第24話 松
欄干の傍にある建物。その一角に立っている松。その前に一つの人影があった。それは手を伸ばす。その先にはしめ縄がある。徐々に近づく指先。
「来ると思ってましたよ」
その陰の背中に音もなく近づいた者が静止させる声をかけた。影は振り返る。
「こんばんは。奇遇ですね。こんなところで会うなんて」
弾正忠明だった。相変わらずの笑みを湛えている。
「何やっているんです?」
その影、いや坂上戊戌の問いに
「それはこちらのセリフですよ」
弾正は坂上に近づく。
「早く帰らないと疲れが取れませんよ」
「これから帰るんです。こっちがうちの方向なんで」
「ええ、知ってますよ」
「噂の場所なんで寄ってみようかと」
「そうですか。でも確か、今君の家、リフォーム中ではなかったでしたっけ? 家は向こう。そうこことは正反対の方向」
「そ、そうですよ。いやだな。いつもの癖でこっちに来ただけですよ。あ、どうしようかな。こっからまた向こうまで行かないと」
「リフォームし始めて一か月。まだ慣れませんか、そうですか」
弾正は、戸惑い取り繕うような弁の坂上を意に介すこともなく、松の周りをゆっくりと歩く。坂上に背中を見せた格好で立ち止まる。
「チ」
舌打ちをした坂上が拳を高々と挙げた。今にも振り下ろさんとした瞬間。それ以上振り下ろすことができなくなった。力が、とても強い力が振り下ろすのを阻止していた。坂上は自分の手を見た。そこにはほのかに光るパワーストーンのブレスレットがいつの間にか巻かれてあった。さらに後方を見やる。
「それ以上はさせないわよ」
長木がグッと踏ん張っていた。坂上の手首にあるパワーストーンのブレスレットから見えない糸が伸びそれを引っ張っていて、坂上が手を振り下ろさないようにしているようだった。
「クソ、なんで」
「なんでと言われてもね。君は誰を相手にしているか、分かっていますよね。僕らは君らで言う並みの人間、ではないのですよ。君がしようとしていることが分からなくても、君が監視の目を置いておかなければならないというのは分かりますよ」
そこに駆け付けたのは門野であった。光景に絶句する。弾正が松の傍らにいて、坂上の手首には光る物体があり、相手を殴ろうとしているができないようで、その坂上の背後から長木をそうはさせまいと、坂上の手首を糸で引っ張るような態勢でいる。
「みんな……何やって……」
「やあ、そろいましたね。門野君が来るのは予想外でした」
弾正の手招きがなくても、門野は近づいて行く。
「おい、坂上」
門野には確かめなければならないことがあったからである。坂上の前に立つ。長木に手を向ける。門野にしてみれば、長木が何をしているのか、恐らく術を使っていることぐらいが分かった。それを解除するように願いをしたのだ。やはり糸を引っ張るように、そう釣り糸を一旦手元に戻すようなしぐさを長木がすると、坂上は手首をさすりながら姿勢を正した。
「門野君、皆ひどいんだ。いきなりこんな…」
「もういい、坂上。お前が俺の知っている奴じゃないことは分かっている。それにお前…憑き物がいるんだろ」
「何言ってるんだ、門野君まで僕は……」
「こんな仕事をやってんだ。普通の人間とそうじゃない人間は分かるんだよ」
それを聞くと坂上は顔を地面に向けた。肩が震える。それは気味の悪い笑い声を導き出した。
「ああ、そうだよ。こいつは俺が乗っ取った」
坂上の普通の声からは思いもつかないような、オクターブがかなり上の、しかも節々で奇怪なトーンになる口調が唯ならぬことを再認識させる。
「お前も乗っ取ってやるよ」
両手を構えて、門野に襲いかかろうとした。しかしそれは叶うことがなく、坂上はふっとばされて地面に伏した。
「悪いがこいつの相棒は私が先んじている」
霊獣が門野の前に立ち、尾で坂上を払ったのだった。
「クソ、やはり人間の身体は動きづらいな」
口元を拭いながら坂上は身を起こした。その顔は墨で書かれた隈取が覆い、丸みを帯びた尻尾が腰元から現れている。
「人間風情があなどるなよ」
霊獣が再び坂上を払おうとする。その動きを門野が制した。
「こいつは人間なんだ。お前の力を使ったら死んでしまう」
「憑かれているのだぞ」
「それなら除霊すればいい」
「どうやって」
ケンカするのも仲がいいとはよく言ったものだが、門野と霊獣との口論は別機行うべきとばかりに
「僕がやりますよ」
買って出たのは弾正だった。向かい合う弾正と異形を呈する坂上。弾正はおもむろにポケットに手を突っ込んだ後、結んだ左手を前方に水平に挙げた。指をゆっくりと開けていく。そこには人のシルエットを象った白地の紙があった。それにフウ吐息を吹きかけると、それは直立した。その光景を見ていた門野はマジックか何か、種でも仕掛けでもあるのではないかと思ったのだが、自分が存分にマジック以上の存在を引き連れていることには、すっぽり思考が回らなくなっていた。それを見て長木がジト目で門野の属性に天然というキャラがあることを察していた。
「紙人形で何ができる」
意地悪そうに坂上が問うが
「おや、憑き物でありながらこれが何か分かっていないんですか」
「なんだと」
事も無げに答える弾正に、坂上は微妙な苛立ちの色を見せた。
弾正は細い毛筆を取出し、紙にスラスラと記載をした。門野が注視してみると、そこには坂上戊戌と名が記されていた。
「では、始めましょうか」
そういうと、弾正は紙の人形の腕をひねった。
「弾正さん、一体……?」
問うとする門野と、それを見守っていた長木の耳に絶叫が届いた。その方を見る。坂上である。腕を抱え、地にへたり込んでいる。
「な……、何、しやがった」
脂汗を流しながら弾正を睨みつけている。弾正はそれに答えることはなく、今度は人形の足の部分をねじる。再び悲鳴を坂上が上げる。彼の足があり得ない角度に曲がる。ひねり、ねじっていた紙の部分を元に戻すと、今度は右の手で、左手を上から叩きつけた。重力がとてつもない大きさで襲ったかのように、坂上は大の字に地に伏し、起き上がることができない。紙人形に起こったことは、坂上の身体にも起こる。そういう術を施したのだった。
「クソっ」
坂上が抵抗を見せるも、それは叶うことはない。しかもよく見れば、坂上が臥せっている地には円形の陣が敷かれており、その領域から逃れられないようになっていた。
「あれ……って」
よもやと思い長木を見る。門野は長木の手首足首のブレスレットの数が減っていることに気付いた。
「お前…」
「いろいろとね、準備をしておくことは必要よ」
一体いつそれをしたのか、どういう仕組みなのかは知れないが、長木がブレスレットを使って円陣を形成したのは紛れないことだった。
「では、最終工程です」
弾正は右手を左手から離すと、宙で九字を切った。紙に指を伸ばし、名前をまるでつまむようにすると、そのまま引っ張り上げる仕草をした。すると、紙から糸が飛び出してきた。三度目の絶叫がこだまする。坂上の身体から黒い影が上昇して行っていた。そのままそれを続けると、糸が途切れた。坂上の身体から出ていた黒い影もその全容を顕わにする。影は宙に放られていた。
「オサム、あいつを」
霊獣に促され、門野はそいつをとっ捕まえた。
「こいつは……」
門野にはそれに関する知識が疎い。何なのかが分からないが、動物であることに間違いはなかった。
「ムジナですね」
術を完了した弾正は、紙人形に何やら液体をかけていた。門野には強いアルコール臭に思えた。
「日本酒ですよ。お浄め用です」
小瓶をポケットに仕舞う。そんなものまでも用意しているとは、弾正という人は、ここに至って、やはり唯の風紀委員会長ではないのだなと、門野は確認していた。
円陣を形成していた長木のパワーストーンたちは、絵画的表記が元の石に戻り、長木の手元に飛行して返って来た。
「おい、弾正とやら」
「なんでしょう?」
霊獣の呼びかけにも臆することなく軽く返答する。
「アホか、お前は。何という荒い方法を使ったんだ。あれでは人間の身がもたんぞ」
「大丈夫ですよぉ。ヤバそうだったら、途中で止めてましたし。いざとなったら卜部さんに続きをやってもらえばと思ってね」
「その卜部とやらは専門家なのか」
「ええ、巫女ですよ」
「なら、最初からそやつに頼めばよかろう」
「でも、お手を煩わすのも何かなと思いまして。それに今回は緊急というか、出たとこ勝負みたいなところがありまして、実際坂上君の状態を正確に分かっていたわけではないので」
「ああ、そうかい。しかし、気を付けるこったな。今回はうまくいったが、それが続くとは限らん」
「ご忠告、肝に銘じておきます」
弾正と霊獣の会話など、門野にとっては物珍しいサーカスのショーのようであり、弾正は霊獣相手とはいえ、きっと本気で話してはいないのだろうと察していた。と、他者のやり取りに気をとられている場合ではない。手には依然として、奇妙な生き物がばたついているのだ。
「弾正さん、こいつ…」
「ああ、ムジナですね」
「ムジナって何です?」
問いに、弾正が知らないんですかみたいな表情を浮かべるのを見とめ、門野は長木を見やった。お前も知らないよな的な視線を込めて。
「実は私も……」
「それはそうかもしれませんね。ムジナはアナグマの一種です。狐や狸のように化ける能力があると言われています。こうして憑依することも。実際ムジナが憑依するのを目撃したのは初めてですけどね」
そんな解説をされた当の本人が
「おい、離しやがれ」
尻尾を門野に持たれながらも、身をくねらせて抵抗を見せている。
「しゃべった!」
門野も長木も驚嘆する。
「おい、オサム。私もしゃべっているではないか」
「そうだけど、お前は霊獣だろ。普通の動物じゃねえじゃねえかよ。普通、動物はしゃべんねえからよ」
「お前たちの思考はよく分からんな。どうしてこうも都合よく論理を変えられるのか…」
そうは言われても霊獣は動物ではないので許容できるが、動物が動物らしさを超えているのは十分驚くに足ると思う門野は、霊獣の機嫌を損ねてもとそれ以上何も言わなかった。
「話せて好都合です」
「弾正さん」
「事情聴取ですよ。坂上君にとり憑いた理由とか、聞けるじゃないですか」
「ああ、そういう……」
と言いかけて、門野はすっかりとり憑かれた被害者たる坂上のことをすっかり忘れていることに気付いた。地を見る。相変わらず伏せっている。
「まさか死んだんじゃ…」
「大丈夫。息はあるわ」
長木の確認に安堵の息が漏れる。
「隈取ができたり、尻尾が生えたりしてましたからね。それにちょっと強引な除霊法。身体に負担がかかっているのでしょう」
門野は聞き逃さなかった。弾正が術を強引だったと認めたことを。それでもこの人がいなければ、それさえもできなかったことを考えれば、致し方ないことにも思えた。
「しばらく眠れば回復するだろう」
霊獣の言葉はこういう時に非常に心強い。何を保証しているわけでもないのだが。
「それじゃあ、今日はここまでですね」
「て、こいつどうするんです?」
散会しようとする弾正に、坂上とムジナを指さしながら、門野が尋ねると
「大丈夫です。それは預かります。そして、手配もしてありますから」
遠くからドップラー効果を携えて救急車のサイレンが近づいていた。ムジナは弾正お預かりとなった。
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