渋滞
キャルシー
第1話 渋滞
ワイパーを止め、崇行はエアコンの設定温度を下げた。
「暑い。」
朝からしとしと降り続いていた雨はいつの間にか霧雨になっていた。ワイパーの音がやんで、車内が急に静かになる。エアコンが効いている車内はそれほど暑くはない。むしろ私には寒いくらいだ。右手で左腕をさする。左腕に触れた右手の指先は冷たい。でも彼が暑いというなら、設定温度を下げてもかまわない。
崇行が大きくため息をつく。空気が重い。私は運転席に座る彼をちらっと見る。前の車のブレーキランプで車内は赤く染まり、彼の顔やTシャツも同じ色に染まっている。そういえば、このTシャツは初めて見た。さっき私の部屋を出るときに自分のバッグから取り出して着替えていたのは見たけれど、聞くタイミングを逃してしまった。
「そのシャツ、新しいね。私、そのシャツ、初めて見た」
そう聞こうかと思ったけど、今になって突然聞くのも変な感じがした。彼は舌打ちをして指でステアリングをとんとんとんと三回たたいた。イライラしている時の彼の仕草だ。渋滞で車はさっきからノロノロ運転だ。前の車が進むたび、この車も少し進む。
ワイパーの止まったフロントガラスに霧雨が少しずつ着き、前が
崇行はサイドブレーキ付近のiPhoneに手を伸ばす。
「明日は晴れるかしら。」
と、私は空を見上げながら独り言のようにつぶやいた。クラブミュージックが車内に流れる。彼がiPhoneで再生したのだ。
「あ。私、この曲好き。」
崇行の顔を見てほほえんだ。彼とのドライブのとき、何度かこの曲がかかったことがあった。
初めてのドライブデートでも、この曲はかかっていた。もう四年になる。大学を出て同じ会社に配属された崇行。職場の同僚として出会ったが、当時はお互い付き合っている相手がいたため、特に気にとめることはなかった。
あれは大阪のクライアントに要件定義のヒアリングに行った帰りの新幹線の中のことだった。二人並んでビールを飲んでいたとき、どういう流れだったかは思い出せないけど、崇行と彼女との関係が最近うまくいっていないという話になった。そのときは私なりにアドバイスをした。当時二十二歳ぐらいだった彼には、女の気持ちは推し量りあぐねていたのだろう。私が聞いたところでも、彼の彼女に対する対応は同じ女として直してもらいたいと思うところがあった。年下の子に対してならなおさらだ。私は、年上の男性に甘えたいタイプの女の子は崇行の彼女になってはいけないように思う。
その後も二回ほど恋愛相談みたいなことをしてあげたけど、結局彼は彼女と破局。それと合わせたかのように、私も婚約していた相手と破局した。
そんな二人の初めてのドライブデートは、二人とも元気にふるまおうとしながらも、ちょうど今日のこのドライブと同じように空気が重たかった。二人とも破局直後だったからというのもあるが、私たちのチームに例の大阪のクライアントとのトラブルが発生し、私が会社を去ることになったのが大きかった。トラブルの原因は単純ではないが、そのきっかけの一つになったのは、彼が軽はずみにクライアントに言った一言だった。私が会社を辞めることの責任を感じていたのだろう。しかし本当のところ、そのトラブルだけが原因ではなく、職場でも社内外でも私の周りでいろいろなことが同時多発的に起こりすぎた。「もういいかな」と思ったので会社を辞めた。
ふぅ、と崇行がため息をつく。ため息で私は現実に引き戻される。彼は音楽を次々に変えながらやがてつぶやいた。
「どの曲も聞く気になれないか。」
彼は音楽を止めた。
「そうね。」私は答えた。「今まで、ちょっと聞きすぎたかな」
私は努めて明るく笑って見せた。「聞き飽きた」とはあえて言わなかった。尤も、聞き飽きたのが彼が「聞く気になれない」理由ではない。ついさっき、私の部屋であれほどの口論を繰り広げたばかりだ。楽しい思い出のある音楽を聴く気になれないのは理解できる。ただ、ワイパーを消したときに広がった無音に耐えられなくなってかけただけだったのだろう。
崇行はカーオーディオを操作し、ラジオに切り替えた。二人の空間が無音なのは耐えられないのだろう。
「別に私、怒ってないよ。崇行に何を言われても、何をされても。」
水滴の滲む助手席の窓越しに外を見ながら、私はそう言った。「あなたは何も悪くない」
本当は彼の眼を見て言いたいけど、彼の顔を見るのはちょっと怖い。
確か、初めてのドライブの時も同じことを言った。「あなたは何も悪くない。」
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