関東

 関東かんとう


 三月二十三日乙酉おつゆう、劉秀は、豪族ら人民らの支持を得え、荒れた耕地を再び田畑と為す耕作民を増すため、更に大赦たいしゃを行う。みことのりして曰く「近頃獄に冤罪えんざいの人多く、刑を用いること深刻、ちんはなはだこれをあわれむ。孔子曰く、刑罰が適切でなければ、即ち民は手足を置く所無しと。それ二千石、諸大夫しょたいふ、博士、議郎ぎろうと議して刑法を省け」

 悪法と言えど法は法なり、法を遵守じゅんしゅするのが朝廷にしゅうぼく・太守・県令である。悪法であって、それを正そうとするのは、法を作る者の務めである。しかし法を正しても、騒乱まず群雄相犇あいひしめくとなれば、劉秀が打てる手は、畢竟ひっきょう、以前に獄に入っていた者を許し、罪を犯した故に奴婢ぬひ扱いされる者を公民に戻し、戸籍に応じて耕地を与えるだけである。

 それ以上の事、豪農豪族から奴婢を解放することを宣言すれば、その豪農豪族が他の群雄になびく、或いは独立を図ることは目に見えた。現実を無視した理想主義者の王莽おうもうならいざ知らず、劉秀には損得勘定がすこぶる働いた。奴婢解放と豪族離反、それを天秤に掛ければ、奴婢のために大して出来ることは無かった。

 もっとも劉氏の宗族はこの妥協だきょうの仁政によって安心して、長安ちょうあんから洛陽らくように入ることができた。劉玄の下にあったことを罪に問われず、南陽に持った荘園しょうえん、私有地の名田めいでんと奴婢を没収されることも無い、となれば帰順は易しい。

 劉秀、その一人の虎牙こが将軍劉順りゅうじゅんを喜んで迎える。劉秀と常日頃仲の良かった劉順は父えん劉慶りゅうけいが赤眉の乱兵に殺されたこと、丞相じょうしょう李松りしょう・左丞相曹竟そうきょうも殺されたことを告げる。李松はかく、曹竟、漢の官吏として最後は剣を振るって戦い節を全うした。

 劉秀、曹竟に恩義あれば、これを惜しむ。

 劉順、高陵での劉玄との最後の別れを話し、定陶ていとう太常たいじょう将軍劉祉りゅうし河水かすいに船を入れるが互いに見失ったことを話す。劉秀は笑って、劉祉が既に洛陽に至ったことを話す。そして劉秀、劉順りゅうじゅんを取り敢えず南陽なんよう太守と為す。


 万民も大赦をありがたがるが、群雄は降りもしなければ、なびきもしない。勢力圏を広げて、威を示す必要がある。武を誇る者は武を尊ぶのである。武を示して初めて郡県に立つ独立勢力は動く。その役目を担ったのは執金吾しっきんご賈復かふく大司馬だいしば呉漢ごかんである。

 猛将賈復が、潁川えいせん郡東南のえん尹尊いんそんの兵を続けざまに破れば、遂に尹尊は降る。遂に諸賊を除いて潁川郡全てが劉秀に降った。賈復は凱旋がいせんせず、そのまま汝南じょなん郡、淮陽わいよう郡の元劉玄りゅうげんの将を降し、淮陽太守暴汜ぼうしを撃ち、暴汜が降ればその属県はことごとく定まった。

 賈復と分れた驍騎ぎょうき将軍劉植りゅうしょくは賊を北の河南に追い上げるが、そこで武運から見放された。劉植、みつ県で賊の賈期かきが勢力を集めれば、これと戦うもじんぼつした。

 劉秀、劉植の悲報を受けて考える。思えば、河北に立ついしずえになった輔弼ほひつの臣の一人であった。劉植を遣わせて、真定しんてい劉揚りゅうようの姪のかく聖通せいつうめとることになった。王郎おうろうを破った劉秀はしょう王と為り、更に劉秀はかつがれて天子と為った。郭貴人は二人目を宿し、劉揚は誅殺され、劉植も今く。高々二年の間である。思いをせた劉秀、現実に戻るや劉植の子の劉向りゅうきょう昌成しょうじょう侯をがせ、劉植の弟、劉喜りゅうきをして代わって劉植の軍営を率いさせ、た驍騎将軍と為し観津かんしん侯に封ず。

 また劉秀、執金吾賈復を潁川にった故、本来の京帥けいし警備はらぬ。よって劉秀は王梁おうりょう中郎将ちゅうろうじょうにしてぎょう執金吾と為す。王梁、赤眉せきび別働べつどうに応じ、河内かない河東かとうさかい箕関きかんを守って赤眉を破る。次に劉秀、潁川郡が全て降った故に、ここを統治すべく寇恂こうじゅんをして太守と為し、主都陽翟ようてきに遣る。寇恂、破姦はかん将軍侯進こうしんと共に、厳終げんしゅう趙敦ちょうとんの数万の賊に、密の賈期の兵を撃った。


 一方、えんの攻略を任された大司馬呉漢は偏将軍馮異ふういの陣営、廷尉ていい岑彭しんほうの陣営に立ち寄って反劉秀勢力の所在を確認する。岑彭はけい州に入って、既に舞陽ぶよう昆陽こんようしゅうしょう堵陽しゃようを降した。呉漢、昆陽より南陽なんよう郡に入る。そのまま南西に進み堵陽を通って、劉玄の元配下たちが治める宛を撃つ。宛が降れば、太守を如何すべきと諸将、評定ひょうじょうを開く。本来、南陽太守は皇帝劉秀に任じられた劉順なれど、今は洛陽に在る。劉秀は劉順を南陽に遣らぬ。そこで大司馬呉漢、裁量が許されておれば、劉氏宗族の劉驎りゅうりんを太守と為す。

 呉漢の軍、ここで兵を分けた。分かれる理由は宛を基点に近隣を抑える他に、軍の性格が合わないのがあった。突騎とつき兵は族を祖とする烏桓うがんの兵故、粗野そや掠奪りゃくだつを好む。出自が貧民に近い呉漢は、突騎の性格を最大限に利用して、縦横無尽じゅうおうむじんに走らせようと欲す。儒学者に近い朱祐しゅゆうは、何のために城を落すかを考え、人民に被害の無いことを望む。よって部下の掠奪を許さず、むやみに首級しゅきゅうを狙わせず、城が皇帝劉秀に降ればそれで良しとする。兵にしては副利ふくりも功績も挙げられず、不満が高まる。呉漢と朱祐、同じ南陽宛の出身であるが、富者はつぶせとする呉漢、富者でもなつけせさせようとする朱祐、軍をひきいる性格が正反対に異なった。よって軍は涅陽でつようじょう新野しんやれきと三方向に分かれる。

 ところが宛にて、堵陽の人董訢とうきん叛乱はんらんを起し、太守劉驎を捕える。揚化ようか将軍堅鐔けんたん・右将軍万修ばんしゅう、これにすぐさま応じて、兵を引き返して宛に向かい、決死の兵を募り夜中に城に登って門番を斬り、兵を中に呼び込めば、董訢は城を棄て堵陽に逃れて再起を計った。


 呉漢が南陽に進軍したことで、二つのことが生じた。一つはいである。警護兵を持たなければ南陽を行き来することは難しかったが、それが可能となった。西は武関ぶかんまで進んだ宛王劉賜りゅうしは、長安を脱出した前皇帝劉玄の妻子を連れ帰り、容易に南陽の宛まで戻る。劉玄の子は、劉求りゅうきゅう劉歆りゅうきん劉鯉りゅうりと云う。

 赤眉が押し寄せた時、長安を脱出したのは彼らだけでは無かった。劉玄の中郎将趙憙ちょうき、囲まれて屋根を越えて逃げ走り、友のかん仲伯ちゅうはくらと数十人と共に幼少弱者を引き連れ山を越え、武関より関中を出た。韓仲伯は妻の見目うるわしきを以て、横暴なる者が現れその害を受けんことを恐れ、これを道にてようとする。趙憙、責め怒って許さず、韓仲伯の妻の顔に泥を塗り、二輪車に載せて自らこれを押す。道中に賊にい、掠奪されようとする度に、趙憙はその病状を告げてまぬがれることを得た。丹水たんすい県に入れば、歩みの遅れた劉玄の親族に巡り会い、その裸足、塗炭とたんに苦しみ進むにあたわずを見て、持った絹糧食をことごとくこれに与え保護して、郷里の宛に戻ってきた。南陽に劉秀の意及び、北への道が開ければ、劉賜、皇帝に約束した故と劉玄の妻子を連れて洛陽に向けて出立し、趙憙もまた洛陽に向かう。


 二つ目は勢力圏の変動である。新野の南南西に位置するとう県に構える鄧王王常おうじょうの場合、今まで、劉玄の諸将、元々旧知の間柄が周囲に在った。先んじて劉秀に降れば、その諸将が討ちに来る。王常、それを嫌った。しかし、その諸将が呉漢に破れれば、気兼きがねは無い。王常は帰順することを決める。

 新野の東、湖陽こようには劉秀のおじ樊宏はんこうに名士の馮魴ふうぼうがそれぞれ別に営塹えいざんを作って、帰する時を待っていれば、素直に劉秀に応じる。

 しかし、湖陽の東の平氏へいしでは劉玄に任じられた県令郭丹かくたん、周囲の県が劉秀に降るも独りとりでし、劉玄のために喪を発し、そのため麻布の喪服を帯び、降されることも間もないことをさとれば、ついには密かに逃れ去る。

 なん黎丘れいきゅう秦豊しんほうの場合、劉秀と直接事を構えることになった。秦豊、王莽おうもうの時に立って五年経ち、自らをの黎王と称し、十二県をべ、南陽をうかがなびかせようとし、既に幾県が従っていた。呉漢は新野から兵を率いて、秦豊と黄郵水こうゆうすいほとりで戦い、これを破った。


 日差しが強くなり季節が移り変わったことが誰の口からも聞かれるようになると、南陽を押さえたことで洛陽の出入りがあわただしくなった。まずりょうへの遠征軍の出陣である。皇帝劉秀、虎牙こが大将軍蓋延こうえんに命じ、討難将軍蘇茂そぼ、偏将軍王覇おうは騎都尉きとい馬武ばぶ劉隆りゅうりゅう護軍ごぐん都尉とい馬成ばせいを率いさせて、劉永りゅうえいを討たせる。元は南陽の後詰めであったが、呉漢・賈復の活躍で、その必要が無くなり、当初の目的である梁を攻めることになった。劉秀、蓋延らをゆう州に送ることも考えたが、幽州出の突騎兵を率いて、元の主である彭寵ほうちょうを攻めさせることができるか疑問であった。さらに蓋延が万一、彭寵にけばどうなるか。考えた末、劉秀、予定通り遠征軍を梁にった。

 次に洛陽には外からの帰着者が相次いだ。鄧王王常は妻子を率いて洛陽に到り、肩脱ぎして自ら帰順する。

 劉秀、王常を見てはなはだ喜び、これをねぎらいて曰く「廷尉は甚だ苦しんだな。何時も共に艱難かんなんたことを思い、これを忘れられようか。来るとも来ないともなく、やるせなかったぞ、常々、言っていたことをたがえるのか」

 劉秀が指すは、劉氏が真の主である、誠心せいしんを持って働き、大功をたすけ為そう、という王常の言である。

 王常頓首とんしゅして曰く「臣は大命をこうむり、馬のむちを取って身を陛下にたくすことを得ました。初め宜秋ぎしゅうい、後に昆陽にかいし、幸い神業によって、二人心を同じくすれば鋭きはかねを絶つの言を成せ申した。りゅう聖公せいこう、愚臣をはからずして、南陽を任そうとしました。しかるに赤眉は長安に入り、臣、心を喪い望みを失い、天下は復た綱紀こうきを失えりと思うのみ。陛下の河北かほくに即位せられるをようやく聞いて、心は開け目は明るく、今や宮廷にまみえることを得れば、死するとも遺恨いこんは御座いませぬ」

 皇帝劉秀、王常が真剣に答えるのに笑いて曰く「我、廷尉にたわむれたのみ。我は廷尉を得て南陽を憂えず」

 劉秀、公卿・将軍以下を召し集め、群臣に曰く「王常は匹夫で義兵を興し、天命を知るに明らかなり。故に劉聖公は知命侯に封ず。我と戦場で遇い、甚だ親密となれり」

 劉秀、特に賞賜しょうしを加え、王常を左曹さそうと為し、山桑さんそう侯に封じた。


 南陽から洛陽に入って来た者たちも場合によっては職務と封爵ほうしゃくを受ける所と為った。湖陽からまいった舅の樊宏は光禄こうろく大夫たいふと為り位は特進とくしんと為った。

 皇帝劉秀に降った南陽劉氏を数えれば、亡兄劉縯りゅうえんの遺児たち、叔父国三老こくさんろう劉良りゅうりょう元氏げんし劉歙りゅうきゅう劉終りゅうしゅう父子、劉歙の従兄弟中山ちゅうざん劉茂りゅうぼにその弟劉匡りゅうきょう、更に、本家筋、今は亡き元舂陵しょうりょう劉敞りゅうしょうの子の定陶王太常将軍劉祉、劉敞の弟の燕王劉慶は赤眉に敗死して、子の虎牙将軍劉順が劉秀に詣った。

 まだ至らぬは、劉敞の甥大将軍漢中かんちゅう劉嘉りゅうか、前の皇帝劉玄の従兄弟にして丞相の宛王劉賜にその甥奮威ふんい大将軍汝陰じょいん劉信りゅうしんのみとなる。

 その劉嘉は延岑えんしんとの戦いの末、武都ぶと郡に在った。一旦は天水てんすいに入った延岑、そこを治める隗囂かいごうが劉秀に反逆した将軍を撃って劉秀とよしみを結び、赤眉を撃退したと聞けば、隗囂を頼れずとして、これを避けて天水から戻れば、河池かち下弁かべんにて劉嘉と幾度と無く戦う。

 劉秀、劉嘉らを待って、宗族そうぞく封拝ほうはいを遅らせる訳にも行くまいと、封地を割り当てることを決める。なぜなら前の皇帝、更始こうし帝と謚された劉玄がそれぞれに封拝していたが、それが適切でない。劉歙は元氏王、劉賜は宛王であるが、常山じょうざん郡元氏は未だに県令張況ちょうきょうが押える州の要地であり、南陽郡宛は呉漢によって太守劉驎を置いたと奏上を受けたばかりである。また劉玄で無く劉秀が皇帝であるということを身内や世に示す意味もあった。

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