第3話 入学式と不意の模擬戦

1 入学式の朝


 八名島の朝は、寮の窓から見える海が鏡のように光っていた。潮の香りに混じって、遠くの港の汽笛が短く鳴る。渡り鳥の編隊が低く羽ばたき、校舎の尖塔の上を掠めていく。

 澪と詩音は、制服の襟を直し合いながらはしゃいでいた。


「お兄ちゃん、ほんとに遅れるよ!」

「式典、遅刻したら目立っちゃうよ!」


「はいはい」僕はネクタイを結び直した。鏡に映る自分は、どう見ても“ただの新入生”だ。――そう見せなければならない。

(似合ってる! にひひ!)アメの声は朝から弾む。

(深呼吸。四拍吸って、四拍止めて、四拍吐く)ムスが一定のリズムで囁く。

(余計な所作を出さないように。背筋、肩、目線、歩幅)カミはチェックリストを読み上げる。


 息を整え、心拍を静める。制服の袖口に、意識的に“弱さ”をまとわせた。


2 式典会場


 学園の中央広場は、生徒で埋め尽くされていた。白亜の大講堂の前に整然と椅子が並び、壇上には八名共和国の旗が揺れる。頭上の障壁は薄い光膜になって、朝の塩風を柔らげていた。

 初等部、専攻科、研究生まで、制服の色調で学年がわかる。獣耳や翼を持つマギサズが談笑し、ドローンの撮影機がふわふわと空中を移動する。保護者席の端では、島の要人や軍務局の来賓が控え、緋の肩章がちらりと見えた。


(視線が多い。三割は好奇、二割は不安、残りは緊張)カミ。

(屋台の匂いも二割! 焼きそば!)アメ。

(統計に食べ物を混ぜないでください)ムス。


 生徒の八割は女子。男子はわずかで、その多くは非覚醒者だ。僕がここに座っていること自体が、制度の想定をはみ出している。


「……やっぱり浮くな」僕は小声で言った。

「え、何が?」澪が首を傾げる。

「いや、なんでも」


3 校長の演説


 壇上に現れたのは白衣の老人――更屋敷八名魔法学園の校長だ。白の外套には古い紋章、胸元の小さな勲章は島がまだ形成期だった頃の実戦従軍を示す。

「諸君! ここに集ったのは、世界の未来を担う若き芽である!」


 声は魔法の拡声術で広場全体に凪のように広がった。


「人類は今なお災厄のただ中にある。**ディザード**は、忘れた頃に波となって押し寄せる。だが――学びと絆は絶たれてはならぬ。諸君一人ひとりの研鑽が、この八名島を護る礎だ。恐れず、しかし慢心せず、隣人の手を取り合いなさい」


 拍手が波紋のように広がる。僕も手を叩きながら、言葉の鎧を内側から撫でた。

(礎、ね。何度もその石畳を歩いた気がする)僕は心中で苦笑する。

(歩いたどころか、敷石の並べ方まで覚えているでしょ)アメが肩を竦める。

(今日のあなたは“新入生”。役に徹しなさい)カミ。


4 来賓紹介とパトロール分列


 来賓紹介のあと、学園保全を担当するアイランドパトロールの分列行進が短く行われた。灰青の制服、軋みのない歩調。最高幹部教育課の教官旗が一瞬風にひるがえる。

 ――体が勝手に動きかけた。右手が肩へ上がり、最上級の敬礼手順が、脊髄の底からせり上がる。


(動かない)カミの声が刃になる。

(潤しゃん、視線は正面、指は組んで!)ムスが支える。

(おっと、危ない危ない!)アメが笑いながらも緊張を滲ませた。


 僕は両手を膝に置き、微動だにしない。行進は過ぎ去り、鼓動もやがて通常に戻る。

 だが、一人の教官――金縁の眼鏡の男がこちらを一瞥し、ほんの僅かに眉を寄せた。気づかれたかもしれない。あの一瞬の“軍人の目”に。


5 新入生紹介


 式の終盤、新入生の名が一人ずつ読み上げられる。

「更屋敷――潤!」


 空気がちり、と乾いた。振り向く顔、耳、翼、尻尾。僕は立ち上がり、真っ直ぐ歩いた。壇上に一礼。わずかに角度を浅くする。軍礼の癖を殺すための、僕なりの矯正だ。


(良い角度)カミが評価する。

(よっ、スター!)アメがふざけ、ムスは小さく笑った。


 壇上から見下ろす景色は、視線の海だった。僕は笑みの筋肉を保ったまま、席に戻る。


6 クラス分けと担任


 式が終わると、クラス分けの掲示が出た。僕は「A組」。担任は久遠院(くおんいん)先生――若い研究者上がりで、白衣の袖を無造作に捲っている女性だ。髪は一つに結ばれ、目は学生の群れをまっすぐ測る秤のように冷静。


「更屋敷くん?」久遠院が僕を見て、にこりと笑う。「噂は……いえ、何でもない。ようこそA組へ」

「お世話になります」


 隣の席には狐耳の少女・御影(みかげ)さな。前の席には人間の少年・天城(あまぎ)蓮。彼は非覚醒者だが理論に強いらしく、すでに魔法陣のノートを取り出していた。


「男子マギサズって本当?」御影が目を輝かせる。

「さあ、どうでしょう」僕は笑って肩をすくめる。

「嘘つけ。歩き方が軍人だ」天城が小声でぼそり。「あの分列、手が動きかけたろ」

「勘が鋭いね」

「怖いのは慣れてる。ここ、前線だからな」


(この子、好き)アメが上機嫌。(嗅覚がいい)

(不用意な相槌は控える)カミ。


7 模擬戦の告知とルール


 昼過ぎ、広報のチャイムが鳴った。大講堂の前の掲示板に「新入生歓迎・安全模擬戦」の文字。代表者はA〜D組から各一名。安全結界、三点ヒット制、致傷魔法は禁止。審判は教員の他に、アイランドパトロール教官が入る、とある。


「A組代表――更屋敷潤」久遠院先生が読み上げる。

「……は?」僕は一瞬言葉をなくした。

「適性票が綺麗に出ていたから。心配はいらないわ、**安全**だからね」

(安全、安全、安全……三回言いました)アメが肩を竦める。

(出力制御を最優先)カミ。


「対戦相手は、D組代表・白兎(しらと)イリア」先生の声に、少しざわめきが走る。

 銀髪のウサ耳少女が手を挙げ、凛と微笑んだ。噂どおりの才媛らしい。彼女の背筋は弓のように美しく、魔力の整え方に無駄がない。


8 控えの通路で


 模擬戦場へ続く通路はひんやりとして、壁面の魔導灯が薄く明滅していた。足音が一つ増える。

「更屋敷くん、だっけ」イリアが横に並ぶ。「さっきの分列、敬礼しかけたでしょ」

「さあ、どうかな」

「隠すのは上手。――でも、身体って、嘘がつけないのよね」

「それは、痛いほど知っている」

 イリアは微笑し、静かに前を向いた。


(彼女、良い目)ムス。

(潤しゃん、惚れた?)アメ。

(黙って)カミ。


9 模擬戦開始――第1ラウンド


 観客席は新入生で満員だ。安全結界が柔らかな半球をつくり、審判の教員が宣言する。

「三点ヒットで勝敗、致傷は禁止。双方、準備よし」


 鐘。イリアは即座に魔弾を三連射。矢は互いに干渉して、鋭い角度で曲がる。初手から曲射――視界の死角を狙っている。

 僕は足を動かさず、右手の指を弾いた。空間に薄い“膜”を作る。矢は触れた瞬間、紙細工のように崩れ、光の埃になる。


「一合」審判の声。会場がどよめく。


(強度、出しすぎではない)カミが低く言う。

(余力は八割以上残してる)僕。

(数字を口に出さない)ムス。


 イリアは眉を上げたが、すぐに手の位置を変える。二撃目。今度は足元に“遅延”の符を撒く。視線を上に釣って、下で足を絡める誘い。

 僕は踵で地面を軽く叩き、符の縁をわずかに“ずらす”。遅延は僕の周囲で空転し、砂時計の砂が逆流するみたいに消えた。


「二合」


10 第2ラウンド――構築とキャンセル


 呼吸が一つ深くなる。イリアは詠唱を短く刻み、炎と風を重ねて槍を作る。握りの位置、重心、投擲角度――実戦を知っている。彼女は“学校の天才”ではなく、“戦場に行ける”才だ。


「行くわ!」イリアが投げる。槍は空で三つに分かれ、蛇のように軌道を変えた。

 僕は左掌を斜めに切る。空間の折り目を作り、熱と運動量のベクトルを“別の場所”へ送る。

 観客には見えないはずだ。ただ、槍が触れた瞬間に消えただけに見える。


「三合、ノーヒット」審判。


 観客席の一角で、先ほどの金縁眼鏡の教官が腕を組んだ。その視線は、魔法の細部ではなく、僕の**立ち姿**を観察している。重心、歩幅、胸郭の開き――戦場の“癖”。


(見られてる)カミ。

(堂々としてればいいの)アメ。

(堂々と“普通”に、ですね)ムス。


11 第3ラウンド――こちらから一手


 僕は初めて一歩、前に出た。イリアの瞳がわずかに開く。圧が伝わるからだ。これだけで“格”が見える。

 右手の中に、微細な魔素の粒を集める。形にする前に“名前”を与えない。匿名のまま、力だけを薄く編む。


「――っ」イリアが読んだ。彼女はすぐに結界を二重に張る。内側は弾性、外側は反射。

 僕はその外側の角に指を触れ、軽く“撫でた”。糸がほどけるように、反射層の一部だけが優しく崩れ、そこに空気が流れ込む。弾性結界が呼吸を乱され、ほんの刹那、脈を外す。


 そのわずかな隙間に、風の“ひらひら”を送り込む。紙飛行機のように弱い、けれど外せない“当て札”。

 頬にかすかな風が触れ、審判の旗が上がる。「一点、A組更屋敷!」


 会場がどよめき、イリアは目を見張って、次の瞬間笑った。「やるじゃない」


(いい塩梅)ムス。

(かわいく当てた!)アメ。

(記録者に“非致傷・最低出力”と明記させなさい)カミ。


12 第4ラウンド――才媛の本気


「じゃあ、私も少しだけ上げる」イリアがささやくと、フィールドの空気密度が変わった。彼女は詠唱せず、“書換え”で陣を走らせるタイプだ。地面の魔法陣が顕れ、細い文字が光る。

 ――重力の偏向。僕の身体が、半歩ぶん沈む。彼女は同時に上から圧をかけ、横から風で流す。三軸同時の制御。


(うつくしい)ムスが感嘆する。

(うっかり褒めてる場合か)カミ。


 僕は視線を落とし、靴の先で地面を“整える”。島の基礎石――親が選んだ、硬い岩肌の記憶。そこにほんの少し、地脈の“素直さ”を呼び戻す。偏向の角度が一度だけ甘くなり、僕の体は浮力を取り戻した。


 空気が鳴る。イリアはすでに次の矢を集めている。今度は**音**だ。わずかな遅延を混ぜた音弾を、耳ではなく胸骨に当てるつもりだ。

 僕は胸の前で両手を重ね、身体の前に“静寂”を一枚置く。音はそこで眠り、砂に水が染み込むように消えた。


「二点目、A組更屋敷」審判の旗。イリアは驚いて、そしてまた微笑んだ。「参ったわね」


13 終幕と拍手


「決着まであと一点」会場の空気が一段引き締まる。僕は深呼吸を一つ。過剰な一撃は不要だ。むしろ――ここで終えるべきだ。


 イリアが最後の構えを取る。風、炎、音――三つの記号が彼女の周囲に浮かび、花弁のように開く。多重のフェイント。どれが実体か、どれが囮か。


(全部、実体)ムス。

(それ、言っちゃうの?)アメ。

(聞かなかったことにする)カミ。


 僕は足を半歩ずらし、イリアの靴先を見た。つま先の角度が、花弁の“開く方向”を示している。ほんの癖。そこに**優しさ**を返す。

 右手の中で、さっきと同じ“風の当て札”を作り、速度だけを少し落とす。イリアは自ら結界を傾け、それを受け取った。


「三点、A組更屋敷。勝者、A組!」審判の声と同時に、会場が大きく沸いた。イリアは肩を上下させ、近づいて右手を差し出す。

「強い。でも、それ以上に優しい」

「教師受けはいいタイプだよ」僕は握手を返す。

「それ、褒めてる?」イリアは笑った。


14 観客席の反応と教官の影


 観客席で、狐耳の御影が両手をぶんぶん振っている。天城は腕を組み、「……やっぱり軍人だ」とぼそり。澪と詩音は飛び跳ね、久遠院先生は安心したように小さく頷いた。

 反対側、金縁眼鏡の教官はメモに何かを書きつける。視線が一度だけ僕の足元をなぞり、すぐに外された。その仕草に、胃の奥がひやりと冷える。


(嗅ぎつけられた可能性、三割)カミ。

(でも三割でしょ? セーフ!)アメ。

(セーフの時ほど危ない)ムス。


15 控え室――短い会話


 控え室のベンチで、水を一口飲む。イリアがタオルで汗を拭きながら隣に座った。

「あなた、どこで習ったの?」

「独学だよ」

「嘘ね。あの重心、あの“待ち”は、独学じゃ身につかない」

 イリアは深追いせず、タオルを膝に置いた。「――でも、ありがとう。最初の一撃で終わらせなかったこと、感謝してる」

「こちらこそ、楽しかった」


(いいこ)ムスが微笑む。

(お似合いでは?)アメ。

(黙って)カミ。


16 廊下での遭遇


 控え室を出ると、先の金縁眼鏡が廊下に立っていた。腕章には「パトロール教官・矢来(やらい)」の文字。

「更屋敷くん、だね」矢来は薄く笑う。「君の**立ち方**、懐かしい匂いがする」

「褒め言葉として受け取ります」

「質問はしない。今日は祝う日だ」矢来はそれ以上言わず、視線を背後の窓へ向けた。「……海が、少し、重い」


(観察眼が鋭い。苦手)カミ。

(良い人そう)ムス。

(どっちもあり得る)アメ。


17 教室の余韻


 A組の教室に戻ると、御影が机に身を乗り出してきた。

「ねえねえ! 風の当て札ってどうやるの!」

「紙飛行機を折るみたいに、ね」僕は紙を一枚取り、端を折る仕草だけ見せる。「形より、折る手つき。空気に“お願いする”感じ」

「お願いって何?」

「君なら、そのうちわかる」

「ずるい!」御影が笑い、天城はノートに何かを書き込んだ。「“お願い”は変数として扱えないな」

「扱えないものが、一番強い時があるよ」

「だから宗教は嫌いだ」天城は肩をすくめた。

(面白いクラスだね)アメ。

(はい)ムス。

(気を抜くな)カミ。


18 夕暮れの放送


 放課後、島全域のスピーカーが柔らかく鳴った。

『――定時防災テストを開始します。担当者は持ち場を確認――』

 ざわめきが一瞬、揺れに変わる。生徒たちはすぐに「テストだって」と笑いに戻るが、警備兵の一人は無線を握ったまま、顎だけで短く返事をした。


(タイミングが早い)カミ。

(海側の“それ”に合わせてる)アメ。

(足音が近い)ムス。


19 黄昏の校庭と神々


 校庭の芝が橙に染まり、噴水に光が揺れる。澪と詩音は友達と写真を撮り、御影は購買の限定パンを掲げて走り去った。天城は一人、窓際で数式をいじっている。

(綺麗だね)ムス。

(守りたくなる)アメ。

(守る。だが、背負い込むな)カミ。

「努力するよ」僕は小さく返事をした。


20 寮の窓――不穏の海


 夜。寮の窓から海を見下ろすと、潮は満ち始め、波の縁がいつもより**重かった**。風はなく、星は冴えている。なのに、水面の皺が逆向きに走る。

 防波堤の赤灯が一度だけ瞬き、すぐに戻る。港の端で係留索が細く軋む。聞こえるか聞こえないかの微かな音で。


 廊下を兵士が二人、静かに通り過ぎた。革靴の音は殺され、無線は耳元。言葉は拾えないが、節の詰まった短い会話が“異常”を示す。

(――レベルβの兆候、海溝側。間隔、二分五十秒)


(読めてきた)カミの声は冷たい凪だ。

(来るなら、受けて立つだけ)アメが笑う。

(でも、まだ“時”じゃない)ムスが首を振る。


 僕は拳を握り、すぐ開く。布団に沈みかけた体を起こし、窓枠に指を置く。木の感触は温かく、現実に繋ぎ止めてくれる。


21 短い夢


 目を閉じる直前、海の向こうに小さな光がひとつ、灯った気がした。ビーコンか、幻か。眠りは浅く、夢は短い。

 ――父の手、母の笑い声。八名島の基礎石を並べる影。子どもの僕の頭を、誰かがぽん、と弾いた。


(潤)ムスの声が遠くで囁く。(“普通”は、皆の祈りでできている)

(だから、守る)カミ。

(うん。屋台の焼きイカも守る!)アメ。


 目を開けると、時計の針は深夜を少し過ぎていた。サイレンは鳴っていない。けれど、潮の匂いは確かに濃い。


 **――“普通”の学園生活は、始まったばかりなのに。**

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