第7話 霊獣

 新年度の始業式が数日後に控えたある日のことだった。夕刻、愛用の自転車で外出をした。二年ともなれば各教科共に内容が濃くなる。参考書や教科書ガイドなども改めて準備せねばならない。市で一番大きな書店へ足を向けようというわけであった。しかし、ペダルをこぎながら、そちらへ向かうルートではない方向へハンドルを切りたい衝動となった。その書店は二十一時まで開いているし、夕刻と言っても夕食にはまだ時間がある。サイクリングも悪くはない。そんな心持で風を切って行った。

 ほどなくして海岸線に設けられたサイクリングコースに出た。海は穏やかと呼ぶにはいささか白色の波を立たせ、砂岩を打っていた。桜の開花はまだ先だよと言いたげな冷たい風が肌を撫でていく。さすがに手袋をしてくるべきだったかなどと後悔が頭の片隅に浮かんでくる。それでも方向転換をすることもなく、直進を滑って行く。

 さて、そろそろ市街地へ向かおうかとふと視線をずらした時のことだった。サイクリングコースから二車線の車道を挟んだ向かい側にある防砂林の一角が気になった。特殊な発光現象があったわけでもないし、煙が上っているわけでもない。しかし、そこがただならぬ雰囲気を醸し出しているというのが分かるのは、日ごろの鍛錬の成果か、あるいは家系がそうなのか、いずれにせよ、門野は防砂林の方へ向きを改めた。防砂林には歩行者専用の幅の細い通路ができていた。そこを滑走の自転車があった。幸いか、人は通っていない。

「あの方向は、確か……」

 門野は嫌な予感と、それに合わせて高まる動悸を抑えながら、ペダルをこぐスピードを上げた。

 ブレーキをかけ、高そうな自転車を、スタンドをかけることもなく倒したのは、小さな祠の前だった。ここに古くからの祠があると聞いていたのだ。異様な光景が目の前にあった。確かにただならぬ状況である。というのも一匹(この序数が適当かどうかはさておき)の霊獣――これも《異人》である。その容姿は、麒麟を彷彿とさせる――が、その祠を壊さんが姿勢であったからである。その形相からして腰を抜かしてもおかしくはなく、平静に心身を鍛え、《異人》を存分に知っていた門野だから、抜かさずに済んではいたが、彼にしても、人生初の脂汗というものをかいていた(それを認識したのは事が済んでからであったが)

「おい」

 門野は震える手に力を込めて放った。霊獣は人語を解せたで門野を一瞥すると

「何だ、人間。何か用か」

 と睨みつけてきた。その恐ろしさは、いつ飛び出してくるか分からない、遊園地のお化け屋敷の比ではなかった。現前にそれ恐ろしいものがいるのである。身じろぐ。手袋を忘れた度と抜かしていたのが後悔ではないと思い知らされるくらいだ。やはり来るべきではなかったと思えるくらいの恐ろしさだったのだ。

 しかし、門野は一瞬でもそんなことを想起した己を恥じ、そういう叱る思考もしつけのたまものであったのであろう。が、門野はそんなことよりも立ち向かうべきだと心を決めた。ここを去るという選択肢を浮かべてしまった自分を拭い、この場を治めるということを。

「そこで何をしている」

「お前には関係のないこと。速やかに立ち去れ」

「んな破壊活動をこれからしまうよっていう姿勢見て、のこのこと帰れるかよ」

「人間に何ができる」

「こっから逃げる以外のことだ!」

 言うが早いか、地面に転がってあった木の枝を駆けながら拾うと、霊獣めがけて突進していく。面打ち、上から振り下ろしたそれは空を切った。霊獣はその図体からは予想が立てられないくらいの身の軽やかさで宙を翻り、地に足を落とした。

「そんなもので、妨げられるとでも思っているのか、浅はかな」

「やってみなきゃ分からんだろうが」

 引くこともなく、先程までの身震えなども消え、門野は木の枝を振りかぶり、何度も霊獣に挑みかかる。霊獣は身のこなしが鮮やかで、門野の攻撃を余裕綽々でかわす。さらには尾や足で巧みに門野を打つ。地面に倒され、転がり、土で汚れながらも、門野はすぐに立ち上がり構えをとる。荒げる息が、並みの運動量でないことを門野自身に知らせていた。

(ヤベぇな、長期戦は不利だ。だからと言って一撃で形勢逆転は難しそうだ……)

 そんな中、思考がやたらに冷静だった。

 ――落ち着こう

 瞼を閉じ、呼吸を整えていく。姉も兄も言っていた。集中はどんな時でも必要だと。感覚を研ぎ澄ます。その一歩は呼吸を深くして、目で見ないことだと。明鏡止水などは彼岸のことだが、それくらいはできる。門野は一つの結論を行動に移すことにした。

「行くぞ!」

 一声。勢いをつけて疾走していく。それは霊獣への向きではない。祠に向けてであった。なおも駆ける。間もなくぶつかるというのに躊躇がない。けたたましい音が防砂林に響き、どこかに止まっていた鳥たちが怯えた声を出して飛び去って行った。粉じんが辺りに漂う。

「ガホッ、ガホッ」

 霊獣はせき込み、祠に顔を向ける。祠は粉みじんに瓦解していた。その傍らに門野が気を失って横たわっていた。霊獣は門野に近づき、顔を覗き込むと

「ハッー」

 と一つ大きな嘆息をした。

「どうした」

 紋付き袴をまとい、白地に夷と毛筆で書かれ目のところだけが開いている面をつけた者が霊獣の横から声をかけた。

「いえ、バカな人間もいるものだと」

「無茶しよるからのお。鏡が割れておったら、祟られていたところだ。よくもこう間一髪にできたものよ」

「だから私がやろうとしていたのに、全く耳を傾けぬから」

「まあよい。まずはこの人間を癒さんことにはな」

 面を被った袴者は門野の傍らで片膝をつくと、その掌を門野の胸の中央部にかざした。ほのかな輝きを放つ球体が胸と掌の間に浮かぶ。数秒して門野は思い瞼を開いた。覗き込んでいる顔二つ。変な面と霊獣。門野は飛び上がり身構える。

「助っ人を呼んだのか。来るなら……来て……み……ろ……?」

 門野は言いながら不思議に思ったのだ。どうも身が軽い。霊獣と一戦交えた時の切り傷、打撲の痛み、いやそれ以上に覚悟を決めて建造物に突っ込んだ痛みなどまるでなく、それどころか、チャリに跨って来た疲労感さえもなく、熟睡した後の目覚めなくらいに爽快さを感じていた。

「人間、そなたの名は?」

「門野治」

 袴者の問いにあっさりと答えてしまった。

「ああ、門野の血筋か」

「ところで……あんたは?」

「我は、ほれ、そなたがぶっ壊した祠の住人。祀られておった者だよ」

「はあ~? ってことは何か……神……さま……?」

 開いた口がふさがらないとはこういうことを言うくらいの表情を浮かべる(慣用句的な意味ではなく、顔の構造的な意味で)

「それがなんで霊獣なんかと……?」

 その話題に出された霊獣はもう一つ深いため息をついて、事情を説明しだした。

「なんかとはなんだ、なんかとは。少なくとも人間よりも高尚な存在なのだぞ」

 という始まり方で。

 霊獣はほかならぬ袴者、もといこの神に呼ばれたこと、褻比夷市が治安悪化したためひと肌脱ごうと祠から解放される必要があったこと、そのため霊獣がぶっ壊そうとしたことを順に。

「なんだよ、それじゃあ、俺がお前と戦ったことって……」

「まあ体力の無駄遣いってところだな」

 肩の力が抜ける。

「てか紛らわしいことしてんなよ」

 逆ギレの気分である。門野にしてみれば、そんなことは人も通らない夜中にしてくれと批判してみたくなる。

「ところで門野の血筋の者よ……オサムと言ったな」

「そなた、なぜ故に祠に突っ込んだ」

「なぜって言われてもな。霊獣を倒すなんて無理だったし、それならこいつの攻撃対象そのものがなくなれば大人しく引き下がるかなと思って」

「ふむ」

 髪は顎に手を当て思案の素振りをして、霊獣を見やってから

「オサムよ、少し協力せんか?」

 突然の申し出であった。しかも神からの。

「先も言った通り、私は褻比夷市を守りたい。そのためにこいつも呼んだ。祠も、どいつか知らんが、ぶっ壊してしまい安住する所がなくなった。そこでだ。我らがそなたに憑いてこの地を守る。どうやらそなたには力もありそうだしの」

 霊獣は一つ首肯する。

 祠をぶっ壊した張本人にしてみれば、逃げようのない誘い方であった。

「憑くって……?」

「なに心配はいらんよ。しばらくは静観じゃよ。それに起きても我らが助言する通りにすればよい」

 というわけで、契約成立。実際この三か月間に門野が出陣を促されたのはわずか三件。いずれもあっさりと片を付けることができた。

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