第17話

あの夜、ルゥフさんと気持ちを確かめ合った翌朝、工房に差し込む光はいつもよりずっと優しく、温かく感じられた。隣で眠る彼の穏やかな寝顔を見ていると、胸の奥から幸せな気持ちが静かに湧き上がってくる。この人が私の隣にいてくれる。ただそれだけで、世界はこんなにも輝いて見えた。


朝食の準備をしていると、店のドアをノックする音がした。そこに立っていたのは、兄であるガルフさんだった。彼は工房の中を一度だけ静かに見渡し、まっすぐにルゥフさんを見つめた。


「話がある」


その声には有無を言わせぬ響きがあった。店のテーブルで、三人は向かい合った。私は温かいハーブティーを差し出すことしかできない。ルゥフさんは、兄の鋭い視線を真正面から受け止めると、静かに、しかし揺ぎない声で言った。


「兄さん。俺は、ここに残る」


その言葉に、ガルフさんの金色の瞳が鋭く光る。


「一族を捨て、人間の女を選ぶと、そう言うのか」

「捨てるわけじゃない。だが、俺の居場所はここだ。ユイと共に、この町で生きていく。それが、俺の決めた道だ」


二人の間に、張り詰めた空気が流れる。私は息を飲んで、ただ二人を見守った。ガルフさんはしばらくの間、弟の顔をじっと見つめていたが、やてふっと息を吐くと、その視線を私に向けた。


「ユイ殿。弟の覚悟はわかった。だが、お前たちの言う『居場所』とやらを、この目で確かめさせてもらう。それが納得できるものでなければ、力ずくででもルゥフを連れて帰る」


そう宣言すると、ガルフさんは数日間、このコリコの町に滞在することになった。

翌日、ガルフさんは一人で町を歩き、その空気を肌で感じていた。銀狼族の里の、常に張り詰めたような空気とは違う。活気がありながらも、どこか穏やかで温かい空気が流れている。彼は陽だまりカフェを訪れると、無言でいくつかのパンを指さした。私は緊張しながらも、いつも通り丁寧にパンを包んで手渡す。彼は代金を置くと、一言も発さずに店を出ていった。


ガルフさんは買ったパンを手に、広場のベンチに腰を下ろした。厳しい表情のままパンを一口食べる。弟をこの場所に留める力の一端が、確かにこの温かいパンにあることを認めざるを得なかった。

その時、仕事帰りらしい屈強な鉱夫たちが通りかかり、彼の姿を見て気さくに声をかけてきた。


「よう、兄さん。見かけない顔だが、旅の方かい?」


ガルフがぶっきらぼうに頷くと、鉱夫の一人が彼の持つパンの袋に気づいた。


「お、陽だまりのパンじゃないか。もう食ったか?あそこのパンは最高だぜ。腹持ちもいいし、何より力が湧いてくるんだ」


そこへ通りかかった農夫も、にこやかに会話に加わる。


「ああ、本当に。陽だまりのパン屋さんと、森の番人をしてくれてるルゥフさんのおかげで、俺たちは毎日安心して暮らせるんだ。あの人には頭が上がらんよ」


ルゥフの名前が出たことに、ガルフは微かに反応したが、男たちは気づかない。


「違いないな。ルゥフさんは口数は少ないが、森のことは何でも知ってるし、いざって時にゃ誰より頼りになる。この町にとっちゃ、もういなくてはならない存在だ」

「ああ。うちの子供が森で迷った時も、助けてくれたのはルゥフさんだった。ただ強いだけじゃない。本当に優しい人だよ」


彼らはガルフがルゥフの兄だとは露ほども思わず、世間話としてルゥフへの純粋な感謝と信頼を語っていく。

ガルフは黙って彼らの会話を聞いていた。彼の表情は変わらない。だが内心では、大きな衝撃を受けていた。一族の次期長として「力」で群れを率いるべきだと信じていた弟が、ここでは「信頼」と「感謝」によって、人々の生活の中心にいた。それは、彼が知る「長」の在り方とは全く違う。しかし、確かに人々を支え、守る一つの確かな「長」の姿だった。


男たちが去った後、ガルフは一人ベンチに座ったまま、手の中のパンをじっと見つめていた。弟は、ただ安穏と暮らしているのではなかった。この温かい町で、彼にしかできない役割を見つけ、確固たる居場所を築いていたのだ。彼の厳しい表情が、コリコの町の穏やかな風に吹かれて、ほんの少しだけ和らいだ。


数日後、出発の朝。ガルフさんは荷をまとめると、ルゥフさんの前に立った。


「行くのか、兄さん」

「ああ。お前の顔を見に来ただけだ」


ガルフさんの表情は、町に来た時とは比べ物にならないほど穏やかだった。


「ルゥフ。お前は、良い場所を見つけたな。強さだけが全てではない。支え合い、笑い合う、そういう温かい強さもあるのだと、この町が教えてくれた」


彼はそう言うと、私の方へ向き直った。


「ユイ殿。この不器用な弟を、よろしく頼む」

「はい」


深く頭を下げる私に、彼は満足そうに頷くと、大きな背を向けて森へと去っていった。その背中は、弟の選択を心から認め、誇りに思っているように見えた。


ガルフさんが去ってから数週間後、町のみんなの協力のおかげで、陽だまりパン工房の隣に、夢にまで見たカフェスペースがついに完成した。


完成したカフェは、私の想像をはるかに超える、素晴らしい空間になっていた。ボルギンさんが基礎から作り上げた、鉄木と樫の木を使った骨組みや家具は、触れるだけで安心するような、どっしりとした温かみがある。そして、その力強い木々の表面に、エララさんがデザインした、流れるような蔦や花の彫刻が、まるで本物の植物のように生き生きと施されていた。


壁は、ボルギンさんの故郷の石を使った暖炉を中心に、エララさんが選んだ、陽だまりのような優しい黄色の漆喰で仕上げられている。大きな窓からは、柔らかな光がたっぷりと差し込み、窓辺に置かれたエララさんの花々をきらきらと照らしていた。


ドワーフの質実剛健な技術と、エルフの繊細で優美なデザイン。全く違う二つの文化が、私のパンを介して、見事に一つの形になっている。それは、このコリコの町の温かさそのものを表しているような、奇跡のような空間だった。


「どうだ、嬢ちゃん。文句はねえだろう」


ボルギンさんが、腕を組んで得意げに言った。


「ええ、もちろんよ。私のデザインを、完璧に形にしてくれたわね、ボルギンさん」


エララさんも、満足そうに微笑んでいる。あれだけ意見を戦わせた二人が、今ではお互いの仕事を認め合う、最高のパートナーになっていた。


「ユイ殿、これはまさしく、この町の宝ですな」


フェンウィック先生も、完成したカフェを眺めて、心の底から感嘆の声を漏らした。


オープン前夜、私たちは改装に関わってくれた仲間たちを招いて、ささやかなお祝いの会を開いた。私は感謝の気持ちを込めて、たくさんのパンと、新しいカフェで出す予定の特製スープを振る舞った。みんなの笑い声が、新しい空間に響き渡る。その光景を見ているだけで、私の胸は幸せでいっぱいになった。

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