第6話 水牢
背中の鈍い痛みで目を覚まし、澪は追憶から現実に戻った。
そして、後悔した。澪がいるのは、あの日と同じ水の中だ。
澪は水牢に捕えられていた。
畳二枚の広さの石で覆われた水溜めに立たされている。水溜めを囲う鉄柵と手首を鎖でつながれているから、逃げることはできない。
水溜めには新しい水が絶えず供給され、胸までの深さを保っている。
『汚い水のなかにいたら、身体が腐るからね。きれいな水につけておいてあげるのは、おまえが玄安の家の者だからよ』
銀子はそう言って笑っていた。
澪は全身を震わせる。もはや身体は冷え切っていて、下半身の感覚がない。
「生きているみたいだな」
牢の外から男の声が聞こえ、澪は面食らった。
錠前を外しているのか、金属がこすれあう音がしたあとに青年が入ってくる。
――朱夏の当主だわ。
なぜ、ここにいるのだろう。隠れて責め苦を負わせる場所なのに。
近くで見れば精悍さが強調される顔立ちの青年は、水溜めのふちでしゃがんだ。
「澪といったな。おまえはあの当主の娘なんだろう?」
「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか?」
澪の質問を彼は鼻で笑う。
「玄安家は下々の教育がなっていないぞ。小金を握らせたら、ぺらぺらと内情をしゃべる。金払いが悪いのか、人使いが荒いのか、どっちだ? 俺の予想だと、どっちも兼ねてそうだが」
青年は低く笑っている。
澪は困惑して彼を見つめた。
「あの……」
「なぜ、ここにいるのかってことだろう。おまえを助けるためだよ」
「わたしを助ける?」
澪は困惑した。なぜそんなことをするのか、さっぱりわからない。
「この牢にいつまでいるんだ? 明日には解放されるのか? それとも死ぬまでか?」
「……わかりません」
期限などわからない。銀子か涼か――あるいは流か。
そのうちの誰かの気が済むまでだろう。
「なら、俺の助けに乗るべきだろう」
「放っておいてください。わたしは……明日にでも死んでもいいような人間です」
口にしたとたん、瞳に膜が張った。
泣くまいと唇を噛む。玄安の家に生まれながら氷姫の力を持たない、価値のない女。
生かされているだけで満足するべきなのだ。自分を憐れむ涙など流したくない。
「馬鹿言うな。俺の目覚めが悪い」
朱夏の当主は眉をひそめた。
「それに、恩義など感じなくていい。おまえは使えそうだから助ける。それだけだ」
「使える?」
「水衣を織っているのは、おまえなんだろう?」
ずばりと指摘され、澪は血の気が引くのを感じた。
あれは偽物だ。水衣と称して売ってはいるが、なんの力もない。
「俺の従者がおまえのところで働く女から聞いてきた。縫い手はおまえだと。俺は都で水衣を手に入れた。あれはな……俺には役に立った」
朱夏の当主は自嘲の笑みを浮かべている。
「お役に立ったのですか?」
「ああ。だから、縫い手がほしい。つまり、おまえが必要だ」
「でも、わたしは玄安の地の外に出るわけには――」
「外に出るのは簡単だ。俺と結婚すればいい」
突然求婚され、澪は唖然とした。
ありえない提案だし、どうしたらそんな常識はずれなことを言えるのかわからない。
「……からかわないでください」
「この状況で、冗談なんか言うわけがないだろう。おまえを手っ取り早く外に出すためには、それが一番いいんだよ」
「でも……」
「護国四家に属するものの処遇は当主が決める。それは各家に与えられた特権だ。つまり、おまえが俺の妻になれば、この牢から出せる。それどころか、おまえを今の立場から解放できるぞ」
澪は喉を鳴らした。
解放という言葉に、どうしようもなく惹きつけられる。
けれど、同時に恐怖をも覚えた。
――とんでもないことをしようとしている。
結婚は当主が決める。すなわち、流の許可が必要だ。
それなのに、勝手に結婚を決めるなんて。しかも、朱夏家の者と。
護国四家の中でも、玄安と朱夏は不仲であった時代のほうがよほど長いのだ。
「どうする?」
彼は自信ありげに問いかける。
澪は視線をさまよわせた挙句、水面を見た。
――無理よ。
流たちにどう説明するというのか。最悪な事態になるとしか思えない。
こんどこそ殺されるかもしれない。玄安の家名を傷つけたという理由をつけられて。
「……結婚はできません」
澪はうつむいた。
断ったからには、どこかに行ってほしい。
自分の決断を後悔しないで済むように。
しかし、青年はどこにも行かなかった。
それどころか、彼は水の中に下りてきて、澪の正面に立つ。
澪はうろたえる。濡れてしまう――だけでなく、罪人と同じ位置にくる彼が信じられなかった。
青年の目はひどく真剣だった。
「何をなさって――」
「おまえを助けたい」
真正面から言われ、澪は喉を鳴らした。
「……なぜ」
「昔の俺を見ているようで、放っておけないからだ」
返答の真意がよくわからず、澪は言葉の接ぎ穂を失う。
「俺もおまえと同じだった。拒絶され、痛めつけられる側だった」
今は当主と呼ばれる男にそう言われ、澪は彼を見つめるばかりだ。
「ここにずっといたいのは、不幸に酔うためか?」
「ち、違います」
「じゃあ、俺と一緒に外に行こう。自由になって……とはいっても、俺の妻になるってことは真の自由ではないけどな。それでも、この水の中にいるより、ましだぞ」
青年は笑みを広げる。
澪は彼を見つめて、唇を嚙みしめる。
――わたしは、ずっとこのままでいるの?
水牢からいつ出られるのかわからぬまま、ここで何を待つというのか。
外に出たいと思った。もう一度、何も知らなかったころのように深呼吸をしてみたい。
「……結婚します。あなたと。だから、ここから出してください」
そう言い終わったあとに、澪はふうっと息を吐いた。
身体から力が抜け、身体がぐらつく。
「わかった」
青年は、澪の手首をいましめていた鉄の腕輪の錠に鍵を差し込み、腕輪をはずす。
鎖から自由になり、澪は平衡を失いそうになった。
「大丈夫か?」
青年は澪を抱きとめ、水溜めから出るように促す。
澪は彼の手を借りて、水から上がる。
しかし、下半身は冷え切り、関節や骨が砕けたように力が入らない。
座り込むと、彼が澪の腋と膝に手を入れ、横抱きにしてから立ち上がった。
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