第2話 記憶を売る町-2-
朝。窓越しに差し込む光は柔らかく、けれどどこか無機質だった。
宿の部屋の木の壁には、夜の間に染み込んだランプの匂いがわずかに残っている。布団を抜け出したリオは、まだ半分夢の中のような頭で外を眺めた。
通りにはすでに人々が行き交っている。彼らの顔には表情があるようでいて、どこかのっぺりと均質だ。笑っているように見える人も、怒っているように見える人も、深く観察すれば「演じている」としか思えない。
「クロウ……この町、やっぱりおかしいよね」
小声で呟くと、肩に止まっていた機械鳥は黒い翼を軽く揺らした。
「リオ、おかしいと感じるのは君がまだ“売っていない”からだ」
「売らなきゃ楽になれないのかな」
「楽……かどうかは分からない。ただ、彼らは“痛みを手放す”ことを幸福だと信じている」
そのやり取りが、朝の静けさを切り裂いた。リオは胸の奥が妙にざわつくのを感じながら、外に出る支度を整えた。
市場は前日よりもさらに賑わっていた。
果物の甘い香り、香辛料の鼻をくすぐる刺激、布の擦れる音、人々の笑い声。すべてが鮮やかで、しかしどこか均質に整えられている。
リオが足を止めたのは、露店の一角。そこには「記憶見本市」と書かれた布が掲げられ、透明な瓶がずらりと並んでいた。中には淡い光の粒が漂い、それぞれ異なる色を放っている。
「試してみるかい?」
店主の男がにやりと笑った。灰色の髭を蓄えたその顔も、やはり均質さを帯びていた。
リオは小さな瓶を手に取る。青白い光がゆらめいた瞬間――視界がぐらりと揺れた。
彼女の頭に飛び込んできたのは、ある少女の記憶。
雨の中で傘を失くした帰り道。冷たい水が髪を伝い、頬を叩く。靴の中にまで水が染み込み、涙と雨粒が混ざって視界がにじむ。
だが、そのすぐ後に差し出された温かな手。誰かが自分の傘を差し出し、笑顔で寄り添ってくれた瞬間。
リオは思わず涙ぐみ、瓶を手から放しそうになった。
「これは……」
「誰かの“悲しみと救い”の記憶だよ」店主が肩をすくめる。「悲しみだけを売れば楽になる。救いの部分を残すこともできる。でもね、多くの人は丸ごと売っちまうんだ」
リオは黙って瓶を棚に戻した。胸の奥に残る温もりと痛みが、同時に自分を揺さぶっていた。
昼頃、リオは広場のベンチに腰を下ろした。周囲では子供たちが遊んでいる。
ただし――彼らの笑い声は響いているのに、どこか「熱」が欠けている。
ひとりの少年がリオに近づいた。
「お姉ちゃん、旅人?」
「ああ、そうだよ」
「なら、記憶を売らないの? みんな売るのに」
その無邪気な問いに、リオは言葉を失った。
少年は小さな瓶を取り出す。「これ、昨日の泣いた記憶。いらないから売っちゃう」
瓶の中で淡い光が揺れる。確かにそこには“泣き声”が封じ込められているように見えた。
「それを売ったら、君はもう泣かなくなるの?」
「うん。泣かないで済む。だから楽しい」
リオは首を横に振る。
「でもね……泣いた記憶があるから、誰かに優しくされたとき、もっと嬉しいんだよ」
少年はきょとんとした顔をした。「……難しいこと言うね」
クロウが羽を震わせて呟く。「リオ、君は子供にまで説法する気か?」
「ううん。ただ……伝えたかったんだ。大切なものは、痛みと一緒にあるって」
夕方、リオは前日に出会った“記憶屋の少女”の店を再び訪れた。
少女は相変わらず穏やかに微笑んでいた。
「戻ってきたのね。気になるでしょう、この町の仕組み」
「……えぇ」リオは頷いた。
少女は瓶を一つ取り出した。
「これは私の記憶よ」
瓶の中には赤い光が揺れていた。
「母が病で死んだ日の記憶。苦しくて、どうしようもなくて……それを売ろうと思った。でもね、最後の瞬間に母が私の名前を呼んでくれた。その声まで消えちゃうのが怖くて、結局売れなかったの」
リオは息を呑んだ。少女の笑みは穏やかだったが、その奥には深い傷が隠されていた。
「……それを抱えて、生きているんだね」
「そう。だからこそ私は、この店に立っていられるの」
二人はしばらく黙って瓶を見つめていた。赤い光はゆっくりと脈打ち、まるで心臓の鼓動のように見えた。
夜。
宿に戻ったリオは、窓辺でノートを広げた。旅の記録を書き留めるためだ。
しかし、言葉がなかなか出てこない。
――記憶を売る町。
――均質な笑顔。
――痛みと喜びを切り離した人々。
ペン先が震え、インクが滲んだ。リオは静かに呟いた。
「私は……痛みを忘れたくない」
クロウが低く鳴いた。「なら、この町に長く留まるべきではない」
「分かってる。でも、もう少しだけ……知りたいんだ」
リオは夜空を見上げた。星々は冷たく光り、遠い旅路を暗示しているように思えた。
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