第6話 夜の教室
運動会から一週間が経った。十月の真ん中。
朝の空気は、もうすっかり秋のにおいがする。
登校するとき、白い息がほんの少しだけ見えた。
私はトイレから出て教室に戻ろうとすると、すれ違いざまに美空ちゃんが紙切れを渡してきた。
『夜、教室。七時。――美空』
小さな文字。まわりに星の落書き。ここだとクラブのことは話せないから、こういうやり方になる。
その晩、学校は地域の合唱サークルの練習と、PTAの片づけで体育館だけ電気が点いていた。校門は開いていて、先生たちもまだいる。
私は家で「図工の作品を取りに行く」とだけ言って出た。ママは「気をつけてね」と言って、玄関まで見送りに来た。
校舎の廊下は、昼間より色が深い。ガラス窓に体育館の明かりがゆれて、歩くたびに靴音が吸いこまれていく。
二年の教室を過ぎ、三年、四年……。自分の教室の前で足を止めると、ドアの隙間から、弱い光がもれていた。
そっと開ける。
教室の電気はついていない。黒板の前に小さなランタンがひとつ。机を三つだけ前に寄せて、その上に古い箱が置かれていた。
美空ちゃんが「しー」と人さし指を立てる。湊くんは窓側のカーテンを半分だけ閉め、外から見えないようにしていた。
「来たね」
美空ちゃんの声は小さいけれど、よく通る。
「今日は、“お助けクラブの歴史”の話をしようと思ってるんだ」
私は指定された席に腰をおろした。机の木目が、ランタンの明かりで波みたいに見える。
湊くんが床に置かれていた箱を机の上に置き、箱の留め金を外す。
金具がかすかにキキッと鳴った。
箱は思っていたより重そうだった。ふたの裏には、古い紙が一枚、四隅を糸で留められて貼ってある。
そこには、太い筆文字でこう書かれていた。
『“困った”の声を見逃さないこと。名を出さないこと。ゆずり続けること。』
「これ、いちばん最初の“流儀”だって」
美空ちゃんがそっと指でなぞる。
「四十年くらい前、ここにいた六年生の人たちが書いたらしいよ」
箱の中には、色のあせたノートが何冊も重なっていた。
表紙には『お助け録 一』『お助け録 二』……。
紙の角は丸くなって、手に持つとふわりとチョークと紙のにおいがまざった匂いがした。
「順番にめくってみて」
美空ちゃんが言う。
私は一冊目を開いた。ページの最初に、創設の記録が短く書かれている。
『大雨の年、傘を忘れた子を何度も見た。誰も気づかない小さな困りごとに気づく人でいたい。だから、名前をつけた。』
つたない字だけど、強い気持ちが紙に残っているようだった。
二冊目。十数年前の記録。
『合言葉「困ったときは?」―「お助けクラブ!」に変更。手のサインも決めた。』
合言葉は今と同じ。ページの端に、小さな丸と三本線の絵。私たちが手で作るサインと同じだ。
三冊目を開くと、見覚えのある名前が目に入った。
『第三十四代 佐々木美空 加入』
その下に、短い文章が続いている。
『二年生のとき、落とし物掲示板の角に曲がった画びょうを見つけて直した。だれも見ていない場所で、それをやれる人。声をかけた。』
「……美空ちゃん、二年生から?」
思わず顔を見ると、美空ちゃんは照れたように笑った。
「うん。最初は“見学係”。四年で正式メンバー」
ページをめくる。さらに最近のところに、もうひとつ名前。
『第三十五代 湊 天 加入』
『校庭で転んだ一年生に気づいて、先生を呼んでから自分の水筒で土を流していた。言葉数はすくないけれど、手が動く人。声をかけた。』
私は湊くんの横顔を見た。
湊くんは、いつもの無表情のままだったけれど、耳のあたりが少し赤いように思えた。
そして、今のページ。
『第三十六代 長野 葵 加入』
その下に、私の言葉が、二人の字で並んでいた。
『明るい人、声が良く通る。声をかけたが断られた。掲示板の裏の張り紙に気づいた。助けてと言える。ありがとうと言える。断っても、心の中で扉を閉めきらない。』
喉がきゅっとなった。
私が思っているより、ちゃんと見られていたんだ。あの日のこと、掲示板のこと、のりのこと――全部。
「お助けクラブは、人数を増やさないの」
美空ちゃんがゆっくりと話す。
「いつも“少数”。多くても四人。代ごとに、次の人を選んで渡していく。募集はしない。『声をかける』だけ」
「だから“選ばれた子だけ”って言った」
湊くんが続ける。
「選び方は、速さでも、目立つことでもない。困りごとを見つける目と、秘密を守れること。あと――続けられるかどうか」
箱の底から、薄い布袋が出てきた。
中には、白い小さなピンバッジが三つ。真ん中に短い線が一本。その両側に、さらに短い線が二本。
バトンみたいに見える。
細いクリップでとめるタイプだから、制服や体操服にも穴を開けずに済む。
「これ、代ごとに三つしかないの。三つは現役の印。四つ目は、渡すときにしか出さない」
美空ちゃんは、私の手のひらにそっと一つのせた。
金属がひやっとして、すぐに体温に馴染む。
「今日ここで話すことは、外で言わない」
湊くんが、いつもよりはっきりした声で言う。
「先生にも、友だちにも、家族にも。『ありがとう』は言っていいけど、理由は言わない。活動は、倉庫とここで決める」
「うん」
私は頷いた。頷いたあと、もう一度、静かに頷いた。
合言葉と同じくらい、この約束は大切だと分かる。
箱の隅には、古い封筒が束になって入っていた。
表には、卒業していった先輩たちの名前が書いてある。
一番上の封筒をそっと開くと、丁寧な字の手紙が出てきた。
『在学中、お助けクラブで学んだことは三つ。
一、気づくことは、言うことより難しい。
二、相手の速さに合わせるのは、こちらの力がいる。
三、名前が残らなくても、記録は残る。』
最後に、こう結ばれている。
『困ったときは? ――お助けクラブ!』
私は小さく笑ってから、手紙を封筒に戻した。
別の封筒には、『奏』という名前があった。
『図書委員の当番中、迷っている一年生に声をかけたのが始まり。自分が本に助けられたように、人にもそっとしおりを挟んでいくつもりで。』
顔は知らない先輩。でも、言葉から、人となりが伝わってくる。
「代が変わると、合言葉はそのままでも、やり方は少しずつ変わる」
美空ちゃんが箱を閉じる。
「前は、掲示は図書室の裏の掲示板だったって。校舎が建て替わってから、倉庫のポスターになったの」
「ルールも、ゆっくり変わる」
湊くんが黒板の端を指さす。白い粉がまだ少し残っている。
「でも、三つだけは変えない。“笑わない”、“最後まで”、“秘密”。」
私は、机の上のピンバッジを指先で転がした。
金属の小さな重さが、言葉の重さと同じくらいに思える。
「それから」
美空ちゃんが、声を少し落とした。
「選ぶときの“目”の話。私たちが葵ちゃんを誘った理由の続きだよ」
私が顔を向けると、美空ちゃんは数を折りながら言った。
「ひとつ。困ったとき、頼れる。『助けて』が言える人は、誰かの『助けて』にも気づけるから。
ふたつ。断られても、全部を嫌いにならない。葵ちゃん、最初に誘ったとき断ったでしょ? でも、ちゃんと来た。
みっつ。自分の得意を“道具”として扱える。走るのが速いこともそうだし、見つける目も。
よっつ。秘密を守る。掲示板の裏のポスター、誰にも言わなかった」
言われるたび、心のどこかで何かが音を立てた。
嬉しいとか、誇らしいとか、そういう言葉にうまくできない音だ。
でも、嫌な気分ではない。
「最後に、確認」
湊くんが手を上げ、いつものサインを作る。
親指と人さし指で丸。残りの三本を立てる。
私と美空ちゃんも、同じ形で指先を合わせた。
「困ったときは?」
美空ちゃんがささやく。
「「お助けクラブ」」
声を合わせた。
そのとき、廊下の向こうから体育館の片づけの声が近づいてきた。誰かの笑い声、台車が動く音。
美空ちゃんはランタンを弱くして、窓のカーテンをもう少し閉める。
夜の教室は、黒板の線だけがうすく浮いて、時間が止まったみたいに静かだった。
「今日はここまで。あとは倉庫に戻って、記録だけ書こう」
美空ちゃんが立ち上がる。
湊くんが箱を抱え、私はランタンを持った。
廊下に出ると、床が少し冷たく感じた。掲示板の『運動会ご協力ありがとうございました』の紙が、風でかすかに揺れる。
階段を降りると、体育館のドアから光が漏れていた。先生と保護者の人たちが笑いながらゴミ袋を結んでいる。私たちはその横を何でもない顔で通り過ぎた。
倉庫で、今日のことをノートに記す。
『第四十六回 夜の会合/場所:五年二組教室/内容:歴史の確認、誓約、バッジ授与/次回:掲示の張り替え、依頼カードの整理』
ペン先が紙の上を走る音だけが響いた。
外に出ると、校庭は月明かりでうっすら白い。第二体育館の影が長くのび、倉庫のドアに私たちのシルエットが重なった。
息を吐くと、さっきより白く見えた。夜は、昼より季節が一歩進んでいる。
「葵ちゃん」
美空ちゃんが私を見た。
「“ゆずり続ける”って、どういうことか、少し分かった?」
「うん。ぜんぶ自分のものにしない、ってことだよね」
言ってから、自分でハッとして、つけ足した。
「でも、ちゃんと“自分の手”も使う」
「それでいい」
湊くんが短く言う。
「それが、ここでの“特別”。選ばれたから終わりじゃない。選び続けられる人でいる」
私はランドセルの肩ひもを直し、教室で受け取った小さなバッジを胸元につけた。服の上から触ると、そこだけ形がある。
家に帰ったら外すつもりだけど、今はつけていたいと思った。
校門のところで、三人は自然と手を上げた。
声は出さない。でも、同じ形のサインが夜の中でそれは重なった。
家への道を歩く。街灯の下、足音が三つ、等間隔に鳴る。
今日の夜の教室で、見えない輪が増えた気がした。
名前のないところで受け取って、名前のない形で渡していく輪。
それは、手に持てるくらい小さいのに、歩く方向をしっかり示してくれる。
明日の朝は、またいつもの学校だ。廊下のきしみ、教室の匂い、日直の当番表。
でも、黒板の前に座ったあの時間は、確かに今日ここにあった。
私はバッジに触れ、月の方を見上げた。細い雲が流れて、すぐにほどけていく。
――困ったときは?
心の中で問いかける。
答えは、もう知っている。
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