外伝 : ダイヤ、老人ホームに突撃!
昼前、蒼護市の港は、薄く白む海霧に包まれていた。潮のにおいはいつもより強く、船底を洗う音が遠くにくぐもって響いている。
漁師の子、佐藤大哉――みんなからは「ダイヤ」と呼ばれている男は、その海霧を割るように全力疾走していた。胸ポケットのボイスレコーダーがぶるぶると跳ね、肩掛けの安イヤホンが耳から半分外れて、彼の頬をぴしぴし打つ。
「いろんな声を録音する!」
ダイヤは叫んだ。ひとりで。港を駆け抜け、商店街の角で肉まんの匂いに一瞬だけ気を取られ、それからまた走り出す。
思いつきの燃料は、彼の中でガソリンよりも高性能だ。
老人ホーム「みさごの丘」は、港から少し小高い場所にあった。淡い水色の壁と、やさしく曲がったスロープ。玄関の脇には鉢植えのラベンダーが、まだ春先の風に背を丸くしている。
ここにはダイヤの祖父――「佐藤源蔵」が入居している。頑固で、意地っ張りで、だが孫には甘い。
ダイヤは、自動ドアの前で一気に踏み込んだ。
――ぶぅん、と静かな音。ガラスが左右に割れる。
「こんにちはーッ!!」
張りのある声が、エントランスホールから談話室へ、さらにその先の静かな廊下へと、余計な反射を伴って突き抜けた。
春の昼下がり。テレビからはローカルニュースの柔らかい声。お茶の湯気。湯のみの縁に乗った年季の入った手。
そのすべてが一瞬止まって、ダイヤの方を向いた。
ポカーン。
まるで、木彫りのフクロウが四体同時に驚いて目玉を落としそうになっている、そんな顔が並ぶ。
「だっ、誰だぁ…?」
最初に声を出したのは、白髪を小さくまとめた女性だった。ダイヤはひと呼吸置いてから、胸を張る。
「みなさんの声、全部録音させてください!」
言った。真正面から言った。
談話室の空気が、もう一段階だけポカーンとする。
だが数十分後、あまり突然の来訪者もいなかったせいか空気の向きが変わった。
「むかしはなぁ、魚は大量にとれて町は活気に満ちてたもんだ……」
「オラの頃はな、漁に出る前に海に酒撒いで、潮が笑うがどうが見るべ、わかるが?(わかるか?)」
「潮が笑えば大漁だ。笑わねえ日は、笑わせるまで網投げだ!」
……始まった。
ダイヤの目が輝く。
方言は強い。
「おじいちゃん、源蔵じーちゃんはどこ?」
「お゛、おめぇ来たが。ここだここだ」
窓際で日向ぼっこしていた源蔵は、膝にかけていたひざ掛けをどさりと落として立ち上がった。
「じーちゃん! 昔の話、録らせて!」
「録るぅ?」
「全部!」
「ぜ、全部け……おめぇも好きだのう!」
そこからが早かった。
源蔵が一度しゃべり始めると、エンジンがかかったトロール船だ。
しかも、向かいの席のゲートボールの名人・新太郎が、それに必ず謎のマウントをかけてくる。
「源蔵、おめぇは沖の五番までだべ? オラは七番まで行った」
「七番だぁ? 笑わせるでねぇ(なめるな)! オラぁ風裏の十番まで、たんす一つで行ったわ」
「なんだと? たんすで海わたれっか!」
「渡る! たんすは浮く!」
「お、おめぇら、たんすは浮くけど蓋は開く!」
「開いだら閉める!」
談話室はにわかに漁師集会と化し、ダイヤの親指は“一時停止”を知らないまま「停止→保存→新規録音」を繰り返した。
テーブルの上にはお茶菓子。落花生。噛む音まで記録される。
老人の笑い声は、孫に向けてだけ柔らかい。
そのライブ感を、ダイヤは全身の皮膚で喜んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
そこに、エプロン姿の職員さんが二人、慌てて飛び込んできた。
髪を後ろでひとつにまとめた若い職員が、息を切らせながらダイヤの前に立つ。
「あなた、どこの学生さん!? 外部の方は困ります!」
「あ、あの、外部……? いや孫です。ここに、源蔵の、孫……」
「佐藤さんのお孫さん……でも、アポイントは?」
「アポは……ノーアポです!」
「ノーアポは困ります!」
もう一人のベテラン職員が、眉尻をきゅっと上げた。
「録音? それはちょっと、個人情報ですから、許可なくはだめですよ」
「すいません! ただいちおうじーちゃんには許可も一応もらってますし」
指は止まる。だが口は止まらない。
「気持ちはわかるんですけどね……でも、ルールがあるので」
「ルール……」
ベテラン職員が小さくため息をつき、談話室の老人たちへ向き直る。
「みなさん、今日はお話はここまで。お昼の体操の時間ですからね」
「体操?」
「ラジオ体操?」
「お゛ぉい、体操より話のほうが血流よくなる!」
「そうだそうだ、今ワシの武勇伝が二合目だ!」
「十合目までやらせ!」
老人たちのブーイングは、ふしぎと明るい。
ダイヤはその明るさに勇気づけられて、背筋を伸ばす。
だが、背筋を伸ばしたところで、職員の「にっこり笑顔+出口を指さす」の連携プレーには敵わない。
結局ダイヤは、源蔵に耳打ちで「また来る」と告げ、ぺこぺこと頭を下げながら、スロープを下りていくことになった。
エントランスで靴を履き直していると、背中に声が飛んできた。
「若えの、また来いよ!」
翌日
通信制高校から家の固定電話にかかってきた
顔面がさっと青ざめた。
「もしもし、佐藤くん? いまどこかな」
「え、学校の先生?」
「先生です。工藤くんと佐々木さんにも連絡したんだけど、三人とも、できれば午後の面談に来てもらいたくてね」
「面談……」
「“みさごの丘”から連絡があってね。ちょっと事情、聞かせてくれる?」
風が一段冷たくなった。
ダイヤは無意識に、さっきまで全力で開いていた胸を、きゅっと縮めた。
「……はい」
*
『工藤くん、今日の午後、少し来られる? 佐藤くんの件で』
「……ダイヤ?」
『はい。老人ホームに無断で入って、録音を』
「うわ」
言葉に色がつかなかった。
だが、胸のあたりに、小さなため息が一つ、確実に落ちたのは感じた。
『合理的ではありません』
「リリア、いまはそれ言わないで」
*
午後二時。
通信制高校の小さな職員室は、白い蛍光灯と紙のにおいに満ちている。
俺と小春は並んで座り、正面に担任の先生がいた。背広が少し古く見えるのに、ネクタイの結び目だけはぴしっとしているタイプだ。
「……というわけで、“みさごの丘”さんから、無断での来訪と録音行為があった、と」
先生は柔らかく笑いながらも、目だけは笑っていない。
横では小春が小さく縮こまり、両手で鞄の持ち手をぎゅっと握っていた。
「工藤くん、最近君たち三人が何か活動をしてるのは知ってるけどなにか知らないかい?」
「えっと...」
そのとき、職員室のドアがバンと開いた。
ダイヤが、全体重で入ってきた。
顔には「やってしまった顔」と書いてある。わかりやすい。
「おっす……」
「佐藤くん。座ろうか」
先生の声が静かに落ちる。ダイヤは素直に腰を下ろし、うつむきながらも、何度か口を開こうとしては閉じた。
「まず、無断で施設に入るのはよくないね。録音はもっとよくない。そこはわかる?」
「……わかります。すいません」
素直だ。
だが、素直なだけでは足りない場面もある。
先生は、怒鳴らない。代わりに言葉を丁寧に並べて、ダイヤの胸に置いていく。
「君がやりたかったことは、悪くない。むしろ素敵だ。でも、やり方が違うと、良いことでも“迷惑なこと”になる。わたしたち大人がよくやる失敗だけど、君も今日、学べたね」
「……はい」
「次からは、施設の人にお願いして、許可を取る。説明をする。録音は、参加する人全員に同意をもらう。できるね?」
「……できる、と思います。いや、やります」
小春が、横でそっと息を吐いたのがわかった。
その後、先生は“みさごの丘”への謝罪の電話をその場でかけ、俺たちはスピーカーフォン越しに、ベテラン職員のきっぱりとした声を聞いた。
ダイヤは「はい」「すいません」を何度も繰り返すしかなく、しまいにはその「はい」すら、喉の奥で砂利にまみれて笑いそうになっていた。彼の照れ隠しは、だいたいそうなる。
電話を切ると、先生が最後に言った。
「で、佐藤くん」
「はい」
「おじいさんとおばあさんたちは、君のこと、気に入っていたよ。“若いのにおもしろい”“また来い”って。……ただし、今度はちゃんと準備していくんだよ」
ダイヤの顔がぱっと上がった。
「まじっすか!」
「まじです」
*
学校からでたあと坂道の上にきてちょうど施設が見えたときに
ダイヤは一人で叫んだ隣にいた二人の友人はびっくりである。
「じーちゃん! また行くからなーっ!」
もちろん、ここから「みさごの丘」までは距離がある。声が届くはずはない。
だが、風がこちらへ流れてきた。
潮の香りといっしょに、どこかで誰かが笑ったような気配を連れて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます