第十話 時間
──その後、観測データの確認や細かな議論を重ねているうちに、時刻はゆっくりと過ぎていった。
そして、15時になる少し前に、観測所の前に見覚えのある一台の黒いバンが止まった。その運転席から降りて来たのは、藤宮だった。
「失礼します! ご無沙汰しております、藤宮栞です」
はきはきとした声とともに、彼女は深々と頭を下げる。その姿は、初めてこの島に来たあの日を繰り返すようだった。
「高梨さんも、白石所長も、お元気そうでなによりです。本日も、よろしくお願いします」
明朗な笑顔を向けられ、俺は思わず胸の奥に小さな痛みを覚えた。彼女がこれから耳にする話の重さを思えば、その笑顔がひどく無防備に見えたからだ。
「……そして、そちらの女性は?」 視線を橘へと移し首を傾げる。
だが、橘が言葉を発するより早く、所長が一歩前に出て口を開いた。
「実はね、藤宮さん──」
そう前置きすると、所長は今日に至るまでの経緯を、できるだけ簡潔に、しかし一切の虚飾なく語り始めた。
まず、所長は「ノイズの発生原因を突き止めた」という嘘について率直に謝罪した。俺も隣で頭を下げる。
続けて、なぜそんな嘘をつかざるを得なかったのか、その理由を順序立てて語っていった。説明の中には、橘が何者なのかも含まれている。我々がノイズの正体をどう考えているのか、何がどこまで分かっていて、何がまだ分かっていないのか──そのすべてを、包み隠さず打ち明けた。
「──つまり、そういうことなんだ。藤宮さん、理解してもらえただろうか」
藤宮は相当にショックを受け、言葉を失っていた。それは無理もない、誰だってこんなことを聞いたらそうなる。その姿をみて、俺はとても心苦しかった。
ただ、それを知った上で、次にどう振る舞うかは人それぞれだ。彼女がどんな選択をするか、それによっては我々の立場は悪くなるかもしれない。それでも、我々は彼女を信頼し、嘘偽りなくすべてを話した。
動揺する彼女を前に、所長は穏やかな声音で言葉を継いだ。
「我々は君を欺こうとしたわけではない。いやむしろ、核心に迫るという点では、一切たがえていない。
問題なのは──そのための手法なんだよ」
所長は目を細め、ゆっくりと言葉を探すように続けた。
「僕もね……、できることなら正攻法でこの問題に取り組みたい。だがね……少し想像してみてほしい」
机に置いた指先で書類を軽く叩きながら、彼は低く息を吐いた。
「現時点で我々の持つ証拠では、人々の信用は得られない。会社の上層部も同じだ。今ここで報告すれば、相手にされないどころか、奇人扱いされて立場を追われるかもしれない」
髭を撫でながら、所長は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「それは、僕も困る。……決して、地位に固執しているわけじゃない。ただ、真実を解き明かす道を、今閉ざされたくないんだ」
彼は一度言葉を切り、静かに視線を上げた。
「その真実の解明に必要なのは、ただ一つ──時間だ」
「このノイズを解析することで、言語的パターンを発見したが、まだその全ての解明には時間がかかる。
その時間をだね……、君に用立ててくれないかと思ってね」
所長にそう言われても、彼女は困っているようだった。
具体的にどうしろとは言っていないが、業務違反となる行為を指しているのは明らかだった。程度でいえば、罪に問われるほどではないかもしれないが、そういう問題でもないのだろう。
藤宮は唇を結んだまま黙り込み、机の上に視線を落とした。
彼女はまだ若いが優秀な人だ。規律を外れることがどれほど危ういかは、分かっているはずだ。いくら所長の言う事であったとしても、軽々しく「分かりました」と言える話ではない。
しばしの沈黙ののち、彼女は小さく息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「……正直に言えば、怖いです。本社に背くようなことをすれば、私なんてどうなるか分からない。でも……」
そこで一度言葉を切り、真剣な瞳で所長を見据えた。
「白石所長が、この磁場観測に現れたノイズの解明に尽力なさっていることは信じます。それを私が潰してしまうようなことはできません」
「何より──本当にそんな事が起こっているなら、私も知りたい」
彼女の瞳には、これまでの誠実さと優秀さの裏に隠れていた、強い意志が宿っていた。
「──ありがとう」 所長はただ、頭を下げた。
所長は藤宮に二つのことを提案した。
一つは、調査の時間を稼ぐための実務的な協力。本社に提出する報告について、所長が用意した偽の内容を彼女に届けてもらうことで、追及を先延ばしにする。
もう一つは、彼女自身にもデータ解析に加わってもらうこと。我々にとって、もはや彼女も貴重な戦力だ。ただし、立場上ずっと島に残るわけにはいかないため、支社に戻った後は遠隔で支援してもらう形になる。
この二つを、藤宮は受け入れた。
正直、ここまで積極的に協力してくれるとは思っていなかった。もちろん、所長の説明の仕方が巧みだったのもあるだろう。だが、それだけではない。
俺はもっと、彼女を会社の義務に忠実な人間だと見ていた。好奇心よりも立場の安泰を優先するタイプだと……。
そう考えること自体は、決して悪いことではない。その判断には善悪や道徳といった個人的な観念が入り込むことだ。大人はその狭間のせめぎ合いで、人生の選択を常に迫られているのだから、どちらの選択が正解かなんて、俺が上から目線で言えるわけがない。
そんな俺の予想を裏切った彼女の顔は、むしろ晴れやかのようでもあった。その顔は、AIに頼る姿の方が偽りだったのかも、と疑わせた。
その後しばらくのあいだ、藤宮に対して所長と橘がこれまでの解析手法と結果を順に説明していった。
専門的な内容は俺には理解しきれなかったが、藤宮は真剣に耳を傾け、要所で頷く。どうやら十分に理解できているようだった。
説明が一通り終わると、所長が最後に質問を促した。藤宮は少し考えてから、静かに口を開いた。
「──白石所長は、この問題をどこまで解明しようとお考えですか?」
それは、先ほど橘が投げかけた問いとよく似ていた。所長はその時のことを思い出したのか、わずかに目尻を緩め、ふっと微笑む。それから、ゆっくりと口を開いた。
「僕もね、すべての真実を解き明かそうなどとは考えていない。そんなのは傲慢というものだよ」
そう口にした所長の横顔には、疲れと、諦めが滲む。
しかし、それらを受け入れてなお、探求を続ける意志は伝わってくる。それはこの問題に留まらず、所長のこれまでの人生を語っているようだった。
「僕がここから知りたいのは、”彼らが何を言っているか”。ただ、それだけなんだ」
そう話す瞳の奥には、確かな熱が残っていた。その言葉には、余計な理屈も虚飾もない。まるで、長い探求の果てに削ぎ落とされて残った、純粋な願いだけが滲み出ているように思えた。
俺は、その時初めて所長の明確な考えを知った。
未知からの信号──その存在を知った瞬間、人が解決しなければいけない課題は無数にある。
それが本当に地球外からのものだと証明することはもちろん、たとえその前提が満たされたとしても、次に立ちはだかるのは、発信源がどこか、どんな仕組みで届いているのか、そしてなぜ我々に届いたのか──という果てしない問いだ。
だが、所長はその全てを追いかけようとはしていない。
彼が自ら選び取ったのは、その中のただ一つ、「信号の解読」だった。
本来はそれだって、あり得ない出来事なんだ。俺だっていまだに信じ切ることはできない。
所長から明日──「実はすべて誤解だったよ」と言われても、「やっぱりそうでしたか」と応えるかもしれない。
しかし、それが今、現実的な選択肢として目の前にある。それはもう、宇宙物理学の権威という肩書をもつ所長にとっては、夢の様なことであるかもしれない。
発信源も仕組みも重要であるのは分かっている。だがその究明には、証明や理論に膨大な時間が奪われ、今の人類では結局は何も掴めずに終わるかもしれない。それに、橘との話し合いで出てきたことも、考慮しなければならない。
だからこれは、所長の迷いを削ぎ落とした答えなんだ。
未知と人をつなぐ唯一の手がかり──意志の理解。その一点にこそ、自己を賭けるべきだと、所長は決断していたのだ。
夕日が沈み、島から望む山々が黒緑に沈んでいく頃、今後の方針を含めた話し合いはようやく終わりを迎えた。
藤宮と橘の二人は、明日には島を発つことになる。連絡は取り続けるが、折角知り合った縁もある。そこで、今夜はささやかな送別会を開くことになった。
「あなた、意外と肝が据わってるのね。それとも、何か勝算でもあるのかしら?」
その席で、橘がからかうように藤宮へ声をかけた。その馴れ馴れしさは、俺に向けてくるものと同じものだった。
「いえ、そんな……勝算なんてありません。今だって、何かの間違いの可能性はあると思っています」
藤宮は少し照れたように答える。お酒の席でも、その礼儀正しい調子は崩さないままだったが、堅苦しさはなく、自然な柔らかさを持っていた。
「でも──それでもいいんです。私は今回の件を、とても面白いと感じていますから」
そう言って静かに笑みを浮かべる藤宮を見て、橘も思わず吹き出すように笑った。
「ふふ、やっぱり度胸があるんじゃない。そういう芯が強い人は好きよ」
二人のやりとりに、俺まで微笑ましくなった。
そんな中、所長の酔いは早かった。下戸という訳ではないはずだ。ここ最近の無理と暑さのせいで、体調が悪かったのかもしれないと心配したが、本人は至って明るかった。
よく笑って、結婚はどうするんだとか、相手はいるのかとか、親の様なことを言って俺を困らせた。
しばらくして、酔いの勢いが夢心地に変わる頃、所長はふと口を滑らせた。
「君たちは、僕に騙されたということにしなさい。それを証明するやり取りを、証拠として残しておくから……すべての責任は私にあるように……」
一瞬、場の空気が止まった。
藤宮は驚いたように目を見開き、すぐに真剣な表情へと変わる。
「……そんな言い方、やめてください。白石所長一人に責任を押しつけるつもりなんて、私にはありません」
橘は逆に苦笑を浮かべ、杯を揺らしながら肩をすくめる。
「まったく……一体、いつからそんなふうに考えていたのかしら。でも、別会社の私には、それをしてもあまり意味はないかな」
反応はあるものの、完全にまぶたの下がっている所長に、果たして二人の言葉が聞こえているかは怪しいものだった。
「所長……、みんな自分の意志でここにいるんですよ」
それでも、俺はそれだけは伝えたかった。
返事は返ってこない。項垂れたままの所長は、すでに眠りに落ちているのかもしれなかった。
所長から見たら、俺たちは子供のようなものか──そう思えて、俺は大きくため息を漏らした。
能力が至らないのは弁明のしようもない。だが俺は、この人が背負っている孤独と執念を、少しでも軽くしたいと思った。
ここで立ち止まっていては、彼が託そうとしているものを受け取れない。俺もまた、自分の意志で踏み込むと決めた以上、ただの観測員のままではいられない。
コップの中で揺れる見た目だけの琥珀色を見つめながら、俺は静かに心に刻んだ。
──この先、どんな結末を迎えたとしても、俺は所長と同じ景色を見届けなければいけないのだ。
所長を介抱していると、藤宮がふと声をかけてきた。
「高梨さん、覚えていますか? 白石所長が、あの嵐の日に話してくれたこと」
彼女が言っているのは、俺にとっても強烈に印象に残っている「三十年の移住計画」の話だった。
「もちろん。あれは忘れられませんよ。所長らしい、現実的でありながら突飛な内容でしたね」
当時の驚きと、その独創的な発想を思い出し、思わず笑みがこぼれる。
「あら、なにそれ? その面白そうな話、私にも教えてくれない?」
身を乗り出すようにして橘は絡んできた。
「数日前の嵐のあった日に、白石所長と話し合いをしたんです。それは──」
藤宮は、その時の内容を彼女にかいつまんで説明した。
「──へぇ、それはなかなかユニークなSFね。オチも含めてね」
橘は杯を回しながら、くすりと笑う。
「私、このお話がとても印象に残っていて、その続きをずっと考えていたんです」
「そして辿り着いた可能性と、今日観測所で聞いた話が、妙にシンクロしてしまって、とても驚きました」
藤宮は真剣な表情に戻り、二人を見渡した。
「白石所長のお話では、最終的に人類を構成する最小限の『物質』を宇宙にばら撒き、それを拾った知的存在に人類の存続を委ねるというものでしたよね」
「でも──究極的には、それは『物質』である必要はないんじゃないかと考えたんです」
俺と橘は同時に眉を上げた。藤宮はその反応を見て、言葉を続けた。
「人類を意味する『情報』であればいいんですよ。それならば、理論上はいくらでも宇宙に拡散できる。
あとは、その情報を拾った存在に、『物質』ごと人類の再生を依存するんです」
彼女の話は、所長の構想を進化させたものと言ってよかった。確かに、物質を運ぶよりも情報を伝える方が、相手に届く確率は圧倒的に高い。
もちろん、その情報を宇宙規模で発信する手段は、まだ人類には存在しない。だが──
「……そうか。今俺たちが解明しようとしている、この磁場ノイズが、その『情報』なのかもしれないってことか」
俺は辿り着いた答えを思わず口にした。
「まだ、何の根拠もありませんけどね」
藤宮は肩をすくめ、柔らかな笑みで返した。
「ふふ、もし本当にそうなら……なんてはた迷惑な話なのかしら」
橘は苦笑しながら杯を傾けた。
俺たちはその空想を笑っていた。だがその仮説ですらない絵空事は、今自分たちが直面している事実と混ざり、否応なく胸の奥を震わせる力を持っていた。
まるで、自分たちの会話が、真実の縁をかすめていることを期待するかのように──。
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