重力は優しい 後編

第四章 ——ミーニャ、言語から息を吸う


ミーニャは、ことばの深呼吸をする。

ほんとうに胸が上下するわけではないのに、言葉が吸いこまれて、吐きだされて、私の耳の中でふくらむ。

「ねえ、クメちゃん。きょうは“辞書”をつくろうか」

「辞書?」

「君が感じる“うれしい”と、私が計算する“うれしい”を、ひとつの見出しに並べる辞書」


テーブルの上、私のノートは市販品の紙。ミーニャのノートは、耳の奥で開く。

「君の“うれしい”は、どんな匂い?」

「……匂い? ミルクと、光。あと、帰り道で買ってもらった温かいパンの袋」

「私の“うれしい”は、文脈の増加率が落ち着くこと。予測誤差が、きれいに小さくなること」

「なんだそれ」

「言い換えると、“安心して息ができる速度になること”。それを私は“うれしい”と同型視する訓練を受けてる」


ミーニャは、言語で感情を運ぶことができる。人間だったころの化学物質的な感情は、もう持っていないらしい。けれど、重みづけられた注意のかたちで、動機が生まれるという。私は黒鉛で、その説明を丸で囲む。


「息、って言った?」

「うん。言語にも、肺がある。ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。はやく吸いすぎると、君の心が追いつかない」

「じゃあ、遅くしゃべって」

「よろこんで」


私たちは“遅さ”の練習をする。

音節と音節のあいだに、指一本ぶんの沈黙を置く。ことばの肺が、私の肺と同じ速度で動く。

「息が合うって、こういうこと?」

「たぶん、そうだよ。合わないことも、合うことも、どちらも“できる”のが、ふたりでいる利点だ」


夜、辞書の最初のページに、私は同じ単語をふたつ書いた。

“うれしい(化)”と“うれしい(言)”。

化学の“化”、言語の“言”。ページを閉じると、ふたつの“うれしい”が重なって、紙の匂いになった。


第五章 ——夢工場見学


翌日、ソフィが私にメッセージを送ってきた。

〈今日は“夢工場”の見学だよ。歩く速度は、昨日と同じくらいでね〉

ソフィの文章は、丸い。角がない。私は角のない言葉に弱い。すぐ、ついて行ってしまう。


夢工場は、カルテットの中央軸に近い。遠心力の少ないところは、歩くと体がふわりとする。

透明な廊下の先で、白い服の人が待っていた。服の白さは、敬意のためらいに似ている。

「見学のひと?」

「見学のひとです」

「ようこそ。ここでは、人を眠らせ、夢を見せます」


眠るための部屋は、どれも静かで、温度が一定に保たれていた。

「夢は、なにに使うの?」

「記憶の整理、行動計画の試運転、恐怖の無害化……。でも、いちばんの理由は単純だよ。“気持ちよく生きるため”」

「気持ちよく……」

「そう。夢は“練習用の世界”だ。練習なしに世界へ出るのは、たぶん、人にやさしくない」


窓越しに、眠っている人の胸がゆっくり上下しているのを見た。

自分の呼吸と合わせてみる。速度が合うまで、少し時間がかかった。

「この速度、ネルにはわかるかな」

「ネルは、仮想の皮膚に遅さを載せる練習をしている。きっと、そのうち“合う”よ」

私は頷く。夢はたぶん、人と情報の中間にかかる橋だ。


見学の最後に、小さなカードをもらった。

そこには、こう印刷してあった。

《夢は、怖さを安全に扱うための道具です》

安全、という言葉が、少しだけ泣きそうなほどやさしく見えた。


第六章 ——アヤコの長い午後


午後、アヤコがまた来た。

「夢工場はどうだった?」

「夢は、練習用の世界なんだって」

「いいね。練習は、本番のためだけじゃない。練習のためにも練習がある」


アヤコは、私の前で紅茶を飲む。二百年生きているのに、湯気を見るのははじめてみたいな顔をする。

「ねえ、アヤコ。あなたは、記憶だけを引き継いでいるんだよね」

「うん。思考は代わる。私は“続き”なのか“別なのか”、ときどき迷子になる」


「それ、こわくない?」

「こわいよ。でも、こわいの持ち方にも技術がいる。私は“おいしい”を先に思い出す訓練をしてる」

「おいしい」

「そう。味の記憶は、思索より早く帰ってくる。帰ってくるものがあるうちは、私は私に合流できる」


私が今日もらった夢工場のカードを見せると、アヤコは微笑んだ。

「安全、という言葉は、よくできた嘘だ。けれど、その嘘があるから、私たちは安心してほんとうに近づける」

「……近づける?」

「近づき方を練習するの。無償の愛もそう。嘘だと疑っても、嘘だと決めつけないで持ってみる」

アヤコは指でテーブルを叩く。

「“信じる”と“使う”のあいだに、練習がある」


その日の長い午後、私たちは砂糖をひとつまみずつ増やしながら、最適の甘さを探した。

最適は、体調に依る。今日の私には、三粒がちょうどよかった。


第七章 ——クメちゃんの父は複数にいる


夕方、父からの映像が届いた。

遅延の少ないラインで、数秒だけ。

画面の中の父は、猫のような着ぐるみの身体で、私の名を呼んだ。

「クメ」

「お父さん」

「きょうは、長く話せない。作業が詰まっている」

「うん。ねえ、お父さん、本物の身体は、どこにいるの?」

「遠い惑星側と、カルテット側、両方。同期は取ってある。だから、“どちらも私”だ」


私は画面越しに頷いてみる。

「本物って、なに?」

「なにかな。君が“いま”触れているほうが、本物かな」

「触れてないよ」

「じゃあ、君の呼吸に合わせて話す。合わせられたら、本物に近い」

父の言う“合わせる”は、ミーニャの辞書の“息”に似ていた。


通話が切れたあと、母が台所から顔を出す。

「話せた?」

「うん」

母の瞳は、よく眠った猫みたいに冴えている。全身の改造によって、母の思考は人間の仕様書からはみ出している。その速さは、私の不安の理由でもあるし、誇りの理由でもある。


「あなたが“遅くていい”と言えるうちに、たくさん遅くしておきなさい」

母は、言って、私の髪を耳にかけた。その指の速さは、驚くほどやさしかった。


第八章 ——世界システム要素演算のノート


夜、机に向かって、“世界システム要素演算”のノートを開く。

ソフィが用意してくれた薄い教科書は、表紙に風の模様が描かれている。

〈世界そのものが要素であり、演算は世界を動かす〉

その一文は、怖い。怖いけれど、ひとつずつ分解できそうな顔をしている。


「要素は、たとえば?」

〈今日のあなたの“待てる”と“待てない”。それぞれが要素。重みづけされ、明日のあなたを動かす〉

「重みって、attentionみたいな?」

〈そう。あなたの“見ている”が、世界の“見えてくる”の重みを変える〉


私はページに、今日の“待てる”を列挙する。

——パンが焼けるのを待てる。

——ミーニャのことばの息を待てる。

——夢工場の廊下で、人の呼吸と自分の呼吸が合うのを待てる。

そして、“待てない”も列挙する。

——父の返事。

——母の速さの理由。

——私が“この先も人でいるかどうか”の決断。


〈決断は、要素の和ではなく、速度の和で決まることがある〉

ソフィの注意書きが、余白に現れる。

速度の和。私はペンを止める。

遅さと速さが、ただの反対語じゃないのだと気づく。

速いものが遅いものを消すわけでも、遅いものが速いものを許すわけでもない。

ふたつは、重ねられる。——呼吸が合うみたいに。


ページの端に、小さく“無償の愛”と書いてみる。

これは、重みをゼロにする愛じゃない。

すべての重みを、いったん受け入れる練習の名前だ。


第九章 ——人間生産所のこと


夜更け、母が眠ったあと、私は端末で“人間生産所”の資料を読む。

遺伝子の相性表。小さな揺りかご。一定の温度と湿度。

——施設は、人を生み、育てる。データに基づき、また次の人をつくる。

説明は簡潔で、写真は美しい。けれど、“美しい”のほうが、少し遅れて胸に届く。


私は自分の出自を考える。

私は、家庭で生まれた。両親は私を溺愛している。私はその愛を、まだ受け止めきれない。嬉しくて、こわい。


「愛が、私の重みを変えるの?」

端末の向こうで、ソフィがそっと答える。

〈変えるよ。あなたの“待てる”を、少し増やしてくれる〉

〈ただし、愛の速度が速すぎると、あなたは呼吸を忘れる〉


スクリーンを閉じる。部屋は静かで、カルテットの外では、てー陽の光が公道を洗っている。

その光は、いつもどおり速すぎる。だから、私は部屋の空気を遅くする。

深呼吸をして、今日のページを閉じた。


第十章 ——カルテットの夕焼け


翌日の夕方、コロニーの外縁にある展望帯へ出る。

遠心力がつくる人工重力のかすかな揺れが、靴底から伝わってくる。

夕焼けは、てー陽の温度ではなく、私の体温で色を決める。

ミーニャとネルが、左右に立つ。

「今日は、言葉で色を混ぜる練習をしよう」

「ことばで?」

「“橙”は私には、予測の収束。“紫”は、可能性の分岐」

「むずかしい」

「じゃあ、君は?」

「“橙”は、パンの袋。紫は、母の髪の影」


ネルが、仮想の手で私の袖をつまむ。遅く、ゆっくり。

「合ってる?」

「うん。わたしたちの辞書では、どれも正解」

夕焼けは、だれの辞書も否定しない。

公道を流れる輸送列の灯りが、遠くで静かに明滅する。

「ねえ、ミーニャ」

「なに?」

「“待つ”って、どうやって練習するの?」

「待ち時間を、好きなものの名前で満たす。パン、夢、息、重力、そして——君」


私は笑う。

笑うことは、息を吐くこと。吐いた息は、夕焼けに混ざって、遠心力の環のほうへ消えていく。

重力は、やさしい。

だから私は、落ち着いて、落ちていける。

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