花街の華

萩原菜月

第一章①

 舞台の奥に設置されたパイプオルガンが、重厚な和音を響かせている。最後列の客席からも見上げるくらい高い位置に備え付けられたこのパイプオルガンは回転式で、普段は木で出来た壁のような顔をしてその場にただ置かれている。本来のかたち――まるで天井に向かって突き刺すような銀色の細いパイプが並ぶ姿を見せるのは、一年の間でこの公演においてのみだ。

 もちろん作中でパイプオルガンを使用する戯曲があればその時は、意気揚々とこの音を響かせるのだろうけれど、真白が劇団に籍を置くようになって約二十年、新春の二人芝居以外でこの楽器が使用されることはなかった。オルガニストは毎年同じ。分厚い眼鏡を掛けた中肉中背の男性だ。初めて会ったときはとても大きなひとだと思ったけれど、実際に、自分がこの演目に出演することになって真正面から挨拶したとき、実はさほど背が高くないのだと知った。それまで気づかなかったのは、見上げたことしかなかったから、かもしれない。ただ身長に対して指は異様に長かった。大きな手が鍵盤を押さえる、その姿がまるで真夜中に空を飛翔する蝙蝠のようだ、と思った。音を鳴らすとき、肩からぐわりと動くその背中は、上等な燕尾服越しにも骨格ごと動いているのがわかって、幼い真白は恐怖を覚えた。しかしこれだけの存在感を放つ彼も、この劇場において出番があるのは新春のみだった。普段は何の仕事をしているのか、真白はもちろん、他に誰も知らなかった。


 スポットライトが当たる。剥き出しの二の腕に夏の日差しのような照明を受けて、肌の表面がじりじりと焼けるような感触を覚えた。実際は、熱で肌がじんわりと汗ばむ程度だけれど。一枚布に首と腕を突き出すような穴を開けただけ、といったシンプルな衣装だ。真冬に食べる蜜柑みたいな色。衣装合わせのときに「真白は肌が白いから、原色に近い明るい色がいい」と演出家が言ったからだ。袖はなくて丈はちょうど膝下。靴は履かない、裸足の女。舞台設定が砂丘のため、常に足裏で砂を掴んでいるような歩き方を求められる。もちろん舞台上に実物の砂はない。

 演じているのは、天空から追放され神になりそびれた二人の男女――の女だ。何らかの理由があって神から人間になった二人。ただお互い、何が原因で追放されたのか、どんな関係性だったのかも覚えていない。他人が存在するかどうかもわからない砂の世界に閉じ込められ、会話によって少しずつ記憶が呼び起こされていく。

 幕が上がれば出ずっぱり。二人とも一度も捌けることのない百分間ノンストップの演目だ。

 舞台上は温度が高いから、薄い衣装の方が有難い。特にこの演目は舞うシーンが多いので、質素であればあるほど有難かった。その分、相手役と肌が触れ合う場面が多くなるけれど、それも演出の狙いなのだろうと思っている。

 なにしろこの演目は、この劇団――新良貴しらき座ができたころから、三百年近く変わらず上演し続けているのだから。


 稽古も含めれば、千回は軽く超えるのではないかというくらい口にした、馴染みのある台詞。逆立ちしていても同じように喋れるはずの、何のことはない相槌を発したその時、ぴりりと頭の中に線が走るような感覚があった。金属が擦れるような不快な音に、一瞬、集中が切れる。とはいえ、動きも台詞も体が記憶している。脳内のリソースを他のところに割きつつ、いつもと同じように芝居を続行させながら、素早く視線を巡らせた。舞台上には特段変わったところはない。パイプオルガンが奏でる音も、相手役の動きも。では客席か、と薄暗い場内に視線を向ける。あくまで芝居の延長として。

 ただ、足元灯でさえ落とした暗い客席は、前三列ほどの客の顔しか判別できず、あとはぼんやりと薄暗い人影が並んでいることしかわからない。舞台上に集中してくれているのか、それらの人影はひとつとして微動だにしなかった。

 反応のない客席に向かっているとき、時々自分が何をしているのかわからなくなる。まるで木偶の坊に向かって淡々と言葉を喋っているのではないか、という錯覚に捉われる。顔が『へのへのもへじ』になっている人形に向かって一心不乱に独り言を喋っている自分の姿が思い浮かんでしまい、あまりの滑稽さに胃の中がぐるぐると回り出す。

 自分の言葉が届いていない、と感じる瞬間はいつも背筋が凍る。いっそ客席から寝息が聞こえくる時の方がほっとする。退屈だ、と主張してもらっているほうが、よほど。ただそんなことを言ったら、相手役であり、新良貴座を率いる座長でもある遠矢は、その美しい顔を顰め、不機嫌さを隠さないだろう。思っていても、黙っておいた方がいい。五年間以上、毎日この人を相手にしているけれど、稽古や本番で顔を突き合わせる機会が増えるほど、心の裡は話さないほうが良いのだと気づいたのは、ここ最近のことだ。

 無意識に耳を澄ませているうちに、違和感を生む音が遠のいていく。客席はずっと静けさを保っていた。観客が動揺するほどの音ではなかったのかもしれない。それならそれで良い、と考えて、集中力の方向を芝居のみに戻す。するとその差異に気づいたのか、向けられる視線の強さが一段と増した。「真面目にやれ」と怒られているようで、内心でこっそり舌を出す。何をしたって、どうせ見透かされているのだ。

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