第26話 アヴァロン・デプス ― 東京湾地下要塞戦
1 寄港――甘い風と、やわらかな出迎え
夜明け前の港に、
「潤!」
最初に抱きしめたのは、更屋敷 巌。国防大臣兼ディザード対策相の肩口は軍服の固さがあるのに、抱擁は驚くほどやわらかかった。顔を離して、額に手を当てる。
「熱はない。よし。……よく戻ったな」
「ただいま、おじいちゃん」
その横で、叔父の更屋敷 照真(陸軍参謀本部長官)が苦笑している。「抱きしめ過ぎで息ができんぞ、親父」。更屋敷 義信(海軍技術本部長/魔導兵装開発総責任者)は工具箱を脇に置き、「新しい緩衝陣、試させてくれ」と半分仕事、半分心配の顔。更屋敷 俊明(空軍幕僚監部長官)は空を見上げてから、丁寧に頷いた。「上空は空軍で塞いでいる。心配いらん」。更屋敷 璃子(魔法省・庶務局長)はでっかい保温箱を両手に、「まずはおにぎり。甘いのもある」。更屋敷 美羽(高等部)と更屋敷 蓮(シベリア候補生)は両端で「兄さまの荷物は私が!」「いや僕が!」と譲らず、更屋敷 杏奈(国際協力局)は書類を抱えて小走り、「受け入れ手続きは全部通しておいたから、潤は笑ってるだけでいいからね」。
そして、そこに静かな足音が重なる。薄墨色の羽織。白髪に近い銀の髪を上で結い、黒曜石のような瞳がまっすぐ潤をみつめる。
「潤」
東 静音――皇家首席魔導師。母方の祖母。日本に在る“盾”の柱。
「よく、生きて帰ってきました」
「うん。みんなで、ね」
静音は微笑むと、掌をかざし、小さく淡い護りを潤の胸元に落とした。音もしない膜。術の香りは、母・真澄の残り香に似ていた。
「あなたが笑えるように、ここは整えてあります」
その言葉だけで、港の灯りが少し近くなったように思えた。東 雅臣(外務大臣代理)や東 真理絵(外交安保研究所)ら母方の親族も控え、政治の線を背後で固める。だが誰ひとり、軍人の硬さで潤を扱わない。ここは、甘い風が吹く岸だ。
930名の学生たちも次々にタラップを降りる。市民の拍手は小さく、しかし長い。篠宮麗華は「今日は“撮らない時間”」と宣言し、桐島紗耶は「笑顔ポイント(寄港)」の欄に丸を置く。御園葵が保温箱を開け、「まず甘味、次に作戦」と合図する。規則は、ここでも優先順位を決める――嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。合図いちばんが甘味、でいい。
2 作戦会議――アヴァロン・デプスの地図
湾岸庁舎の作戦室。壁面一杯に拡張された地図が投影される。東京湾人工島群のひとつ――戦前に国際共同で建造された多層地下要塞、それが**「アヴァロン・デプス」**だ。国連が崩れる直前に遺した最後の“盾”。しかし盾は、穴を開けられれば漏斗になる。
照真が指揮棒で層を示す。「地上から下へ、A~H層。Aは港湾整備、Bはエネルギー、Cは旧研究区画、Dは交通接続(旧地下鉄・貨物動脈)、E~Gは避難壕・生活圏、最深Hは“アヴァロン核”。問題はD~F層における多種混淆だ」
璃子が端末を切り替え、映像と注記を流す。
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さらに、最深H層では
義信が机に金属筒を置く。「新開発の可搬式・低出力安定陣投射筒。狭所でも《界膜(バリア・フィルム)》の“縁”だけを貼れる。殿下の術式と干渉しない周波数帯で作った」
俊明は航空偵察図を示し、「上空の避難導線は空軍が確保。地上からの撤収ポイントを三つ。“帰る道”を先に敷く」
巌が最後に言う。「目的は三つだ。一、地下の“巣”の焼却。二、避難壕の人々の安全確保。三、H層“核”の調査。必ず全員で帰れ。……以上」
静音が視線で潤を呼ぶ。
「潤。規則を」
「嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。――この三つで、地下でも帰ります」
930名が一斉に頷き、小さく肩で合図を返し合う。合図が回る速さが、すでに勝率だ。
3 潜入口――地上から下へ、呼吸をそろえる
アヴァロン・デプス北側、旧メンテナンストンネル。鉄扉が開き、冷気が肺へ降りる。懐中灯の円が重なり、階段の一段目が柔らかな影を持った。片倉沙羅が掌で術の糸を寄せる。
「地下は、視覚より触覚で合図。掌、肩、足首。呼吸は長く、足音は一定、テンポは一二〇……よし」
青葉清澄が避難案内掲示を貼る。「“弱さを笑わない”の文言は文字にして掲示。子どもの前では特に」
氷川佳奈は救護班を割り、「過呼吸の兆候は肩で分かる。呼気に柑橘の微香を混ぜる」。
篠宮はカメラをしまい、「撮らない時間」を宣言。御園は「甘味、入口で一口、D層で一口、E層で一口」と配分計画を示す。
桐島は「本日の笑顔ポイント(地下)」の欄に小さな□を描き、「帰還時に□を塗りつぶす」と言った。最初から塗らないのは、帰るつもりがあるからだ。
潤は階段の一段目に足を置く。甲板とは違う、石の固い拍動。だが拍はある、海と同じだ。**《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》**の“潮”を“地脈”に置き換えるイメージを胸に置く。星は上、地脈は下。呼吸は真ん中で往復する。
「行こう。全員で」
肩の合図が一巡し、灯が揺れずに列が動き出した。
4 D層――砂礫帯、潜む牙
D層。砂礫と砕石が混じる薄暗がり。古い地下鉄の側壁に沿って、細いダクトが縦横に走り、どこからでも腕が伸び得る風景。最初の合図は足裏から来た。地面の“息”が、半拍ずれる。
「来る」
次の瞬間、砂が弾けて**《バロワー》**が飛び出す。殻の表面は湿った砂で磨かれ、牙が鈍い光を返す。離脱前提の刺突が、脚を狙ってくる。
「後退させない」
潤は一歩踏み込み、刃を寝かせる。
「《折風(ウィンド・スラッシュ)》」
風の刃が砂の幕を剥ぎ取り、牙の基部だけを軽く撫でる。撫でただけで、力の流れが変わる。そこへC班が
「《界膜(バリア・フィルム)》、縁!」
膜の“縁”だけを牙の進路に置き、力を逸らす。逸れた牙にD班の投槍が斜角で入り、E班の魔導矢が関節を留める。
「潜り直す!」
砂が開き、別個体が背後へ。G班の合図が肩から飛ぶ。潤は足幅を変えず、刃先だけを返した。
「《絞針(スレッド・ニードル)》」
見えない針が軌跡の最後でだけ光り、潜行の“半拍前”を刺し止める。潜れなかった《バロワー》は砂上で体勢を崩し、そこへ**《氷縫(アイス・ステッチ)》**が縫い線を走らせ、動きを落とした。
リンクスの微かな“合図”が砂に伝わる。群知の波。石動の指が二度だけ空を叩く。「追わない」。追うと、狭所の罠に連れていかれる。甘味の合図が回り、紙カップが二口で止まり、呼吸が三回深くなる。
5 E層――避難壕、嘘の地図
E層――旧避難壕。コンクリの匂いに人の生活の匂いが混じる。絵本、割れたマグカップ、壁に刻まれた身長線。ここで足を止めると、心が沈む。だから止まらない。だが、止まらないで見えるものもある。
「地図、嘘を吐くよ」
先頭の斥候が呟いた。交差する通路の一本が、視界では右に折れているのに、足裏の“息”は左を示す。壁が微かに波打つ。
「**《ファントマ》**の幻。嗅覚と触覚優先」
片倉が掌をかざし、**《界膜(バリア・フィルム)》**を薄く通路に流す。膜は幻に引っかからない。引っかからない道が“本当”だ。青葉が子ども用の掲示を壁に貼る。「嘘をつかない」――この言葉は通路にも効く。
突然、吹き抜けに入った空気が割れた。《スクリーマー》。音が空間の形を変える。耳だけ塞いでも無駄だ。腹腔、骨伝導、光、記憶――いろんな入口から心に手を突っ込んでくる。
「頭を下げず、肩で合図!」
氷川の声。肩に触れる。肩を叩く。リズムは一二〇。音に音で上書きしない。触覚で上書きする。潤は刃を立て、音の縁を切る角度を探る。
「《折風(ウィンド・スラッシュ)》」
風の刃は音を切らない。音の“器”を割る。吹き抜けの形が一瞬変わり、響きが逃げる。響きが逃げた穴へ、E班の魔導矢が**《スクリーマー》**の喉を射抜く。
篠宮が息を吐く。「今は撮らない」。御園が紙コップを差し出す。「二口で止めて」。笑い声は上書きに使わない。ここで笑うと、幻が寄ってくる。**「弱さを笑わない」は、「無理に笑わない」**の意味でもある。
6 F層――群知の網、家族の手
F層へ降りる階段の踊り場で、静音が小さく手を上げた。ここまでは同行していたが、これより先は“家族の役目”と“皇家の役目”を分ける境界らしい。
「潤。――あなたは、あなたの呼吸でみんなを連れて行きなさい。私はここで“帰る道”を守ります」
「うん。帰る」
静音は潤の頬にそっと手を添え、笑った。厳格ではない。けれど強い。巌も踊り場に立ち、肩をぽん、と叩く。「戻ってきてから説教だ。長いやつだぞ」。口ではそう言いながら、目は完全に甘い。叔父叔母従妹たちも、口々に短い合図を送る。帰れ。笑え。食え。寝ろ。どれも軍令で、どれも家庭内ルールだ。
F層――生活圏の残骸と群知**《リンクス》**の罠。角に角を重ね、視界に視界を重ね、別の自分たちが曲がり角の先に見える。追えば、交差点の中央で挟まれる。
「追わない」
石動の指がまた二度。潤は頷き、足を進めずに**《氷縫(アイス・ステッチ)》を床に走らせた。縫い目は床の振動を拾って、“向こう側の足音”の位置を可視化する。可視化された位置に、《絞針(スレッド・ニードル)》が音なく落ち、群知の一部がほどけた。ほどけた瞬間、《リンクス》**たちは“作戦”を失い、ただの群れに戻る。群れは強い。だが作戦のない群れは、もっと弱い。
青葉の掲示が効く。「合図を忘れない」。曲がり角ごとに合図板が立ち、色と形で“いまの自分の位置”を握らせる。幻と嘘を剥がすのは、**“自分のいる場所の確かさ”**だ。自分のいる場所は、家族に触れられた頬の温度で、確かになる。
7 G層――甘味の島、眠りの準備
小さな広間を選んで、円になった。戦闘の合間の“家庭”。紙コップが並び、蜂蜜湯が湯気を上げる。御園は残量を計算し、「帰還時の甘味を最優先」。桐島は予定の欄に**“休む”**を大きく書く。篠宮は灯りを半段階落とし、「撮らない」をもう一度宣言。氷川は脈を取り、「良い。甘味を二口、深呼吸を三回」。
潤はコップを持ち、熱で掌の感覚を取り戻す。星の拍はもう見えない。代わりに、地脈の拍が足裏から手首へ上がってくる。海で編んだ《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》は、ここでは形を変えるべきだ。星と潮――今は、灯(ともしび)と地脈。上と下の拍ではなく、近くと遠くの拍。狭所で人の呼吸を乱さない、柔らかい器。
(“家”の拍を、地下に作る)
胸の奥で言葉が形になる。
8 H層手前――領域の噛み跡
H層へのシャフトは、冷たい。空気の温度よりも、空間そのものの温度が低い。光が吸い込まれて、戻ってこない“欠落”が壁面に残る。
「**《アビサル》**の“噛み跡”だ」
照真の声は淡々としているが、指先の角度は戦を知る者の角度。ここから先は、虚無領域が発生する可能性。通常の術は削がれる。だから先に器を用意する。
「潤。――“家”を、ここに置けるか」
石動の問いは、命令ではなく、願いに近かった。潤は頷く。掌に息を集め、胸の中で母の声と祖母の手の温度を重ねる。帰る道は、最初に敷く。帰る家は、最初に建てる。
「融合術式(シンセシス)――《灯脈陣(ハース・パルス・アレイ)》」
甲の皮膚のように薄い光が、通路の壁、天井、床に点として灯る。点は拍で繋がり、拍は**“眠りの前の呼吸”に同調する。《界膜(バリア・フィルム)》は縁だけを細く。《氷縫(アイス・ステッチ)》は冷たさでなく、“落ち着き”の線で。《絞針(スレッド・ニードル)》は痛みを穿たず、幻の接合を解く**方向に。
片倉が軽く目を見開いた。「……術式の“目的”を書き換えたのね。“守るために攻める”から、“帰るために在る”へ」
「うん。ここは“戦場”だけど、“家”でもあるから」
静音が踊り場から静かに頷く。「それでこそ」
虚無の“欠落”が、少しだけ居心地悪そうに身じろいだ。空間そのものが、侵入者になった気分だ。灯りは、夜を追い出さない。夜に、自分たちの席を作る。
9 初対峙――虚無の縁で
H層の縁に、黒い皺が走った。空気の厚みが、指一本ぶん削られる感触。そこに、**《ファントマ》**が薄く重なる。幻と虚無の合奏。音はないのに、心の奥に“降りる階段”ができる。
「下りない」
潤は呟き、刃を鞘から半寸だけ抜く。抜く所作は、帰る所作のひとつ。帰る所作を、戦いの最中に繰り返す。身体は帰り道を忘れない。
「《折風(ウィンド・スラッシュ)》」
風は虚無に通用しない。だから風で虚無の縁を撫で、縁の“手触り”を取り戻す。縁が**“触れるもの”に戻った瞬間、《界膜(バリア・フィルム)》の縁がそっと沿い、《氷縫(アイス・ステッチ)》の線が呼吸の温度で縫い止める。《絞針(スレッド・ニードル)》**は刺さない。結び目をほどく方向に打つ。虚無は“結び”を嫌う。ほどく動作が、虚無の“口”を閉じさせる。
《リンクス》が虚無の縁を利用しようと、左右から回り込む。だが《灯脈陣(ハース・パルス・アレイ)》の点拍が、一団の“作戦”の拍を乱す。家の拍は、戦の拍より強い。人が眠る前の呼吸の拍は、幻を眠気に変える。
「今は、追わない」
石動が合図を手短に。帰還導線は生きている。虚無の縁は後退している。いまは“家”を広げる時だ。H層への本突入は、家を携えて入る。
10 帰る合図――“今夜はここまで”
篠宮が灯りをさらに半段階落とし、「撮らない」を三度目に宣言。桐島は“笑顔ポイント(地下)”の□に、鉛筆の芯で小さく点を置く。「塗りつぶすのは地上で」。御園は残量と帰路の距離を見比べ、「帰ったら甘いものは三種」。氷川は頷き、「今は二口で止める」。青葉は掲示を追加する。「帰る道」の矢印。義信は投射筒の残出力を確認し、「十分」。俊明は上空待機の時間を計算し、「余裕あり」。照真は地図を閉じ、「次に備える」。
巌が、潤の肩にもう一度手を置いた。「戻ってきてから、説教だと言ったろう? 長いやつだ」
「うん。その前に、おにぎり」
「あるとも。甘いのも、ある」
静音は潤の額に指先を置き、ほんの一息だけ術を流した。「眠りの前の合図」。それは戦術だ。眠りは、次の戦いに対する最大の準備だから。
潤は深く息を吸い、吐く。規則の三行を心で唱える。嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。
この地下にも、家の拍は敷かれた。**《灯脈陣(ハース・パルス・アレイ)》**は薄く灯り、帰る道はここから地上まで、点と点で繋がっている。
(全員で、帰る)
誓いは変わらない。海でも、氷原でも、地下でも。帰るために戦い、戦うために“家”を持ち込む。その作法を覚えた者だけが、長い戦争を乗り切れる。
今夜はここまで。次は、H層の“核”――虚無の牙の根元へ。家を携えて、降りてゆく。
⸻
本話の発動名
《折風(ウィンド・スラッシュ)》《氷縫(アイス・ステッチ)》《界膜(バリア・フィルム)》《絞針(スレッド・ニードル)》《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》《融合術式(シンセシス)》《灯脈陣(ハース・パルス・アレイ)》
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