第5話 髪飾りの約束

 翌朝、配管の水音より早く目が覚めた。布団のとなりはもう空で、机の前でシェルが小さな鏡をじっと覗き込んでいる。指先で前髪を整え、耳のあたりで髪飾りの角度を一度、二度、三度。


「……まだ早いよ」

「早起きは三文の得」

「今日は配達ないって言ってた」

「でも大事な用事がある。――鏡に勝つ」


 きっぱり。角度を少し右に倒して、ぱちん、と留め直す。黄色い笑顔のモチーフが、朝の薄い光でちいさくきらめいた。


「似合ってる?」

「昨日も聞いた」

「今日も聞かせて」

「……似合ってる」

「やった」


 振り返った笑顔が、子どもみたいにまっすぐで、視線を受け止めきれず顔が熱くなる。シェルは満足げにうなずいて、やかんを火にかけた。


「本日の朝食、豪華二本立て。パンと……お湯」

「豪華ではない」

「ネーミングで味が変わるのだ」


 貯水は心許なく、三杯ルールを守ってスープを薄くのばす。パンは二切れ。私の分を自然に大きくしようとするので、自然に押し戻す。いつもの攻防。負けない。


「昨日の“働記(はたき)”に続いて、今日は“髪飾り特訓デー”」

「語感が悪い」

「じゃあ“うきうき朝”で」

「もっと悪い」


 言葉の応酬に笑いが混ざる。薄い湯気でも、二人だと不思議と腹の奥が温まった。


     ◆


 昼前、レンガ通りは人が多かった。掲示板には〈配給ポイント下方修正〉の上に〈水道従量制の強化〉。足取りが重くなる札ばかりが増える。それでも露店は開くし、人は並ぶ。


「今日は少しだけ、買い足せる」

「パン二つぶんの引換券があるから」

「……卵は無理」

「知ってる。見るだけタダ」


 市場の端、干し果物の屋台で立ち止まる。オレンジ色の欠片が陽に透けてきれいだ。指先ほどの量でパン一つぶん。高い。でも、シェルがじっとこちらを見ているから、私は財布をぎゅっと握った。


「買う?」

「……半分ずつ食べるなら」

「もちろん」


 引換券一枚と小銭を渡す。店の青年が無言で包み、紙片みたいな干し果物が掌に落ちる。もったいなくて、すぐには食べない。袋の端を結んで胸ポケットにしまうと、シェルが横目で見て笑った。


「うれしい?」

「少し」

「私も少し」


 富裕層区画の手前に灰銀の低い壁がのびている。灰色なのに、縁だけが白く光る。近寄らないよう歩幅を合わせる。壁の向こうは犬の鳴き声すら柔らかい。こちら側では笑い声が硬い。


「どうして、守られる人と守られない人がいるの」

「壁は高いほど、安く売れないから」

「それ、説明になってない」

「皮肉は栄養がない」


 軽口のあと、少し沈黙。風の匂いに鉄がまざる。遠くで銀人の隊が行進する音がする。鎧の継ぎ目が擦れる乾いた音。彼らの背に灰銀の刃が揺れて、通行人が一歩ずつ道を開ける。最後尾の若い隊員がこちらを見て、私――ではなくシェルの髪飾りに目を留め、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その視線が妙に気に入らなくて、私はシェルの袖をつまんだ。彼女が小さな声で「嫉妬?」と囁く。否定しそびれて、前を向く。


     ◆


 午後は洗濯。洗濯機なんてないから、バケツでごしごし。ロープを渡してタオルを並べると、風に煽られて白い旗がいくつも立つ。


「働くって、疲れるね」

「うん。でもこういう疲れは、いい匂いがする」

「洗剤の匂い?」

「それも。あと、なんか――生きてる匂い」


 言った自分が照れくさくなって、俯く。シェルは何も言わず、タオルの端を私に寄せて結び目を作らせた。結べる。少しの誇らしさが胸の奥で鳴る。


 夕方、髪を乾かす。配管の湯は渋り、ぬるい風が窓から入る。私は椅子に座って、タオルを肩にかける。シェルが後ろに立って、頭の上からふわふわと優しく拭く。


「くすぐったい」

「頭蓋骨まで磨いてる」

「磨かないで」

「はい。女神磨き終了」


 言い方がずるい。振り返れない。耳の先だけ熱くなる。タオル越しの手のひらは、夏の陽だまりみたいに温かかった。


     ◆


 夜。簡素な夕食を終えて、机を拭く。私は引き出しの奥を探り、小さな布包みを取り出した。古い、でもきれいに畳まれた布。ほどくと、掌の中に木の小箱。蓋を開ける。光が漏れるみたいに、金色に近い黄色の髪飾りが現れた。二つ並んだ笑顔の模様。前にシェルがくれた安物のピンに似ている。でも、これは違う。縁の彫りが細かく、笑顔の曲線がやさしい。


「それは……」

「母の、形見」


 声が少し震えた。震えを隠す方法を知らない。だから、正直に震えさせた。


「小さいころに、言われた。いつか――私にとって大事な人ができたら渡しなさい、って。ずっと、誰にも渡せないと思ってた」


 私は立ち上がり、シェルの前に回り込む。彼女は椅子に座ったまま、まばたきを忘れて私を見る。私は手を伸ばして、彼女の前髪をそっと持ち上げた。昨日から今日まで、何度も見た仕草を、今度は私がする番だ。


「似合うかどうかじゃなくて、――預けたいの。私の宝物」


 ぱちん、と小さな音。黄色の笑顔が白い髪に咲く。安物のピンは胸ポケットに移した。新しい光が、部屋の隅までやわらかく伸びる。シェルの目が大きくなって、すぐに細くなる。笑いそうで、泣きそうで、笑って、やっぱり泣きそう。


「……本当に、いいの?」

「うん」

「これ、高いよ」

「値段じゃない。これは、私が生きてきた証のひとつだから」


 言って、はじめて、胸の真ん中が痛くなった。悲しい痛みじゃない。何かを渡すときにだけ生まれる痛みだと分かった。シェルは両手で髪飾りの位置を確かめ、それから私の手を取った。強く握って、でも優しい。


「ありがとう。……一生、大事にする。なくしたら死ぬ」

「死なないで」

「じゃあなくさないように生きる」


 いつもの調子で笑い飛ばすのに、声の奥が濡れていた。私は息を吸って、吐きながら言う。


「今日は、“髪飾り記念日”」

「またそういうの」

「――だめ?」

「だめじゃない。……すこし、好き」


 耳まで熱いのが自分でもわかって、シェルが小さく息を呑んだ。次の瞬間、抱きしめられる。乱暴じゃないのに逃げられない抱きしめ方。私は腕を回して、背中の布を握った。


「私が守るよ、カエデ」

「知ってる」

「世界がどう言っても」

「……知ってる」


 言葉は短くていい。短いほうが、真っ直ぐ届く。


 窓の外で、サイレンが一度だけ鳴った。掲示板のランプが赤に変わる。〈狂銀警報・第三区画〉。遠いようで近い。けれど今は、見ない。見ないと決められるくらい、ここが温かい。


 布団を並べて、電球を落とす。暗闇の中でも、髪飾りの位置が分かる気がした。胸の奥に、同じ形の光が灯っているからだ。私は目を閉じる前に、そっと囁く。


「ねえ、シェル」

「なに」

「……生きてて、いい?」

「いい。私が決めたから」

「根拠は」

「私だから」


 いつかこの夜を思い出す。世界がどうなろうと、ここから始まったと胸を張れるように。

 尊い、という言葉を、初めて自分のものにできた夜だった。

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