天よ、雨を知れ
maki
天よ、雨を知れ
飛行帽に引っ掛かっているゴーグルは煤けている。毛羽立ったファーが痩せた頬にかかっていて、細面の顔をさらに小さく見せている。引き結ばれた薄い唇は神経質そうで、折に触れてピクリと震えるさまが容易に想像できる。その一方で、どこか芒洋とした雰囲気を湛えた色の薄い目がカメラのレンズを通して、こちらを見つめているのは、何だか気分を悪くさせる。存外しっかりとした首を覆う襟巻きは、知人から譲り受けたのだそうだ。この飛行機乗りの、歳の離れた妹である叔母が言うところには。
それから幾月が過ぎた頃、生き残った隊員の一人が悲しみにうちひしがれる砂月原家を訪ねた。応対した母はその隊員が自分と同じように苦しみ、悲哀に苛まれているのを知って、責めようとしたのを止めたそうである。
「接触を避け、帰還するようにと本部から命令がありました。我々は……その未知の何かと交戦しなかったのです」
隊員の話は、聞かされた事の顛末とは異なるものであったという。彼曰く、第六円蓋調査団は接続口に限りなく近づいたものの、それを目視する前に未知と遭遇した。本部へ一件を報告すると、一定の記録を取った後に速やかに帰還せよとのことであったという。砂月原小隊は殿を任され、海上研究専用艦を護衛しながら関東府へ向かっていた。その矢先であった。
「隊長からの交信が途絶えたのです」
隊員は言った。
「我々が後ろを振り返った時、砂月原機はもうそこにはいませんでした」――と。
叔母は諦めているのだという。砂月原一家が聞かされたのは、郁道がポイントに向かって飛行中に何者かと交戦し、その身を犠牲にして調査団と部下達を護ったという英雄譚であり、現場にいた隊員の話と食い違っているということは、遺族には二度と真実が知らされないことを意味した。
「兄さんは誇らしそうだった」
実兄が出発した日のことを、叔母は時々話してくれた。その顔は最早悲しみに濡れているのでもなく、関東府――国に対する怒りに赤くなっているのでもなく、ただ穏やかであった。
「あまり感情を面に出さない人だったけど、それでも判ったのよ」
それにね――。叔母は付け加えた。
「私には何だか、あの日兄さんを玄関で見送ってから、二度と会わない気がしたの。だからその時つけていたスカーフを兄さんに渡して、忘れないでねって言ったのよ」
叔母はおどけた顔をして笑った。叔母は、砂月原郁道を思い出にまで昇華させたのだろう。いつまでも悲しみにくれていては、もう見ることのない親しい兄をいたずらに現世に縛り続けるに等しいと、彼女は考えたに違いなかった。
「だからね、聡。これをあなたに託そうと思うの」
そう言って叔母が渡してくれたのは、叔母と彼女の兄――我が父が写るロケットペンダントであった。
「もし兄さん……お父さんが居たら、その生きた証が残っていたら、これを見せてほしいのよ。あんた随分遠くに行っちゃって、馬鹿ねって、伝えてちょうだい」
帆船は海上を西へ進む。ランタンがともす橙の灯りは波に動揺しながら、
「誰も、あの人がどこから来たのかさえ知らなかった。飛行機乗りの砂月原郁道――我々にとって、あの人はそれ以外の何者でもなかった」
数刻前。波音も静かな夜更け、私は貯金をはたいて手に入れた中古の帆船で海へ乗り出そうとするところであった。そこへランタンを掲げてやって来たのがこの眞奈河礎で、褪せた鶯色の上下に黒コートを羽織った彼は、
(君。許可証を見せ給え)
最後の荷物を持ち上げたまま突っ立つ私に向かって言った。関東府では、公的機関及び政府からの承認を受けた民間組織にのみ出航が許されており、特にそのような民間組織には出航許可証の付帯が義務付けられている。許可証を持たずに出航しようとする民間人には一定の罰則が科され、今後如何なる場合でも海洋への出航は許されない。そのことを眞奈河は言っているのであった。
(……)
とりわけ、関東府は第六円蓋調査団が引き返した地点を含む〈危難的遭遇領域〉へ向かおうとする民間船舶に対し、出航許可書未所持以上の厳しい処罰を下してきた。そこに、世間一般に公表されている「ひとえに第六円蓋調査団の事故を繰り返さない為」以上の理由があることは明らかであった。今は府属機関によって組織された調査団のみが〈危難的遭遇領域〉の通過、接続口への探索が許されている。しかし第六円蓋調査団の一件以降、接続口到達のために海洋に乗り出そうとする人々は後を絶たず、私も例に漏れずその一人であった。
私が出航する目的はただ一つ、父たる砂月原郁道が辿り着けなかった天円蓋と海の接続口へ向かうことであり、決して許可証が下りないことを判っているからこそ、皆が寝静まった夜更けを狙ってひっそりと海へ出てやろうと思っていた矢先であった。
(最近は偽の許可証で出航しようとする輩も増えていてね。取り締まりも厳しくなっている)
私が差し出した許可証を見ながら、眞奈河は言った。
(それに、行き先を誤魔化す奴も居る)
許可証を差し戻した眞奈河は思わず生唾を飲む私をよそに、出発を待つ帆船の方へ目を向けた。
(良い船だ。君のかね)
(ええ。まあ……)
(乗せてくれ)
間抜け面を晒す私に眞奈河は、おおよそ不正出航者をしょっ引こうとしている者のものとは思えないにやりとした笑い顔を見せた。目の前の不審な男を乗船させるかどうか、逡巡していた私は気づけば浮かべていた間抜け面を引っ込めて、その代わりに訝し気に眉を寄せていた。
よく見れば、彼が着ている鶯色の上下は使い古されており、その足元には巻きゲートルをつけていることに私は改めて気が付いた。今時ゲートルをつけている人間など関東府には殆ど居ない。敢えて挙げるとするなら、かつての戦争の帰還兵や引揚者の生き残りが習慣のように身に着けているくらいであるが、目の前の男はそれにしては若すぎた。暗闇の桟橋上で、私が置いていた灯りに照らされている眞奈河の背後に目を凝らしてみれば、彼は「第六円蓋調査団」と刺繍された方形の背嚢のようなものを肩から下げていた。私はまさに、幽霊でも見ているような気分であった。
第六円蓋調査団は既に解散していた。それから幾十年、現在は関東府が不定期に調査団を組織して海洋へ送り出しているのみであり、つい最近第三期円蓋調査団が出航したばかりであった。私には、彼が第六円蓋調査団に所属していた親族から背嚢や装備を譲り受けたとも、はたまたオークションに出入りする古い調査装備の収集家であるとも考えられなかった。
眞奈河礎はまさに、「第六円蓋調査団員の亡霊」のような佇まいであった。
(
そんな男は、許可証に記載されている私の名を呼んだ。
(君と僕の目的は一致している。判るかね)
(……貴方も天円蓋へ?)
眞奈河は浮かべている笑みを少し固くした。
(ああ)
(私は〈危難的遭遇領域〉を通るつもりですよ)
(だからさ)
私が持っていた荷物を軽々と抱え上げた眞奈河は、私の目をよそに帆船に乗り込んでいった。
(僕は接続口よりも、〈危難的遭遇領域〉に用がある)
(砂月原隊長のことでしょうか)
意を決して口にしたその名に、眞奈河は振り向きもしなかった。
(砂月原郁道は、私の父なんです)
眞奈河がパッと私の方を見た。ランタンの加減でその表情は見えなかった。ただ震える程鋭い視線が私を突き刺していた。
数秒か、或いは数分……数時間か。
(そうか)
眞奈河が呟く声がした。
(僕は、彼を探しているのだ)
孤独な海上、未知の領域をたった二人で進む我々は、自然とその心の距離も近づいていった。ある日の夜、眞奈河は紙煙草をふかしてぽつりと言った言葉が、私と彼を更に近しいものにした。
「本当は飛行士になりたかった」
それは、私が幼い頃から抱いていた叶わぬ夢であった。私の視線を受けた眞奈河は同士に向ける笑みを浮かべ、黒い海洋の先へ目をやった。眞奈河が見ているその先に、天円蓋と海洋の接続口がある――そう信じられている。夜は何も見えなくとも、太陽が昇ればその姿を表す水平線のどこかに。
「だがなれなかった。僕は目が悪い。矯正も出来なかった。致命傷だ」
眞奈河は、まるで溜め息をつくように煙を吐いた。
「結局諦めきれなかったから、調査団の地上支援部隊に応募した。彼と出会ったのはその時だ」
私はスチール製のコップで両手を温めたまま、彼の横顔から目が離せない。
「調査団の護衛隊駐屯地にある格納庫でのことだったよ」
彼が初めて見た砂月原郁道は、自分の機の傍に工具コンテナを寄せて、それに寄りかかって床に座り込んでいたという。ぼうっと機を見上げていた砂月原は、眞奈河に気づくとちらりと手を振って見せて、
(新入り?)
――と、喉に擦れたような声で言った。
(地上支援部隊のね)
砂月原は何度か頷いた。
(ここで何を?)
「ここはお前の居場所じゃないだろう、そう言われた気分だった」
眞奈河は灰を落とす。
「だから素直に言うことにした。嘘をつく理由はない」
(見に来たんだ。憧れだからな)
再び頷いた砂月原は、機へ目をやった。
(よく言われる)
(君にではないぞ)
(え?)
その時の砂月原の顔は、拍子抜けしたのか、はたまた勘違いへの恥ずかしさか、何とも言えぬ顔をしていたそうだ。
(飛行機乗りに憧れていたんだ)
(何故ならなかった?)
(目が悪いんだ。適性検査で落ちた)
息をついた砂月原は眞奈河から視線を逸らした。その表情は平静そのものだったが、どこか決まり悪そうであった。暫く続いた居心地の悪い沈黙を破ったのは、やはり砂月原郁道であった。
(海を見ろよ)
明らかに怪訝そうな顔をした眞奈河に構わず、機首が向いている下りたシャッターの先へ目をやった彼は、どうやら相応しい言葉を選ぶのに苦労しているようであった。
(知っているか? あれが何故青いのか)
一瞬の視線に、眞奈河は首を振った。
(それはだな、海が鏡だからさ。空を映しているんだぜ)
その時眞奈河礎は、波打つ海面と空とをくっきりと別つ絶対不可侵の水平線が面前に広がり、霞のように消え去った幻想を見たという。
(……天円蓋に触れるのが僕の夢だった)
それでも上を見た眞奈河の呟きに、砂月原は微笑を浮かべた。誰もが見る夢だ。そう、彼の笑みは雄弁に語っていた。
(撃ち落されるぞ)
(恐れ多いと?)
砂月原はかぶりを振った。
(触れる前に、君はきっと燃え尽きる。天円蓋は……そんな触れるような代物じゃあないさ)
「それでも良いと言ったら、彼は静かに笑っていた。あの薄い色の目を細めてね」
私は叔母から見せられた写真を思い出す。あの茫洋とした水面を湛えているような、滲むような虹彩を持つ目を。
「君は、あの天円蓋に限界があると思っているんだな。あの人はそう言ったよ」
天円蓋の限界――。見上げれば視界一杯に広がる天空に、限界などありはしないということなのか。
(誰も海と空の接点を見たことがない。前人未到の地だ、どんな空想だって、幾らでも可能性がある)
砂月原は薄い唇を歪めて、笑い直した。少なくとも、眞奈河にはそう見えたのだという。
(行くよ)
(もう行くのかい)
機首の先を見ていたあの目が、眞奈河の方を見上げた。
(堪能したかね)
(いいや。また来るさ)
眞奈河の言葉を聞いた砂月原は数度頷いて、再び機の方へ顔を戻した。彼の左手がひらひらと振られていたのを見て、眞奈河は格納庫を後にした。
「彼が砂月原郁道という名だと知ったのは、それからもう少し後だったがね」
眞奈河は二本目の煙草に火をつけようとして、やめる。
(知らないぞ)
その名を初めて聞いた時、眞奈河は首を振って答えた。彼にその名を口にしたのは同じ地上支援部隊で働く仲間であった。仲間は目を剥いて、
(知らんって、お前。第一格納庫に通っているじゃないか)
信じられないという口振りで言った。
確かに眞奈河はあの日以来、仕事の合間に第一格納庫を訪れては、あぶくのように湧いていた飛行機乗りへの憧れを消化させていた。件の男は居たり居なかったりしたが、居ればちょっとした世間話をして、最後は決まって眞奈河が(訓練で死ぬなよ)と言うのに、(私を誰だと思っているんだ)と彼が返すのを聞いてから別れるということを数度重ねていた。思い起こせば、眞奈河はそれまで自身の名を明かしたことも、また彼が名乗ったことも、そして互いがそれを求めたこともなかった。
(いつも自分の機の前でぼーっとしている人が居るだろ。あの人が砂月原郁道さんだよ)
そこで初めて眞奈河は、あの男が第六円蓋調査団護衛一小隊隊長で、随一の能力を誇るエリート飛行士・砂月原郁道であると知ったのであった。仲間は仕事中に見た一小隊と四小隊の合同訓練について熱心に語り、
(やっぱり砂月原一隊長は凄いな)
と、実に感心した様子で、それから眞奈河へ、
(お前、よく知っているだろ。どんな人なんだ、あの人は?)
そう、興味津々の顔で迫ってきたのであった。仲間は眞奈河が第六円蓋調査団の有名人を知らなかったことに驚きを禁じ得なかったようで、
(何で知らないかなあ)
と、頻りに首をかしげた。その日、第一格納庫へ足を運んだ眞奈河は、やはり自分の機の前でくつろいでいたかの男に、試しに名前を呼んでみることにした。
(今晩は、砂月原さん)
男は顔を向けて(うん)と言って、
(急に何だ。風邪か?)
見せた反応は幾分か失礼であった。眞奈河が事の経緯を素直に説明していたところ、砂月原の顔はだんだん気まずそうになってきて、ついには不貞腐れたように薄い唇の先を尖らせた。彼の耳元に血の気が上っているのを見て、眞奈河は砂月原が珍しく随分な照れようであることに気づいた。そこで眞奈河は漸く、二人の別れ際のやり取りに合点がいったのであった。
(何だ。自分が阿呆みたいじゃあないか)
砂月原は赤い耳を擦った。
(君は、自分がどう見られているのかよく知っているらしい)
(そりゃあ、意外と外の声は聞こえるものだから)
(謙遜しないんだな)
(事実だからな)
一小隊のエリート飛行士は、その口元に自信に満ちた笑みを滲ませた。
(嘘をついてどうする)
私は再び写真を思い起こしてみる。彼の顔が自信に満ち溢れている様子を、私にはどうしても思い描けない。
「不思議かね」
私は頷いた。
「私は彼がそれほど自信満々な笑いを見せる姿が全く想像できないんです」
その言葉に、眞奈河はちょっと笑う。その口端に得意そうな色を浮かべて。
(判りにくい人だと思わないか、眞奈河君)
それは眞奈河が、時には同じ地上部隊の仲間に、或いは第六円蓋調査団の別の部署の人間から、またはほかの飛行士から、幾度となく尋ねられた言葉であった。眞奈河が気づく表情に、他の人々は気がつかないのだという。
(何を考えているか判らないんだ)
(いつも同じ顔をしている。そもそもあの人に感情があるのかな)
(砂月原さんは何があっても変わらないんだ。動じないというのが正しいかは判らないが……)
ある者は呟くように言った。
(仮面をかぶっているような男だ。……今、俺はあの人の顔を思い出せないよ)
「そこまで?」
眞奈河は目を細める。
「彼も、同じことを言ったよ」
(そこまで?)
眞奈河には、砂月原が少し不快そうに眉を寄せたように見えた。ほら表情がよく見えるじゃあないか――眞奈河は心の中で思ったそれを、敢えて口にはしなかった。ただ首肯するにとどめ、彼の隣にあるコンテナの上――気づけば眞奈河の特等席になっていた場所に腰かけた。
(……)
その日、砂月原はそれ以上何かを話すことはなかった。眞奈河の傍らで床に座ったまま、ただじっと砂月原機を見上げていた彼は、(もう行くよ)と腰を上げた眞奈河の方を見ることもしなかった。
「己を知るものは自機しかないのだ……彼はそう言っているようだった」
眞奈河はとある仲間が言った言葉を思い出したのだという。
(起源とか、性格とか……そういうのじゃあないんだ。機に乗っていることが、きっと砂月原さんの全てだ。俺はそう思うことにしたよ)
その仲間は、天円蓋の遠くを見るように空へ目をやった。
(飛行機乗りの砂月原郁道。他はないよ……俺達は――)
「砂月原さんのことを、何も知らないのだから」
眞奈河は目を伏せる。吸い切った煙草の吸い口が焦げて、灰皿に転がっている。彼に、シガレットケースからもう一本の紙煙草を取り出す気配はない。
「聡君。僕は君に彼のことを聞き出そうと思っているわけではないのだよ」
「では何故、この話を私に?」
唇の端を歪めて笑った彼を、私はどこかで見たことがあるような気がする。
「共有したかったのだ」
「何を?」
「……侘しさ」
眞奈河が唇を舐める。私は喉を潤そうとして、コップが既に空になっていたことに気づく。
「君は似ている」
「砂月原郁道に?」
「ああ。そんな君だから、きっと判ってくれる」
彼は微笑した。
「大切な彼を失った聡君」
頬杖をつく彼の長い指が私の胸を突く。
「天円蓋の縁へ向かおう。共に、唯一を探しに」
下げたロケットペンダントがあたる胸の中程が熱くなる。
「どうして――そんなに拘るんです、父に……?」
「死んでくれるな。僕は飛び立つ彼に言った。彼は当然のように『私を誰だと思っているんだ』と言ったよ」
私の胸を打ち抜くような彼の指先は微動だにせず。ただ彼は薄い唇の端を震わせた。
「彼の機を最後に整備したのは僕だ」
――私は眞奈河礎へかける言葉が見つからなかった。私の中で瞬時に膨れ上がった憤りにも似た感情はすぐに霧散し、何とも言えぬ居心地の悪さ、そして自ら業を背負い、責めを乞う者を足蹴にするような不快さだけが残る。もしかしたら、砂月原郁道が消えた原因は機にはないかもしれない。通信状態が悪いままはぐれてしまったのかもしれないし、はたまた関東府から内緒の任務を任されて離脱した可能性だってある。もしかしたら――砂月原が操縦ミスを犯したのかも。脳内に浮かんでは消えていった慰めの言い訳は、きっとどれも相応しくない。
「聡君。僕を許さないでくれ」
眞奈河は言った。
この男を、今は亡き第六円蓋調査団の亡霊を、責め立てるための物差しを私は持ち合わせていない。彼が抱える自責感は激しさを伴い、決して抜け出せない苦しみの淵から救われたいと思う自分自身を殺してしまいたい程に悲惨で自己否定的であった。「許さない」と言うことが、きっと彼が背負う荷を軽くさせられるのだろう。
「ゆるします」
私に、その五文字を口にする覚悟はできていない。
「行きましょう。眞奈河さん」
代わりに、私は胸を打つ彼の手を取って、少しずつ指を絡めて握り締める。
「貴方は〈危難的遭遇領域〉へ。私は天円蓋と海の接続口へ」
突き返された手の行き所のなさを、眞奈河は乾いた笑いでやり過ごした。伏せられる彼の顔に一瞬だけ浮かんだ笑みから、朗らかなものとは程遠い、ある種のナーヴァスさが滲み出していた。
それは、もう数時間もすれば〈危難的遭遇領域〉へ入るところまで航路を進んだ時であった。聞き慣れない音に海図から目を離し、天へ顔を向けた私は、小さな石のような何かが一片甲板に落ちていく様を見た。甲板にあたったその一片のかけらはカチンと音を立てて、波の揺れに任せて私の足元まで滑ってきた。同じ音を聞いたのであろう、眞奈河も船室から出てきて天を見上げ、更に落ちてきたもう一片を拾い上げた。
「何かから剥がれたみたいだ」
眞奈河がつまんだそれは、コーティング剤のように見えたがクリスタルのように透明で、その縁は硝子に似て触れたら切れてしまいそうな程に鋭い。私がそれを見ようと彼へ近づいた時、もう数片が続けて落ちてきたのを見て、
「船室に入ろう」
眞奈河は海図を回収して私の腕を引っ張っていった。
「当時の報告に、これに似たようなものがあった」
船室の外から、かけらが断続的に甲板にあたる音が聞こえ続ける中で、眞奈河は持っていた鞄から何やら分厚い本を取り出した。「第六円蓋調査団通信記録・十一」と記されたそれをデスクに広げ、急いでページを捲る彼の後ろで、窓の遠くにかけらが落ちていくのが見える。
「ここだ」
私は眞奈河の隣に立って、彼が指さす箇所に目をこらす。
『こちら二小隊・破地より本艦・水天一碧へ。屋部子機から風防に石のような何かがあたったと通信あり。先程の三小隊からの報告と同様のものだと思われます』
『水天一碧より二小隊へ。屋部子機及び他の機に異常はないか』
『二小隊、全機損傷なし』
『水天一碧より一小隊へ。航路上空について報告せよ』
『こちら一小隊・砂月原より本艦・水天一碧へ。先程の報告の通り、小石のような何かが上から降ってきているのは複数の隊員が目視しています。その頻度は増している模様。天円蓋に異常は見られませんが、万が一本艦に落ち、あたり所が悪ければ航行に支障をきたす恐れがあります』
『こちら四小隊より本艦・水天一碧へ。十合機が落石を確認。右翼にあたりましたが損傷はなし』
『砂月原より本艦・水天一碧へ、待機或いは帰還を提言します。このまま航行するのは危険です』
何か、かけらよりも大きく質量を伴うものが海面に叩きつけられる音がした。
「ここから先、記録は殆ど残っていない。関東府が隠蔽したんだ」
「第六円蓋調査団が遭遇した未知に他ならないから。そうなんですね」
眞奈河は頷く。
「僕が本部で聞くことができた通信もここまでだ。ことの真実を知る者はもういない」
私は眞奈河の方を見上げ、それから窓の外を見た。目視できる程のクリスタル的平板が音を立てて落ちていく、その衝撃で帆船は揺れ、我々は足を滑らせそうになりながら通信記録を追う。
『四小隊・赤月、海域を抜けます』
『そのまま進め。二小隊・三小隊、現状を報告せよ』
『二小隊・破地、二機が損傷、隊員は無事。自機の放棄と脱出を指示しました。隊員の回収を要請します』
『三小隊・野小坂、こちらも佐上隊員が自機を放棄、海上へ脱出します』
『水天一碧より一小隊へ、もうすぐ本艦及び全小隊が海域を抜ける。現状を速やかに報告せよ』
『一小隊、どうなっている、現状を速やかに報告せよ』
『砂月原一小隊長、応答しろ』
『砂月原』
『一小隊・雪村より本艦・水天一碧へ、砂月原機からの応答なし。繰り返す、砂月原機からの応答なし』
『他機の現状を報告せよ』
『一小隊、砂月原機以外の機に異常なし。ただ』
『本艦からは砂月原機を確認できない。レーダーに反応がない』
『砂月原機、いません。繰り返します、砂月原機、消失』
『二・三・四小隊、砂月原機は見えるか』
『三小隊・野小坂、確認できません』
『こちら二小隊、全隊員に確認、砂月原機をいずれも目視できず』
『四小隊、確認できません』
地鳴りのような音が遥か彼方から聞こえる。波で身が振れる。衝撃はより強くなって我々に襲い掛かる。
『一小隊、砂月原機を損失。海域及び航路上空に問題なし、本艦に合流します』
私は眞奈河の静止を振り切ってデッキへ飛び出した。
轟音を立てて落ちるクリスタル的平板は海に叩きつけられて、噴き上がるが如き飛沫が私の全身を濡らす。私は顔中の海水を乱暴に拭う。雨のように降り注ぐクリスタルが剝き出しの肌を切るように甲板へ転がっていくのに構わず、私は舳先へ向かう。時々、散らばっているクリスタルに足を取られながら。よろけた私の腕を、眞奈河礎が抱きとめる。
「……」
気をつけろ、危ない真似をするな――きっとそう言いたかったいずれの言葉も、眞奈河の口から出ることはなかった。眞奈河の口が呆然と開いて、その目がこれ以上ないほど見開かれて、呼吸を忘れたかのような彼はただ私の腕を握る手に、その爪が白くなる程力をこめた。
天円蓋が割れている。崩れ落ちた先、裂け目の奥で何かが瞬いている。ひび割れの淵に滲む、私達の全てを取り込んでしまいそうな黒い影が、溢れそうな程どろりとした質量を持って滴り落ちる幻影が見える。天円蓋が軋む音がする。ギチリと亀裂が入り、雪のように散っていく硝子の切っ先が、天の鏡たる海へ墜落するクリスタリック・スラブを導いていく。水飛沫が硝子の切っ先に傷つけられた体を濡らし、震えるような痛みが私を包み込む。優しく、あたためるように。
「往こう。聡君」
傍らに立つ眞奈河礎は、崩れる天円蓋の先、裂け目に広がる瞬きに惹かれるように前を向く。
「接続口はこの先だ」
「砂月原さんは……」
眞奈河は前を向いたまま、微笑んだ。
「聡君。君は雨を知っているかね」
「あめ?」
「藤色の雲がたなびき、明けの明星が輝く朝。赤く輝く太陽が沈む黄昏。澄んだ空に広がる満天の星。君は見たことがあるかね」
眞奈河の目が細められ、めくるめくようなきらめきを孕む。ビスクドールの硝子の瞳のようなそれは、私を天円蓋の真実へと招く導きの星であった。
「調査団は天円蓋と海の接続口を探すためにあるわけじゃあない。この天円蓋の定期検査と修理こそ、我々の本当の目的だった。第六円蓋調査団は天円蓋が老朽化を迎え、崩壊へ向かっていることを知った。だからこそ、関東府は誰にも航行を許さなかった。天円蓋の世界の真実を隠蔽するために」
言葉を失う私と第六円蓋調査団の亡霊は天円蓋の亀裂の下を、最早何も映さない鏡の海面に叩き落されるクリスタリック・スラブに揺さ振られながら進む。私は投身したい誘惑を抑え、震える膝を叱咤する。
「この天円蓋は、人類の維持と保護のために少数単位で構成されたコロニーを覆うシールドだ。夜明けと夕暮れはすべて天円蓋に投影される映像で、そこにあるのは人為的に決定された自然だけだ。雨は決して降らないし、明けの明星が昇ることはない。夜を彩る星々はなく、暗闇を照らす月もない。君はきっと、灼熱の太陽も凍るような吹雪も知らない筈だ。人類が生きるための最適な環境に、そんなものは必要ないのだから」
絶対不可侵の水平線に到達せんとする私達の前に不意に現れたのは、切れ目のような線であった。それが方形を成しているのに気づいた私は、帆船から身を乗り出して手を伸ばし、切れ目に触れ、息をするのも忘れて方形を撫でていた。指が方形の縁を掠めたとき、方形が音もなく動く。
面前に続く真っ白な通路。驚愕のあまり凍りつく私の後ろから、眞奈河が飛び降りていく。投身したと思った私の方を向いて、彼は手を差し伸べた。目を凝らしてみれば、眞奈河の足元には底の方へ水没していく階段があった。
「来たまえ、和水聡君」
私は、眞奈河礎の手を取った。
「ここからは君一人で往くんだ。僕は一緒に往くことはできない」
眞奈河は臆する私の背を押す。振り返る私を見つめる第六円蓋調査団の亡霊は、青く美しい閉ざされた世界を背にして立っていた。
「貴方は何者なんです。眞奈河さんは……」
「僕は眞奈河礎だ。それ以外の何者でもない」
私は終末の音が遠くで響いているのを聞いた。
「砂月原郁道が望んだのは、際限ない空を自由に駆ることだった。例え翼をもがれて灼け落ちてしまっても構わない、彼はそう思っていた。あの天円蓋の裂け目を見た彼は、自分の使命を放棄したのだ」
天円蓋の裂け目から見えたどろりとした暗闇で瞬く「何か」が、私の脳裏で輝きを放つ。
「裂け目を破った彼はそのまま天円蓋の外へ出た。星の散る、無限の世界へ」
不意に心細さに襲われた私は、眞奈河へ手を伸ばす。
「貴方は往かないのですか」
「『聡をよろしく頼む』――僕はその言葉に従っただけだ。些か時間はかかりすぎたが」
影のない男は、私が見た中で最も淋しそうに微笑した。
「往くための体は朽ちた」
振り返らずに進め。
眞奈河が私に告げた最後の言葉を胸に、私は長い通路を進む。やがて現れた方形の扉に手をかけると、それは音も立てずに開いた。
そこは小さな格納庫であった。駐機されているたった一機の傍らで、男が椅子に足を組んで座っている。彼は褪せた鶯色の上下ではなく飛行服を身にまとい、砂埃で汚れた革の長靴を履いて、腕には白いスカーフを巻きつけている。上シャツの肩口に縫いつけられている第六円蓋調査団の小紋章旗、地面に放っている飛行帽に刺繍されている「砂月原郁道」の名が見えた。人の気配に気づいたのか、航空機を見上げていた顔がこちらへ振り向く。
「よく来たな」
私は胸元のロケットペンダントを引き千切って、目の前の男に投げつけた。
ペンダントを掴み取った砂月原郁道は、ロケットを開けて中を見た。それから数度頷いて、薄い唇をくいと上げて笑う。
「返すよ」
私は砂月原を睨みつける。
「あんたの妹から……叔母から預かったんだ。どんなかたちでも、あんたに会えたら見せろと言われた」
立ち上がった砂月原は飛行帽を身に着けた。そうしてみると、彼に年老いている様子は全くなく、あの毛羽だったファーに包まれた細面の顔、色の薄い目は、あの写真そのものであった。ただ、口の端に出来る笑い皺だけが、彼の年齢を表す唯一のものであった。
「かぶれ」
彼が放ったのはもう一つの飛行帽であった。彼は戸惑う私の隣を素通りして、コックピットへ乗り込む。
「何を……」
「出るぞ」
「シャッターを閉めたまま?」
私は格納庫のシャッターを指さす。砂月原はいそいそとコックピットから出てくると、小走りでシャッターを開けに向かう。私は急いでその後を追った。
「どういうつもりなんだ。いきなりこんなもの渡して、出るって……」
シャッターのボタンに手をかけた砂月原がバッと振り向く。顔をのけぞらせて立ち止まった私へ人差し指を向け、にやりと笑った彼は、
「見てろよ」
そう言って勢いよくボタンを押した。音を立てて開いたシャッターに釘付けになる私へ向ける自信満々な彼の顔は、すぐにシャッターの外へ向けられる。聞き慣れない音が格納庫中に響く。まるで、何か細かいモノが大量に地面に叩きつけられるような音が。
「土砂降り……」
砂月原の声は明らかに失望していた。「どしゃぶり」が何かは判らなかったが、彼の目的を妨げる何かであることは理解できた私は、ざまあみろと彼の顔をすくい上げるように見た。
「調査団随一のエリート飛行士だったんでしょう。飛べないの?」
「誰に聞いたんだ」
「眞奈河さんが教えてくれた」
砂月原はシャッターを閉める。彼の顔が懐かしそうに笑ったのを見て、私はそれ以上眞奈河について何かを言うのを止めた。砂月原と眞奈河の間にあった絆を犯すのは不本意であったから。
「飛ぶ、飛ばないじゃあないんだ。お前に見せたいのは滝のような雨じゃあない」
砂月原はさっきまで座っていた椅子に勢いよく腰掛け、飛行帽を脱ぎ捨てた。
「まあいいさ。話したいことは山ほどある」
父が微笑み、私に近づくように手招きをする。
外で降っているのはきっと「あめ」なのであろう。天から降り注ぐ水の粒が立てる音は、聞き慣れない筈なのに心地の良いものであった。私は父の抱擁に身を任せて目を閉じた。
天よ、雨を知れ maki @mkz_aiu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます