旅人リオと記憶の町
雪下 ゆかり
第1話 記憶を売る町-1-
高原の風は、朝の空気にわずかな湿り気を帯びて、リオの髪をさらりと揺らした。乾いた草の匂いと、遠くの砂埃の香りが入り混じり、呼吸するたびに喉の奥に微かに刺激を残す。肩に止まった機械鳥クロウが小さく羽を震わせ、鋭く囁いた。
「次の町は……『記憶を売る町』だそうだ」
リオは眉をひそめる。18歳の少女にとって、町の名前はあまりにも奇妙で、心の奥に不安と好奇心が同時に湧き上がった。痛みや喜びを物として売る町――想像するだけで胸がざわつく。
遠くに白くそびえる城壁が見える。朝日を浴びて輝く壁は、無数の花びらが宙に浮かぶようで、遠景からは幻想的に見えた。しかし、近づくと複雑な文様が彫られており、遠目と近景で印象が大きく変わる。城壁の陰影に町の秘密が隠されているような錯覚を覚え、リオの心臓は微かに早鐘を打った。
二輪車のタイヤが砂を蹴り上げ、石畳に落ちる音が静かに響く。風に乗ってかすかな馬のひづめの音や遠くで鳥が鳴く声が届く。胸に押し寄せる期待と不安、旅人としての心の高鳴りが、風の振動と共に体全体を揺さぶった。
「……ここが本当にあの町?」リオは小さく呟く。声が朝の空気に溶けて、砂の匂いに混じった。
クロウは肩で羽を震わせ、鋭い声で応える。「間違いない、リオ。町の噂は正しかった」
リオは深呼吸をした。胸の奥で、痛みも喜びも自分のものとして抱きしめる覚悟を確かめる。18歳という年齢はまだ若く、未知の世界に触れる好奇心は強いが、同時に感情の厚みに押し潰されそうな脆さもある。
門をくぐると、町の景色が一変した。整然と並ぶ建物、石畳の道、そして穏やかな表情の町民たち。だが、その表情は均質で、感情の起伏がほとんど感じられない。笑う人も、怒る人も、驚く人も、微かに作られた均衡の中で生きているかのようだった。
町の至るところに小さな店が立ち並び、看板には「記憶商会」「追憶堂」「忘却屋」と描かれている。窓の向こうには瓶に入った記憶が淡く揺れ、光を反射していた。光が差し込むたびに、瓶の中で微かに波打つ光の粒が、まるで時間の欠片を閉じ込めたかのように見えた。
「ようこそ、旅人さん」
声の主は小柄な少女だった。透明感のある瞳、透き通るような肌、初めて会ったのに懐かしい印象を与える。彼女は町の“記憶屋”で働いているという。小さな手で店の扉を開きながら、微笑みを浮かべる。
「この町では、いらない記憶を売ることができるの。悲しい記憶、苦しい記憶、恥ずかしい記憶……全部ね」
「売る……? 買う人もいるのか?」リオは少し戸惑いながら尋ねた。
「ええ。他人の人生を体験したくなる人は多いの。苦しみも喜びも、物語として消費されるの」
リオは店内に足を踏み入れた。棚に並ぶ透明な瓶を一つ手に取る。淡い光が揺れ、瞬間的に脳裏に記憶が流れ込む。戦場の炎、叫び声、血の匂い、泣き声――誰かの苦しみがありありと蘇る。手が震え、胸の奥が締め付けられた。
「これは……十年前の戦争で、ある兵士が売った記憶。もう彼自身は忘れている」
「それで幸せになれたのか?」リオは問いかける。
少女は微笑み、少し黙り込んだ。「さあ、どうかしら。でも彼は『楽になった』と言っていたわ」
リオは瓶をそっと戻す。外の景色を見つめる。町全体が、痛みを手放した人々の均質な安らぎで満たされている。しかし、その安らぎは本当に幸福なのか――胸の奥に疑問が広がる。
町を歩くと、市場の喧騒が広がった。色鮮やかな布や果物、香辛料の匂いが入り混じり、石畳の上に足音が反響する。
市場の雑踏の中で、リオは人々の細かな仕草まで観察した。老人が手にする瓶の中には、初恋の記憶が詰まっていた。手を繋いだ瞬間の鼓動、顔が赤くなる感覚。瓶に触れた客は微笑むが、どこか胸の奥が締め付けられるようだった。
若い母親は、子供が初めて歩いた日の記憶を売っていた。小さな手の温もり、声、笑顔。その一瞬を手放すことで、母親は日常の重みを少しだけ軽くすることができる。少年は初めて友達と出会った日の喜びを手放そうとしていた。笑い声が瓶の中で光に変わるように見えた。
リオは思った――痛みを売ることで楽になれる。しかし、感情の厚みまで削ぎ落としてしまうのではないか。喜びも、温もりも、失われるのではないか。
クロウが肩で小さく羽を震わせ、鋭く囁く。「リオ、君はこの町の理屈に飲まれず、自分の心を守ろうとしている」
「そうだね……」
夜、宿に到着したリオは、窓際に座る青年と目が合った。青白い顔、痩せた体、鋭い目。その瞳には深い疲労と空虚な光が宿る。
「君も見たか、瓶詰めの記憶を?」
「ああ……君は売ったのか?」
「もちろん。家族を失った記憶を全て売った。もう泣かなくていい」
「それで幸せか?」
青年は空虚な笑みを浮かべた。「幸せかどうかは分からない。ただ、もう“過去”はない。あるのは空っぽの今だけ」
リオはその顔をじっと見つめ、胸に波紋が広がった。誰かの痛みを知ること、喜びを理解すること――それは旅人としての自分の楽しみでもある。しかし、それを失ったら旅の意味は消えてしまうだろう。
宿の屋上で、リオは星空を見上げた。風が頬を撫で、遠くの街灯がかすかに揺れる。クロウは肩で羽を震わせ、静かに囁く。
「リオ、君は痛みを抱えて旅する覚悟があるのか」
リオは夜空を見つめながら答えた。「ああ。痛みも喜びも、私の旅の証だから」
彼女の胸には、町で見た人々の喜びや悲しみが渦巻く。均質な幸福、痛みを忘れた笑顔、瓶に封じられた思い出――それらすべてが、自分の旅の意味を問いかけていた。
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