第25話 白銀家、境界任務へ

 ――世界が、軋んでいた。


 夜明け前、現実と異界の境目で、空間そのものが悲鳴を上げている。まるで巨大な獣が、見えない牙で世界の端を齧っているような、不快な振動が大気を震わせる。


 白銀家の紋章を背負った三つの影が、歪む境界線の前に立つ。


「境界浸食率、すでに3・2%……予測より7時間も早いじゃない」


 生徒会長・白銀透華の声が、夜の静寂を切り裂いた。銀髪を結い上げた横顔は、まるで月光を宿したかのように冷たく美しい。だが、その瞳には明確な警戒の色があった。


「お姉ちゃん、北側から妖気反応! ――うわ、これって三体同時展開!?」


 中等部の妹・麗奈が声を上げる。ショートカットの赤毛が夜風に揺れ、普段の明るさは影を潜め、握りしめた術符が微かに震えていた。


 俺――白銀尚は、端末に流れる異常なデータを睨みながら、二人の背後で息を整える。


(干渉波の位相ズレ+0.07……このままじゃ、結界が内側から崩壊する)


 養子として白銀家に迎えられて、まだ三ヶ月。

 透華義姉さんに術式構築の実績を認められて、名門魔術師の家系に拾われた俺。血の繋がらない姉たちと共に立つ、初めての正式な境界任務が、いきなり想定外の展開になろうとは。


「尚」


 透華が振り返る。その瞬間、俺は彼女の瞳に映る"信頼"を見た。


「南側から回り込んで、結界の安定化を。できる?」


 正直、プレッシャーで膝が震えそうだった。でも――


「――もちろんです、透華義姉さん」


 俺は術式ペンを構え直し、唇の端を軽く上げた。


「むしろ、俺にしかできない仕事ですから」


 透華の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

 それは普段の冷たい表情からは想像できない、暖かな感情の発露だった。


「頼りにしてるわ。――麗奈、援護準備」


「了解! 尚くん、絶対に無理しないでよ? 怪我したら、お母様に怒られるのは私なんだから!」


 麗奈義姉さんの心配そうな声に、俺は苦笑する。

 血は繋がっていなくても、この二人は確かに俺の"姉"なのだ。


***


 境界が、裂けた。


 現実の皮膚を食い破るように、黒い瘴気が溢れ出す。それは形を持たない悪意そのもの――人の恐怖と絶望が煮詰まったような、どろりとした闇。


 瘴気は三つに分かれ、それぞれが人型を模倣し始める。顔のない影法師が、ぎこちない動きで立ち上がった。


「レベル3の擬態型……厄介ね」


 透華義姉さんが一歩前に出る。

 銀の刀を抜く所作は、まるで月光が水面を滑るように優雅で――そして恐ろしいほど正確だった。鞘から解き放たれた刀身に、青白い魔力が宿る。


「《零式・白銀陣》――」


 詠唱が始まる。

 空気中の魔素が共鳴し、白い幾何学模様が虚空に描かれていく。まるで巨大な魔法陣が、世界そのものをキャンバスにして展開されているかのような壮大な光景。


「展開!」


 瞬間、爆発的な光が境界を包んだ。

 黒い瘴気が悲鳴を上げ、まるで生き物のように身をよじる。だが――


「ちっ、動きが速い!」


 三体の影法師は、予想以上の敏捷性で白銀陣の隙間を縫うように移動していた。


「今だ、麗奈!」


「わかってる! 《紅蓮術式・改》――着火っ!」


 麗奈義姉さんの術符が燃え上がり、紅い炎が螺旋を描いて瘴気に突き刺さる。炎は見事に一体を捉え、影法師が苦悶の声を上げた。だが――


「効いてない!? 燃えてるのに再生してる!」


「落ち着いて、麗奈義姉さん」


 俺は端末を見つめながら、冷静に状況を分析する。画面に流れる無数の術式情報。文字列が、まるで生きているかのように踊り狂う。その中から、たった一行の異常を見つけ出す。


「こいつら、境界の歪みを利用して防御膜を張ってる。通常の魔術じゃ突破できない」


 俺は深呼吸し、術式ペンを術式の上で踊らせた。

 ペン先から青白い光が零れ、空中に文字を描いていく。


「――なら、デバッグすればいい」


 術式ペンが空間に軌跡を残す。その光跡が、まるで神聖な詠唱文のように浮かび上がった。


 監査lint:副作用・微(周囲:干渉一%)

 実行run:境界層・修正()→敵性防御・無効化

 対象指定:全防壁・解除remove


「透華義姉さん、麗奈義姉さん、同時攻撃の準備を! 防御が剥がれるまで、あと5秒」


「5秒? それは少し――」


「4秒」


 カウントダウンが始まる。

 俺の額に汗が滲む。境界の歪みを修正するということは、世界の法則そのものに干渉するということ。失敗すれば、俺自身が境界に飲み込まれる。


「3秒」


 透華義姉さんの刀身に、白銀の光が収束していく。

 麗奈義姉さんの周囲に、紅蓮の炎が渦を巻く。


「2秒」


 影法師たちが、危機を察知したように一斉に襲いかかってきた。

 黒い腕が、俺の首を掴もうと伸びてくる。


「1秒」


 俺は術式ペンで最後の一筆を、力強く描いた。

 空中に描かれた術式が、金色に輝き始める。


「今っ!」


 叫びと同時に、俺のデバッグが完了する。

 瘴気の防御膜が、まるでガラスのように砕け散った。


 そして――


「《白銀流奥義・月華斬》!」

「《紅蓮爆炎・極大展開》!」


 透華義姉さんの刀が、世界を断つ。

 麗奈義姉さんの炎が、闇を焼き尽くす。


 白と紅の光が交差し、影法師たちを完全に包み込んだ。


 音が、消えた。

 光が、止まった。

 時間そのものが、一瞬だけ凍りついたかのような静寂。


 次の瞬間、瘴気が跡形もなく消滅し、断末魔の叫びだけが虚空に響いた。

 境界の亀裂が、ゆっくりと閉じ始める。


 俺は膝をついた。全身から力が抜けていく。

 術式ペンが、指先から転がり落ちそうになる。


「尚!」


 透華義姉さんと麗奈義姉さんが同時に駆け寄ってきた。


「大丈夫、ちょっと魔力を使いすぎただけ……」


「無茶しすぎよ、もう!」


 麗奈義姉さんが涙目で俺の肩を叩く。痛いけど、その痛みが妙に心地良かった。


「でも、よくやったわ」


 透華義姉さんが俺の頭に手を置く。その手のひらから、温かい魔力が流れ込んできた。疲労が少しずつ和らいでいく。


「尚がいなければ、今回の任務は失敗していた。境界の歪みを瞬時に見抜いて、的確に術式を修正する――それは、尚にしかできない」


 彼女の瞳に、初めて会った時の光景が蘇る。

 あの日、俺が独自に開発した境界修正術式を見た透華義姉さんは、驚きと感嘆の表情を浮かべていた。


『この術式を、あなたが一人で? ……白銀家に来なさい。その才能、埋もれさせるには惜しすぎる』


 あの言葉が、俺の運命を変えた。


***


 東の空が、薄っすらと白み始めていた。

 オレンジ色の光が、世界を優しく包み込んでいく。


「任務完了、と」


 透華義姉さんが刀を鞘に収める。その横顔に、微かな笑みが浮かんでいた。普段の凛とした表情とは違う、安堵の色が滲んでいる。


「尚くんすごい! あのタイミング、完璧だったよ! まるで未来が見えてたみたい!」


 麗奈義姉さんが飛びついてくる。さっきまでの緊張が嘘のように、いつもの明るさが戻っていた。小柄な体で俺に抱きついてくる姿は、まるで大型犬のようだ。


「いや、俺は補助しただけで……」


「違うわ」


 透華義姉さんが振り返る。朝日を背に、銀髪がきらきらと輝いていた。


「白銀家は代々、強力な魔術師を輩出してきた。でも、それだけでは限界がある。現代の境界任務には、新しい力が必要なの」


 彼女は俺の目を真っ直ぐ見つめた。


「術式構築と魔術の融合――尚は、白銀家に新しい可能性をもたらした。血の繋がりなんて関係ない。尚は紛れもなく、白銀家の一員よ」


 その言葉に、俺の胸の奥で何かが震えた。


 養子として迎えられた時、正直、自分の居場所なんてないと思っていた。

 白銀の血を引かない俺が、この名門魔術師家系で何ができるのかと。

 毎晩、部屋で一人、術式ペンを握りながら自問自答していた。


 でも――


「ありがとうございます、透華義姉さん、麗奈義姉さん」


 俺は深く頭を下げた。顔を上げると、二人の姉が優しく微笑んでいた。


「さ、帰りましょう。朝ごはん、お母様が作って待ってるはずよ」


「やった! 今日は特製オムライスの日だ! ケチャップでメッセージ書いてもらうんだ~」


「……境界任務の後にオムライスって、シュールすぎない?」


「いいじゃない、平和で」


 透華義姉さんが小さく笑う。その笑顔を見たのは、俺が白銀家に来てから初めてだった。


「あ、そうだ尚くん! 今度、術式の修正方法教えてよ! 私も境界の歪みを直せるようになりたい!」


「麗奈には無理よ。この前、術符の基礎すら理解できなかったじゃない」


「お姉ちゃんひどい! あれは説明が難しすぎただけで――」


 俺は二人のやり取りを見ながら、小さく笑った。


「基礎からなら教えられますよ、麗奈義姉さん。でも、結構地道な作業ですけど」


「えー、地道なのは苦手……」


「だから無理だって言ったでしょう」


 三人の笑い声が、朝焼けの空に響いた。


 ふと、俺は振り返る。

 境界があった場所は、もう何事もなかったかのように静かだった。

 でも、俺には分かる。この平和は、俺たちが守ったものだ。


 ――そして、俺の端末には、さっきのデバッグ中に検出された、妙な警告が残っていた。


 警告warning:上位階層からの干渉痕跡を検出


 この境界の歪み、ただの自然発生じゃない。

 誰かが、意図的に――


「尚? どうしたの?」


 麗奈義姉さんの声で我に返る。


「いえ、なんでもないです。帰りましょう」


 俺は端末を閉じ、術式ペンをしまった。

 警告のことは、もう少し調べてから透華義姉さんに相談しよう。


 白銀家の新しい家族として――俺たちの物語は、今、確かに始まったのだ。

 そして同時に、新たな謎も。


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