第十七話 告白

 観測所に戻ってからの所長の動きは速かった。

「橘さん、君はまず僕と一緒に、曲線パターン信号を多次元ベクトル化してみよう。我々が求めた3072種類を区別できるだけの解像度でサンプリングすればいいから、位相空間に埋め込み、軌道として可視化してみよう」

「藤宮さん、君には、その埋め込み結果を渡すから、相関構造を抽出してほしい。適当な距離関数を定義して、点群同士の近さを測るんだ。相関の強い点群はクラスタとしてまとまり、弱いものは疎になるだろう。僕もすぐにそっちを手伝うから」

 二人に手早く指示を飛ばす。そして、それに応じて二人も動いた。


 俺は、この事態を招いた張本人でありながら、その指示の内容すら把握するのに苦労していた。あれ以来勉強を進めているとはいえ、所長の言っている内容は俺の履修範囲から漏れている。俺のハリボテの知識では、到底追いつけそうになかった。

「高梨くん、君にも手伝ってもらうよ」

 しかし、意外にもそんな俺に所長からお呼びがかかった。

「もし我々の仮説が正しければ、この点群にはトーラスのような幾何学的構造が現れる。それをさらに時間遅延座標変換を使って、位相空間に再構成するんだ。なに、やり方は今教える。君も勉強しているみたいだから、理解は難しくないはずだ」

 気遣ってもらった事より、勉強していることがバレていることの方が俺は気恥ずかしかった。

 そんな内心を隠しながら、俺は所長に従い作業を進めた。


 ──そのまま、夜は更けていった。観測所の窓は外の闇に飲まれ、室内の光だけが淡く机を照らしている。

 あの夜のように、交わす言葉はほとんどなかった。時折、短い確認や数字の読み上げがあるだけで、後は各々が自分の作業に没頭している。

 画面をにらみながら手を動かす音、紙に何かを書きつける音、そして無機質な機械の唸り。すべてが一定の間隔で繰り返され、夜の静けさと溶け合っていた。


 やがて時計の針が零時を回った頃、所長が手を止め、軽く息を吐いた。

「ふぅ……。まだ断片しか掴めていないが、点群のパターンは確かに想定した多様体に似てきている。希望が見えてきたね。」

 所長がぽつりとつぶやいた声に、橘と藤宮もうなずく。

「ただ、慌てて数値を間違ったりしてはいけない。……一度、休もうか」

 その声に従うように、二人も椅子を引き、息を吐くと体を伸ばした。

 深夜の静寂が僅かに緩んだようだった。俺も二人を真似るように、硬くなった背筋をゆっくりとほぐした。そして、おもむろに立ち上がって、身体の空気を入れ替えようと、夜風にあたりに外へ出た。

 あの日より涼しくなった真夜中の海風は、ほどよい冷たさで頭を撫でる。冴えた耳には、波の音がいつもより遠くから届いた。


「──こうして夜の海を見ていると、自分が何のためにここにいるのか、分からなくならない?」

 あの日と同じ突然の囁きは、驚くよりも可笑しくさせる。その言葉に応えるために、俺はあの日なんて言ったっけと、記憶を巡らせた。

「……理解、して欲しくなったんじゃないですかね。

別の場所から、同じ海を見ている。……それだけじゃ、満足できないんですよ」

 記憶にあった言葉に、今俺がここにいる理由と、海の先にいる相手の気持ちを混ぜて応えた。

「そうね、きっと……」

 橘の顔は見なかったが、笑っているのは声でわかった。

「これであの信号の解読が上手くいったら、もう全部終わってしまうのかしら?」

 そんな彼女の問いを、俺は誤解し、所長の考えを代弁した。

「多分、所長はそのつもりですね。それでも、まだ分からないことはあるけど、これ以上は──」

 そこまで言ったとき、不意に彼女が俺の真横へ寄った。息がかかるほどの距離に近づかれ、言葉が止まる。

「ねえ……、全部終わったら、私のところに来て。……返事は、来てくれる、だけでいいから」

 その一言を残して、橘は観測所の中に消えていった。

 波の音が、やけに近くに聞こえる──夜の海風よりも、胸の奥に走った熱の方が強く、しばらくのあいだ思考を動かすことができなかった。


 俺が熱を冷まして戻った時、すでにみんな席についていた。

 自然と視線は橘に向かったが、彼女はまるで何もなかったように画面へ向かい、手を動かしている。その横顔からは一切なにも返ってこない。

 俺は小さく息をつき、気を取り直して再び任された仕事に向かった。

 再び皆の集中が、時間と共に流れていった。俺もその中に溶け込むようにして、手を動かし続けた。


 ──さらに数時間が経ち、間もなく日が昇ろうという頃、所長は深く息を吐き、皆に告げた。

「──さて、皆さん、ありがとう。君たちのおかげで、曲線パターンから得られた高次元多様体の構造は、ほぼ把握できる状態になった。あとは、我々が認識しやすいよう三次元への投影処理を行うだけだ」

「手持ちの作業が終わった者から、順に休みを取りなさい。この処理にはここの設備でも二時間以上はかかる。気にせずゆっくり休んでくれ」

 淡々とした声には、長時間にわたる試行錯誤の疲労が滲む。画面の光が所長の表情をかすかに照らした。

 周囲を見渡すと、橘や藤宮はそれぞれ席で静かに画面を見つめ、ゆっくりと手を止めようとしていた。俺も計算中の作業を終えると、そっと手を止めた。

 そして、所長はそのまま端末の前に座り、手早くデータを整理する。

「よし、あとはこの端末に任せよう」

 端末に入力を済ませると、スクリーン上で巨大な行列と複雑な計算がゆっくりと動き始めた。


 それと共に、体からどっと力が抜けるのを感じた。

 まだ信号の意味が解明されたわけではないが、俺にできることはもう無いだろう。

 皆の努力が無駄にならなければいい──そんな不安と、ひとまずは終えた安堵が心の中で入り混じる。

 それとは別に、大事なこともある。俺は、橘に何か声を掛けるべきかとも考えた。しかし、彼女も今それを望んでいないとも思えた。

 答え合わせが終わるのは二時間後。俺はその二時間を、どうやって過ごそうか迷っていた。

 作業に没頭している間はよかったが、こうして手を止めると、心は意識せずにはいられない。橘との距離感が分からない。今は、世間話のような他愛のない会話すら、自然にできるとも思えなかった。


「──じゃあ、俺、少し外に出てきます」

 耐えきれずに、そんな言葉を口にしていた。橘から逃げたいわけではなかった。ただ、自分でも心の内を整理する時間がどうしても必要だった。

 当てもなく、とにかく車を走らせて気持ちを落ち着けようと、ドアに手を掛けたとき──不意に背後から鋭い声が飛んだ。

「高梨さん! 私も連れて行ってください」

 俺の背中は、悪いことを咎められでもしたかのように、びくりと過剰に跳ねた。

 その声の主の藤宮に、俺は応えてあげるべきではなかったかもしれない──でも、口からはそんな思考をするより早く、言葉が漏れていた。

「ああ、いいよ……」

 そして、助手席に乗り込む彼女を見届け、ようやく思考が追いついた。

 それを言った自分の責任を棚に上げ、今さら降りろなんてとても言えない。

 落ち着きを取り戻すための行動のはずが、逆に心拍数は跳ね上がり、頭の奥で橘と藤宮の影が交錯する。二人の間で揺れる自分を、どうにかして制御するかのように、俺はハンドルに手をかけた。


 藤宮に、「どこに行きたいか」と、それを聞くのは怖かった。

 もし、「もう一度あの展望台に行きたい」と言われたら、その答えを迫られることが怖かった。

 かといって、こんな早い時間にどこに行く当てもない。最初から少し走らせるだけのつもりだったが、彼女が付き合うのならどこがいいか考えを巡らせて、辿り着いた答えは、磁場観測装置のある中央の展望台だった。


 まだ薄暗く、不気味ですらある山道を車は静かに登っていく。

 俺はどこに行くかを言わなかったが、藤宮は不思議と分かっているようだった。

「──あのノイズから、全部始まったんですよね」

 彼女はとても静かに呟いた。時折、妙な鋭さを見せる藤宮の感性は天性のものなのだろうか。そんな風に思わせるほど、彼女の言葉は的のど真ん中を得ていた。

「……そうだね。俺と君で、あの装置を取り付けに行ったところから、すべてが始まったんだ」

 意図を言い当てられたのに、不思議と嫌な気持ちはなかった。そんな彼女に、自然に合わせる自分がいた。

「──でも、それもこれで終わるんですね」

 しかし、その一言は、心臓を鷲掴みにして重くする。その橘と同じ言葉に、俺は返す言葉を失ってしまった。

 前を照らすヘッドライトの光の揺れは、俺の心の迷いを映しているようだった。


 まだ、日が昇らぬうちに辿り着いた頂上は、いつも来る場所とはまた違ったように見えた。ただ、そこに鎮座する磁場観測装置が、場所を間違えていないことを知らせる。

 俺は何をするでもなく、ただ夜風に身を晒して、昂ぶった頭を冷やしていた。

 藤宮はそんな俺を気に留めることもなく、一人で観測装置に歩み寄る。装置の周囲を確かめてから戻ってくると、肩をすくめて言った。

「やっぱり、この時間はノイズが出ていませんね。どうしていつも15時からって決まってるんでしょう」

 そう、俺たちが進めている信号の解読が終わっても、まだ解けない疑問は山ほどある。どうして15時から4.8時間だけ現れるのか。発信源はどこにあり、どんな仕組みで届いているのか。

 ──それを突き止めるのは、おそらく俺にも、所長にもできない。いや、人類の叡智を総動員してもなお、不可能かもしれない。

 ”彼らが何を言っているか”──それだけが知りたいと、所長は言っていた。

 俺も、それで十分だと思う。全てを詳らかにしたい欲求を、俺は持っていなかった。


「どうなんだろうね、分かんないや。藤宮さんは知りたい?」

 俺は軽い調子で問いかけた。

「知りたいですね」 と、その率直さに、思わずこちらが面食らう。

「──でも、どんな理由なのか、どうやったら突き止められるのか、考えもつきませんね……。

本当におやつの合図だったりして」

 そう言って、はにかむように笑うその無邪気さに、俺もつられて口元が緩んだ。

「──もう一つ、聞いていいですか?」

 そんな俺の隙を突くように、藤宮はこれまでとはまた違う、落ち着いた声で尋ねてきた。そして──

「橘さんに告白されたんですか?」

 その質問は、一瞬で俺の笑顔を消した。その問いに、正直には応えられなかった。だが、言葉を飲み込んだ沈黙自体が、既に答えになっていた。

「私も、高梨さんが好きです」

 それはとてもまっすぐに放たれた、逃げ場のない告白だった。

 彼女は鋭い。俺が橘に告白されたことを知った上で、それでも思いを伝えたのは、俺の心が揺れていることを見抜いているんだ。だから……、これはそうまでして遂げたい彼女の譲れない想いなんだ。


 ここまでされて、その気持ちに応えない訳にはいかない。

 橘のこと、藤宮のこと──どちらかを選ぶべきだと、分かっている。

 でも……、いや、でも……。心の中の葛藤が、その答えを最後まで巡らせた。

「藤宮さん、俺──」

 それでも、決断を形にしようとしたその瞬間、彼女はそれを遮り、割り込んだ。

「全部済んでからにしましょう。だって、戻ってから気まずいじゃないですか」

 藤宮は、俺の答えをどちらだと想像したのだろう。

 どちらだったとしても、筋が通るような言い訳は、彼女もやっぱり怖かったんだろうかと、そんな風に思わせた。

 返答を聞く前に、藤宮は助手席に乗り込んだ。俺は何も言えぬまま、車を走らせる。


 帰り道、ちょうど日が昇り始め、海が日光を受け止めてきらめきだした。その輝きは、俺にフェリーから見た光景を思い出させていた。

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