第25話 第二波 ― 深き群れの咆哮

1 夜間当直――星潮の下で


 夜の甲板は、音の層でできている。波が舷を叩く音、帆柱が風を受ける低い唸り、索具が金属に触れて小さく鳴る規則的な高音、遠くで空軍機の航過音。そこに人の呼吸が混ざって、ひとつの大きな拍動になっていた。

 更屋敷潤は当直班に加わり、舷側の冷たい手すりに掌を置く。掌の下で、船体の細かな震えが《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》のテンポにいまだ合わせられているのを感じた。昼の戦いから張りっぱなしの術を、片倉沙羅が薄く、しかし丁寧に維持してくれている。


「眠い?」と、隣で旗手の少女が囁く。

「平気。眠気は、帰ってからまとめて」と潤。

 少女はうなずくと、肩で合図を一回。甲板の端から端まで、その合図を受けた者が、同じ強さのうなずきで返す。声を要らない夜の合図。氷原の吹雪の中で磨かれた技法は、海の夜でも有効だった。


 保温箱の蓋が、風に負けない角度で静かに開く。砂糖水の湯気が立ち、蜂蜜の香りが甲板の塩味にやわらかく重なる。G班の少年が紙コップを差し出し、「二口で止めて」と笑う。

「ありがとう」

 飲むと、昼間の緊張が喉の奥でゆっくりほどける。蜂蜜の甘さは、背中の筋肉を解くほうにまで回っていく。


 無線が小さく鳴って、黒瀬義鷹空軍大臣の低い声が入る。「上空、薄雲。星はよく見える。殿下、約束どおりだ」

 見上げれば、星は風の筋に沿って、夜の海図のように散っている。星の点と点を結ぶ線は、波の稜線と一致したりズレたりしながら、それでも次第に合う方向へと寄っていく。《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》の薄い揺り籠が、甲板の足裏から膝、腰へと伝わり、呼吸がそのまま船の呼吸に重なる。


 石動剛志参謀総局長は、夜の報告書に短く書き込む。「当直、規則遵守、合図良好」。桐島紗耶は“本日の笑顔ポイント(夜間)”の欄に小さな丸を置いた。丸は、眠りの合図でもある。

 潤は、胸の勲章に軽く触れてから手を放す。胸の重みは、眠気を呼ぶ。眠気は、恐怖を薄める。恐怖が薄まると、判断が澄む。甘味と眠気は、盾になる。


2 予兆――呼吸のずれ


 そのときだった。ソナー室からの短いチャイムが一度だけ鳴り、直後に音が消えた。消えたことが、鳴ったのと同じくらい大きかった。

 見張りの少年が身を乗り出し、笛を三つ。短・短・短。規則と同じ数。

「前方深度、反応複数。……速い」

 声の高さが半音上がる。

 天城蒼一が艦橋で静かに言う。「舵、半から微。陣形崩すな」

 黒瀬の声が重なる。「上空、高度を一段落として護衛線を濃くする。夜目の悪い個体が上がってくる可能性」

 片倉が術式の糸をすくい上げる。「《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》、縁を広げます。呼吸の“ズレ”を先に吸収しておく」

 石動は作戦盤に、白い磁石を三つだけ動かした。たった三つで、930名の動線が少しずつ変わる。


 波が、さっきまでの呼吸から、半拍だけずれた。ずれた呼吸は眠りを破る。眠りが破れれば、夜は深くなる。深い夜は、牙をよく隠す。

 潤は足幅を指二本ぶん広げ、爪先に重心を置き直した。足裏が、船の呼吸を取り戻す。息は長く、音は少なく。合図は肩で。胆は静かに。


3 第二波――海と空の二重奏


「上がる!」

 見張りの声と同時に、水面が裏返り、牙の縁が星を噛み切る。潜水型ディザードの群れ。その背筋が海の黒を二重に割り、甲殻の目地から漏れる赤が、夜の色を汚していく。

 ――だけではなかった。

「上空にも! 飛翔型、接近!」

 黒瀬の無線が一瞬、ほとんど笑う。ありえない、という種類の笑いで、すぐに鋼の声に戻る。「上空の盾、下ろす。殿下の上に“見える守り”を重ねる」


 空からは、海鳥のシルエットを歪めたような影が滑空してきた。翼は骨のように硬く、先端に短い爪が生えている。口吻は針と鎌の中間のような形で、風そのものを掴もうとする。

「全班、迎撃!」と石動。

 A~C班が《界膜(バリア・フィルム)》の初段を舷側に、二段を上空に。D~F班は投槍と魔導矢を空と海に分け、G~I班は負傷者搬送と甘味の再配分を増強。J~M班は灯火信号と旗の同時運用で空軍に同調。

「合図を忘れるな!」

「弱さを笑わない!」

 声は短くて強い。夜は短くて強い言葉を好む。


 右舷正面、海の穴が逆さに開いた。牙が空を噛む。

 潤はその縁に踏み込み、刃を寝かせる。

「《折風(ウィンド・スラッシュ)》!」

 風の刃が牙の列を静かに散らし、残った一つに氷の縫い目を走らせる。

「《氷縫(アイス・ステッチ)》」

 波の皮膚に縫い線が走り、牙は縫い目の下にもぐる。雷の針が目の縁に落ちる。

「《絞針(スレッド・ニードル)》!」

 海面が息を吐き、夜の空気がひとつだけ軽くなった。


 上空では、黒瀬の編隊が翼を傾け、飛翔型の進入角を切断していく。

「右上、来るぞ!」

 旗手の少女が肩で合図。潤は舷側の縁を蹴って、一瞬だけ空のほうを向いた。

 目が合った。翼の縁に短い爪を持つ影が、まっすぐこちらへ。

「《界膜(バリア・フィルム)》、上」

 薄い膜が視界の上で静かに弾み、影は爪を滑らせてバランスを崩す。そこへD班の投槍が角度を変えて入る。空を飛ぶものは、下から打たれると弱い。投槍は落ち、影は翼の骨を折って、海という名の床に叩きつけられた。


 石動の声が、低く、短く、しかしはっきりと。

「殿下、術を二重で。空と海を同時に束ねられるか」

 潤は頷く。昼から続く《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》の薄い輪郭を、指先でそっと撫でるように意識し直す。星と潮――上下の二軸。どちらも呼吸を持ち、拍を持つ。ならば重ねるだけだ。怖れない。怖れは、拍を乱す。


4 双陣――潮と星の交差


「融合術式(シンセシス)――《潮星双陣(タイド・スター・ダブル・アレイ)》」

 潤の足下で、青白い円環が二重に開いた。ひとつは甲板に沿って水平に。もうひとつは空へ向かって垂直に。交点は潤の胸の前にあり、そこに星の点がひとつ、潮の泡がひとつ、同時に触れた。

 星の拍を潮に刻む。潮の拍を星に刻む。上下の拍が、ひとつの円になって回り出す。

 甲板の足裏に触れる揺れが、長い呼吸に変わる。上空の風が、規則正しい脈に変わる。海と空の敵が、その脈に一瞬だけ、惑う。惑いは、牙を鈍らせる。


「揺れ、均一化! 上下の風と波、同期!」と片倉。

 黒瀬が「上空、角度変える。殿下の“上の陣”に翼を滑らせる」と無線。

 天城が短く、「舵、微。双陣の中心を保て」と続ける。

 石動は作戦盤に短く白の磁石を置き換えるだけで、930名の足を半歩ずつ動かした。半歩で十分だ。半歩で、隊の骨格が変わる。


 飛翔型が一体、陣の縁をかすめてきた。爪が見え、口吻が風を掴もうと伸びる。

「《折風(ウィンド・スラッシュ)》!」

 風の刃が“上の陣”の縁で一度だけ折れ、角度を変えて翼の付け根に入る。折れるのは刃ではない。星の拍だ。拍が折れて、刃が曲がる。曲がる刃は、まっすぐよりもよく刺さる。


 右舷の下から、潜水型が二体同時に突き上げる。牙の列が二段で開き、赤い眼が星を二つ映す。

「《氷縫(アイス・ステッチ)》、深度差二!」

 縫い目が二本、深さを変えて走り、牙の列の間に“段差”を作る。段差を刻まれた顎は、噛み合わせを失って、力が空に流れていく。そこへC班の《界膜(バリア・フィルム)》が舷側の下へ薄く差し込まれ、牙の先端だけを柔らかく滑らせた。

「《絞針(スレッド・ニードル)》」

 雷の針は見えない。見えない針は、見える牙を止める。止まった瞬間に、D班の投槍が縫い止める。E班の魔導矢が根本を留める。F班は後ろで甘味を差し込み、G班が包帯を軽く押さえる。


「弱さを笑わない!」

 その声は、泣きそうになった誰かの喉を、笑いに変えないまま通り過ぎ、手を握る力に変換していった。笑わない優しさは、船の上でいちばん強い。


5 空と海の合唱――五分主役の輪


 甲板は、五分ごとに主役が変わる劇場だ。A班の防壁が“上”へ伸び、B班が“下”へ重ね、C班が舷側を滑らせ、D班の投槍が風に溶け、E班の魔導矢が星を架ける。G班は砂糖水を二口で止め、I班は額の汗を拭いて深呼吸を三回の合図。J~M班は旗と灯火で空軍の翼にリズムを渡す。

 潤は輪の中心にいる。中心にいるが、主役ではない。主役は五分ごとに替わる。替わるから、誰も欠けない。誰も欠けないように、輪は設計されている。設計図は規則だ。

 嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。

 この三行は、戦術のソースコードのように、今も甲板のあちこちで実行されている。


 飛翔型が群れで降下してきた。空の黒が一瞬だけ濃くなる。

「上、密度上がる!」

 黒瀬の声が重なり、「翼を重ねて盾を作る」。空軍の機影が“翼”の文字のように連なり、そのまま《潮星双陣(タイド・スター・ダブル・アレイ)》の“上の陣”に滑り込み、見える盾となった。見える盾は、心の盾を厚くする。厚い心は、手を離さない。


 甲板の端で、少年が片膝をついた。すぐ近くの仲間が肩を支え、「甘味、いる?」。少年は首を振って、それでも紙コップを受け取る。二口で止めて、深呼吸を三回。

 氷川佳奈が脈を指で押さえ、「大丈夫」と短く言う。短い大丈夫は、長い説明より効く。

 御園葵は補給表にさらさらと数字を書き加え、「砂糖樽、あと三。補給艦、次の波で寄せて」と指で空を指す。桐島は「本日の笑顔ポイント(戦時)」を更新し、篠宮はカメラに手を伸ばして、触れかけて、引っ込める。「撮らない時間」。その代わり、灯りを半段階落とす。強い光は影を深くしてしまう。浅い影は、人を笑わせる。


6 潮流の裂け目――群れの核


 第二波の中盤、波のパターンがわずかに変わった。

 ――何かが、中心にいる。

 ソナーの波形が、他と違う“欠落”を示す。音が帰ってこない。帰ってこない空白は、そこに“孔”があるということだ。

 天城の声が低くなる。「殿下、核を抜く。だが追わない」

 石動が短く、「帰還導線を先に敷け」。

 潤は、胸の奥で頷く。帰る準備は、いつでも戦いの“前”に置く。最後にとっておくのは、台詞だけだ。


「融合術式(シンセシス)――《潮星双陣(タイド・スター・ダブル・アレイ)》、位相反転」

 “上の陣”と“下の陣”を、半拍だけずらす。ずらした拍は、星と潮の間に微細な引っかかりを生む。引っかかりは、螺旋へ転じ、螺旋は中心を探す。

 波の色がわずかに凹み、そこに赤が二つ、三つ、四つ――数えられないほどの眼が、しかし同じ一点を見た。

「今」

 潤の足が半歩、前に。刃が左右どちらでもない角度で起き上がる。

「《折風(ウィンド・スラッシュ)》」

 風の刃が螺旋の軸に通され、見えない軸をまっすぐ穿ち抜いていく。

「《氷縫(アイス・ステッチ)》」

 穿たれた孔の縁を縫い縮め、圧を上に逃がす。

「《絞針(スレッド・ニードル)》」

 最後の針は音を持たない。音がないのに、周囲の音が一瞬だけ澄む。

 海が息を吐き、空がそれに応じて呼気を送る。上下の拍が、また合った。


「核、沈静!」と片倉。

 黒瀬が「上空、降下個体の密度、低下」と報告。

 天城は「舵、真へ。追わない」と繰り返す。

 石動の声だけが、変わらない高さで甲板を渡る。「帰る準備を続けろ」

 帰る準備――それは甘味の残量であり、包帯の在庫であり、合図の確認であり、そして笑う順番の配置だ。


7 谷間の笑い――弱さを笑わない


 戦いの波が一段落するたび、甲板の真ん中に小さな円卓ができる。円卓といっても、箱の蓋だ。そこに紙コップが十、二十と並び、砂糖水と蜂蜜湯と薄い塩のスープが、それぞれの手に渡る。

 ひとりの少年が、紙コップを持つ手を震わせた。隣の少女が、何も言わずに片方の手でコップの底を支える。二人の手の間に、湯気が上がる。

「弱さを笑わない」

 誰も口に出していないのに、声が聞こえた気がした。規則は、言葉である前に、所作だ。所作があるから、言葉が要らない。要らないから、言葉は強い。


 御園が蓋の隙間から覗き込んで、「樽、あと二。帰港まで持たせる。いや、持たせるんじゃない、持つように分ける」。

 桐島は予定表の“休息”の欄に小さく星印を付ける。星印は、星の印。夜の見張りにとってのご褒美。

 篠宮は灯りの角度を一度だけ変え、「今は写真を撮らない」と繰り返し、自分の胸にもしるしを付ける。撮らないことを決めるのは、撮ることを決めるのと同じくらい、創造的な行為だ。


8 夜明け前――静かな終曲


 星が薄くなり、東の端が灰色にほどけはじめる。夜明け前の海は、敵も味方も、いったん同じ色になる。色が同じだと、音だけが違う。音の違いは、陣形の違い。陣形の違いは、帰り道の違い。

 最後の飛翔型が翼を折り、最後の潜水型が牙を海に返した。

「第二波、沈静」

 見張りの声は、囁きに近い。囁きは、歓声よりも長く残る。


 黒瀬が無線で、少しだけ息を吐く。「上空、燃料に余裕。朝まで護衛を続ける」

 天城は甲板に出て、靴底で板を二度叩いた。「良い音だ。まだ船は歌える」

 片倉は《潮星双陣(タイド・スター・ダブル・アレイ)》を薄くし、最小の輪郭だけを残す。「このくらいが、眠りにちょうどいい」

 石動は作戦盤を閉じて、「帰還導線、そのまま維持。寄港は“笑顔の用意”ができ次第」と短く決める。笑顔の用意は、軍令だ。軍令に甘さがあるのは、この国の強さだ。


 無線に、東澄江首相の声が入る。夜の端の、あのやわらかい高さで。

『潤。痛くはないですか。寒くはないですか。お腹は空いていませんか』

「少し、痛いです。少し、寒いです。少し、空きました」

『よろしい。帰ってきたら、全部、温かくて甘いものに変えましょう』

 短い沈黙。

『よく頑張りましたねえ』

 甲板のいくつもの肩が、同時にわずかに落ちた。落ちるのは力ではない。力を張るための無駄な角度だ。角度が取れれば、呼吸が入る。呼吸が入れば、涙も入る。入った涙は、船の振動で乾く。


9 エピローグ――誓いは変わらない


 朝の光が、波の端に薄い銀色を置いていく。《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》の輪郭はもう見えないが、足の裏は覚えている。甲板の板目、舷の冷たさ、ロープの繊維のざらりとした感触、そして、仲間の手の温度。

 潤は胸の勲章に指先で触れ、そっと離した。

 規則の三行を、心で唱える。嘘をつかない。弱さを笑わない。合図を忘れない。

 氷原でも、港でも、海の夜でも、変わらない。変わらないものだけが、変わる世界を渡らせてくれる。

 彼は小さく息を吸い、吐いた。

(全員で、帰る)


 甲板の端で、旗手の少女が肩で小さく合図を送る。潤は肩で返す。二人の間に、言葉はいらない。言葉のいらない約束は、どんな騒音にも壊されない。


 遠く、港の方角に、白い鳥の群れが見えた。飛翔型ではない。本物の鳥だ。鳥の翼はやわらかく、風を掴むのがうまい。鳥は、帰り道を知っている。

 船は、帰り道を思い出したように、静かに向きを調整した。


――――


本話で使用した発動名(漢字+英語カタカナ):

《折風(ウィンド・スラッシュ)》《氷縫(アイス・ステッチ)》《界膜(バリア・フィルム)》《絞針(スレッド・ニードル)》《融合術式(シンセシス)》《星潮陣(スター・タイド・アレイ)》《潮星双陣(タイド・スター・ダブル・アレイ)》。


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