第18話

陽だまりカフェを開いてから、コリコの町に新しい時間が流れるようになった。

私のパン工房は人々が集い、語らい、笑顔を交わす本当の「陽だまり」になった。

ルゥフさんとの関係も、あの夜を境に言葉にしなくても深く理解し合える、穏やかで特別なものに変わった。


秋が過ぎ、やがて町に初めての冬が訪れた。

コリコの町の冬は、私がいた世界よりもずっと厳しく、そして美しい。

ある朝に目を覚ますと、窓の外は一面の銀世界に変わっていた。

屋根も道も遠くの森の木々も、すべてが分厚い綿雪に優しく包まれている。


「わあ……綺麗……」


思わず感嘆のため息が漏れる。

カフェの大きな窓から見える雪景色は、まるで一枚の絵画のようだった。


「ユイ、起きているか」


工房のドアをノックする音がして、ルゥフさんが顔を覗かせた。

彼の銀色の毛並みにも小さな雪の結晶がつき、きらきらと輝いている。


「はい、おはようございます、ルゥフさん。すごい雪ですね」

「ああ。これだけ降るのは、ここ数年でも珍しい。道の整備が必要になるだろうな」


彼はそう言うと大きなスコップを手に、店の前の雪かきを始めてくれた。

その頼もしい背中を見ていると、どんなに厳しい冬でもこの町なら大丈夫だと安心できた。


カフェの中では、ボルギンさんが作ってくれた頑丈な暖炉がぱちぱちと心地よい音を立てて燃えている。

町の人々は外での仕事を終えると、冷えた体を温めに次々とカフェに集まってきた。


「いやあ、まいったまいった。この雪じゃ馬車も動かせん」

「陽だまりカフェがあって本当に助かるよ。ここのスープを飲むと、体の芯から温まる」


お客さんたちは湯気の立つカップを手に、暖炉の周りで楽しそうに語らう。

その光景は、私が夢に見ていたものそのものだった。


しかし雪は何日も降り続き、町の周りの道は完全に閉ざされてしまった。

近隣の村との交易も止まり、食料の備蓄が少しずつ心許なくなる。

特に、新鮮な野菜や果物が手に入らなくなったのは、町の人々にとって大きな問題だった。


「困ったことですなあ。このままでは、冬を越すための栄養が偏ってしまいますぞ」


フェンウィック先生が、カフェで心配そうに呟いた。


「うちの店も保存のきく根菜類はまだあるけど、葉物野菜はもうすっかり底をついちまってねえ」


食料品店「森の恵み」の店主ポポさんもため息をついている。

町の誰もが不安な気持ちを隠せないでいた。


みんなのために、私に何かできることはないだろうか。

私は工房で一人考え込んだ。

こんな時だからこそ、私のパンでみんなを元気づけたい。

栄養があって、心も温かくなるようなパンを。


その時、私はある考えを思いついた。

長期保存ができて栄養価の高いパン。

生命魔法を込めれば、食べる人の体に活力を与える特別な保存食になるだろう。


私は早速、試作に取り掛かった。

ルゥフさんに相談すると、彼は森の動物たちが冬を越すために蓄えるという栄養価の高い木の実や、乾燥させても香りが飛ばない特別な薬草を、深い雪をかき分けて採ってきてくれた。


私はそれらの木の実を細かく砕き、ライ麦と全粒粉を混ぜた生地にたっぷりと練り込む。

そしてエララさんが分けてくれた、体を温める効果のある乾燥させた生姜も加えた。

仕上げに表面をハニースライムの蜂蜜で薄く塗れば、腐敗を防ぎ栄養も高まるはずだ。


「美味しくなあれ。みんなの体を冬の寒さから守ってあげてね」


私は一つ一つのパンに心を込めて生命魔法を注ぎ込んだ。

私の手のひらから放たれる金色の光が、ずっしりと重い生地の中へゆっくりと染み込んでいく。


焼き上がったパンは見た目が素朴だったけれど、木の実と薬草の香ばしい匂いが工房中に満ちていた。

一口食べてみると、噛みしめるほどに木の実の滋味深い味わいが広がり、体の内側からじんわりと温かくなってくるのがわかる。

これなら、みんなの力になれるだろう。


私はその「冬越しの生命パン」をたくさん焼いて、町の家々を一軒一軒訪ねて回った。


「わあ、ユイちゃん、ありがとう! これでしばらくは安心だわ」

「ただの保存食じゃねえな。食うと、なんだか力が湧いてくるぜ」


町の人々は心から喜んでくれた。

私のパンが、雪に閉ざされた町の小さな希望の光になっている。

その事実が私を何よりも幸せにした。


そんな日々が続いていた、ある雪の深い夜だった。

私は一人、工房でパンを焼いていた。

外はしんしんと雪が降り積もり、世界には薪のはぜる音と生地をこねる音しか聞こえない。

その静寂が、私の心を落ち着かせた。


新しく開発した保存パンの、最後の窯を焼き上げようとしていた時だった。

かまどの炎が、ふわりと大きく揺らめいた。

そして私の意識の中に、直接語りかけてくるような温かく懐かしい声が響いた。


『……ユイさん。私の声が、聞こえますか……?』


その声は、私がこの世界に転生する時、最後に聞いた女神様のものだった。


「……女神、様……?」


私は驚いて周りを見回した。

けれど工房には私一人しかいない。

声は私の頭の中に直接響いてくるようだった。


『ええ、そうです。あなたのこと、ずっと見守っていましたよ。本当に、素晴らしいパン屋さんになりましたね』


女神様の声は春の陽だまりのように優しく、私の心を包み込んだ。


『あなたがこの町に来てから、たくさんの人々の心をそのパンで癒やし、笑顔にしてきました。その一つ一つの善意や感謝の気持ちが巡り巡って、あなたの力を大きく成長させているのです』


「私の、力が……?」


『そうです。私が最初にあなたに授けた「生命魔法」はいわば小さな種のようなものでした。その種は、あなたが人々を思う優しい心と、人々からの温かい感謝を養分にして、今やあなたが想像している以上に大きく力強いものに育っているのです』


女神様の言葉に、私は自分の両手を見つめた。

この手にそんな大きな力が宿っているなんて、考えたこともない。


『あなたはもう、ただ植物から作られた素材の生命力を引き出すだけではありません。あなたの力は、もっと根源的な「生命そのもの」に働きかける段階へ進化しつつあるのです』


「生命、そのものに……?」


『ええ。例えばパンを美味しくするだけでなく、種が芽吹くのを助けたり痩せた土壌を豊かにしたり……。あなたの優しさは、パン生地だけでなくこの大地そのものをこね上げ、新しい命を育むことさえできるでしょう』


大地をこね上げる。

その言葉の持つあまりに大きな規模に、私は少し戸惑った。

私にそんなことができるのだろうか。


私の心を見透かしたかのように、女神様は優しく笑った。


『ふふ。覚えていませんか? あなたが、あの小さな粘土の人形に命を与えた時のことを』


「……! ホカちゃんのこと、ですか?」


『ええ。あの粘土は植物から作られたものではありませんでしたね。けれど、あの粘土にはこの星が生まれた時からの古い大地の記憶が眠っていたのです。あなたの成長した力は、その記憶を優しく呼び覚まし、かまどの火という温かい心臓を与えて新しい命としてこの世界に生み出したのです』


ホカちゃんが生まれた本当の理由。

それは私の力が、無機物であるはずの土にさえ命を吹き込めるほど成長していた証だった。


『ユイさん。あなたの力は、パン屋という枠にはもう収まりきらないかもしれません。けれど、忘れないでください。その力の源は、いつも誰かの「美味しい」という笑顔のためにパンを焼く、あなたのその優しい心の中にあるのですから』


その言葉を最後に、女神様の声はすうっと消えていった。

後には燃え盛るかまどの炎の音と、私の高鳴る鼓動だけが残った。


私は焼き上がったばかりの「冬越しの生命パン」を、そっと手に取った。

それはただのパンではない。

人々の思いと私の祈り、そしてこの星の生命そのものが宿った温かい塊だった。


窓の外ではいつの間にか雪がやみ、雲の切れ間から静かな月が顔をのぞかせていた。

私はその月の光に照らされた銀世界を、静かに眺めた。

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