第七話 情熱
俺は、作業しながらでも食べれるようなものをいくつか見繕い、そして忘れずにチョコレートも袋に入れて職場へ戻った。
扉を開けた瞬間、外の闇に慣れた俺の目に室内の強い光が刺さる。蛍光灯の白い明かりがやけに鋭く感じられ、思わず瞬きを繰り返した。机に広げられた波形グラフや計算式は、その白々しい光に照らされ、まるで昼間のように浮かび上がっていた。その光の中に沈むように、二人は黙々と作業を続けていた。
所長は相変わらず端末に向かい、画面を食い入るように見つめながら、同じ作業を繰り返していた。顎の髭を無意識にいじる仕草は止まらない。橘はその横で、所長の補佐に努めていた。
二人とも、俺が戻ったことすら気づかないようだった。
「戻りました……。どうぞ」
橘の机に、そっとチョコレートを置く。そして残りはご自由にと、邪魔にならないよう接客用のテーブルに袋ごと置いた。
「ありがとう……。ふぅーー……」
彼女はそれに気づくと、体を延ばし一息ついた。そして、チョコレートに手を伸ばす。ひと欠片つまみ、口に放り込むと、すぐに記録へ視線を戻した。
そんな彼女の何気ない仕草を見て、俺も腹をくくった。
夜を徹して続く二人の作業は、いつ終わるか予想もつかない。夜が明けても終わらないかもしれない。だったら、二人が気の済むまで支えよう、何日でも。その為に、俺は自分が置いた袋の中に手を伸ばした。
窓の外は闇を濃くしていく。この島に観測所の灯りだけが取り残されたように浮かんでいた。この場所を、ひときわ孤独に染めるように、夜はいっそう更けていった。
◆
観測室には、時折キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。所長と橘は一心不乱に端末へ向かい、互いに短く言葉を交わすことすらほとんどなく作業を続けている。蛍光灯に照らされた彼らの横顔は、昼間とは別人のようで、俺が入れたお茶すら忘れてられていた。
俺は、とっくに日々の事務整理は終わり、手元にはもう何も残っていなかった。所長から何か指示が飛んでくる、なんてことはまず無いことぐらい簡単に読み取れた。この沈黙の中、ただ待つだけで時間を持て余すのは、勿体ない気持ちになった。
そこで俺は、自分なりに観測データへ手を伸ばしてみることにした。もちろん、二人のように数式を操りながら解析するなどできるはずもない。だから選んだのは、三日前から観測している磁場観測装置のノイズではなく、それ以前から観測しているこの島の気象観測データだ。
それを、ノイズが発生する時刻の15時を基点に、そこから4.8時間で切り分けてまとめ直す。この作業に、意味があるのかどうかすら怪しい。けれど、単純な作業は無為に過ぎる時間を埋めるのにちょうどよかった。
──そのまま日付が変わり、しばらく経った頃、黙々と記録をしていた橘が、ふいに口を開いた。
「これで、私が手元に持っている観測データはすべてです」
所長はその言葉に反応し、久しぶりに声を発した。
「そうか……。なるほど、確かに君が言ったとおりのパターンは認められる。今日の──いや、もう昨日か。新たに得られたノイズの解析も行ったが、同じ兆候が出ていた」
そこまで言うと、所長は眉間に手を当て、しばし目を閉じた。
「……だが、決定的にデータが足りないな」
その言葉に、橘も無言でうなずいた。
観測データにどれほど明確な兆候が見えたとしても、数が少なければ統計的な裏付けは得られない。偶然の揺らぎなのか、実際の現象なのかを区別することができないのだ。ましてや観測は環境要因や装置の特性に左右されやすい。十分なサンプルを積み重ねて初めて、再現性を持つ「事実」として認められる。
それは例えば、一週間程度の気象観測データで、地球の気候変動を語れないのと全く同じことだ。地球規模の気候変動を論じるには、数年から数十年、さらには百年、千年といったスケールでデータを蓄積し、比較する必要がある。今回の事例がそこまでの年月を要求するわけではないにしろ、一週間の観測では現象の輪郭を捉える事はできても、統計的な確証を得るには到底及ばない。
「さて、どうしたものか……。我々にできるのは、ここまでかな、ハハハ……」
乾いた笑いとともに所長は肩を落とした。推測が外れたわけではない。むしろ、推測を補強する結果が出ている。何十年ぶりにおもしろい研究材料を与えられ、夢中になったこの数時間の成果は確かにあった。そんな所長の姿は、研究者としての血が久々に騒いでいるように俺には見えた。
だが、観測データは思い通りにはならない。彼にできるのは、出てきた結果を受け止めることだけだ。そもそも、これは成果を求められた研究ではない。ここで止めたところで、誰からも文句は言われない。
だがその眼差しはまだ諦めきったものではなく、どこか次の一手を探る色を帯びていた。
橘はしばし黙考し、手元の記録から視線を上げる。
「……追加の観測しかありません。やれることは、観測を続けてデータを積み重ねることだけです。幸い、周期性は非常に明確です。ただ、最低でもあと一カ月は必要とするべきでしょう」
所長は深くうなずいた。それには同意と共に、現状がどうにもならないことへの不満が滲んでいた。
「……そうだな。できれば、この磁場ノイズがいつから出ているのか……、過去の観測データがあればいいのだが……無いものを強請っても始まらない」
「今日はここまでにして、少しずつ検証を積み重ねていきましょう。──みなさん、お疲れさま」
そう言って所長は背筋を伸ばし、固まった肩を回した。橘も、張りつめた表情をようやくゆるめ、手足を伸ばす仕草を見せた。
俺はといえば、二人ほど強い情熱を持って取り組んでいるわけでは無かった。だから、ここで解放されたことを喜ぶべきだったのだろう。
──それなのに、気がつけば口から出た言葉は違った。
「あの、所長。磁場観測のデータはありませんが……北と南の観測地点の記録は役立たないでしょうか。ノイズの発生時刻ごとに区切ってまとめてみたのですが」
認められたいわけでも、成果を上げたいわけでもなかった。ダメならダメでそれでいい。そんな提案だった。
「……うん、それに大きな意味はないだろうね」
返ってきた所長の言葉は、予想していた通りのものだった。
やはり無駄だったかと肩をすくめかけたその時──橘がふっと顔を上げた。
「試してみても、いいかもしれません。
──確かに、そのデータ単独では統計的に根拠の薄い記録である可能性が高いです。ですが、今回のノイズ解析で抽出したパターンをモデルとして当てはめ、フィルタをかければ、偶然の揺らぎとは区別できる相関や兆候が浮かび上がる可能性があります」
その言葉に、所長の目の色が変わった。
「なるほど……僕はてっきり単なる磁場ノイズとしてこの信号を捉えていたが、そうとは限らないわけだな。もし背後に別の物理的要因があり、それが結果的にノイズのように観測されているのだとすれば──これまでの解析パターンを指標に、より大きなデータ集合を振るいにかけることで、その相関が統計的に支持されるかもしれない」
当然、俺はそんなことを考えて発言したわけではない。さらに言えば、二人の今の会話も何を言っているのかすら、よく分かっていなかった。
「よしっ! 高梨くん、そのデータをこちらに。時間が許す限り、片っ端から洗ってみよう」
所長の声には再び活気が戻っていた。俺もそれには反論する気はなかったが、もう一つだけ、ダメ元で口を挟んだ。
「……その前に、皆さん少し、休憩しませんか?」
おそらく今を逃せば、水を差すタイミングは二度と来ないだろう。
「うん? ……ああ、もうこんな時間か。そうだね、少し休もうか」
所長は、意外なほどあっさりと頷いて、その提案を受け入れた。
──といっても、所長は俺が買ってきた夜食を片手に、モニターから目を離すことはなかった。
先ほどの熱量を抑え、次に備えて考えを整理しているようでもあった。
俺は、そんな所長を残し、潮風にあたりに外に出た。
真夜中の海風はようやく涼しさを帯び、肌を撫でる。防波堤を打つ波の音は、闇の中で繰り返し心地よいリズムとなって伝わった。遠くで、虫が鳴いている。
缶コーヒーをひと口飲み、一息ついて、夜空を見上げた。すると──
「──こうして夜の海を見ていると、自分が何のためにここにいるのか、分からなくならない?」
突然の囁きに俺は驚いて横を振り向いた。そこには、海を見つめる橘の姿があった。
「……研究のため、じゃないんですか?」 俺は深く考えずに、軽く返した。
橘は小さく笑い、首を横に振った。
「もちろん、それもあるけど。でもね……研究って、結局はどこまで行っても自分の中にしか答えはなくて……。
周りと分かち合えることなんてほんの一部。理解してもらえないことの方が遥かに多い……」
そこまで言って、最後にこちらを振り向いた。
「特に、私みたいなのはね」
その瞳には、疲労ではなく、抗うことをやめた諦めの色が浮かんでいた。
俺はどうしていいか分からず、缶コーヒーを指先で弄ぶ。
「……理解、する必要も、される必要も、あるんですかね。
同じ場所から、同じ海を見ている。……それだけで、十分じゃないですか」
自然と口をついて出た言葉の、その意味がどう伝わるかを考えたのは、発してからしばらく経ってからだった。
「そろそろ、戻りましょうか」 俺は、平静を装って身を翻した。
「──そうね」
彼女の顔を見ずに聞いたその声は、心なしか笑っているようだった。
室内に戻ると、所長はもう作業を始めていた。橘も俺も、所長を見習うように、席について続きを始める。
カチカチと硬質な音が続く。時間は午前二時を回っていた。外の世界とは切り離された小さな島で、目を覚ましているのは自分たちだけのように思えてくる。そんな夜の窓ガラスに映る自分たちの姿は、どこか別世界の住人のように見えた。
◆
夜の黒に、かすかに薄墨色がみえたところまでは覚えていた。しかし──
俺は椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。
目が覚めた時、外にはもう日が昇っていた。
寝ていたのはほんの二、三時間だったと思うが、不思議と疲労感はなかった。代わりに胸の奥に満ちていたのは、その時間を取り返そうとする、奇妙な高揚感だった。
寝る前と後の違いを間違い探しのように比べると、最初に気づいたのは、橘の姿が無いことだった。
「──橘さんは、一旦宿に戻ったよ。」
答え合わせをするように、俺の仕草を見て所長は答えた。
「解析は終わったんですか?」
モニターを見ながらも、手を止めている所長に、俺は次の違いを訪ねた。
「──とても、一晩では終わらない、ね。ただ──目途は立ったよ」
穏やかに話す所長は微笑んでいた。もし、所長の言うことが本当なら、それはとてつもない偉業に手を掛けたはずなのだが、昨晩の興奮は冷め、落ち着き払っている。その温度差に俺は不気味さすら感じた。
しかし、一旦、目を伏せると、表情が変わった。
「……いやぁ、高梨くんには悪いことをした。君にも仕事があるのに、僕の我儘に突き合わせてしまった。申し訳ない」
頭を下げる所長は、三つ目の間違いだった。何一つ、強要されてなんかいない。俺は、俺の我儘で付き合ったのだ。
だがそれも、世の中の就業ルールに照らせば間違いになるのだろう。真実は共犯でも、第三者は管理者を主犯とするのは道理だ。
俺は、その間違いを黙って受け入れた。
「今日は、もう家に帰って休みたまえ。また明日よろしく」
そう言うと、所長は席を外した。
俺は、そのまま作業を続けるわけにも、今日の外回りに出るわけにもいかなくなった。俺の立場では、報告もなしに勝手な事はできない。その所長の気遣いに、俺は甘えることにした。
外に出ると、夜の海を覆っていた闇はすっかり消え、朝の光が島を包み込んでいた。海面には小さな波がきらめき、早起きの漁船が遠くへと白い航跡を残していく。
まぶしさに目を細めながら歩く足取りは覚束なかった。体は疲労のサインを示している。心まで囚われてしまう前に、俺は車を走らせた。
家に続くアスファルトに映る朝の影は長く、まだ眠りから覚めきらない道を伸びやかに横切っていた。
玄関の鍵を開け、靴を脱いだときには、もう意識の半分が夢の彼方へと傾いていた。冷えた床板の感触すら、どこか遠くに消えていく。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、居間を薄く照らしていたが、それを閉める気力も起きなかった。
寝室に転がり込むようにしてベッドへ身を投げ出す。背中を任せた瞬間、体の奥に溜まっていた重みがようやく地面に下ろされた気がした。目を閉じると、まだ昨夜の光景がいくつか浮かびかけるが、それもすぐに闇の波に呑まれていった。
家の静けさは、外の世界から切り離された避難所のようだった。時計の針の音すら届かず、時が止まったかのような静寂が満たす。遠くで鳥の声が聞こえたが、それすらも夢に誘う音楽だった。
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