第5話 リレーに出たくない

 十月になった。

 朝の空気は九月にはなかった冷たさがある。


 この前まで半袖だったのに、もう長袖を着ないと寒い。


 転校してから一か月。私はこの学校の廊下のきしみや、二組の教室に入ったときの匂いに、もう驚かなくなっていた。


 相変わらず教室での湊くんは無愛想だけど、たまーにあっちから声をかけてくれることもある。

 大抵は、小さな声でお助けクラブのことだけど。


 運動会の掲示が廊下に並び、体育の時間は全員参加のリレーの練習が増えた。

 クラスの中では、だれが第一走者で、だれがアンカーか、そんな話題が飛び交っている。


 

 もう少しで運動会。私が好きな行事が始まる。

 


 放課後、いつもの倉庫。


 ホワイトボードには最近来た依頼『応援看板の文字案』『借り物競走のヒント』と、今週のメモが並んでいた。

 美空ちゃんはマーカーのキャップを指先で回し、湊くんは机の上にストップウォッチとノートを置いている。そこへ、ためらうような小さなノックが聞こえた。


「どうぞ」


 ドアが開き、五年一組の女の子が入ってきた。

 すれ違えば分かる顔だ。廊下や委員会で何度か見かけている。


 彼女は肩までの髪を一つにきゅっと結び、スニーカーの靴ひもが少し緩んでいる。


「あ、二組の葵ちゃんだよね? はじめまして」


 女の子は私を見て、すぐに美空ちゃんと湊くんへ視線を移した。


「……やっぱり、あんたたちなんだ。張り紙の“クラブ”」


 美空ちゃんは人さし指を口に当てて、そっと笑う。


「ここでの話はぜんぶ内緒。先生にも家の人にも言わないって約束できる?」


「分かってる。内緒で来たし」


 美空ちゃんが紙を差し出す。上には『依頼カード』の文字。


「名前と、困ってることを書いて」


 女の子はためらわずに鉛筆を走らせた。


 『五年一組 柏木りん リレーに出たくない。足が遅いから』


 りんさんはカードを置き、靴ひもをつまむようにして言った。


「練習で私のときだけ遅くなるんだよ。スタートの音が鳴ると足がもつれる。一生懸命走ってるけど、全然速くならない。いつもビリ」


 私は、よく“運動神経がいいね”って言われることが多い。

 リレーも今回はサッカーを習っている児島くんが早くて、私はアンカーに選ばれなかったけど、補欠だったし、前の学校の時はいつもアンカーをやっていた。


 別に何かを意識して走ってるわけではない。

 ただ、ゴールに向かって走ってるだけ。


 だからこそ、こういう依頼は私にとって少し難しい。


 でも、ここはお助けクラブ。目の前の依頼者に親身にならないと。


 湊くんがカードをノートに写し、短く言う。


「やることは三つ。走り方、走順、バトン」


「朝練、つき合うよ」


 美空ちゃんがうなずく。


「やってみて、出るか出ないかはそのあとで決めよう。無理はしない。でも、できる工夫は全部やる」


 りんさんは私の方を見た。


「葵ちゃん、二組だよね。転校生の子。ちゃんと話すの初めてだ」


「うん。いっしょにやろ」


 美空ちゃんがもう一度、念を押す。


「この倉庫のことも、合図も、外では話さない。教室や廊下では絶対に。先生や大人に見つからないように出入りするのも約束」


「オーケー」


 小さく右手を上げたりんさんの声は、思っていたより明るかった。


 こうして、運動会の依頼が始まった。


****


 翌朝。まだ太陽が低い時間に校庭へ出ると、昨日の体育の授業のときの白いラインがうっすら残っている。

 息を吸うと鼻の奥がひんやりした。ちょっと寒いかも。

 湊くんはバインダーに紙を挟み、片手にはストップウォッチを持っている。

 美空ちゃんは、髪の毛を後ろで一つにまとめて軽くジャンプしている。


「おはよう、朝早いね」


 あくびをしながら少し眠たそうなりんさんがやって来た。

 彼女は、近くにランドセルを置くと、私たちの隣に来た。


「おはよう! この時間帯、学校の先生まだ来てないからバレにくいんだ」


 美空ちゃんは慣れたように言う。


 今日起きたのは、いつもより三時間早い、四時だった。

 ママとパパにバレたら大変だから、適当に学校で朝勉強して来る! と言って家を出てきた。


 ママとパパには驚かれたけど、家の前まで美空ちゃんと湊くんが来てくれたから、なんとか信じれ貰えた。


「あ、家族には言ってないよね? このこと」


 美空ちゃんが聞くと、りんさんは「うん、お母さんとお父さんは今日は病院で夜勤で、帰ってくるのいつも九時だからバレてない」と言った。


 今回は、まず手始めに私とりんさんが一緒に走ってみることとなった。


 私とりんさんは体操をし、ストレートのコースへ並んだ。湊くんがストップウォッチを構える。


 「まずは姿勢と腕。ひじを後ろに引く。視線は前」


 湊くんが短く指示を出す。


「合図、いくよ。用意……」


 指が鳴る。


 私とりんさんは同時に飛び出した。

 半分を過ぎたころ、私はりんさんの横顔をちらりと見た。顔が強ばり、腕の振りが小さくなる。


「はい、ストップ」


 記録はノートに二本の線で記された。

 りんさんは肩で呼吸を整え、唇を噛んだ。


「やっぱり遅いよね……」


「数字だけ見ればクラスの中では下の方」


 湊くんははっきり言った。


「でも、腕ふりと姿勢でまだ変えられる。今日の目標は“最後まで崩さない”」


 それからの日々、私たちは同じ時間に集まった。

 私と美空ちゃん、湊くんは何とか朝早い時間でも家を出ることが出来たが、りんさんは、ママパパが朝早くに家を出ると心配する。ということで、両親が夜勤のとき限定にした。


 腕は肘を引く意識、視線はまっすぐ、歩幅は無理に広げない。スタートは前に倒れる気持ちで――。


 りんさんは言われたことを一つずつ確かめるように繰り返した。

 タイムは……少し縮む日もあれば、戻る日もあった。紙の上の数字は正直だ。


 四日目の朝、りんさんはスタートラインの前で足を止めた。


「こんなにやっても、変わらないんだ」


 砂の上で、自分の靴の先を見つめる声。

 私は少しだけ近づいて言った。


「数字はすぐに変わらないけど、途中で歩きそうになっても止まらなくなってるよ! 昨日は一回つまずきそうになっても立て直したよ」


 りんさんは顔を上げた。


「ほんと?」


「うん!」


 りんさんと何度も一緒に走った私だから分かること。


「もう一つ」


 美空ちゃんが手を挙げた。


「リレーは一人で走る競技じゃない。順番、声、それからバトン。工夫できること、まだあるよ」



 私たちは倉庫に戻った。

 朝の倉庫、いつもより涼しい。


 美空ちゃんがホワイトボードに〈走順/声/バトン〉と書いた。

 そして湊くんがチョークで簡単なトラックを描く。


「柏木は第二走者が向いてる。第一はスタートの反応が速い子、第三はコーナー得意な子、第四は直線で伸びる子」


「なんで、二番?」


「第二はバックストレート。コーナーのカーブより走りやすい。バトン、貰って“乗れる”から、前だけ見やすい」


 美空ちゃんが私に視線を送る。


「声は、どうする?」


「りんさんがもらう場所、決めよう。合図の言葉もそろえる」


「合図?」


「『スッ』で手を出して、『パス』で受ける、みたいな。短い言葉で、必ず同じ」


 湊くんはうなずき、机の引き出しから色テープを取り出した。


「受け渡しゾーンに目印。スタートの子はここまでで必ず声を出す。柏木は“スッ”で後ろ手、視線は前」


「応援は?」


 美空ちゃんがホワイトボードに丸を足す。


「クラスの子たちにお願いしてもいいけど、クラブの名前は出さないこと。『応援係』って形で、自然に」


 秘密の約束が、頭に浮かぶ。教室では話さない。倉庫で決めて、外では静かに動く。

 私は頷いた。


****


 次の日から、朝練は“バトンの朝”に変わった。

 目印テープを二本貼り、私が第一走者役、りんさんが第二走者役。

 私は決めた歩数で加速し、テープの手前で声を出す。


「スッ!」


 りんさんは手を後ろに出す。

 私はその手に、まっすぐバトンを置く。


「パス!」


 受けた瞬間、りんさんの肩の位置が少し下がる。


「今ので貰う手がふらついた。肘、ここ」


 湊くんが位置を示す。

 もう一度。

 同じ動き、同じ言葉。十回、二十回。砂に同じ足跡が重なっていく。


 そして、練習を終えると証拠を消すように倉庫からトンボを出して四人で足跡を消していく。


 数日経つと、りんさんの受ける手の高さが安定してきた。

 声も出るようになった。

 タイムはそれほど変わらない。けれど、受け渡しのたびに、動きに迷いが減っていくのが見えた。


「走順の相談、担任の先生に行ってみようか」


 美空ちゃんが言う。


「『二走が得意みたいです』って、自然な理由で」


「うん。そうだね」


 クラスの作戦として話せばいい。クラブの名前は出さない。


 昼休みに、美空ちゃんとりんさんと三人で職員室に行った。

 一組の先生は「なるほどね」と笑って、走順を見直してくれた。


 応援の準備も進めた。


 美空ちゃんは厚紙で小さな旗を作り、クラスのみんなに配る。片面にはクラスカラーの青、もう片面には白いバトンの絵。

 これも、勝手にやると先生に怒られそうだったからちゃんと許可を取った。

「運動会を盛り上げたいんです!」って。


「合図はこれ。第二走者の受け渡しのとき、旗を上げて『いけるよ!』って声をそろえるの。リレーは全員参加だけど、中にはケガとか参加できない人もいるから、その人たちに頼むの」


 そして最後の朝練。


 りんさんは、はっきりした声で受け渡しの言葉を言えた。

 私は手を合わせた。


「ここまで来たね」


 りんさんは、目を伏せて、少し笑った。


「……うん」



****


 いよいよ運動会当日。


 校庭には赤と白の万国旗がはためき、テントの下には保護者の人たちがカメラを手に並んでいる。


 私は二組の応援席に座りながら、競技のプログラムを握りしめていた。

 午後の部に『五年全員リレー』の文字がある。

 この文字を見るだけで、ドキドキしてきた。


 横を見ると、美空ちゃんも湊くんも、何事もない顔でクラスの友達と一緒に応援旗を振っている。


 でも私は知っている。ここに来るまでの朝練や秘密の倉庫での作戦会議。

 りんさんの「もう出たくない」という声から始まったことを。



 そして、午後の部がやって来た。

 五年生の私たちは、順番に並びグランドに座る。


 前の方では、先生方がバトンやコースの確認をしている。


 何度も走ったこの砂の上。

 

 私がドキドキしているのは、自分自身の緊張だけじゃない。

 りんさんへの期待、そして熱い思い。


「りんさんが、上手く走れますように」


 私は誰にも聞こえないくらいの声の大きさで、そう言った。


****


 そして、ピストルが鳴る。

 一組と二組、両方の第一走者が一斉に飛び出した。

 砂ぼこりが舞い、応援席から「がんばれー!」の声が響く。


 二組の一走は美空ちゃん。

 小柄だけれど反応の速さは抜群で、スタートで少し前に出る。

 一組の第一走者も必死に追いすがる。

 


 受け渡しゾーンが近づいた。

 一組の第二走者――りんさんが待っている。

 背筋をまっすぐに伸ばし、右手を後ろに差し出す。


「スッ!」


 第一走者の声。

 りんさんの手に、迷いなくバトンが置かれた。


「パス!」


 ぴたりと決まった受け渡し。

 私は思わず立ち上がりそうになった。何度も練習したあの動きが、今みんなの前で堂々と成功した。


 りんさんは一生懸命に走る。足は決して速くない。だけど前を向いて、最後まで止まらない。

 その姿に、一組の応援席から旗が上がる。


「いけるよ!」「いけるよ!」


 声が校庭いっぱいに広がった。

 りんさんはスピードを保ったまま、三走へとバトンを渡した。


 次は私の番。

 二組の二走が走ってきて、声を出す。


「スッ!」

「パス!」


 手にバトンの重みを感じた瞬間、足が自然に前へ出る。

 カーブを駆け抜ける風の冷たさ、応援席の声、すべてが背中を押す。


 全力で走り切り、ゾーンで手を伸ばす。


「スッ!」

「パス!」


 湊くんがしっかりと受け取る。

 彼は無駄のないフォームで直線を駆け抜け、アンカーへとつないでいった。


 最後はアンカー勝負。

 一組も二組も速い子を残している。

 二人は並ぶようにゴールへ向かい、観客席から歓声が割れる。


 ――テープを切ったのは、ほんの少し早かった二組。


 結果は二組の勝ち。でも私は心の中で、もう一つの勝利を見ていた。

 りんさんが、二走としてバトンを落とさず走り切ったこと。

 そして、一組のクラスのみんなが、順位よりもそのことに拍手を送っていたこと。


 ゴールのあと、先生の声がマイクから響いた。


「両クラスとも、とてもすばらしいリレーでした! 特にバトンの受け渡しがきれいで、声もよく出ていました!」


 りんさんは汗をぬぐいながら、クラスの子たちに囲まれていた。


 「バトン、すごかった!」

 「ちゃんと声出てたよ!」


 その声に、りんさんは少し照れながらも、確かに笑っていた。


****


 祝日を挟んで三日後の学校。

 朝、教室に向かっていると後ろから、りんさんの駆け寄る足音が聞こえた。


「葵ちゃん! ありがとう! 私、結局速く走れなかったけど……でも、楽しかった! 初めて走ることが楽しいと思えた! あとね、お母さんとお父さんも褒めてくれた!」


 りんさんは、凄く嬉しそうにそう話す。

 私もつられてうれしくなっちゃう。


「私は、何もしてないよ。ただ一緒に走っただけ。一番頑張ったのはりんさんだよ!」


 りんさんは、何度も私に「ありがとう」と言ってきた。


 私は何にもしていないのに。

 強いていうなら、お助けクラブとして活動しただけなのに。


 私の後ろから、美空ちゃんと湊くんが歩いてくるのを見たりんさんは、今度は二人の方へ行き、また沢山お礼を言った。

 

 二人とも嬉しそうで、湊くんは少しだけ照れていた。


 放課後、いつものように倉庫に行った。

 

 机の上に依頼カードが広げられ、今日の日付が記される。


『依頼:リレーに出たくない/対象:柏木りん(一組)

対応:朝練(フォーム・スタート)、走順調整、合図“スッ/パス”、応援旗

結果:最下位 受け渡し成功 声が出た 本人の笑顔◎

備考:秘密厳守(外ではクラブの名を出さず)』


 美空ちゃんは「◎」を二重丸にして、ふふっと笑った。

 湊くんは一言だけ。


「……成功」


 私はノートの文字をじっと見つめた。順位は最後。でも、それは紙の上に残るだけ。

 本当に大事なのは、りんさんが自分の足で走りきり、みんなに笑顔を見せたこと。


 倉庫の窓からのぞいた空は、運動会の旗の色がまだ残っているように見えた。


「……お助けクラブ、やっぱりすごいね」


 気づいたら、私が声に出していた。

 美空ちゃんと湊くんが、少しだけ目を合わせてうなずいた。



 ――結果よりも、自分を信じられたこと。

 それが、りんさんにとっての本当のゴールだった。

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