第9話 狂痕 【※監禁・暴力・性的暴力を想起させる描写があります。苦手な方はご注意ください】

 ━━━━バシャンッ!! 

 助けて! 息が出来ない!! 殺される助けて!!


 ザブッ!! ザバ!!


「ねぇ、言ってたよね? 俺の事好きって」


 首から上を落書きみたいに塗りつぶされている人が言った。

 その人に髪を掴まれて、風呂の水面に顔を押し付けられている女は、私以外の何者でも無かった。


「ゲホッゲホッ! 言っでな゛い゛ひぎゃ━━━━」

「言ったよな!! あ!? 何忘れてんだよ!!」


 バシャバシャバシャ!!


 言ってないよ。言ってない。知らない。死ぬ、殺される、……死にたくない。


「ほら? どう? 思い出して来た?」

「ゲホッ、はぁ……はぁ」


 頭が、ぼーっとする。


「お水でもっと顔を洗って、サッパリしようか」

「ッ!」


 髪を掴む手に、力が入るのを感じた。

 やだ、死にたくない、殺されたくない!


 私、言った……かも?


 +++ +++ +++


「あづイ゛!!」


 腕に押し付けられた熱に、ろくにご飯も貰えなくて、もう動かないと思っていた体が反射的に動いた。


「あぁ、久しぶりの理玖ちゃんの声だ。全然反応してくれないから、禁煙してるんだけど、買って来ちゃった」


 四角い箱の中。何本も小さな丸が見えた。


「お喋りしてくれないなら、次からコレを体の何処かに押し付けるね」


 悪魔だ。悪魔がいる。


「愛してる人の声を聞けないのは辛いんだよ? 分かるよね?」

「ち……がぅ、そんなの……愛情じゃ、無い……」


 怖かった。なけなしの勇気を振り絞ったけれど、あの箱の中の物を一気に体に押し付けられたらどうしようと……最悪の想像までした。


「そっか、そうだね……」


 頭をポンポンと撫でられる。その声は、昔よく聞いた声に似ていた。


「こんなの愛情じゃ無いね」


 分かって……くれた。


 宙に弧を描いて、ゴミ箱に入ってしまった箱に呆気に取られる。


「ねぇ、優しい俺は好き?」


 けど、それは一瞬だけだった。


「ひっ!」


 箱に入っていたものは捨てられたけれど、使いかけがまだ手にあった。

 また、火を押し付けられる。


 嫌で嫌で堪らなかったけれど、コクコクと頷くしかなかった。


 +++ +++ +++


 大丈夫。まだ大丈夫。

 痛い、怖い。全然話が通じない。

 助けて助けて助けて助けて助けて助けて。

 気持ち悪い。私はそんなこと思ってない。

 此処は家からそんなに離れてないはずだから、大丈夫、きっと助けてもらえる。

 駄目だ。この男は私を殺す。

 生き延びる事を考えろ。

 あれ? この人は優しい人?

 そうだ、言う事を聞いていれば痛い事はされない。

 優しい人、愛してる人、大好きな人。

 違う! 私を殺しに来る人間が、大好きな人な訳無いッ!!

 痛い痛い痛い、もう嫌だ、家に帰りたい。お兄ちゃん、助けて。

 どうして誰も助けに来てくれないの?

 死にたくない。でも、このまま生きたくもない。



 〜〜悪夢・終了〜〜



 ザアァと降る雨の音を聞きながら、薄暗い部屋で目を覚ます。朝は、凄く気持ちの良い晴れ模様だったのに……大きな窓の向こうの空は、濃い灰色だった。


「…………悪夢の後に、見たく無い色だなぁ」


 嫌な事が起きるフラグっぽいもん。


「勇者様、お客様です」


 扉越しに、外のメイドさんの声が聞こえてきた。

 あ、エルシュカ達だ。


「はーい、通してください」


 私は、この時判断を完全に誤った。


 扉から入って来たのは、青い神官服の青年だった。

 暗い部屋でも、勇者として召喚された時に、バカみたいに上がった視力は認識出来た。

 淡い髪色だけれども、その肌が日本人のものだという事が。


 青年は、ニコリと私に微笑みかける。


「━━ひゅっ」


 別に、その笑みが気持ち悪いとか嫌らしいとか、そんな印象は無かった。

 本当に柔らかい笑みで、寧ろ普通は好感が持てるくらいだ。


 なのに、


「はっ……はっ」


 体が震えて、呼吸が浅くなって、体が凍ったみたいに、思い通りに動かない。


「やっぱり理玖ちゃんだった」


 この声を、私は知ってる。

 たった今、夢で聞いた声だ。

 いや違う……もっと前に聞いてる声。

 何処で……何処でッ!


━━ぁ、……阿左美 政近あざみ まさちか……。


 そうだ。兄と小学校から高校まで一緒で、友達だった人で…………私を…………監禁、した男。






 ━━━━×月▽日。






 また、夜が来る。

 部屋は夜になると当然何も見えなくなるけれど、昼でも薄暗い。

 どれくらい、時間が経ったのか分からない。

 カレンダーも時計も取り上げられた。外の音なんて、殆ど聞こえない。

 ……いや、本当はもう、時間の流れなんてどうでもよくなってる。


 食べ物を貰えるのは時だけ。

 トイレに行くのも、時だけ。


「理玖ちゃん」


 体が無意識に固くなる。ドアの向こうから、あの男の柔らかい……けれどねっとりとした声。


 嫌だ。来ないで。


 扉が、ゆっくりと開いた。きい、と音がしただけで、息が苦しくなる。


「……寒かったよね。ごめんね」


 気遣っているのは、文面だけだ。


「ねぇ、キスして良い?」


 良い訳が無い。でもそう言ったところで、この男はソレを理解しない。


 ほら、無遠慮に……恋人同士がするみたいに、唇を塞がれる。


 重たい口付けに、掠れ切った喉が悲鳴も上げられない。

 耳を塞がれて、自分が何をされているのか、音で鮮明に解らされるのが悍ましい。

 嫌だ。気持ち悪い……。


「上手になったね」


 耳元での、その囁きには続きがあった。


「今日は一緒に寝てあげる」


 砂嵐の音が過って、背筋が凍り付く。


 これまで、暴力と、愛の言葉と、口付けを求められるだけだった。


 でも今日は――違う。

 ベッドに腰かけた手が、私の足を撫でる。


 いやだ。やだ。いや……。


 逃げられない。身体が、もう動かない。


「俺、ずっと我慢してたんだよ? 理玖ちゃんがお人形みたいになるの、待ってた。でもさ……もう、限界」


 歯が、ガチガチいって噛み合わない。


「理玖ちゃんが、俺を拒む理由なんて、そもそも無いよね?」


 あるに決まってる。全力で、心の底から拒んでる。

 けど、声にならない。これ迄とは比べ物にならないくらい、悲鳴をあげなきゃいけないのに。涙が溢れるばかり。


 スカートの裾に、指がかかった。


 お願い。お願い。お願い。誰か━━。


 喉の奥から、ようやく出てくれたのは、掠れた悲鳴。

 絶望感に、本当に全てがどうでも良くなりかけた━━その瞬間だった。


 ━━ゴォン、と。大きな時計みたいな音が聞こえて……部屋全体が揺れて、光った。


 赤く、金色に、青く、目が焼けるほどに眩しい魔法陣が床に浮かび上がる。


 明らかな以上事態。でもこの音も魔法陣も、私にしか見えていないのか……目の前の男は事を進めようとしている。


 けれど私はもう、それどころじゃなかった。光が全身を包んでいく。空気が、熱い。

 怖い、でも━━


「助か……った……?」


 記憶は、日本人では無い人達に囲まれた場面に、繋がった。





 ━━━━そうだ、思い出した。


 私はこの世界に来る直前の何日か……何週間か、この男に痛め付けられて、歪んだ愛を刷り込まれて、死にかけていた。


「大変だったんだよ、あの後」


 私は俯いた。

 革靴の音がする。近付いてくる。


「理玖ちゃんの兄貴が怒鳴り込んでくるし」


 落ち着け、私。

 何でこの男がこの世界に居るのかは分からないけれど……まずは、息を整えろ。


「警察も来たし……」


 4メートル、3メートル、2メートル……。


「俺達、ただ同棲してただけなのにねぇ?」


 1……メートル。


 ━━動けッ!!


「アスカロン」


 青の光を纏う聖剣を振るう。容赦なんて微塵もいらない。慈悲の一片すらかけない。


 コイツを消さないと、ようやく元に戻った私が、また私で無くなる!


 花火のように血飛沫を上げ、首が跳ね飛んだ。

 バタンと。首から下が床に倒れたのを確認すると、ため息が漏れた。

 そういえば、この現状に騒ぐ声が一つも聞こえない。扉は開いたまま……床に、手?


 見えたものに、慌てて近付いた。

 ソレはやっぱり人の手で……部屋の外は、血の海だった。


 彼奴ッ! と、もう物言わない男の蛮行に、奥歯を噛む。


「そうカリカリしないでよ」


 ━━━━は?


 部屋の中に、視線を移す。

 そこには胴も首も落ちてなかった。

 それもその筈だ。真横に、首を両手で持った胴が立っていたのだから。

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