第九話 助手席

 橘を助手席に乗せ、俺はハンドルを握り、獅子島を一周するドライブへと出かけた。

 窓の外を流れる海岸線と、眩しい太陽の光。沈黙の合間に聞こえるのは、タイヤが路面を撫でる音と、彼女の小さな吐息だけだった。

 俺もそれほど鈍感ではない。彼女が好意を向けているのは分かる。ただその好意が、どこまで踏み込んだものなのかを量りかねていた。

 俺自身、橘を嫌っているわけではない。むしろ、女性として惹かれる部分は多い。研究者としての姿勢にも尊敬を抱いている。だが、仕事が絡む相手と私情が交錯する関係に踏み込むのは、どうしてもためらいがあった。

 彼女が望むのは、ただの気晴らしか、それとももっと深いものか。

 俺はそのあたりを見極めて、満足してくれるところで手を引けばいい、と考えた。けれど──もし、彼女からそれ以上を求められるのなら、できる限り傷つけない方法を選ばなければならない。


 橘の横顔を盗み見るたびに、そんな計算めいた思考が胸の奥で交錯する。彼女の無邪気な笑みは、その裏にどんな意図を潜ませているのだろう。あるいは逆に、そんな俺の思惑や仕草が、すべて試されているような気もしていた。

「私、乗り物の中で、車の助手席が一番好き」

 彼女はふいに口を開いた。

「そうですか」 ──俺は前を見ながら応えた。

「だって、こんなに特別なのに、でも何もしなくていい席なんて他にないじゃない」

 そうかもしれない。他の乗り物じゃ、どんなにいい席だったとしても、それは数あるうちの一つに過ぎない。でも車の助手席は、運転手が用意できるたった一つの特別な席だ。そこに座っているというだけで、それだけで意味を持つ。その意味を考えたら、確かに、それ以上のものはないのかもしれない。


「じゃあ、次からは、助手席に乗せる人は慎重に決めないと」

 俺は前を向いたまま、冗談めかして応える。馬鹿にしてるわけじゃない。だが、そう取られてもおかしくない言葉に、橘がどんな反応をみせるのか見たかった。

 怒るかもしれない──そう思ったが、彼女は俺と同じように前を向いたまま、ふっと笑った。

 そしてすぐ、彼女は窓の外へ視線を逃がした。風にあおられる海岸の草の葉先が、まるで追い越されまいと背伸びしているように揺れていた。


 ハンドルを握る俺は黙ってアクセルを踏み、狭い舗装の甘いカーブを慎重に回る。

 島の道は、海と森の境を縫うように続いている。時折現れる小さな漁港や、古びた標識が、通り過ぎるたびに出迎えては、すぐに置き去りにされていく。

 車は他に一台も通らない。都会の喧騒は一切ない。道路には信号すらない。

 そんな道を、俺は黙って運転してた。何も言わなかったのは、橘が何も言わなかったからだけれど、俺なりに考えてはいた。

 こんな時、仕事のことは口にしたくない。だが、それ以外のことで俺は、彼女のことを何も知らない。だったら、彼女の過去について何か聞いたりすればいいのだが、何故かそれは、仕事の事より聞きたくなかった。

 橘は助手席の背にもたれかかり、ゆるやかに頬杖をついた。

 彼女は退屈しているのだろうか、それとも楽しんでいるのだろうか。俺にはどちらとも判断できなかった。

 潮の匂いに混じるエンジンの音が、まるで心臓の鼓動を急かすように、一定の間隔で背中を押していた。


「……ねえ、この島って、一周するのにどのくらいかかるの?」

 橘が不意に問いかけてきた。

「──大体、一時間ちょっと。でも──寄り道しましょうか」

 その言葉に、彼女は初めてこちらを振り向いた。

 しかし、すぐに視線を戻すと──「もちろん」 と呟いた。

 再び、無言のドライブがしばらく続いた。だが少なくとも俺には、その時間は心地よかった。

 その最後に、俺は沿岸沿いにある展望台に車を止めた。


 木の香りのする回廊と繋がる小さな展望台へ彼女を案内した。

 その展望台は、まるで空と海の境界に吊り下げられて浮かぶ小さな島だった。そこから見下ろす視界いっぱいに広がるのは、透き通るような青の世界。波は驚くほど穏やかで、鏡のように滑らかな海面が、陽光を受けて淡い瑠璃色から深い群青までの濃淡を描き出す。遠くの山並みは霞みがかり、空との境界をあいまいにぼかしていた。

「すごい……。絵の世界みたい」

 その景色を目にした瞬間、橘は思わず息を呑み、少女のようにそう呟いた。その直前までの大人びた彼女からは想像できないような、そんな声が漏れることに俺は少し驚かされた。

 しかし、それも無理はない。目の前には、夢の中に立っているかのような光景が広がる。その中では、大人の理屈など消え去り、素直な童心だけが許される。それに抗う理由を、彼女は持っていないだろう。

 潮の香りに混じって、緑の木々の匂いがほんのり漂っていた。その中に、彼女の香水が重なる。


 ──その瞬間、俺はようやく分かった。

 それは強く自己主張する香りではなく、周囲の空気に調和しながらも、確かに存在を知らせていた。

 俺も香水の知識なんてないから、それが何の香りかは知らない。けれど、人ごみの中なら埋もれてしまうその香りは、この静かな場所で、やっと際立って感じられる。

 それは、橘という女そのものを映しているように思えた。


 空はどこまでも高く澄み渡り、雲はほんの指先ほどの白い欠片を散らすだけ。その無限の青が、海と地平線でひとつに溶け合うのを見ていると、自分が大地に立っていることさえ忘れそうになる。

 それと同時に──彼女との距離までも見失いそうになりかけた。



 ──翌日、俺はいつも通りに仕事へ向かった。

 観測所の建物は、昨日の今日だというのに俺には少し新鮮に見えた。昨日の余韻を胸に抱えつつも、玄関をくぐれば空気は一変し、日常の作業に切り替わる。

 珍しく先に待っていた所長と、今日予定している打ち合わせの段取りを確認する。

「所長、藤宮に昨日、何と言ったのですか?」

 仕事用の端末に残っていた彼女からのメールを確認しつつ、所長に尋ねた。そのメールには、観測データの添付と、簡潔にノイズの発生は確認できなかった旨が記されていた。

「ああ、僕が磁場ノイズの発生原因を突き止めたと言ったんだ。その内容と機器への修正を含めて、資料を渡したいから直接来てくれと彼女に伝えた」


 一瞬、手が止まる。──それは絶妙な「嘘」だった。

 所長でも、そこまでの答えに辿りついていないはずだ。だが、それを聞いた藤宮は、ここへ来ないわけにはいかない。事の経緯から、他の者に任せるのは二度手間を生むだろうし、性格的にも、立場的にもそのような対応をするとは思えない。

 相手の出方を絡め取るようなその手は、藤宮を罠にかけるようなものだが、では、騙されたと知って怒るだろうか。

 ……いや、きっとそうはならない。

 なぜなら──我々は彼女に、「嘘」よりももっと衝撃的な内容を告げることになるからだ。


「──時間は、彼女の都合に合わせて、15時。君もそれでいいかね」

「はい。では、橘さんにもそのように伝えておきます。

では俺は、それに備えて巡回に行ってきます。昨日サボった分、何かあると問題ですし」

 所長は軽く頷き、書類の束を机に置いた。ばさりと音が立つほどの、その見慣れない書類の束は、所長が今日も早く来ていた理由を納得させた。それは、所長も徹夜のツケを払っている証だった。

「うむ。頼んだよ」

 短いやり取りのあと、俺は椅子から立ち上がり、机の端に置いていた手帳を胸ポケットに差し込み外へ出た。

 今日も変わらず、容赦のない太陽が頭上から照りつけてくる。思わず目を細め、駆け込むように車へ身を滑り込ませた。

 エンジンをかけると、熱気を孕んだ潮風が窓から流れ込み、頬を撫でる。その潮の匂いに紛れ、助手席の残り香が微かに俺の鼻孔をくすぐった。


 昨日は巡回を休んだとはいえ、観測小屋の機器に大きな変化はなかった。観測器は正常、観測値もいつも通り静かに画面の上で流れていく。もっとも、観測値は観測所でモニタリングできているのだから、問題が無いのは予想できていた。それでも自分の目で確かめると安心するようになったのは、それが習慣になってしまった証だろうか。

 俺は北と南の観測地点を巡り、最後に磁場観測装置のある中央の展望台へ向かった。15時の予定のために、急いでいるわけでも、手を抜いているわけでもない。ただ、いつも通りの手順をなぞる。そこには、これまでと変わらない俺の日常があった。


 ──巡回を終え、俺は観測所に戻った。

 すると、そこにはもう橘がいた。まだ15時には随分と前だというのに、彼女は所長と話し合いをしていた。

「ただいま戻りました」

 俺は、二人の会話を邪魔しないようにそれだけ伝え、席に座る。二人はその声に軽い会釈で応えた。

「──それで、白石所長はこの信号がどこから来ていると、お考えですか?」

 橘は真剣な眼差しを所長に向けていた。その表情には、昨日の面影はまるでなかった。

「うん……難しい質問だね」 所長は顎の髭を撫でながら、少し考え込む。


「まず、我々が掴んでいるのは、磁場観測のデータに、規則的なノイズが現れているという事実だ。

目下、その規則性の精度を高めるために解析を続けている。しかし──そのノイズの発生原因となると、我々はまだ何も分かっていないと言っていい」

 所長は首を小さく横に振り、視線を落とした。だがすぐに顔を上げて、言葉を継いだ。

「ただ、現象として分かっていることはある」

 指を折るようにして言う。

「一つは発生範囲だ。藤宮さんが送ってくれた他地点のデータにはノイズが出ていない。つまり、この現象は獅子島近辺に限られている」

「もう一つは発生時間。毎日きっちり、15時から19時48分までの4.8時間に限りこのノイズは発生している」

 この二つの特異な事象について、橘もうなずいて聞いていた。


「それを踏まえて、発生場所を特定しようとするなら──島内に観測装置を増やす必要があるだろう。

増設した各地点で記録されたデータの差異を分析し、三角測量のように位置を割り出すんだ」

 所長はそこで一度言葉を切り、渋い顔をした。

「だが、今この島に設置しているような観測装置では心もとないね。より高性能な精度の高い装置でなければ、その差異を検知することはできないかもしれない」

「そして、仮にそれだけの装置を用意するとなれば──当然、本社を動かして納得させねばならない。だが……」

「結局、それがジレンマなんだよ。本社を説得するだけの材料を得るために、その装置が必要になるわけだからね」

 所長は肩をすくめて、苦笑いを浮かべた。


「──そして、それだけの準備をしてやっと分かるのは、磁場ノイズが最も強く出ている場所に過ぎない。

肝心のノイズ自体の発生原因の解明には、まだまだほど遠い」

 所長は再び視線を落とし、低く息を吐いた。

「あるいはそれでも、君のところでやるつもりはあるかい?」 視線を橘へ向ける。

「──無理でしょうね。私にそんな権限はありませんし、今掴んでいる情報を、ありのまま伝えたとしても、わが社が動くことはないと思います」

 彼女は偽りなく真っすぐに応えた。本来、それは他社の人間に言うべきではないことだった。

 それを受け、所長も応える。

「となれば──どうだろうか?

届かない木の実に手を伸ばしてもしょうがない。我々は今できるデータ解析を徹底的に進める。そして、手の届く範囲にある果実を手に入れる。それで良くはないかな?」

 所長の言葉に、橘は沈黙した。けれどやがて、微かに口元を緩めてうなずいた。

「……ええ。その通りですね」

 その逡巡は、俺には理解できないものだろうと察した。この選択は、研究者としての人生を左右するものかもしれない。

 しかし、その表情は諦めではなく、次に進むための覚悟を受け入れたものに見えた。

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