輝翼のテテュス~女を捨てて軍に入ったけど、年下王子から言い寄られて私の情緒はグチャグチャです~

三津朔夜

第1話断髪

 冷たさを含む鉱泉こうせんの芳香が、わずかに鼻先をかすめた。

 琥珀色こはくいろひとみで見上げれば、東雲しののめの空がしだいにほどけていく。


 目の覚めるような青緑色せいりょくしょくが広がる氷河湖ひょうがこのほとり。鳶色とびいろの軍服に身を包む少女は、整った面差しに悲愴を滲ませる。


 春めく桜色の雲を眺めていると、あの夜の火の手が、空に重なって見えた。

 げた草、鉄の匂い、湿った黒煙――。

 みずうみの風は冷たくんでいるのに、背中が燃えるように熱かった。


「……ッ」


 たぎる激情に顔を歪め、腕に喰い込ませたつめの痛みでたかぶりりを必死にしずめる。

 ――――もう、三年も前になる。すべてを失ったのは。未だに胸の中でくすぶる熾火おきびは、忘れられない夜の記憶。


 断ち切りたい。もう、たくさんだ。過去を、思い出を。怨念の炎で焼き焦がすのは。

 少女はナイフを取り出し、感情のまま振るった。

 風にほどけていく『紅銀こうぎん』の束を、ただ見送った。


「さようなら、セレナ……」


 つぶくのは、少女のかつての名前。

 言い切った声が湖に溶けても、どこか胸の奥に余韻よいんが残る。

 本当の別れは、まだ遠い。そんな気がした。


 それでも、いくらか心がぐのを感じる。野暮やぼったいとけなされた黒髪は自身の中に存在しないのだと、突き付けたれた分だけ。

 頭を振れば、つややかな銀光を宿す髪が桃色に揺れた。ナイフに代わって取り出したのは、黒いリボン。


 大切に仕舞って――――いや、見ないようにしていた宝物。

 姉のように慕っていた家庭教師。今生こんじょうの別れに浮かべた彼女の微笑みは今も、鮮烈に焼き付いて離れない。


 これは、祈り。

 彼女のように強くありたいと、誰かを守れるようになるための。

 たとえ名は捨てても、命の恩人との記憶を抱いて共に歩むために。

 軽い手櫛てぐしの後で意を決し、彼女からおくられたリボンで後ろ髪をしっかり結い上げる。


「…………よし」


 巫女みことして神殿で祈り続けた少女は今日、テテュス・アハティアラとして軍に出向しゅっこうする。

 きびすを返し、少女は進んでいく。朝日が照らすその先へ。

 決して後ろを、振り返らぬまま――――。

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