どじょうと慕情 ~浅草失恋ラプソディー~

浦松夕介

前編 浅草傷心道中

 秋の終わりほど、別れるのに悲しい季節はない。


 冬という大海に一人さびしく島流しにされるからだ。このいかだの行き着く先は風だけが知っている。このクソ寒いぴぃぷぅ北風だけが知っている。


「うぅ、っぶ……」


 ちくしょう、せめていつまでの航行になるか教えろってんだ。こちとらその前に沈んじまう。春まで漂流なんて耐えられない。


「ぐすっ、なんだよ! 何が───!」


(もっと清楚で母性ある人が好きだよバカっ! 母性に飢えてんなら実家に帰って母ちゃんのおっぱい吸ってろよ、よわい二十八!)


 ついづまばしらんかんに飛び乗って叫びたくなる。でも下の屋形船の皆さんをビックリさせてしまうだろうからやめておいた。


 あぁ、あのうんこ野郎。顔を上げたら金色の例のビルが見えた。あれはビールの泡なのだ。


 スカイツリーが夕闇の中でキラキラ光って、あたしだけをコケにしている。あの最上階にも二人で上ったものだ。高所恐怖症ということにして怖い怖い言いながら腕を組んだのが一年前だ。


 時を戻せるならそのまま背負い投げしてガラスをぶち破って、634メートルからロープなしでスカイダイビングさせてあげたい。きっと気持ちいい、私が。そして機関銃ぶっ放したあとの女子高生みたいなことを言ってみたいものである。


「はぁ……」


 でも現実には、ため息しか出ないのだ。


 大げさにそううつとまでは言わないが、心の調子が乱高下していてずっとよくない。あんな男は忘れてあたしはあたしの人生を生きるのよレリゴーモードから、忘れらんねぇよ会いたくて会いたくて震えるよモードを行ったり来たりしている。


 正直疲れていた。せっかくの貴重な休日も今こうして、かつての二人の思い出を振り返るためのセンチメンタルジャーニーで消費してしまっている。自尊心を下げるだけで、よくないとは知りつつも。


 同僚の香里かおりに相談したら、「美味いメシ食って酒飲んで寝ろ」と言われた。相談する相手を間違えた。今年入社してきた新卒のはるちゃんに相談すればよかった。


 他部署だから一言も話したことはないし面識も一切ないが、彼女ならきっと「大丈夫です!」と言ってくれたはずだ。何やら今日も仕事でミスして泣いちゃったそうで、ずっと「大丈夫です!」って言ってたそうだけど大丈夫だろうか。


 誰だってそれぞれ悩みはある。人それぞれに地獄があると宇垣アナも言ってたし、他人の「つらい」が僕の「つらい」になんの関係があるんだということを福満しげゆきも言っていた。いや、何かの漫画で描いていた。そういえば勝手に弟の部屋に入ってよく読んでいた。沖縄でも元気にやってるかな、弟。


 なぜ『ほっともっと』があって『ほっかほっか亭』がないのだと嘆いていた弟。


 なぜこの神の飲み物ルートビアを「湿布薬」と侮蔑する輩が後を絶たないのかと激怒していた弟。


 でも私はドクターペッパーですらちょっと苦手とラインで返信したら、ちいかわの泣いてるキメラのスタンプと一緒に「お前なんか姉じゃない」と返ってきた。たはは……。


 そうだよね、勝手に部屋に入ってマンガ漁ってごめんねと心の中で謝っておいた。十二年越しの感動的な謝罪に私は泣いた。でもあれから十二年ってことは、そういえば私は今年で二十九になるのか。私は泣いた。


 ───あぁ、よくデートしたこの浅草界隈。久しぶりに一人で歩くと、やっぱり街全体が暖かいということに気づく。今まで隣にいた人ばかり見ていて、すっかり忘れていたな。


 仲見世通りは露店の明かりと、そこを通る白い息でいっぱいだ。誰もが何かしらで笑っていた。


 揚げまんじゅうで笑い、外国語で笑い、恋人同士で笑っている。今すれ違ったあのカップル二人にもたっしゃで暮らせよと声をかけたい。


 だがこの人混みだというのに、彼氏の歩くスピードが彼女より三歩ぐらい早いからそこだけ減点しておいた。一歩ごとに5点だから×3でマイナス15点。85達者で暮らすがいい。


 せんそうでお参りする。なんだかんだで私が子供のころから通っている場所だ。


 祈ることはもちろん世界平和と、あいつとあいつの今カノ二人に持続可能な不幸が訪れますようにだ。あいつの幸福から私の不幸を差し引いた分だけ、それが人生に影響しないレベルのプチ不幸になればいい。


 例えば右の靴下にだけやたら穴が空くとか、マックでナゲット買うたびにバーベキューソースが在庫切れでマスタードしか選べないとか、スマホでユーチューブ見るたびにWi-Fiがいつの間にか切れてて気づかずにギガ消費とか。期限は私が幸せになるまでだ。それまでせいぜい58達者ぐらいで暮らすがいい。


 五時の終了時間ギリギリに間に合ったので、じょうこうの煙を浴びさせてもらう。相変わらずおばあちゃんの家の匂いがする香りだ。身体の悪い部分にこの煙をかけると、その部位の不調が治るという言い伝えがある。


 私は胸を突き出してそこに煙をかけた。恋にやぶれたこの心が治りますようにと願いながら。


 でもそういえばあいつ、あたしの胸が小さいっていつもそれとなく言ってたっけ。「小ぶりで可愛い」だの「俺の手でもすっぽり隠せるね」だのほざいてた。そういや、「もっと母性がある人がいい」ってまさかそういう意味か。


 いかん、思い出しイライラしてきた。この煙って本当に効果あるのか。いや、疑ったらたぶんご利益なくなるからやめておこう。


 おみくじを引いたら末吉だった。清い心を保てば待ち人は現れる。じゃあ手遅れだ。


 浅草寺を後にして、かみなりもんの外に出る。十一月の東京の夜は寒い。空を見上げるともう暗い。冬はすぐそこまできている、鼻息が冷たい近い近い。


 あぁ、それにしても腹が減った、そろそろあの店を探そう。たしかこっちの方だったはずだ。


 そして私はその足で国道6号を歩き、今回の傷心旅行さんぽの目的であるこまがたへとやって来た。


 あった、ここだ、どじょう鍋の店だ。


 前々から気にはなっていて、一度はあいつと入ろうとした。でも直前であいつがビビったのだ。だからまだ未食のままだった。


「いらっしゃいませー!」


 私は一人で暖簾のれんをくぐって、店に入った。

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