第3話 聞こえるよ、風の不満
丘を越えると、視界が一気に開けた。なだらかな緑の斜面に寄り添うようにして、煉瓦色の屋根が並んでいる。そして、その家々の合間から、巨大な羽根がいくつも空に向かって伸びていた。風車の街カザマチだ。街のシンボルである風車たちは、今日の穏やかな風を受けて、ゆっくりと、しかし力強く回っている。
(うん、元気そうで何より)
だが、街に近づくにつれて、どこか不穏な空気を感じ取った。堅牢な石造りの門の手前には人垣ができており、誰もが工房地帯の方を心配そうに見つめ、ひそひそと何かを話し合っている。人々の不安や焦りといった感情の澱が、弱い熱波のようにじわりと肌を撫でた。
(風車はご機嫌に回ってるのに、この騒ぎはなんだろう。まさか、名物のパン屋がストライキでも起こしたとか?)
僕は人垣から距離を取り、頬を撫でる風に意識を寄せた。たくさんの声が混ざり合う中から、街の様子を探る。
『……工房の糸が、また切れたらしいぞ……』
『……これじゃあ、王都への納期に間に合わないんじゃ……』
そんな焦ったような声の欠片が、風に乗って耳に届いた。
(糸が切れる? 風車とは関係ないところで、問題が起きているのか)
今度は足裏に伝わる震えに集中する。道の声は、いつも通りの人々の往来を重々しく語るだけで、特に変わった記憶はない。どうやら、ごく最近になって発生した問題のようだ。
坂道を下って街へ入ると、音の層が一気に厚くなった。僕は人垣を避け、工房が立ち並ぶ地区へと足を向けた。一番大きな工房の前で、若い女性が一人、腕を組んで唸っている。肩にかけた工具袋と、油で少し汚れた指先が、彼女の仕事ぶりを物語っていた。年は僕とそう変わらないだろう。
彼女は工房の壁に耳を当てたり、入口から中を覗き込んでは首を捻ったり、明らかに途方に暮れている様子だった。
(人に関わるのは、得意じゃない。……でも)
見て見ぬふりをして通り過ぎようとした足が、なぜか動かなかった。僕は工房の向かいにある荷馬車の陰に腰を下ろし、彼女の様子をしばらく窺うことにした。
やがて彼女は工房から出てくると、しゃがみ込んで深いため息をついた。
「やっぱりダメ……機械は正常。部品も全部確認した。なのに、どうして糸が切れるの……」
そのか細い声は、誰に言うでもない、悲痛な独り言だった。
(機械は正常……か。じゃあ、原因は他にあるってことか?)
僕は目を閉じ、工房に流れ込んでくる風の声に、そっと耳をあわせた。
彼女の言う通りだった。風は、まるで息苦しそうに不満を言っている。
《……息がしづらい……!》
《……何かにぶつかって、うまく流れないんだ……!》
《……今日の僕、なんだか濁ってる……!》
それは、機械の故障音ではなかった。工房に流れ込む前の、風そのものの声だった。
技術屋である彼女がどれだけ機械を調べても、原因が分かるはずがない。これは、僕にしか聞こえない悲鳴だ。
(……仕方ない。見てしまった以上、知らないふりはできないな)
僕は意を決して立ち上がり、彼女の元へと歩み寄った。
「……その機械、問題は中じゃないかもしれない」
突然の声に、彼女は驚いて顔を上げた。旅人姿の僕を、警戒するように下から上までじろりと見る。
「……何? あなた、誰?」
「僕はカイ。ただの旅人だ。君の独り言が聞こえたから」
「立ち聞きしてたってわけ? 最悪…」
彼女の視線は、まだ剣呑なままだ。
「風が、不満を言っている」
「……は?」
「工房に流れ込む風が、《息がしづらい》《うまく流れない》って。だから、機械が正常でも、糸が切れるんじゃないか」
「風が、不満を言う?」
リラは心底呆れたように僕を見た。
「本気で言ってるの? あなた、詩人か何か?」
「まあ、僕の耳にはそう聞こえる。信じるかどうかは、君次第だ」
僕はそれだけ言うと、彼女から少し距離を取った。これ以上、踏み込むつもりはない。
リラはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、他に手がかりがないと悟ったのか、やがて顔を上げた。
「……分かったわ。確かにここの機械は風の力をつかってる。あなたのその不思議な耳に、付き合ってみる。風の機嫌を取りに行くなんて、整備マニュアルには載ってないけどね」
僕たちは工房には入らず、風が吹いてくる方角、街を見下ろす崖の上へと続く、古い石段の前に立った。
「私はリラ。で、どこへ行けば、風のご機嫌は直るのかしら?」
「さあ」
僕は崖の上を見上げた。
(僕も、風の機嫌を取りに行くのは初めてだよ)
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