第30話 名を区に ― 灯区陣の開帳

1 気配――群知の背骨が鳴る


 I層の無名回廊を「灯町」に変えてから、まだ幾度かの深呼吸しかしていなかった。更屋敷潤は鞘に触れ、抜かない所作で自分の呼吸と町の拍を一致させる。壁の内側で、砂粒が一斉に「同じ揺れ」を始めた。鼓動ではない。命令だ。無数の**群知型リンクス**が、同じ拍で肩を揺すり合い、見えない背骨をこすり合わせる。


「……来る。群れの“背骨”ごと」


 片倉沙羅が短く言い、照真は作戦盤の磁石を二つ、三つ、四つと重ねた。「群れを束ねる核がいれば、町の格子は歪む。町と町を繋いで“区”にする」


 潤は頷いた。肩で合図が一巡し、930名の呼吸が同じテンポへ収束していく。嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。三行の規則は、ここでは区民の掟に変わる。


2 戦術会議――区役所の机で


 湾岸庁舎の会議室は「区役所」と呼び変えられ、黒板には白墨で「灯区構想」が大書されていた。照真が棒を取り、三つの灯町(北・西・南)を重ねて示す。


「**《灯区陣(ハース・ディストリクト・アレイ)》**の前提は“町の自立”。ひとつひとつが自分で立ち、互いを支える。中心に殿下を置かない。**中心は“面”**だ」


 義信が持ち込んだ投射筒の図面には、家の角をなぞる繊細な回路が刻まれている。「《界膜(バリア・フィルム)》の**“縁だけ”を二重にして、広場と広場を線で結ぶ**。これで衝撃は区の骨格へ分散できる」


 俊明は航空図を投影する。上空の翼が「町」ではなく「区」の上に軌跡を描いていく。「空から見ると、通り名は細いが面の名は太い。広場=集合点、井戸=補給点、物見台=警戒点。空と地で同じ地図を共有できれば、撤収導線の精度は上がる」


 璃子は庶務表を広げ、勢いよく書き込む。「標識・掲示は区掲示板に一元化。避難誘導、炊き出し、医療、迷子対応、拾得物。……迷子!」


 青葉清澄がすぐ反応する。「区には迷子が出る。だから“迷子所”も区役所に併設。泣くのは丸、立つのは四角、食べるのは三角の図形掲示で子どもが一番に読めるように」


 桐島紗耶は秘書官チームを手際よく割り振る。「広報は区広報室。篠宮さん、記録は“撮らない時間”の方針を維持。今は戦記ではなく“区運営”が先です」


 篠宮麗華はカメラに手を触れ、わざと外す。「撮らない。――灯の角度だけ、整える」


 御園葵は胸を張る。「区の台所は拡張。鍋三口、甘味島を五箇所、塩のスープは常時温存。食は区の心拍だから!」


 氷川佳奈が真顔で追記する。「医療所は広場隣接、炊事場に歩数五以内。食卓は脈の補助具。甘味は二口で止める、深呼吸三回、肩の合図二回。順番は崩さない」


 笑いが走る。けれど、笑いは上書きに使わない。順番を守る笑いは、区の拍を整える。


 最後に静音が立つ。皇家首席魔導師の声は低く、甘い。


「潤。あなたは“真ん中の柱”ではありません。柱は家ごと、町ごと、区ごとに増える。あなたの術は、その柱どうしを柔らかい縁で結ぶもの。誰かひとりが欠けても、在るを保てるように」


「うん。僕は――区を在らせる術を置く」


3 《灯区陣》――面が寄せ合う音


 I層の中心へ戻る。昨夜の「灯町」三枚が、それぞれ薄い呼吸を続けていた。潤は掌を床・天井・壁に広げ、呼吸の拍をもう一段、広域のテンポへ引きのばす。


「融合術式(シンセシス)――《灯区陣(ハース・ディストリクト・アレイ)》」


 点だった灯が線になり、線が格子になり、格子が網になり、網が布になる。布と布が擦れて、面が寄せ合う音が聴こえた。桐島が即座に読み上げる。


「中央集会“灯区広場”。北町=一丁目西町、西町=二丁目北町、南町=三丁目南町。三町を灯区として登録!」


 青葉は区掲示板を立て、「嘘をつかない/弱さを笑わない/合図を忘れない」の三行を一番上へ。子どもの字を重ねて太くする。「迷子はここに集合」「泣きたい人は丸」「笑いたい人は□」「食べたい人は△」。


 義信は投射筒で、家々の角に《界膜(バリア・フィルム)》の縁を薄く貼り、各広場の円周に弱い弾性を持たせる。「衝撃は角で二つに割って、区の骨格へ逃がす」。片倉は《氷縫(アイス・ステッチ)》を壁の目地に見立て、一筆ごとに拍を通す。「凍らせない。呼吸を通すための縫い」


 俊明の翼が上から影を落とす。「区上空、視認良好。灯の面を目印に空輸可」。璃子は「区民票(仮)」と書かれた用紙を配り、「名は在るの最初の手続き」と笑わせる。


 御園は台所で鍋を叩く。「炊事開始! 甘味島、広場・表通り・裏通りに三箇所。蜂蜜湯・塩スープ・甘いおにぎり!」

 氷川は医療所の幕を張り、「脈、呼吸、肩合図――三点同調」。篠宮は灯の角度を半段階落とし、「撮らない」を唱えて、光の反射だけを整える。


 潤は刃に触れ、まだ抜かない。名は刃より先に置く。区の布は、もう張られている。あとは、背骨が来たときのために、拍を落ち着けておく。


4 出現――群知王リンク・ロード


 地の底をこする音が、唐突に「列」になった。蛇ではない。鎖だ。十、二十、三十と連なる頭部。ひとつひとつが《リンクス》の頭で、首の代わりに思考の管で繋がっている。体長三十メートル、背丈十メートル、側面は無数の目で光の向きを読み替える。


「……群知王リンク・ロード


 片倉が名を与えると同時に、群れ全体の拍が一段上がった。名に寄ってくるのだ。名は結びであり、敵にも喰える。


 《リンク・ロード》が無音で吠えた。声はないのに、命令の列が一斉に町の格子へ流れる。下位の《リンクス》が縦列・横列・斜列を瞬時に組み替え、角を狙って進路を切る。通りの名を道徳のように無視する、強引な「思想道路」。


「区境、歪みます!」


 見張りの肩が跳ね、旗が二度振られる。潤は胸の奥で拍を一段落とし、面の布に重しを置く。


「《灯区陣》、面荷重を上げる。町と町で互いを支える**!」


 A~D班が一丁目西町の角に集まり、E~H班は三丁目南町の裏通りで弾性の網を張る。I~M班は灯区広場を要に、救護・補給・掲示・甘味の四つの輪を同心円に重ねた。区は、単一の防壁ではない。四重五重の生活の輪だ。


5 区の総力――町が町を守る


 《リンクス》の前衛が、一丁目西町・二番角に肩を押し当てる。義信の《界膜》は角で力を二分割し、片倉の《氷縫》が目地へ逃がす。角は折れない。折れない角は、区の歯車だ。


 D班の投槍が斜角で入り、E班の魔導矢は名の線上でのみ放たれる。名の外に撃たない。名の外に撃てば、名が薄まるから。C班は《界膜》の縁を路地の曲率に合わせ、F班は後列で槍を受け継ぐ手の呼吸を揃えた。


 裏通りでは、《ファントマ》の嘘がまだ薄く漂っている。地面が深く見え、足がすくむ。青葉が掲示を足元に置いた。子どもの字で「ここが地面」。笑いが少し漏れる。笑いは上書きに使わない。けれど「ここが地面」は、視覚より速く足裏に効く。


 潤は風を縁だけ通す。


「《折風(ウィンド・スラッシュ)》、縁払」


 風は地面を切らない。嘘の縁だけを払い、触覚の地面に権利を返す。払われた縁に義信の《界膜》が薄く沿い、片倉の《氷縫》が**“冷たさではなく拍”で目地を補強する。D班の投槍が関節を刈り、E班の矢が名の上**で関節を留める。


「合図! 三歩に一回!」


 氷川の声。肩の二連打が路地から広場へ、広場から表通りへ、区全域へと伝播する。合図は生活の速度だ。生活の速度で戦えば、長く強い。


 御園の鍋から塩の香り。蜂蜜湯の湯気。甘いおにぎりの米肌。氷川が脈を押し、「二口で止める」。御園は「台所=区心臓!」と胸を張る。笑いが起きる。笑いは、順番を守って起きる。順番を守る笑いは、在るを太らせる。


6 背骨の策略――思想道路の敷設


 《リンク・ロード》の胴が斜め四十五度へ傾いた。思想の道路が、格子を対角線に走る。角ではなく、角の中点を狙う動きだ。名の線をすくい上げ、名を“線から点”に戻して噛もうとする。


「中点、補強!」


 照真の号令で、A班とC班が角の中点へ走り、B班は角へ残って二重の三角形を作る。義信の《界膜》が中点の楔になり、片倉の《氷縫》が三角の目地を二重に縫い止める。F班は投槍を受け渡す手を入れ替え、出力の波を区の拍に合わせた。波が揃うと、受け継ぎは疲れない。


 潤は**《絞針(スレッド・ニードル)》を空へ向け、刺さないでほどく方向へ打つ。思想道路の結び目がほどけ、下位の《リンクス》の足が半歩遅れる。半歩の遅延が、面では一息ぶんの余裕**になる。余裕は命だ。


 《リンク・ロード》は考える。連結した頭部が一斉に傾き、次は広場を狙って直進する。区の心臓を伸ばした指で突く。広場の輪は四重に重なっている。食事、医療、掲示、甘味。順番が崩れれば、拍が崩れる。


「広場、最優先で守る!」


 I~M班が一斉に広場の縁へ。義信の《界膜》は円周をなぞり、片倉の《氷縫》は同心円に目地を重ねる。青葉は掲示に**「ここで泣いていい」と大書し、子どもの字を上書きさせる。泣ける場所が名を持つ。泣ける名があると、泣きたい呻きは叫び**にならない。叫びは、隊列を乱す。泣くは、隊列を守る。


 潤は、まだ刃を抜かない。刃より先に、名を置く。


「――おまえは《群知王(リンク・ロード)》だ。区に入った王は、区の規則に従え」


 名を呼ばれると、敵の拍が半拍だけ遅れた。名は、縄だ。敵にも結び目を作る。そこへ《氷縫》の目地が絡み、《界膜》の縁がやわらかく添う。《絞針》は結び目をほどく方向で、群れの命令の列を切り離す。


7 五分主役 ― 区仕様


 北町のA班は角の歯車を守り、B班は中点の楔を足で押さえる。C班は連絡路で旗を回す。D班は投槍の波を呼吸に合わせ、E班は名の線を外さない狙撃に徹し、F班は補助射撃で間を埋める。G班は救護で脈を揃え、H班は運搬路で担架の速度を区の歩幅に合わせる。I班は広場の輪の内周、J班は外周で旗と灯火を重ね、K班は掲示の差し替えを、L班は迷子所で名前を呼び戻す。M班は甘味島の補給で、笑いと呼吸の順番を守る。


 五分主役の輪は、町のときよりさらに多重化している。輪が輪を支え、支えられた輪が新しい輪を作る。区の器は、輪の重ね描きだ。


8 すり抜ける頭 ― 区名の網で捕る


 《リンク・ロード》の頭部が二つ、地表スレスレで滑り込み、家と家の境を舐める。境は名の薄い場所だ。そこから思想道路を延ばして、裏通りへ抜け道を作るつもりだ。


「境、呼べ!」


 潤の声に、930名が一斉に境の名を呼ぶ。「一丁目西町・三と四のあいだ!」「裏通り一番と二番のあいだ!」 名は面だけでなく、あいだにも置ける。あいだの名は、縁だ。義信の《界膜》が縁に沿い、片倉の《氷縫》が縁を結ばずに並行で走る。結ぶと固くなる。固くなると折れる。並行の縫いは、しなって戻る。


 《リンク・ロード》の頭が、初めて止まった。止まるのは「考える」ためだ。考えるものは、名に弱い。名が思考の足場になる。足場がこちらの区名でできてしまえば、敵の考えは区の中で回る。回っているあいだに、区の拍で上書きできる。


 潤は刃を一寸抜いた。座敷の礼、町の礼、区の礼。抜く所作は帰る所作、戻す所作も帰る所作。帰る所作を重ねながら、斬る角度を決める。


「《折風(ウィンド・スラッシュ)》――“区名”の線に沿わせる!」


 風は名の線を滑り、頭と頭の連結部の「ほどけ目」に沿って入る。切れた。連結の一部が遅れ、命令の列にノイズが混じる。片倉の**《氷縫(アイス・ステッチ)》が“冷やす”のではなく、「息を通す」ために目地を置く。連結は過呼吸を起こし、命令の列が息切れする。そこへ《絞針(スレッド・ニードル)》が「結び目をほどく向き」で軽く触れ、命令の分岐点**をほぐす。


「今!」


 照真の指が二度叩かれ、D~F班の投槍線が一斉に前へ、E班の魔導矢が名の面の上でだけ放たれる。《リンク・ロード》の胴がたわんで、灯区広場の縁で居心地悪そうに身をよじった。


9 区の祈り――呼吸の合唱


 広場の輪が、静かな合唱を始めた。歌ではない。規則の三行を、子どもの声、大人の声、年寄りの声で、それぞれのテンポで繰り返す。


「嘘をつかない」

「弱さを笑わない」

「合図を忘れない」


 文字は短いのに、意味は長い。規則は区歌になった。合唱は、区の拍をそろえる。そろった拍は、名を濃くする。名が濃くなると、在るは太くなる。太い在るは、噛まれにくい。


 潤は胸の内で、祖母の指先の温度と、港の味噌の匂いを重ねる。家、町、区。どれも匂いがある。匂いのある器は、夜に強い。


「《灯区陣》――呼吸、ひとつ」


 区全域の灯が、同時に短く明滅した。合図の肩が二度叩かれ、甘味が二口で止まり、深呼吸が三回、そろう。思想道路は、生活の拍に勝てない。


10 区界衝――名で縛り、名で断つ


 《リンク・ロード》の連結が半分ほど解けた。だが、背骨はまだ太い。潤は鞘に刃を戻し、もう一度だけ抜く所作で呼吸を整える。抜く――半寸。戻す――半寸。最後に、一寸。


「《融合術式(シンセシス)》――《神滅陣・区界衝(ゴッド・ディストリクト・インパクト)》!」


 名の面が刃の鞘になり、刃は区名で導かれて連結の核の核へ入る。風は縁を払って入り口を作り、氷は目地を通して熱の暴走を逃がし、針は結び目をほどく。神滅の語は重いが、やることは帰るための所作の延長だ。帰るために切り、帰るために縫い、帰るためにほどく。


 刃の一寸が、区の名で太くなる。930名の拍が面として刃に乗り、灯区が刃の柄を握った。


「――切れ」


 声は小さくてよい。名が大きいから。


 《リンク・ロード》の背骨が、区境で二つに割れた。割れ目は「破壊」ではなく「呼吸口」になり、命令の列は区の排水に乗って外へ流れる。思想道路は、生活道路に変換された。


 群れの前衛の足が止まり、後衛が遅れて崩れた。崩れるのではない。ほどけるのだ。ほどけた糸は、名の網にからんで、ただの影に戻っていく。


11 なおも試す――広場直撃の一手


 背骨を断たれた《リンク・ロード》は、最後に広場を直撃する一手に賭けた。残った連結が槍の形になり、灯区広場の台所と医療所の間を狙う。順番を崩せば、拍は乱れる。乱れれば、区は崩れる。


「来る!」


 御園は鍋蓋を掴み、氷川は担架を片手で持ち上げる。ふたりは同時に笑った。「台所と医療は、並びで強い」。御園の鍋蓋が反射板になり、光が連結の目を一瞬だけ眩ませる。氷川の担架が楯になり、名の線の上で角度を作る。


 潤は一寸でよいと判断した。一寸だけ刃を入れ、《折風(ウィンド・スラッシュ)》で連結の縫い目に沿わせる。《氷縫(アイス・ステッチ)》が拍の延長で縫い止め、《絞針(スレッド・ニードル)》がほどく向きで糸口を引く。義信の《界膜》は縁だけを薄く添え、片倉の目地は冷たさゼロで呼吸を通す。


 槍は、槍でなくなった。ただの影の棒になり、広場の同心円の外で崩れた。


「広場、生存! 順番、維持!」


 桐島がホワイトボードの区民笑顔ポイントの□の横に、小さな点を置いた。「塗るのは地上」。篠宮は灯の角度を半段階落とし、「撮らない」を保ったまま、影の濃さだけを調整する。


12 終息――区の呼吸が残る


 《リンク・ロード》の残骸は黒い霧になり、区の名で織られた布に吸い込まれて消えた。下位の《リンクス》は命令の列を失い、三々五々、角でほどけ、路地で消え、裏通りで薄れた。


 御園が鍋を掲げ、「区の台所、いったん閉店!」。氷川が「区医療所、全快」と冗談めかし、青葉は区掲示板に太字で書いた。「帰る区」。璃子は「区民票(仮)・収容完了」とメモし、俊明は上空へ「区上空、脅威消失」を送る。義信は整備簿に「角の負荷分散・良好/中点・要再検討(次回補強案)」と書き、照真は作戦盤の端に太い二重線で囲む。「灯区、確保」。


 潤は刃をゆっくり鞘に戻した。戻す所作も帰る所作。鞘鳴りはしない。けれど、拍はある。規則の三行を心で唱える。嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。区になっても、変わらない。


 静音が近づき、潤の額に指を置いた。ほんの一息だけ術を落とす。「眠りの前の合図」。眠らない。けれど、眠れる。


「よくできました。町を区に。区を在らせました。――次は“市”。けれど急がずに」


「うん。面を重ねて、拍を落とし、帰る道を先に敷く」


13 撤収――面を畳み、灯を残す


 石動剛志が作戦盤を閉じる。「今日はここまで。勝ち過ぎないで帰る。帰る道を太く」


 退きの列は、前進のテンポそのままで動く。A~D班が角を後ろへ滑らせ、E~H班が中点を補強しながら退き、I~M班が広場の輪を小さく濃く保ったまま移動する。J~M班の旗は「一丁目西町→灯区広場→H層踊り場」と区名で矢印を描き、青葉の掲示が子どもの字で追いかける。「おかえりはこっち」。迷子所は最後まで灯りを消さない。迷子の名を呼び続ける。


 区の布は、全部は畳まない。帰る灯は残しておく。残した灯は、次に行く道になる。畳んだ灯は、持ち帰る家になる。


14 踊り場――ただいま、と港の匂い


 H層の踊り場。静音が掌の灯りを一度だけともして消す。「区、誕生。――おかえり」

 潤は笑った。「ただいま。まだ途中だけど」


 巌はいない。けれど、声が聞こえるみたいにして胸が応じる。「説教は帰ってからだ。長いやつだ」

「その前に、おにぎり」

「ある。甘いのも」


 璃子が保温箱の蓋を開け、湯気が冷えを追い払う。御園は「帰港で三種」と勝手に決裁し、氷川は二本指を立てて「今は二口」。桐島はホワイトボードの区民笑顔ポイントに小さな点を置き、「塗るのは地上」。篠宮は灯の角度だけをわずかに整え、「今は撮らない」。照真は作戦盤に「灯区→灯市」の矢印を添え、義信は整備簿に「区向け縁・安定」と記す。俊明は上空へ「撤収導線・区名で安定」を送る。


 潤は勲章に触れ、そっと手を離した。勲章は音を立てない。けれど、響きはある。氷原、海、地下、街、町、区。どこでも、帰る拍は同じだ。


15 市への布石――名の地図を折りたたむ


 湾岸庁舎に戻り、区役所の机に地図を広げ直す。照真が三つの区画を二つ折りにして重ねた。「区が三つ集まれば、市だ。だが、空白を埋めるのではない。空白を空白として在らせる地帯が必要になる」


 片倉が頷く。「無名をゼロにするのではなく、“名の外郭”を敷く。在ると在らざるの境界を穏やかに」


 義信は角と中点の補強案を再設計し、「区境の緩衝縁」を追加する図を引く。俊明は「市上空」を想定した空輸経路を薄線で引き、璃子は市役所の庶務一覧を作り始める。青葉は「市民掲示板」の標語案を考え、「帰る市/集まる市/笑う市」と書いて照れ笑いする。御園は「市の大台所」の鍋の大きさを両手で示し、氷川は眉を上げた。「……それ、戦術核くらいの容量ありますよ?」

 笑いが大きくなる。笑いは、町から区へ、そして市へと拍を渡す橋だ。


 静音が最後に潤の肩を叩く。「急がず、家の拍を忘れないこと。市は“家が集まった面”ではなく、“家に戻れる道が多い面”。あなたの術は、道を増やすためにある」


「うん。道を増やして、帰る」


16 エピローグ――区の灯は、まだ温かい


 撤収列はF層からE層へ、E層からD層へ。名の灯は薄く明滅し続け、掲示の紙は角で揺れながら在るを示す。港の風は、味噌と潮の匂い。旗艦青潮の甲板には、桟橋の影が伸びている。


 石動の総括は短い。「帰還導線、生存。灯区、残存。群知王、陥落。――次段、灯市の器を設計」


 潤は規則をもう一度だけ唱え、呼吸の最後に短く付け足した。


(全員で、帰る)


 区の灯は、まだ温かい。名がある。拍がある。家の匂いがする。だから、また降りられる。降りて、名を置き、面を敷き、帰る道を増やす。

 夜は完全には去らない。けれど――ここはもう、夜ではない。



これにて『魔法男子は珍しい世界で!!』第1部完結です。

他の作品の更新を優先するため、しばらく本作はお休みしますが、反響があれば第2部として再開します!

ここまで応援ありがとうございました!


――――


【本話で使用した発動名】

《融合術式(シンセシス)》《灯脈陣(ハース・パルス・アレイ)》《灯街陣(ハース・ストリート・アレイ)》《灯町陣(ハース・タウン・アレイ)》《灯区陣(ハース・ディストリクト・アレイ)》《界膜(バリア・フィルム)》《氷縫(アイス・ステッチ)》《絞針(スレッド・ニードル)》《折風(ウィンド・スラッシュ)》《神滅陣・区界衝(ゴッド・ディストリクト・インパクト)》


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魔法男子は珍しい世界で!! 桃神かぐら @Kaguramomokami

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