第5話

 セリアに背を向け、朝日が照らす道をリオンは一人、歩き始めた。


 故郷も、唯一心を通わせた少女も、全てを過去に置き去りにして。


 彼の胸に去来するのは、感傷ではない。もっと強くならなければならないという、燃えるような渇望だけだった。 


「必ず、迎えに行く。そのためには……」


 誰にも奪われない、絶対的な力が必要だ。


 脳裏に焼き付いた父の呪縛――「常に自分をアップデートしろ」。かつては憎しみと侮蔑の対象でしかなかったその言葉が、今や彼の唯一無二の道標となっていた。


 ◇


 冒険者の街「フロンティア」を目指す旅は、過酷を極めた。


 昼は森を駆け、空腹を狩りで満たし、夜は木の上でモンスターの気配を警戒しながら浅い眠りにつく。常に死と隣り合わせの緊張感が、リオンの感覚を研ぎ澄ませていく。


 旅を始めて三日目のことだった。食料調達のために森の奥深くへ足を踏み入れたリオンは、巨体と遭遇した。


「グオオオオオオッ!」


 身の丈3メートルはあろうかという、巨大な熊型のモンスター。その全身は黒光りする甲殻で覆われており、明らかに通常の熊ではない。


(あれは……アーマーベア!)


 村の書物で読んだことがある。ゴブリンなどとは比較にならない、Cランク相当の強力なモンスターだ。縄張りを荒らされた怒りか、アーマーベアは敵意を剥き出しにしてリオンを睨みつけていた。


 リオンは即座に剣を抜き、臨戦態勢に入る。


 ゴブリンとの死闘でアップデートされた身体能力は、以前の彼とは比べ物にならない。だが、目の前の巨獣が放つ威圧感は、ゴブリンの群れすら霞ませるほどだった。


 アーマーベアが猛然と突進してくる。その凄まじい突進を、リオンは最小限の動きで回避。


 しかし、振り下ろされた剛腕が地面を抉り、土と石が礫のように飛散した。掠っただけで致命傷になりかねない。


 リオンは冷静に相手を観察し、反撃の機会を窺う。


 ゴブリンとは比較にならないパワーとスピード。そして、何よりその分厚い甲殻が厄介だった。


 数度の攻防の末、リオンは大振りな爪の薙ぎ払いを屈んで回避し、がら空きになった懐へと滑り込むことに成功する。


「――そこだ!」


 狙うは、甲殻の薄い脇腹。全体重を乗せた剣先が、硬い皮膚を貫き、肉を裂く感触が手に伝わった。


「グギャアアアアッ!」


 しかし、手応えは浅い。致命傷には程遠く、むしろその一撃は巨獣の怒りに火を注ぐ結果となった。


 血走った目でリオンを捉えたアーマーベアが、先ほどとは比べ物にならない速度で剛腕を振り下ろす。


「しまっ――!」


 回避が間に合わない。リオンは咄嗟に左腕でガードするが、骨が砕ける鈍い音と共に、凄まじい衝撃が全身を襲った。


「ぐっ……ぁっ!」


 くの字に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。折れた左腕に激痛が走り、視界が霞んだ。


 追撃の巨腕が、リオンの頭上へと迫る。もはや、避ける力は残されていない。


(まだだ……)


 その瞬間。


 ピロン、と無機質な電子音が脳内に響き渡った。


『アップデートしますか? [Y/N]』


「……アップデート」


『スキル:身体強化 Lv.1 が Lv.2 にアップデートされました』


 直後、全身に熱い奔流が駆け巡った。折れたはずの左腕が瞬時に再生し、先ほどまでとは比較にならないほどの力が、体の奥底から漲ってくる。


 リオンは強化された脚力で地面を蹴り、振り下ろされる剛腕を紙一重で回避。


 そのままアーマーベアの腕を駆け上がると、剥き出しになった首筋に、渾身の力を込めて剣を突き立てた。


 巨体が、地響きを立てて倒れる。


 荒い息をつきながら、リオンは自らの腕を見下ろした。


 リオンはこの力の核心が、単なる再生やスキル獲得ではないことを確信し始めていた。「経験を糧に、自身を最適化し、進化させる力」。それが、この能力の本質だった。


 ◇


 数日後、リオンはついに目的の地へとたどり着いた。


 巨大な城壁に囲まれた、活気あふれる街。それが、冒険者の街「フロンティア」だった。


 獣人、エルフ、ドワーフ。村では見ることのなかった多種多様な種族が行き交い、武具のぶつかり合う音、威勢のいい商人たちの声が絶え間なく響いている。誰もが自らの力で成り上がろうとする、荒々しくも純粋な実力主義の世界。


(ここが……俺の新しい居場所だ)


 リオンは固く拳を握りしめ、街の中心に聳え立つ巨大な建物――冒険者ギルドへと向かった。


 ギルドの中は、酒と汗、そして冒険者たちの熱気で満ちていた。リオンは圧倒されながらも、受付カウンターへと進む。


「冒険者登録を、お願いします」


 受付の女性は、リオンの幼い姿を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに事務的な表情に戻った。


「はい。ではこちらの水晶に手を」


 言われるがままに水晶に触れると、淡い光と共に文字が浮かび上がる。


【名前】リオン

【年齢】10歳

【種族】ヒューマン

【スキル】剣術 Lv.1, 身体強化 Lv.2


「……レベル? レベルとは一体……?」


 受付嬢は眉をひそめ、水晶をまじまじと見つめる。この世界において、スキルにレベルという概念は存在しない。長年の経験によって技の精度が上がることがあっても、このように数値で可視化されることはないのだ。


「……まあ、いいでしょう。登録自体に問題はありませんので」


 受付嬢は一人で納得したように頷くと、手続きを進め、一枚の鉄製プレートをリオンに渡した。


「はい、これであなたもFランク冒険者です。頑張ってくださいね」


 Fランクのギルドカードを受け取ると、リオンは続けて、背負っていた袋の中から黒光りする甲殻と巨大な爪をカウンターに取り出した。


「すみません、これも買い取ってもらえますか?」


「はい、素材の買い取りです……って、こ、これは……まさか、アーマーベアの甲殻と爪じゃないですか!?」


 それまでの事務的な態度から一変、受付嬢が素っ頓狂な声を上げる。Cランク相当のモンスター素材が出てきたことに、周囲の冒険者たちも何事かと視線を向けた。


「これを、あなたが一人で……?」


「森で、運良く」


 リオンの簡潔な答えに、受付嬢は半信半疑ながらも素材を鑑定へ回す。やがて提示された買い取り価格は、金貨5枚。平民が数ヶ月は暮らせる大金に、ギルド内がどよめいた。


「おい、まじかよ」「あのガキがアーマーベアを?」という囁き声が聞こえてくる。


 金貨を受け取ったリオンが、突き刺さるような好奇と嫉妬の視線から逃れようとした、その時だった。


「やあ、君が噂の新人かい? 大した実力じゃないか。よかったら、俺たちの依頼を手伝いながら、冒険者の心得を学んでみないか?」


 声のした方を振り返ると、爽やかな笑顔を浮かべた青年が立っていた。彼の鎧は上質で、腰に下げた剣も見事なものだ。周りの冒険者たちが、彼を尊敬の眼差しで見ている。


「……あなたは?」


「俺はアルスト。"聖なる剣"というパーティーのリーダーをやっている。Bランクだ」


 Bランクパーティーからの、予期せぬ誘い。周囲からは「アルストさんは親切だな」「新人は運がいい」という声が聞こえてくる。


 だが、リオンの心は、前世の記憶とジークの裏切りによって、他人の善意を素直に信じることを忘れていた。


(……何か裏があるはずだ。アーマーベアの換金で大金が動いたのを見て、それに目をつけて近づいてきたか)


 大金を手にしたとはいえ、この街でソロで活動するには、あまりに知識も経験も足りていない。相手の魂胆を探り、この実力主義の街の流儀を学ぶためにも、あえてこの誘いに乗る価値はあると判断した。

  

「……ありがとうございます。ぜひ、お願いします」

 

 リオンは頭を下げた。


 アルストたちのパーティーが受けたのは、オーク討伐の依頼だった。


 リオンは彼らに連れられ、街の近くにある洞窟へと向かう。


 道中、アルストは戦闘の基本やモンスターの弱点などを、親切に教えてくれた。戦闘が始まっても、その連携は見事で、リオンに的確なアドバイスを送りながら、危なげなくオークを殲滅していく。


 あまりの親切さに、リオンの警戒心が揺らぎかけた、その時だった。


 洞窟の最深部で最後のオークを倒し、剥ぎ取り作業を終えた瞬間。


「さて、と……」


 それまで柔和な笑みを浮かべていたアルストの表情が、すっと消え、歪んだ嘲笑へと変わった。


「冒険者の心得、その1。この街では――誰のことも信じるな」


 その言葉を合図に、仲間たちが一斉に武器を抜き、リオンを取り囲んだ。彼らの瞳には、獲物を見つけた捕食者の光が宿っていた。


 だが、リオンの表情に驚きや恐怖の色はなかった。むしろ、その瞳には「やはりな」という冷めた光が宿っていた。


「……最初から、そのつもりだったんですね」


 静かな問いかけと共に、リオンもまた音もなく剣を抜く。その落ち着き払った態度が、逆にアルストの神経を逆撫でした。


「ハッ、面白いガキだ! 状況が分かってんのか? 俺たちはBランクパーティー"聖なる剣"。お前は登録したてのFランク。数の上でも、実力でも、お前に勝ち目はない!」


 アルストは下卑た笑みを浮かべ、リオンが手にした金貨袋を顎でしゃくる。


「その金貨5枚、お前のようなガキには不相応だ。ありがたく俺たちが使ってやるよ」


 さらにアルストは続けた。


「冒険者の心得、その2を教えてやる。弱者は、強者に何もかも奪われるのがこの世界のルールだ!」


 アルストが剣を振り上げ、その切っ先をリオンへと突きつけた。

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