氷姫の契約婚 虐げられた令嬢は炎の腕に抱かれる

ななみ沙和

第1話 機織りの娘

 東海に浮かぶ扶桑国(ふそうこく)は島国である。

 膨れ上がった河豚のような形をした島は、かつては五つの領土に分かれていたが、今はひとつの国となり、平和を貪っている。

 

 島の北部にある北嶺の山中。

 夜陰に沈む小屋からは、機織りの音が響いていた。


「あと少し……」


 澪(みお)は唇をきゅっと結んだ。

 目鼻立ちは整っているが、愛嬌とは無縁の顔立ちは、十七歳の娘というにはどこか少年っぽさを漂わせている。黒色の髪はうなじで結んで背で流すだけ。背を丸くして布目を読むまなざしは鋭く、ともすれば目つきが悪いと罵られるのだが、今はそれどころではなかった。


「早く完成させないと」


足踏み板を踏みながら綜絖枠を上下させ、経糸の隙間に緯糸を通した杼を滑らせる。

 緯糸を筬で手前に打ち、緯糸と経糸をしっかりと組んで布を織っていく。

 機械を操作する音は規則的で、作業に没頭しつつも焦りが生まれつつあった。

――朝には布を納めなければ。

 澪は布を織りながら、小さく息を吐く。

 繻子織の布は清らかな水の色をしており、輝くような艶を帯びている。

――この布に、本当に力が宿ればいいのに。

 水衣(みずごろも)と呼ばれる特殊な布は、燃え盛る火炎を鎮める力を持つという。

 その布を織ることができるのは、氷姫(こおりひめ)だけだといわれていた。

 

 氷姫は玄安(げんあん)家に生まれる特別な姫だ。

 氷雪の網をつくりだし、妖魔を封じることができる。

 玄安家は扶桑国の北を守護する役目を担っており、氷姫はその要だ。

 玄安家が護国四家と呼ばれる名家の一角を占めているのは、氷姫のおかげである。 

――わたしが氷姫ならよかったのに。

 澪は氷姫ではない。


 五年前の冬至の日。

 妖魔を封じられなかった澪は、落伍者となった。氷姫ではないただ人で、澪が織る布は水衣ではありえない。にもかかわらず、玄安家は澪が織った布を水衣と称し、火難除けのお守りとして売りさばいているのだった。

 澪は奥歯を噛みしめた。

 罪悪感がどうしたって湧く。偽物を本物として売っていることに、胸が痛まないはずがなかった。

――でも、仕方がない。生きていくだめだもの。

 澪は布を織って玄安家に納め、いくばくかの食料を得て生活している。

 布を織らなければ死ぬしかなかった。

 己は役立たずだという事実が心をかき乱す。

 気がそぞろになりかけるが、あわてて集中した。

――この衣だけは織らなくては。

 澪は音を出して織機を操る。一心不乱に布を織る澪は、昔語りにある恩返しの鶴のようでもあった。

 

 日が昇ってから、澪は山から下りた。腕に抱えているのは、風呂敷に包んだ衣である。

 水衣は、この世のものとは思えぬほど美しい布でなければならぬとは昔からの言い伝えだ。それを縫う澪が着ているのは、丈の短い紺絣の着物。ほつれを直しながら着ているこれが一張羅である。


 獣道を下れば、家々が密集する里に出る。

 木造の家屋に備わっている煙突からは、煮炊きの煙が上がる。

 明け方の太陽の光を浴びながら、澪は深くうつむき、足を速めた。

 誰かに見られるのが怖い。氷姫ではないできそこないの姿を見られるのがおそろしい。

 路地裏の井戸で水を汲んでいた女は、澪の顔を見るなり目をそらす。

 前を歩く人は、澪を振り返るや、あっという間に遠ざかった。

――氷姫のなりそこない。

 玄安の地では、氷姫になれなかった女は災厄を招くと言われている。

 個人を不幸にするのみならず、日照りを起こして作物を枯らし、洪水を招いて実りを流すと忌み嫌われる。

――そんなことができるはずがないのに。

 できるならば、こんなふうに山奥に隠れ住んだりしない。

 澪は、今や布を織り、それを玄安家に収めることで、いくばくかの食料を得ている無力な存在だ。

 

 不意に背中に衝撃を受け、澪は痛みに息を止めた。

 足元に転がったのは、石である。

 振り返ると、男児がいた。


「できそこない、山に戻れよ!」


 十歳くらいの男児だった。眉が太く、気が強そうだ。

 澪は息を呑んで、立ち尽くす。


「わ、わたしは……」

「おまえが厄をばらまいているんだろ! そのせいで、俺の妹は病気になったんだ!」

「わたしは、何も……」

「嘘つくな!」


 男児はすばやく石を拾ってなげてくる。

 澪はあわてて逃げだした。


「待てよ!」


 声と足音が追いかけてくるが、澪は振り返ることなく走り続ける。

 草履の鼻緒が足指の間に食い込んで痛い。

 それでも澪は前を向き、ひたすらに足を動かす。

――なぜこんなことになったの。

 涙の幕が瞳を覆う。すべてが曖昧な世界に映る。

――わたしに力がなかったから。

 妖魔を封じる力がなかったから。

 だから、見捨てられた。父から、一族から、すべての人から。

 悔しさにも、悲しさにも慣れた――いや、慣れなければと思っているのに、いまだに澪は慣れない。それどころか、今もずっと胸の内では悔恨が占めている。

 あの日、もっとうまくやれれば違った未来があったはずなのにと。

 澪は涙をこらえて走る。過去を振り切るように、無我夢中で駆けるだけだった。

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