第六話 完全一致

 観測所に戻ると、ちょうど所長が外から戻ってきたところだった。白髪まじりの髪をタオルで拭いながら、玄関先で俺の姿を見つけると、穏やかな笑みを浮かべて声を掛けてくる。

「お疲れさま、高梨くん。……おや? その隣の女性は?」

 当然の疑問に、俺は経緯をかいつまんで説明した。橘が誰で、どうして連れてきたかを。


「──ほう、なるほど。それは何とも頼もしいことだ。ぜひ、お話を聞かせてもらいたいね」

 所長は目を細め、重ねて深く頷いた。この問題の糸口を俺以上に探していたはずだが、その反応は俺以上に薄かった。

 そう言って所長は扉を開け、俺たちを中へと招き入れる。冷房の効いた観測室に入ると、クーラーの音に混じり、機材の低い駆動音が耳に届いた。

「さて──改めまして。オーロラテック・獅子島観測所、所長の白石慎一と申します。どうぞよろしく」

 所長は一歩進み出て、橘の方へ身体を向け、丁寧にお辞儀をした。

 橘も姿勢を正し、俺の時には見せなかった礼儀正しさで応じる。

「ジオシグナル研究員の橘結香と申します。以後、お見知りおきを」

 彼女の声は真剣そのもので、俺に向けていた軽口は影も形もなかった。その切り替えの速さに、俺は思わず眉をひそめた。


 橘はさっそく、肩掛けバッグから小型のケースを取り出した。ノートパソコン用のキャリングケースほどの大きさの中には、手のひらを少し超える程度の灰色のセンサーが収まっている。

「私は、地震の前兆を探る研究の一環で、局所的な磁場の変動をモニタリングしていました。……といっても、これは研究所で使う磁力計をフィールド調査向けに小型化した試験機です。ひとりで運んで設置できる程度にしてあります」

 彼女は手慣れた様子で蓋を開け、内部のセンサー部を指さす。

「精度は本格的なフラックスゲート磁力計には及びませんけど、0.1ナノテスラ単位の変動は拾えます」

 所長が腕を組み、感心したようにうなずく。

「地震発生時に磁場の乱れが生まれることは聞いたことがあります。確かに、大規模な断層活動が起こるときには、岩盤に大きな圧力がかかりますから、それが磁場の揺らぎとなって現れるのでしょう」

 所長は専門外でありながらも、論理的に彼女の言うことをかみ砕いている。

「しかし──地磁場の乱れが地震予知の観測技術に用いられているのは、耳にしませんね。地震が発生する前に、検知できるほど大きな変動が起こるものなのでしょうか?」


 橘は一拍置いてから、所長の疑問に真っ直ぐに答えた。

「──確かに、私の研究は地震予知観測の分野では、まだ一般的ではありません。現状、広域な地震発生予想地域を観測した時、地震によって発生する磁場変動と、他の原因による磁場変動を区別するのが困難だからです」

「ですから私は、局所的な観測を継続し、地震活動と結びつくパターンを一つずつ拾い上げようとしています」

 彼女はタブレットを起動し、画面をこちらに向ける。

「これが昨日記録したデータです。見ての通り、周期的なピークが規則正しく現れています。ただ──この波形は、これまで報告されている地震前の地磁気パルスとは明らかに違います」

 表示された波形を見た瞬間、息をのんだ。そこに現れていたのは、俺たちが追ってきたノイズと、完全に一致するものだった。

「私がこの磁場ノイズを最初に検知したのが、ちょうど一週間前。以降、決まって15時から4.8時間の間だけ発生しています」

 彼女の言葉に、観測所の空気がぴんと張り詰めた。


「──とすると、橘さんの意見は、この獅子島という局所的な地層の磁場に、不自然な形のノイズが発生している。そういう理解でいいかな?」

「ええ。ただ、その発生源が本当に地層から来ているかどうかは、まだ断定できませんが」

 言葉を聞きながら、俺は背筋にひやりとした感覚を覚えた。

 全く別の立場にいる人間が、別々の観測から同じ異常を掴んでいた──それが今、完全に噛み合っている。それは否応なしに、この問題の突破口となる予感を感じさせた。

 横にいた所長もまた、眉間に深い皺を寄せている。

「……実を言うとね。我々も、この島で妙な磁場ノイズを検出しているんだ」

 所長は言葉を選びながら、静かに我々の情報を打ち明けた。

「今夏の太陽フレア異常を調べるため、島の中央の展望台に磁場観測装置を三日前から設置してある。そして──二日前の嵐の日、君が捉えた波形とまったく同じノイズを観測した」

 所長はモニターを操作し、該当箇所の波形を示す。

 橘は食い入るように画面を見つめ、息を呑んだ。

「……完全に一致してる……」

 彼女の呟きに、部屋の空気が一段と重くなった。


 橘の視線が落ち着くのを見計らい、所長は口を開いた。

「僕たちも、この原因をどう解釈すべきか悩んでいたところなんだ。ぜひ、橘さんの考えを聞かせてもらいたい」

 それに対し、彼女は少しの間を空けて、語り始めた。

「……正直に言いますと、私には理解しがたい現象です。

一週間前から、あの観測器で数回にわたり磁場ノイズを検知しました。しかし、地震前兆として説明するには、データが不自然に揃いすぎています。最初は機器の誤作動を疑いました」

 そこまで語り、彼女は目を伏せる。しかし、すぐに顔を上げた。

「──けれど、周波数解析を繰り返すうちに、妙な法則が浮かび上がったんです」

 その言葉は、所長の眉の片方を上げさせた。


「周期的に現れるピーク群の中で、各ピークの最大値はほぼ一定です。しかし、そのピークに至るまでの立ち上がり方、漸近曲線の形状には差異が見られます。

その差異は完全なホワイトノイズ的揺らぎではなく、確率分布に偏りを持つ系列として表れており、統計的自己相関やエントロピー解析を行うと、単なるランダム過程では説明できない規則性が抽出されました」

 俺には橘の言っていることがほとんど理解できなかった。統計? エントロピー? 俺には無縁の世界だった。

 しかし所長は対照的に、髭を撫でながら集中して聞いている。


「──その規則性は、自然言語における音素や文法的構造に類似した階層的パターンを示していました」


 その言葉に、所長の手は止まった。俺も、その結論だけは理解できた。

 数瞬、機材の駆動音だけがこの場を支配する。それから、ようやく所長は押し殺したように低く呟いた。

「そんな馬鹿な……」

 次の瞬間、彼は立ち上がり、机の上にあった磁場観測データをプリントアウトして何やら書きこんでいた書類を乱雑にかき集めた。

「自然言語的な階層構造? そんなものは信号処理の過程で勝手に浮かび上がった虚像にすぎないか? フーリエ解析の窓関数の影響だってありうる。統計的自己相関も、データ数が足りなければ見かけ上のパターンに化ける……」

 矢継ぎ早に否定要因を口に出す。声は強い拒絶を示しているのに、その目は異様に輝いていた。

 そんな所長の姿を、俺は見たことが無かった。大学で教授をしていた頃はこうだったのかと、勝手に想像を膨らませた。

 そして、所長は自分が生み出した否定要素を、今度は解決する方に組み立てていく。もはや何を言っているのか、俺には聞こえない。聞こえたとしても、理解はできないだろう。

 それから少しして、おそらく目途が立ったのだろうか、所長は大声で俺を呼んだ。

「よし、高梨くん! こちらの磁場強度データと、気象観測ログを全て照合してみよう!

橘さん、あなたの観測波形データをこちらにインポートしてくれ。観測条件をひとつひとつ洗い直す!」

 所長は、端末に向かい、過去数日の全データを呼び出した。

 その手は、少し震えているように見えた。年齢のせいではない。己が全力で否定した果ての結果こそ、何よりも信じられる真理があるという、科学者の性にほかならなかった。

「偶然や錯覚だと証明できるなら、それでいい。だが──もし、すべての要因を排除してなお、この言語的パターンが残るのだとしたら……」

 その先は、科学者でない俺でもわかった。それは恐らく──

 『人類は未だ見たことが無い』ものだ。


 それからというもの、所長は火がついたように猛烈な熱量で解析に没頭しはじめた。

 端末の前に張り付き、次々と補正条件を変えては波形を重ね、数値を吟味し、また戻す。まるで自らの疑念をできるだけ高く設定して、それを力づくで乗り越えようとしているかのようだった。

 橘はそんな所長の隣にぴたりと寄り添い、データを即座に提供し、解析の補助を迷いなくこなしていた。彼女の立場からすれば、本来なら軽々しく外部と研究データを共有することは許されないはずだ。それなのに、躊躇いは一切なかった。

 俺にできることといえば、過去の記録を掘り返し、要求があればすぐに手渡せるよう準備しておくことくらいだ。素人の俺が下手に口を挟めば、むしろ邪魔になるだろう。だから俺は、日常業務をこなしながら二人の背を見守るしかなかった。


 そんな折、どうしても気になって、俺は橘に小声で問いかけた。

「……橘さん、いいんですか?」

 そう、所長の勢いに押されてしまったが、何の協定もなく、研究データを受け渡すなど”良くはない”はずだった。無粋だとは感じつつも、それに巻き込むようなことをするのは憚られた。

 彼女は一瞬だけ手を止めて俺を見やり、軽く笑った。

「──いいのよ。この真相は、どうしても突き止めたいし」

 彼女も覚悟は決まっているようだった。

 もしこれが成果を上げれば、当然、厳密な検証と追跡調査が入る。その時、今やっているような非公式なデータのやり取りは必ず明るみに出るだろう。

 外部研究者に未公開データを提供したと知られれば、研究者としての信用に傷を負うのは避けられない。場合によっては、キャリアそのものに大きな影響が及ぶかもしれなかった。


 しかし、そう案じながら、俺は橘について本当のところ、ほとんど何も知らなかった。

 分かっているのは”地震予測会社ジオシグナルの研究員”という肩書きだけで、あとは会話の端々から感じた性格くらいだ。

 彼女は「地震予知のために磁場を観測している」と言った。しかし、所長も触れたように、それは決して主流の手法ではない。一般的ではない新たな研究には、莫大な時間とコストがかかるうえに、失敗の確率も高い。目覚ましい成果が出れば評価されるが、そうでなければ無駄な投資として切り捨てられるのが、民間企業の現実だ。

 それなのに彼女は、たった一人でこの獅子島に現れた。

 ひょっとすると、彼女の調査は正式なプロジェクトではなく、休暇を利用した私的なものだったのかもしれない。

 もしそうだとしたら──俺が彼女に感じたあの「軽さ」は、責任を背負っていない無頓着さではなく、自分の研究がまだ認められていないことへの、不安や自信のなさの裏返しなのかもしれなかった。


 ──気がつけば、外の窓はすっかり夕闇に沈んでいた。壁掛け時計の針はとっくに定時を過ぎている。

 それでも二人は席を立つ気配すら見せなかった。所長は無言で端末に向かい、補正パラメータを次々と試し、橘はその横で結果を即座に確認し、手際よく記録していた。

 熱に浮かされたようなその集中ぶりに、俺は少し声を掛けるのをためらった。だが、二人の体力にも限界はある。

「所長、橘さん……少し休憩しませんか」

 意を決して声をかけると、二人は一瞬だけ顔を上げたが、視線はすぐに画面へ戻った。

 ──それでも俺は続けた。

「わかりました。飲み物を淹れてきます。それと──買い出しに行きますけど……晩御飯と、あと何か欲しいものは?」

 それでも、所長は返事もせずに髭を撫で、目の前の波形から目を離さない。いつも目にしている穏やかでゆったりとした所長とは全くの別人だった。

 橘は、そんな無視された俺を気遣うように、一つ呼吸を置くと、わずかに笑ってみせた。

「……じゃあ、甘いもの。チョコレートがいいわ。きっと徹夜になるから」

 俺は頷いて、二人にお茶を出したあと、逃げるように観測所を出た。


 観測所の扉を開けた瞬間、むっとした熱気がまだ外に残っていた。

 だが室内の熱気に比べれば、頬をかすめる風にはわずかに涼しさが混じっている。二人の熱に煽られた頭を冷ますには、それだけでも十分だった。

 見上げれば、空はすでに群青の闇に沈みかけ、島の輪郭の上にいくつかの星が浮かんでいた。闇に通る波の音と、草むらを抜ける風のざわめきが、夜を連れてくる。さっきまで隣に座っていた二人の張り詰めた気配が、遠い過去のように思えた。

 俺は深く息を吸った。熱に浮かされたあの空気に長く居続けるのは苦痛だった。いや、嫌ではないが、あの場で俺にできるのは、二人が研究に打ち込めるよう、そっと手を貸すことだけだった。

 そう思うと少し情けなさが込み上げた。けれど同時に、妙な安堵もあった。

 熱狂の渦に飛び込み、やがてはその渦の中心となるような人生を送る人もいるが、俺はそうなりたいと思ったことは無いし、そういう選択をこれまでして来なかった。それに後悔はないし、今の自分が嫌いでもない。

 俺は深く吸った息を吐いた。

 湿り気を帯びた夜風が胸に染み込み、遠くで砕ける波音にあわせて、心臓の鼓動も静まっていく。

 

 その時、ふと──藤宮の顔が浮かんだ。

 まだ彼女も、この件を追っているかもしれない。報せておくべきだろうか……そう思ったが、こちらの調査もまだ途中で、どうなるか分からない。不確かな情報を投げれば、かえって混乱させてしまうだろう。結局、俺は藤宮への報告はまだ控えておくことにした。

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