第十六話 空間的存在
所長の言葉に誰もが口を閉ざす中、その沈黙を解いたのは橘だった。
「……2019年のブラックホール直接観測の成功──あの偉業は、白石慎一教授の尽力あってのものだと、私は思っています」
その話題は、当時ニュースで大きく取り上げられていたのを俺も覚えている。だがその頃には、所長はすでにこの獅子島の観測所に身を置いていたはずだ。
それほどの大事業に関わりながら、所長が身を引いたのは本当に自分だけの問題だったのか、何か他にあったんじゃないか、と疑念が浮かぶ。
「──あれは、僕が残した論文をもとに、後進たちが積み重ねてくれた成果だよ。僕が横取りすることじゃない」
俺がその疑問をぶつけても、所長が本心を口にすることはないだろう。そんな予感を帯びた言葉が、所長の口からは滲み出ていた。
「それにね……いや、決して嫉妬から言うわけではないんだが……」
所長は照れ隠しのように顔をかきながら、ふと目を伏せた。
「僕が本当にやりたかったことは、あれではないんだよ」
その一言に、俺だけでなく橘も驚いているようだった。
学術的な成果が一般紙の一面を飾るなど滅多にあることじゃない。そうされること自体が、誰もが認める歴史的な偉業である証明だ。それをあえて否定するような所長の言葉に、その胸の内が分からなくなった。
「白石所長が本当にやりたかったことって、何でしょう?」
動揺する二人の横から、藤宮がとてもストレートに所長に尋ねた。
「うん……。僕はね、知りたかったんだ。ブラックホールの中身、事象の地平面の向こう側をね」
所長は言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「だがそれは、現在の物理学でも“禁断の扉”に近い。なぜなら、その扉を開きブラックホールの内部を記述しようとした瞬間、私たちの理論は崩れてしまうからだ」
橘が身を乗り出す。 「……一般相対性理論と、量子力学の矛盾ですね」
「そのとおりだ」 所長は頷いた。
「アインシュタインの相対性理論は、重力を極めて精密に説明してくれる。ただその真価が現れるのは、星や銀河といった巨大で強い重力の世界だ。一方で、素粒子のような極小の世界を支配するのは量子力学である。ブラックホールとは、この“巨人”と“極小”の法則が同じ場所に顔を出す、唯一にして最大の舞台なんだ」
所長は空になったグラスを指先で転がし、低く息を吐いた。
「ところが、両者を同時に適用しようとした瞬間、理論は破綻してしまう。
『重力の量子論』──人類がまだ手にしていない、その究極の理論がなければ、ブラックホールの向こう側に何があるのかを知ることはできない」
そこで言葉を切ると、所長の目はいつもの見慣れたものに戻った。
「ブラックホールの直接観測……それ自体は、確かに偉大な成果だ。否定するつもりはない。それが可能になったことは、人類にとって大きな一歩だった」
「……だが──あの映像に映し出された中心部は、結局、ただの黒い影のままだった……。
その中心に何があるのか、人類は未だ、見たことが無いんだよ」
その声には、抑えきれない情熱を冷笑で覆い隠したような、どうしようもなく深い挫折の色が混じっていた。
所長の話を聞いて、俺は胸の奥がざわめいていた。
人類が未だ一度も見たことのないもの。所長の口ぶりは、挫折を語っているはずなのに、不思議とその先を覗いてみたい衝動をかき立ててくる。それはまだ俺が、何も分かっていないからだろうか。所長にできなかったことが、俺にできるはずもないのに……。
決して届かないと思われている場所に、手を伸ばしたくなる衝動は、抑えられるものではないのかもしれない。
たとえ、その真っ黒な向こう側に、途轍もない破滅が待ち受けているとしても……。
「もし、未知の存在が、ブラックホールの中身を観測できるとしたら、どんな技術や理論を構築していると思いますか?」
俺は、そんな衝動から生まれた思いつきを、自然と口にしていた。
「……面白い質問だね。では少し、空想を広げてみよう」
俺の質問は、ここに来るまでに考えていたものとは違うものになってしまった。しかし、その所長の反応は妙に晴れやかで、それでもいいかと思わせた。
「まず第一に考えられるのは、彼らは我々がまだ到達していない『
「これは想像しやすい。なぜなら、我々が持っている現在の理論を突き詰め、謎を解明していった先に見える存在だと理解できるからね。事象の地平面の向こうとこちらは、その謎を埋めていけば繋げられるわけだ」
所長からは先ほどまでの苦悩に満ちた表情は消え去り、空想を心から楽しんでいるようだった。
「そして次に考えられるのは──現在知られている四つの基本相互作用、すなわち重力、電磁気力、強い力、弱い力に加えて、『第五の力』が存在し、それを利用しているという可能性だ」
「これは少々厄介だね。何せ我々にはその『第五の力』を直接観測する手段がないから、理論を構築しようにも土台となるものがないのだよ……」
そう言って所長は肩をすくめたが、すぐに戻す。
「ただし、こうも言える。我々が実際に観測できる宇宙は、全体のわずか5%に過ぎない。残りの95%は、未だ正体のつかめないダークマターとダークエネルギーで満たされている」
「未知の力の存在を仮定するのは荒唐無稽にも思えるが、この数字を前にすれば、誤っているのは我々の方かもしれない──そんな風に考える余地は十分にあるんだよ」
その最後には所長は笑っていた。その表情からはこちらの案の方を気に入ってるように見えた。
「──いや、失礼。僕ばかり話してしまったね。皆はどう思う?」
所長が問いかけると、最初に応じたのは橘だった。
「ブラックホールの事象の地平面を避けて、ワームホールや量子トンネルみたいな『別の経路』を作り出し、そこから中の情報を取り出す。……なんて、どうでしょう?」
彼女は笑みを浮かべて、指をくるくると動かし、トンネルの動きを表しながら言った。
「ふむ、それはとてもユニークで面白い。直面する問題に正面から挑むのではなく、迂回路をこしらえて中身だけをかすめ取る……」
その仕草に、所長も口元を緩める。
「もちろん、その空間的ショートカットをどうやって作るのかという問題は残るけれど……。それでも、そういう発想にたどり着ける研究者は案外少ない」
それは褒めているのかどうかは良く分からなかったが、少なくとも所長が楽しそうに語っているのは確かだった。
「ワームホールがあったら、いつでも自由にどこにでも行けて素敵ですね」
藤宮は、橘の提案に便乗する。
「──そうだね。だが実際には、空間を自由に操るのは、まだまだ夢物語に近い話だろうね」
所長は言葉を探すように、指先でテーブルを軽く叩いた。
「例えば、ワームホールを安定させようとすると、必ず『エキゾチック物質』が必要になる。
これは通常の物質とは逆に、負のエネルギー密度を持つような存在だ。残念ながら、我々はその存在をまだ確認していない」
「それに、空間そのものを折りたたむ、というのはエネルギー的に考えてもとんでもない規模の操作だ。
太陽の全エネルギーを何百万年分も集めても、果たして十分かどうか分からないほどの……ね」
所長の語りは淡々としていながら、どこか徐々に熱を帯びて来ているように感じた。
「──だが理屈の上では、空間は布のように曲げられる。アインシュタインの一般相対論がそう教えている。
もし、未知の存在がワームホールを道具のように使いこなしているとすれば──
彼らは、我々が未だ夢想するしかない空間操作技術を手にしている、ということになるだろう」
確かに、それは夢物語だった。膨大な宇宙を、時空を飛び越えて自在に行き来する──それはまるでSF映画のようだ。
少なくとも、自分の生きているうちに実現するとは、とてもじゃないが信じられない。
けれど一方で、その信じられないことが、実際に自分たちには起きている。未知から届くあの信号──それだって、本来なら同じくらい荒唐無稽であるはずなんだ。
「……あの信号を送ってきている存在は、もしかして、時空を超えて送り込んでいるんでしょうか?」
そんな思いに背中を押され、気づけば疑問がそのまま口をついていた。
「ふん……どうだろうね」
所長はゆっくりと首を振り、目を細める。
「もし本当にそんなことができるのなら、わざわざこんな回りくどい手段を取る必要はないだろう。もっと大規模で、誰もがひと目で理解できるような──いや、そもそも、宇宙のどこにでも行けるのに、なぜ我々を相手にするのか。そんな疑問が先に立ってしまうね」
そうだ。以前、橘と同じようなことを語り合った。“超越的な存在は他者を求めない”、その理屈はよく分かる。もし本当に時空を超越した存在なら、わざわざ信号を送る必要なんてない。曲線パターンのような複雑な方法を編み出すことだってないはずだ。
そう考えると、この信号を送ってきている存在には、もっと切実な欲求があるように感じる。まるでそれは、見ることのできない95%の宇宙に、必死に手を伸ばそうとする人類の姿と同じように……。
そうか! ──それはまさに、閃きだった──
「もし、我々が見ることのできない95%の宇宙からは、逆に我々が見えていないとしたら……。
彼らも、きっと我々と同じように、必死に5%のこちら側へ手を伸ばそうとするんじゃないですかね?」
そんな口にせずにはいられなかった俺の言葉は、所長の表情を引き締めた。
「うん……、なるほど。我々が観測できないのだから、相手もまた我々が出す電磁波を一切感知することができない。
いや、中々面白い理屈じゃないか」
口元は緩みながらも、所長の目は真剣に思考を巡らせているようだった。
「我々は物質として、粒子やエネルギーの相互作用に依存して存在している。つまり『物質的存在』だ。それは、自己を構成するだけでなく、他者を理解する手法としても、物質やその相互作用を観測することでしか認識できない」
「だが、その95%の宇宙を占めるダークマターやダークエネルギーは、必ずしも物質的な形態をとっているとは限らない。むしろそれらは、空間そのものの膨張や構造を規定しているとすれば、彼らを『空間的存在』と呼ぶことができるだろう」
所長は机に指先を置き、リズムを刻むように軽く叩きながら言葉を選んでいた。
「物質的存在である我々は、空間そのものを認識できない。
光子や電磁波を受け止める網膜、重力波干渉計のミラー、粒子加速器の検出器──いずれも”物質をぶつけて物質で受け取る”構造であり、それによる相互作用が及ぶ影響範囲を計って、間接的に空間を認識しているに過ぎない」
「しかし空間的存在は、物質を前提としないとしたらどうだろう。空間の位相や幾何学そのものを直接知覚できるとしたら……。彼らにとって空気を伝わる音は、図形なのかもしれない」
「ブラックホールもそうだ。光も物質も情報を取り出すことができない領域であっても、空間的存在なら歪められた時空そのものを観測できる……」
所長の声には、研究者としての冷静さと、畏怖が入り混じっていた。それは、間違いを恐れたのだろうか、それともこれが正解であることを恐れたのか、俺にはどちらとも分からなかった。
「もし、あの信号の送り主が空間的存在だとしたら……。彼らにとって時間は、空間構造の次元の一部として認識され、連続性そのものが意味を持たないのかもしれない」
所長の声にはわずかな震えが混じる。
素人の空想から論理を組み立て逸脱する──そんな危うい思考は遊びでこそ面白いが、所長にはもう、そうでない予感があったのかもしれない。
「──そうか……だからだ。だからあの曲線パターンは、完結した最小単位として存在しなければならないのか。
だとすれば、どうやってそれを繋ぎ合わせる? 連続性が意味をなさないのならば……一体どこに法則を見出せばいい?」
頭を抱え、独り言のように言葉を吐く。そして次の瞬間──所長はすごい勢いで頭を上げた。
「……そうだ、空間だ。それそのもの、空間配置を指しているのか。
そうだとするならあの曲線パターンは、文字ではなく、図形。その形と位置、そしてその変化にパターンを見出せば……」
「──ついに、解読できるかもしれない!」
その言葉と同時に放たれた所長の目の輝きは、場にいた三人の胸を明るく灯した。
「高梨くん! こうしちゃおれん、すぐに観測所へ戻ろう」
興奮を隠しきれずに身支度を始める所長に、俺も即座に返事をした。 「はいっ! 今すぐ──」
こうして俺たちは車を走らせ、再び観測所へと戻った。
そして、それからまた長い夜が始まった──。
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