第2話 カワウソの落としもの

鉄砲水が過ぎ去った渓谷は、まるで巨大な獣が暴れ回った後のようだった。僕が歩いてきた道は跡形もなく、代わりに大小の岩や引き裂かれた流木が、生々しい傷跡のように横たわっている。


(やれやれ、ひどいありさまだ)


泥だらけの服は重く、体は鉛のように疲れていた。それでも、立ち止まるわけにはいかない。僕は再び風の声に耳を澄ませた。今度は、災害の報せじゃない。この近くにあるはずの、綺麗な水の匂いを探して。


《……苔の匂い……冷たい岩……澱みのない流れ……》


風の囁きを頼りに、崩れた岩場を乗り越えてしばらく行くと、目の前が開け、陽光にきらめく美しい沢が姿を現した。渓谷の本流から外れた支流なのだろう。鉄砲水の影響も受けておらず、透き通った水がさらさらと音を立てて流れている。


(助かった……! まさに天の恵みだな)


僕は迷わず水に足を踏み入れ、顔をごしごしと洗った。冷たさが火照った体に心地いい。外套と上着を脱いで洗い、岸辺の乾いた岩の上に広げる。ようやく人心地がついた僕は、少し離れた場所で、残りの服も洗ってしまおうと沢の奥へ進んだ。


その時、一匹のカワウソが視界に入った。


丸っこい頭に、つぶらな瞳。僕の存在には気づいていないのか、何やらひどく困った様子で、同じ場所を何度もぐるぐると泳ぎ回っている。かと思うと、水の中に勢いよく潜り、すぐにぷはっと顔を出す。その繰り返しだった。


(なんだなんだ。ずいぶん慌ててるな)


少し気になって、僕はそのカワウソが気にしているらしい、水中の大きな岩のあたりに意識を向けた。沢をわたる風に、そっと『耳をあわせる』。


《……小さな4つ足の石……つるつるの石……》

《……重い石と石の間……落ちた……挟まった……》


流れ込んでくるのは、沢を渡る風が記憶している、ごく最近の出来事の断片。どうやら、あの子は自分のお気に入りの石を、水中の岩の隙間に落としてしまったらしい。


(……お気に入りの石、ねぇ。こっちは命がけだってのに、ずいぶん平和な悩みで何よりだよ)


思わず、乾いた笑いがこぼれた。

でも、その必死な姿を見ていると、なんだか放っておけなかった。


僕は静かに水の中へ入り、カワウソが気にしている岩へと近づいた。驚かさないように、ゆっくりと。カワウソは僕に気づくと、少し警戒したように距離を取ったが、逃げ出す様子はない。


僕は水に腕を突っ込み、記憶が示していた岩の隙間を探る。指先に、ひんやりとした感触があった。岩と岩の間に、ちょうどカワウソの掌くらいの、つるりとした丸い石が、見事に挟まっている。


ぐっと力を込めて引き抜くと、石は意外とすんなり抜けた。水中から取り出して見れば、何の変哲もない、ただの灰色の石だ。でも、陽の光を受けて、濡れた表面がきらりと光る。


僕はその石を、岸辺に向かって、ぽいと軽く放り投げた。

乾いた音を立てて、石が草の上に転がる。


カワウソは、僕と石を交互に見た後、慌てたように陸へ泳ぎ着き、その石を前足で大事そうに抱え込んだ。そして、一度だけ、僕の方をじっと見つめた。その黒い瞳にどんな感情が浮かんでいたのかは分からない。でも、あれはきっと、「ありがとう」くらいの意味はあったんだろう。


カワウソはすぐに身をひるがえし、お気に入りの石をくわえたまま、森の奥へと走り去っていった。


あっという間の出来事だった。

後に残されたのは、僕と、沢のせせらぎの音だけ。


(さて、と。人助けならぬ、カワウソ助けも済んだことだし)


誰に感謝されるわけでもない。褒められるわけでもない。僕の力が、こんな風に、誰かのお気に入りの石を見つけるためだけに使われる。

それもまあ、悪くないな、と僕は思った。


さっきまでの鉄砲水の恐怖が、少しだけ遠のいた気がした。

僕はもう一度顔を洗い、今夜の寝床を探すために、ゆっくりと立ち上がった。

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