次回の手、決めよう」


 俺は頷き、短くまとめる。頭の中で、戦術が組み上がっていく。


「今回の反映:囁き遮断を常時化、侵入窓の推定位相を前倒しで潰す。Ωの角度は引き続き追跡」


「了解。検証は私が取る。現場運用はあなた。承認は会長」


 三本の橋が、音もなく接続される。一人では届かない場所へ、三人なら辿り着ける。

 窓の外、鳥の声が増えた。夜が、一段明るくなる。春の足音が、すぐそこまで来ている。

 帰り際、祭具庫の扉を閉めながら、俺はほんの少しだけ立ち止まる。

 牛頭鬼を倒した夜から、世界の見え方が変わった。力の量が増えただけじゃない。選べる手が増えた——その重さを、ようやく手のひらで測れるようになってきた。

 壊すことは、きっとこれからもできる。

 でも、扱うことを選べるなら、俺はそっちを選ぶ。

 観測者は、どこかで見ている。欠画という癖を残して。

 なら、こっちは橋を増やしていく。運用で、仕様で、人で。

 扉が静かに閉まる。

 朝の冷たい空気が、胸を冷やした。

 俺は歩き出す。学園へ、仲間のもとへ。


「世界のバグを、俺が修正する——壊さずに、丁寧に」

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