第10話ようやく由岐枝とのんびりデートも、強盗に襲われるは、夜も波乱の夜
食事をしながら、俊一郎は園子に聞きました。
「今日はどうされますか。」
「そうね。今日はフリータイムだから、美術館にでも行こうかしらね。俊一郎さん、オルセーがいいって言ってたわね。」
これこそ渡りに船だったので、彼は今朝のことを話すことにした。
「実は、今朝二人で散歩していたら、昨日あなたが言ってた水野春子さんでしたっけ、その人に会ったんですよ。」
これには園子が驚いた。
「ええ。確かそうだったわよ。あら、会ったの。」
「リュクサンブール公園で会ったんです。」
「どうだった、圭子に似てたでしょ。」
「ええ。確かに似てますね。ただ…。」
「ただ、何よ。」
「圭子さんには悪いけど、彼女の方が上品な感じでした。」
俊一郎は、園子が怒るかと思ったのですが、逆に納得していました。
「うん。それ言えてるわ。あの子の方が清楚な感じで。あの子きっと処女よ。俊一郎さん心動かなかった。」
由岐枝は、どきっとしましたが、彼は平然と答えました。
「ぜーんぜん。」
「何だつまんない。」
「正直言って、そんなこと、全く考えもしませんでしたね。」
「私は、ほっとしました。」
由岐枝は、正直に認めました。
「それで、よろしかったら斉藤さんオルセーにご一緒しませんかって言ってました。」
「あら、偶然ね。じゃあ、喜んで行こうかしら。あんたたちは。」
「私たちは、二人ともオルセーは見ましたから、別の美術館にでも行きますよ。」
園子は笑った。
「あら、おかしい。」
「何がですか。」
「最初から、私を締め出す気だったみたいで、二日続けて。」
由岐枝は、慌ててとんでもないことを言いだした。
「あっ、すいません。じゃあ私もご一緒しましょうか。」
俊一郎がテーブルの下で手を引っ張ると、由岐枝は『親子水入らずで会わせよう。』と言ってたことを思い出しました。
「あっ、そうだった。」
更にぼけたことを言った由岐枝でしたが、園子は、それを知ってか知らずか、笑いながら言いました。
「いいわよ。私、娘のそっくりさんとデートしてくるわ。あんたたちも、パリは今日一日で終わりなんやから、楽しんできたらいいわ。」
「では、お言葉に甘えまして、そうさせていただきます。」
俊一郎はにこにこしていましたが、由岐枝は露骨にほっとした顔をしたので、園子は大笑いしました。
「ほんまに、由岐枝さんは嘘のつけない人やね。」
俊一郎も笑った。
「直ぐに顔に出ますからね、でも、その素直なところがまた最高にいいんですよ。」
ほめられるとまたぱっと表情が明るくなるので、園子も見ていて飽きませんでした。
「でも由岐枝さん。」
「えっ、何ですか。」
「何時までもこのままや思うたら大間違いよ。」
「きゃっ、怖いこと言う。」
しかし、俊一郎は笑って見ていました。
「そんなもんよ。結婚して子供が生まれたら、夫は別の女性の元に走り、帰っても来ないなんてね。」
すると、流石に俊一郎も口を開いた。
「やめてくださいよ、昼のワイドショーみたいなこと言うのは。私は、少なくとも自分から浮気しようとは思いませんよ。」
「あれ、じゃあ自分からでなかったらどうします。」
由岐枝は不安になって突っ込むと、彼は、正直に答えました。
「それは、やっぱり私も男だから、絶対やらないという保証はできない。」
「あっ、私泣いちゃう。」
「でも、心は君にあるから大丈夫だよ。」
俊一郎は安心させようとしたが、園子はさらにからかった。
「あら、そんな甘いもんかしら。」
「もう、斉藤さんまで。」
「冗談よ。それにこの人、もしかしたら何かまたしょうもない予言せえへんかった。」
由岐枝は、俊一郎がそれらしいことを言ったのを思い出した。
「あっ、言ってた。私と結婚して子供も居たみたいな光景見たって。」
「猫もいました。」
俊一郎は、どうでもいいことを付け加えました。
「おやおや、じゃあ少なくともそれまでは大丈夫やね。」
「と思います。」
「本当かしら。」
由岐枝は、それでも少し不安でした。
「信ずるものは救われる。」
「じゃあ、信じます。」
園子は呆れた。
「あらまあ、何とも素直ねえ。」
「そこがいいんです。」
「俊一郎君からのろけを聞かされるとは、私も焼きがまわったわよ。」
「何ですかそりゃ。」
「冗談冗談。」
由岐枝は、二人のやりとりを笑っていました。
「で、何時にどこなの。」
「あっ、そうでした。10時にオルセーの入口でって言ってましたよ。」
「わかったわ。」
「ご案内いたしますか。」
「いいわよ、と言いたいとこだけど、まあボディーガードに来てちょうだい。」
「わかりました。じゃあ、由岐枝さんは、セーヌ川の向かいのオランジェリー美術館で待っていてください。」
「はーい。」
「ほんまに、あんたたち、憎らしくなるほど仲ええのね。」
半ば呆れて園子が言うと、珍しく由岐枝が園子に話しかけた。
「斉藤さん。」
「なあに。」
「私、俊一郎さんからいいこと教わりました。」
「なんやの。」
「幸福は、自分のことでも他人のことでも素直に喜びなさいって。」
「わかってるわよ。大体、この人といたら毎日説法が聞けるでしょう。」
「そうですね。」
由岐枝は、確かに園子の言うとおりだと思いました。
「では、9時半に出ることにしましょう。」
「はいはい。」
俊一郎が部屋に戻るとユンが来て、にこっと笑って小さな箱を差し出しました。
フランス語は不確かでしたから、身振り手振りを交えて話し合ったところ、昨日のお礼だとのことらしかった。
彼は素直に受け取って礼を言うと、ユンはにっこり笑って出て行きました。
開けて見ると、アンティーク調のトルコ石が散りばめられた銀のペンダントでした。
由岐枝にプレゼントしろ、と言われているような感じだな、と思いましたが、後でもう一度由岐枝から聞いてもらおうと思って箱に戻してバッグに詰め込みました。
由岐枝が部屋に戻ると、机の上に小さな包みが置いてありました。
添えられていたカードには「圭子からのプレゼントです。ユン。」と書いてあったので開けてみると、アンティーク調のトルコ石がはめ込まれた銀のカフリンクスでした。
おや、これは私から神坂さんにプレゼントしろ、と言われているようなものだな、と思いましたが、やはり彼に後で話してみる積もりで彼女もバッグの中にしまいこみました。
そして、彼が100フランチップをあげてユンを買収したと言う話を思い出し、明日で最後だから自分もチップを多めに奮発してみるかな、と思いました。
園子は、朝食後いそいそと支度に取りかかったのですが、まだ8時過ぎだしちょっと早すぎることに気付きました。
そこで、今朝俊一郎と由岐枝が仲良く散歩してきたことや、彼が初日に早くもクロワッサンを買ってサン・シュルピス寺院前でぼーっとしてきたことを思い出し、自分も行ってみることにしました。
階下に降りて鍵を預けると、レセプショニストが「アローン?」と聞きました。
何を言われたのかわからなかったので、「サン・シュルピス」と答えると、彼は通りまで付いてきて指さして「レフトサイド オーバーゼア」と教えてくれました。
その通り行くと、俊一郎の言ったとおりその広場はすぐ近くで、手前が公園でベンチが置かれていました。
一人でベンチに座っていると、天気もよいしのどかでいい気分でした。
晶子は、モンパルナスの近くの安ホテルに潜伏していたのですが、圭子と二人でぶらぶらとサン・シュルピスまで歩いてきて、危うく園子と鉢合わせしそうになりました。
慌てて隠れて二人で母の様子を窺うと、余りにのんびりしている様子なので、拍子抜けしました。
圭子は、自分と暮らしていたころには見せなかったような、のんびりして、けんのない母の表情に気づくと、たまらなく寂しくなりました。
このまま走っていってもう一度胸に飛び込みたい気はしましたが、折角俊一郎が見逃してくれた計画でしたから、かろうじて思い止まって、晶子の手を引いてその場を離れることにしました。
「良かったの、これで。」
晶子は、念を押しましたが、圭子は、精一杯の笑顔で答えました。
「ええ。母さん、私の前ではあんなのんびりした顔見せたこと無かったんよ。これで良かったのよ。それより晶子、もう今日しか甘えられないかも知れないんやから、早く行きなさい。丁度いいから。」
「でも…。」
「いいのよ。もう決めたことなんやから。」
そう言いながら、圭子は晶子の背中を押しました。
「最初で最後の親孝行やと思うて、行ってらっしゃい。」
晶子を促しながらも、圭子は彼女の後姿を見ている内に涙があふれて来ました。
園子がベンチに座ってぼーっとしていると、誰かが前で立ち止まりました。
見上げると、娘そっくりの笑顔があったので、思わず立ち上がると叫んでしまいました。
「圭子。」
晶子はどきっとしましたが、心を押し隠して微笑みました。
「春子です。オルセーでお会いしようと思ったのに、こんな所で会えるなんて偶然ですね。」
「あっ、ごめんなさい。やっぱり似てるわね。昨日は暗かったからそれほどでもないと思ってたけど、明るいお日様の下で見ると、本当に見間違えたわ。でも…。」
母が口ごもったのが気にはなりましたが、知らないふりして晶子はごまかしました。
「えーっ、そんなに似ているんですか。私、会って見たかったですわ。」
調子をあわせながらも、後ろめたい晶子でした。
「でもね、あんた私の娘の圭子よりもずっと上品な感じで、その分美人やわ。育ちの差かしらね。あっ、ここに座ってちょうだい。」
晶子は促されて母のとなりに座ると、いろいろなことが思い出されてつい涙をこぼしてしまいました。
「どうしたの。」
園子が驚くと、晶子は自分の身の上話を始めた。
「すみません。あなたの側に座ると、つい母のことを思い出してしまったんです。」
「お母さんは、お元気。」
「いいえ、両親とも死んでしまったんです。」
「あら、それは…。ごめんなさい。」
「それで、つい。あなたを見ていると母の様な気がして。」
「いいわよ。私も、娘を亡くした気分だから、ちょっと抱かせてちょうだい。」
園子は、晶子を抱きしめてから自分の膝の上に寝かせて、背中を撫でました。
「とてもいい気分です。」
晶子は、正直に言いました。
「あなた、どこか悪いんじゃない。」
実の母に言われてどきっとした晶子は、必死にごまかしました。
「あっ、ええ。私体は余り丈夫じゃないんです。小さい頃、何時死んでもおかしくないと言われて、父が位牌まで作ったっていうんです。」
晶子は、その位牌が園子の家の仏壇にあることまでは知りませんでした。
「ふーん、奇妙な偶然ね。」
「えっ。」
何かまずいことを言ってしまったかと焦った晶子は起き上がろうとしましたが、園子は自分の膝の上から放しませんでした。
「だめよ、もう少し寝てなさい。」
「いいんですか。」
言いながらも、晶子は実の母に甘えることができて嬉しかったのです。
「私はね、とても悪い母親だったの。」
「そんな…。」
「いいえ、娘の友人で神様のような人がいるの。」
晶子は、俊一郎のことだとぴんと来ました。
「どんな人なんですか。」
「そうね。見かけは高校生みたいなんやけど、中身はじいさんを通り越して本当に神様みたいなのよ。」
「えっ、もしかして神坂さんですか。」
「あっそうそう。彼、今朝あんたに会ったのよね。」
「そんな感じはしませんでした。確かに不思議に落ちついた人だとは思いましたけど。それで神坂さんがどうされたんですか。」
「あっ、そうやった。私、彼に説教されて痛感したの。私は一人の女やったけど、母やなかったってね。」
「そうなんですか。でも、自分の母親ぐらいの人説教できるんですか、あの人。」
圭子から、俊一郎については散々聞かされていましたし、自分も興味がありましたから根掘り葉掘り聞いてしまってはいましたが、それでも実感が湧かないので晶子は信じられなかったのです。
「話してみたらええわ、と言いたいとこやけど、あの人にもようやくええ子ができたから、あんたにすすめる訳にはいかんわ。」
「ああ、ベンチに並んで座ってた、美人でスタイルもいい人ですね。」
「そうなの。彼女宮川由岐枝さんって言う旅行会社の人なんやけど、信じられんほど素直でええ子やの。」
その由岐枝を、成田で散々からかって乳まで揉んだ上、シャンティーでは圭子と二人でレズプレイで慰みものにまでした晶子だったのですが、そのことは隠して苦笑しました。
「仲良さそうでしたね。幼なじみかなんかなんですか。」
「ううん、二人はきっと結婚すると思うけど、まだ知り合って3日よ。」
「えーっ、そんなあほな。」
晶子自身も知っていることではあったのですが、偽らざる気持ちでもありました。
「不思議でしょう。」
「ええ。正直言って、二人が座っているところって本当に自然で、若いけどずっと昔から知っているかのようなカップルでした。」
「そうやったの。もうできてるのよ、あの二人。」
シャンティーでは、圭子が由岐枝に悪戯するのを手伝った晶子でしたが、二人がセックスするところを想像すると、顔が赤くなりました。
「あっ、ごめんなさい。あんた圭子と違ってまだバージンなのね。」
晶子、痴漢に触られたことはありましたし、圭子には女同士の手ほどきを受けてレズにのめりこんでいましたが、まだ処女でしたから、素直にうなずきました。
「それでいいのよ。急ぐことはないわ。私はね、財産に釣られて結婚したけど、男見る目無かったのよ。」
「どんな方だったんですか。」
晶子が知っている父は、極普通の父親でした。
ただ、余り何も言わなかったし、特に何かをしてくれる訳でもなかったのです。
「そうね、マザコン亭主って奴よ。」
晶子は、思わず吹き出していました。
義母から、祖母が生きていた頃は何をやるのも祖母の言いなりで全く頼りにならない男だったと聞いた覚えがありましたから。
「そうだったんですか。でも、一緒にいらしたんでしょう。」
「いいや、圭子生んでから半年でけんか別れよ。あのくそババア、浮気した自分の息子の肩ばかりもちやがって、『ああら、男が浮気するのは嫁の甲斐性が足らないのよ。』なんてしゃあしゃあと言いやがって、自分の亭主が陰で何してたのか知らんのやから、ほんまに知らぬが仏よ。」
晶子にとっては祖父母のことでしたが、彼女が小学生の時に相次いで亡くなっていましたから、余り記憶にはありませんでした。
「えっ、どんなおじいさんだったんですか。」
「いやまあ、婿養子やったから奥さんにはひいこらしてたんやけど、陰に回ったら相手構わずよ。あげくの果てに息子の嫁の私にまで迫ったんやから。だから、余計むかっと来て飛びだしたんよ。」
「圭子さんを連れてですか。」
「ううん、圭子ともう一人晶子は双子やったんやけど、くそババア置いてけって言うから泣く泣く置いて出て、その後大騒ぎして圭子だけは取り返したんやけど、晶子は半年で死んでしまったのよ。生きていれば、丁度あんたぐらいやったのにねえ。」
実の母に見つめられて、晶子はつい本当のことを言いそうになりました。
「あっ、ごめんなさい。嫌な話聞かせちゃって。あなたのご両親はどうだったの。」
あやまられてかろうじて思い止まった晶子は、自分の知っている両親のことを話した。
「父は余り話をしたこともなくて、何だか給料配達人みたいな覚えしかないんですけど、母は、しっかりしたいい人でした。」
園子は、風の便りに前夫は若くて気の強い娘と再婚したと聞いていましたから、彼女に親近感を覚えた。
「あなた、ご兄弟はいらっしゃらないの。」
「ええ。私、今ほとんど天涯孤独なんです。」
「おやまあ、それはお気の毒に。」
そう言われたものの、晶子自身はむしろ気楽でしたから、圭子と会うまでは、一人で人知れず死んでしまおうかなと思っていたのです。
「でも、困らないだけの遺産がありましたので、こうやって旅行できてるんですよ。」
「不幸中の幸いね。」
「ええ。こちらには友人もいますから、不自由はありません。フランスって無愛想ですけど、中に入ってみるとそれなりの合理性があって、これはこれでいいもんなんです。」
「ふーん、私たちから見るとほんまによそもんって感じで、差別されてるみたいにしか思えへんけど。」
園子は、俊一郎が言ってたことや、接客態度から日本人はよく思われていないことを感じていた。
「人種差別はありますね。黒人やアラブ系の人々がとても多いでしょう。」
「そうやね。こんなに色々な人がいるとは思わへんかったわ。」
園子、パリに来るまではフランスは白人の国だと思っていたのですが、来てみたら黒人の方が多いし、色々な人種の人々がいるので驚いていました。
「アフリカ系では、黒人だけでなく、アラブ系の人もいますけど、フランスは、旧領土って考えがあるんですよ。」
「何や、帝国主義やね。」
「そうですね。世界一プライド高いんじゃないでしょうか。」
「つまらんわね。神坂さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいわ。」
園子は、正直そう思っていたのです。
神坂俊一郎は、本当はとてもプライドも高い男ですが、自分の能力の高さを精神的な余裕に変えており、人を見下すことがありませんでしたから。
「でも、中に入ったら決して人は悪くないんですよ。むしろ、ラテン的な楽天主義もありますし。」
「そう。神坂さんも言ってたわ。日本人も人の国にきて傍若無人に振る舞ってるから、人のこと言えた義理やないって。」
「なかなか鋭い人ですね。年齢よりも若く見えるし、穏やかな感じの人でしたけど。」
「あんた、知らへんけど、ほんまはものごっつう怖い人やわ。神様ってあだなやけど、不動明王か死神かって感じよ。」
晶子、死神かにはつい吹き出してしまいました。
「とてもそんな風には見えませんよ。」
「そりゃそうよ。あの人鏡みたいなもんで、その相手の心を映して見せるのよ。だから悪意を持たない人には、優しさそのものの、ほんまにええ人なんやから。」
「そうだったんですか。」
確かに、自分たちの計略を見破った時や、ムエンタイの名手だというユンの彼氏に襲われた時の彼の異様な迫力と強さから思い当たるものがありましたし、圭子も『敵に回せば恐ろしい。』と言って金で解決しようとしたのもそのためだったのです。考えていると、背筋が寒くなりました。
「どうしたの、今ちょっと震えたでしょう。」
上半身を預けていたため、園子には晶子が震えたのが伝わりました。
「神坂さんのことをよく思い出してみたんですけど、あの目がちょっと怖い時があったなと思ったら、何故かぞくっとしたんです。」
正直に答えると園子が笑いました。
「春子さん、あんたなかなか敏感やね。あの人時々自分を超越してしまうんやけど、その時の目がそうなのよ。底無し沼みたいって圭子が言ったんやけど。」
「言い得て妙ですね。でも、何だか哀しそうな感じもしましたけど。」
「苦労したのよ。だから、今の彼女と幸せになって欲しいわ。」
「そうですね。」
晶子の場合、半ば自分の都合もあってうなずいていました。
そのまましばらく座っていましたが、俊一郎にわざわざ来てもらうのも悪いから、園子はホテルのフロントから部屋に電話してそのままオルセーに行く旨彼に伝えました。
晶子は、ツアー客にとっては失踪した圭子なのですから、見られると不都合でしたし、俊一郎も、由岐枝に晶子を見られると具合が悪いので好都合でした。
二人が十分遠ざかった頃を見計らって、彼は由岐枝の部屋に電話をかけて、園子がそのままオルセーに行くことになったことを伝えました。
そして、階下で落ち合って仲良く出かけようとしたところ、田中友子とばったり出会ってしまったのです。
友子も、俊一郎が圭子の婚約者だと言うのは何だか奇妙で、むしろこの二人の方が自然のような気はしていたのですが、圭子の母もいるのにアベックで仲良さそうに歩いているのには驚きました。
そして弘子に、変なものを見てしまったと伝えたのです。
昨日一日園子と一緒にいて、弘子は、彼女といろいろ話しをしていたので、圭子と俊一郎はうまく行っていなかったこと、園子自身ができれば俊一郎は由岐枝とうまく行って欲しいと思っていることを知っていました。
「実はね、そんな事情でお母さん自ら娘の婚約者である神坂さんに、宮川さんとの交際を勧めたんですって。」
とんでもない話しでしたが、友子も、この二日間見ていると、その方がむしろ自然に思えて納得できました。
神坂俊一郎が、婚約者が失踪したにもかかわらず余りにも落ちつきはらっていたので、普通の婚約者としての愛情を圭子に対して抱いていなかったように思えていましたから余計に。
そして、圭子は、どう見ても婚約者がいるようには思えなかったのです。
「人生、いろいろあるもんね。でも、あの二人本当に楽しそうだったわよ。もしかしたらできちゃったのかもね。」
「あっ、それ言えてる。宮川さん、何だか急に色っぽくなったもん。きっとそうよ。」
初日には清楚な感じにしか見えなかった彼女が、昨日は大人の魅力を感じさせる女に変身していたように感じられましたから、弘子もそんな気がしました。
しかし、言った後、何だか惨めになってきました。
「何だか、私たち惨めな気しない。」
「そうね、やめましょ、そんな話。私たちも、日本に帰ったらいい人捜しましょ。」
そう言って、二人はフランス最後の買い物に出かけて行きました。
俊一郎と由岐枝はと言うと、当初の予定を変更して、メトロに乗ってギュスターブ・モロー美術館に行きました。
美術館とは言うものの、普通の家にごちゃごちゃ絵がある感じで、しかも雰囲気がやや暗いものでした。
「ロマンチックと言えばそうですけど、気味が悪い絵もありますね。」
由岐枝が感想を述べると、俊一郎も同意しました。
「そうだね、色彩はきれいだけど、人物の顔や肢体はね。私は、グスタフ・クリムトの絵の方が好きだな。」
「クリムトって、金を大胆にしかも厭味なく使う画家ですね。」
由岐枝もどこかで見たので覚えていました。
「うん。女性の顔が結構エロチックだ。」
「あら、俊一郎さんもそんなとこ見てたんだ。」
深い仲なのに、何故か彼を男でないような言い方をしたので、俊一郎は由岐枝の耳元でささやいた。
「私は十分好色だよ。クリムトの絵よりも、君のあの時の顔の方がもっと魅力的だぞ。」
「きゃっ、やめて。思い出すだけで…。」
濡れてしまうと言いかけて、由岐枝は言葉を呑み込みました。
ギュスターブ・モロー美術館を出ると、彼らは、ピカソ美術館に行ってみることにしました。
晴れ渡った空の下、しっかり腕を組んで歩いていると、俊一郎は何を思ったか由岐枝の腰に手を回してピョンと横に飛んだのです。
「きゃっ、どうしたの。」
由岐枝が聞いた途端、上から水が降ってきました。
アパートの上階の住人が窓際の植木鉢に水を注いでいたのでした。
「あらあら、また助かりましたね。これも予知能力みたいなものですか。」
彼女が感心しながら言うと、彼はつまらなさそうに答えました。
「いや、今のは単に額に一滴ぽつっときたからぴょんと逃げただけだよ。でも、犬の糞と言い植木の水やりと言い、人の迷惑省みずの国だな。」
言いながら彼が何歩か歩いた時、由岐枝が悲鳴を上げたあと、大笑いしました。
「何だ。」
不審に思った彼が聞くと、彼女が足元を指さした。見ると、彼が見事に犬の糞を踏んでいたのです。
「ぎゃおー。これ何とかならんか。」
彼は珍しくじたばたしていた。
「もう下水流れていませんから、石畳でごしごしやるしかありませんね。」
アドバイスしながらも、由岐枝は笑い続けていましたから、彼はむくれました。
「おかしくない。」
すると、彼女は余計笑いだした。
「だって、見えないものすら避けるのに、見えるもの踏むんだもん。おかしくって。」
「私だって人間だ。そんなこともある。」
「ええ。却って安心しましたよ。それでなきゃ余りに超人的ですもん。」
「はいはい。うんが着いたところで、面白い絵見に行こう。」
ピカソ美術館での二人の感想は、また違っていて面白いものでした。
「面白い絵ですね。抽象画家だとばかり思っていたら、とてもまともな絵もありましたし。」
由岐枝の感想に、俊一郎は奇妙なことを言いだした。
「そうだね。言霊画家と命名しよう。」
「何ですか、ことたまって。」
「言語の言に霊魂の霊と書いて、ことたまって読むんだよ。」
「どんな意味。」
「古代神道につながるんだが、日本人は言葉には霊力があると信じていた。」
「そう言えば、神社の祝詞ってよく聞けばそのまましゃべっているだけですもんね。」
祝詞は霊力があると信じられていることを知っていたので、由岐枝は言ってみました。
「まあ、お経もよく似たもんだが。だからうかつなことを言うなって戒めでもあった。」
「そうですね。日本人は、余計なこと言うなって思想の民族で、欧米人の自己主張型とは根本的に違いますもんね。神坂さんは、どっちがいいと思いますか。」
彼がどう答えるか、興味があったので聞いてみると、彼は即座に答えました。
「正直言うと、私は、あまり話すのは好きではない。だから心が通い合えば何時間でもじっと黙って二人だけでいるのもいいと思っている。」
由岐枝は、今朝の公園のできごとを思い出した。
「昔の日本的ですね。」
「でも、確かに日本人自己主張しなさ過ぎでもあるな。アメリカなぞは、夫が妻に一日一回は愛しているって言わないと離婚ものだって言うが、その点は、日本人も少しは見習うべきだな。」
「あら、意外ですね。言ってくれるんですか。」
「言うよ。私は、由岐枝を愛している。」
「きゃあ、恥ずかしい。」
赤くなって由岐枝が言うと、彼も少し赤い顔で白状した。
「私も、恥ずかしかった。」
それを聞いて、由岐枝は少し安心しました。
「でも、言霊とピカソの関係は。」
「そうだな。一寸難しかったか。」
「ええ。わかんない。」
「言霊は言葉でありながら実体をも表すとの考えなんだ。同様に、ピカソの絵って絵だし普通に見ればむしろへたくそに見えるとんでもない絵の方が多いんだけど、似ても似つかなくてもその実体に迫っているところがあるだろう。」
由岐枝はしばらく考え込んでいたので、俊一郎はそのまま黙って絵を見ていた。
「つまりは、この記号みたいな絵が実体を表すって感じですね。」
「そう。そのとおり。あんた意外にかしこい。」
「意外に、は余計よ。」
「あっ、ごめん。」
「でも、ほめられるっていい気分ですよね。」
「そうだね。」
「俊一郎さんでも、嬉しいですか。」
「まあね。ほめられることの方がずっと多かったが、まあ、悪い気はしない。小さい頃は、それが行動力の源になっていた気がする。」
「へえー、私は余り考えたことなかったけど。」
「でも、品行方正タイプだろ。」
「そうですね。でも私、どっちかって言うと悪いことするのはバカだと思っていただけですけど。」
「それも賢さの一つだよ。頭いいくせにわざと悪いことばっかりする奴もいるしね。」
「あっ、小さい頃のあんただ。なんちゃって。」
「おっ、ようわかったな。」
由岐枝は笑いました。
「だって、遠足の話なんか聞かされたら、そう思いますよ。」
「そうだったな。自由奔放とは、ああいうのを言うんだろうな。」
「そうでしょうね。でも、今のあなたからは想像つきませんね。」
「いつまでもそのままなら、社会不適合の問題児になってただろうな。実際、西都大生には、そんなのが結構居て、さっちゃんのお世話にもなってるから、困ったもんなんだ。」
確かに西都大にはエリートは何をしても許されると思っている者や、自分のことしか考えていない者も沢山いて、トラブルを起こしていたのです。
「ほどほどがいいってとこですか。」
「そう。そのとおり。」
「俊一郎さん見てると、欲がないって言うか、余りがりがりしたところないみたい。あっ、だからあなたといると落ちつくのかな。」
由岐枝は、しみじみと言った。
「うーん、でもそうでもないな。」
「えっ、そうですか。」
「それは、君の方がよく知っている。」
「んっ、えっ、もしかして…。」
思い当たると、由岐枝はまた真っ赤になった。
「そう。私自身、女性に対して、あれほど欲が起こるとは思っていなかった。」
俊一郎に見つめられると、由岐枝はあそこがじーんとしてきて腰がふらついた。
「大丈夫かい。」
彼に支えられると、由岐枝は頼んだ。
「もう、人前で感じさせないでくださいよ。腰がふらついちゃったじゃないですか。」
彼自身、由岐枝がこれほど感度がいいとは思っていなかった。
「君も、意外だった。」
「私も同感ですよ。こんなにいいと思ってなかったんですもん。こんなに感じるなんて。」
「でも、それが女性の最高の魅力でもあるな。」
「そうですか。」
「そう。私も誤解していたが、心だけでも体だけでも駄目だ。両方ないと。」
「それは、私も実感しましたね。一つになるって感じを。あっ、また感じちゃう。」
清楚な外見とは裏腹に、由岐枝がエロチックな表情を見せて腰をくねらせるので、彼はどきっとしましたが、それも彼女の大きな魅力だったのです。
ピカソ美術館を出るともう昼過ぎでしたから、二人は食事にすることにしました。
一昨日は半日歩き回ってどこにも入らず、スーパーでパンを買って来て食事にしたと俊一郎が話したことを思い出したので、由岐枝は、カフェーに誘いました。
俊一郎も、由岐枝と一緒ならいいか、と手近な店に入りました。
すると、意外にサービスもよく、値段も高いながらもまあまあリーズナブルな範囲内だったので、俊一郎は、カフェーを見直しました。
「ふーん、ここはなかなかよかったな。これなら許せる。」
由岐枝は笑って言いました。
「俊一郎さんは、たまたま有名な店で観光客ばっかりのところ見たから、カフェーは大してサービス良くないって思ったんですよ。元々は日本の喫茶店みたいなものなんですから、そんな大層なもんやないんです。」
「それもそうか。ちょっとフランスアレルギーになってたかな。」
考えてみると、言葉が通じない分今一つ積極的になれないことは確かだった。
ゆっくりしていると、俊一郎はユンのネックレスのことを思い出し、由岐枝はカフリンクスのことを思い出した。
「あっ、そうだった。」
二人が同時に同じ言葉を発したので、一瞬顔を見合わせて大笑いしました。
「何だか、前にも同じことがあったな。」
「そうですね、神坂さんどうぞ。」
「そうそう。今朝、ユンちゃんに昨日のお礼っていいものもらったんだ。でも、私よりは君にいいかと思ってね。はい、これ。」
俊一郎は、バッグから小箱を取り出して由岐枝に渡しました。
「見てもいいですか。」
「イエス イッツ ユアーズ」
「オウ センキュー」
英語でやりとりして笑ってから、彼女は箱を開けてネックレスを取り出しました。
「アンティーク調でいいですね。」
「君にはとてもよく似合う。」
早速着けてみると、色の白い彼女の首には確かに良く似合っていました。
「わあ、嬉しい。じゃあ、これお返し。これは圭子さんからってユンちゃんが持ってきたものなんですよ。」
彼が開けると、カフリンクスで同じトルコ石を使ってデザインされておりお揃いになっていました。
「お揃いでって感じだね。」
「そうですね。お祝いかな、婚約の。あっ、ちょっと気が早かったかしら。」
「いいや、私は一度言ったことは守り通すよ。ところで、圭子さんのツアー、お母さんに変更できたのかい。」
俊一郎、確かめるのを忘れていたことを思い出しました。
「ええ。同じ斉藤だし、その辺は私どもの手続きミスと言うことで処理しました。」
「おっ、手回しいいな。じゃあ、我々の帰国便は。」
「明日昼の便で、斉藤さんはミラノに移動になりますから、見送った後の午後の早い便になる予定です。」
「そうか。まあ、丁度私の休暇も今週1週間だったから、帰ってゆっくりして、で丁度いいところかな。」
「もしかしたら、1日遅れるかも知れません。」
答えながらも、由岐枝が何だかその方が良さそうなのでおかしかった。
「そうなればいいと思っているんだろう。」
「あっ、わかりました。だって、俊一郎さんと1日余計にいられるもん。」
「まあ、確かにそうだね。フランス、そう簡単には来られないもんな。」
「でも、残念ながら週半ばですから明日の便になるでしょう。ところで、圭子さんどうなるんでしょう。」
由岐枝は、俊一郎に最大の疑問をぶつけてみました。
「さあね、それはわからない。」
「ほんま。」
「知らぬが仏。」
何だか少し分かっていそうだったので、由岐枝は更に突っ込んでみました。
「あら、じゃあ少しはわかるんじゃない。」
「まあね。死ぬことはないだろう。その内日本で会えるかもね。」
「えーっ、ほんまやの。」
「嘘、と言いたいところだが、こればかりは何とも言えん。」
俊一郎は苦笑しながら答えました。
「そうですね。でも、私ももう一度会いたいと思っているんです。」
由岐枝はおそらく、自分を彼女から取ったのではと思っていそうなので、聞いてみた。
「私のことかい。」
「そう。なんだか横取りしたみたいで。」
「心配ご無用。最初にばらしたように、私は彼女の婚約者ではないし、由岐枝が遠慮するような関係はない。」
「うーん、それはわかってるんやけど、一言いいたい気もするの。」
「なんて。」
「俊一郎さんの心をいただきますって。」
「ふーん、そんなものか。でもまあ、シャンティーで彼女には伝えておいたから、気にしないでいいよ。」
「うーん、そうかも知れないけど。」
俊一郎には少し不思議な気がしたのですが、このあたりが男と女の差なのです。
カフェーを出てから、俊一郎は由岐枝に聞きました。
「さて、次はどちらがよろしいかな。」
由岐枝は、少し考えてから答えた。
「そうですね。あなたはどちらかと言えば印象派以降の方がお好みのようですから、オランジェリーにしましょう。」
「じゃあ、少し遠いけど、天気もいいから歩いて行こうか。」
「ええ。」
由岐枝は、彼と腕を組んで歩きながら、この道が終わらなければいいのにと思いました。
俊一郎は、彼女がそんなことを考えていることに気付いていましたが、同時に去年の8月、純粋にプラトニックに付き合っていた西村夕子と、京都の街中で同じような経験をしたことを思い出していたのです。
あの時、俊一郎は夕子と、お互いの手が触れるか触れないかの微妙な間隔で並んで歩きながら、心では一つになったような気がしていたのです。
しかし、夕子ともキスさえしない関係のままだったのです。
彼女が望んだことではありましたが、プラトニックな、精神面に偏った関係を貫いたことが逆に、悲劇につながったのです。
家族から俊一郎との交際に反対された夕子は、ノイローゼになった末、彼の卒業を機に、悲劇的な破局に至ったのでした。
「幸せだね。」
俊一郎がついもらすと、由岐枝はちょっと意外な感じがしましたが、彼が誰か別の人のことを考えていたこともわかりました。
「ええ。この道がずっと続いていれば、終わらなければ、と思っちゃいました。でも俊一郎さん、別の誰かのことも考えていたでしょう。」
由岐枝に見抜かれて、彼は苦笑しました。
「ばれたか。」
「だって、あなた、私には隠さないんやもん。」
「はいはい。実は、学生時代の短いお付き合いの反省をしていたんだ。」
「あっ、怪しいな。圭子さんじゃないんでしょ。」
「うん。ハレルヤ女子大の押しかけ恋人との短くも美しい思い出かな。」
「あーっ、いいなあ。私も、京都でそんな経験したかったな。」
由岐枝は、短大の2年だけで忙しかったこともあってか、京都では恋人らしい恋人がなかなかできなかったし、できたと思ったら親友に寝取られたし、ロマンチックな思い出が皆無でしたから、俊一郎の恋人だった女性がうらやましかったのです。
「でも、その彼女ともキスさえしないで終わってしまったんだ。もっとも、彼女がそれを望んだんだけど。」
「そいで、紳士の俊一郎さんは、馬鹿正直に守ったんや。」
「そうだな。結局はそれが悪かったような気がするな。由岐枝とこうなって見ると。」
由岐枝も、今はそれを実感できた。
「そうですよ。女って、抱かれて、逆に男の人を包んで上げて、それで愛情を実感できて安心できるし、強くもなれるんですよ。」
俊一郎も、そのことがよくわかりました。
「私も、今はそれがわかるようになった。ところで、私はそれ以外にあと二つのことを考えていたんだ。」
「えーっ、じゃあ三つのこと考えていたの。」
「正確に言うと、四つかも知れない。」
「もう、私という恋人と一緒にいながら、何ちゅうことすんのよ。」
由岐枝には、そんな俊一郎は信じられなかった。
「ごめんごめん。」
「でも、何考えていたの。」
他にも女がいたのかと、由岐枝は少し不安になって聞いてみました。
「一つは君のこと。」
「あっ、安心。」
「そして、二人の将来のこと。」
「ふむふむ。」
「それから、これはやきもち焼かれそうだが、さっきも言ったように学生時代に、ある人と同じような経験したと思い出したこと。」
「やっぱり怪しいな。」
「いや、手さえつながなかったんだよ。」
「あんた、その方が始末に悪いのよ。」
由岐枝も、最初はそんなプラトニックな関係に憧れていたのですが、いざ彼と肉体関係ができ、それが安心につながっていることを自覚すると、いくら自分から望んだものだったとしても、もしもずっとプラトニックなままだったら、不安になって発狂するのではないかと感じていました。
「今ならそのことがよく分かるが、当時は清い交際でと彼女から頼まれたし、別れることになっても、その方が彼女を傷つけずに済むと思っていたんだ。」
「ところで、その人とは何故別れたの。」
由岐枝は、実際に付き合ってみて期待を裏切らなかった彼でしたから、何故その彼女が別れたのか、そっちの方が気になりました。
「私の家族のことを調査した彼女の母親が反対したら、彼女精神的におかしくなって、私の卒業前に彼女が帰省した2月でジ・エンド。その後は知らない。」
しかし、考えてみればまだつい3ヶ月前のできごとなのです。
「ふーん、そうだったんだ。」
由岐枝、俊一郎とその相手はもっといろんなことがあったように思われましたが、結局その別れが今の自分との出会いにつながったわけですし、彼も余り話したいことではなさそうでしたから、それ以上突っ込むのはやめました。
「君と違って、結ばれる運命に無かったんだな。」
「罪な人。」
これ以上続けると、夕子のことをもっと詳しくしゃべらざるを得なくなりそうでしたから、俊一郎は話題を変えました。
「ところで、もう一つ考えていたのだが、それはなんでしょう。」
「えーっ、そうですね。圭子さんのことでしょう。」
「ブーッ、残念でした。実は、道をどう歩いて行けばいいかでした。」
「あっ、なるほどね。それもあったんだ。気づかなかった。」
由岐枝は、感心すると同時に不思議に思えました。
自分ならまあ道の件はともかく、それ以外にはせいぜい一つのことしか考えないだろう。それを彼は一度に二つも余計に考えているのです。
「でも、どうすればそんな風に一度にいろいろなこと考えられるんですか。」
俊一郎は首を傾げました。
「考えたこともなかったな。常に当然のようにいくつかのことを並列して考えているからなあ。」
「変な人。あっ、だから天才なのかしら。」
「人間の脳って使い方なんだよ。機械には絶対真似のできないこともできるから。」
「それ、私にもできるの。」
「当然。」
由岐枝は懐疑的でした。何故なら彼は、いろいろなことを余りにも当然のようにできてしまうのですから。
「ほんまかいな。」
「一つ例をあげると、君だって何人もの人の話し声の中から、私の声だけを聞き取ることができるだろう。」
「そうですね。で、それが何か。」
「それは、現在のスーパーコンピューターにすらうまくできないんだよ。それを人間の脳は簡単にやってしまう。」
「えーっ、そうだったの。」
由岐枝は、そんなことは全く知りませんでしたから、驚くと同時に彼の博識を再認識しました。
「情報の選択機能なんだけど、同じように、二つ以上の情報を同時に処理することもできる。私の場合は、別々の自分に考えさせている。」
「えっ、じゃあ四つの自分がいるんですか。」
「極端に言うとそうかな。そして、その上にそれらの自分を統合した自分がいる。」
由岐枝は、更に懐疑的になりました。
「余計できんように思えてきたわ。」
「そんなことないよ。誰でもある程度は無意識の内にやってるよ。それを、ある程度意識的にコントロールできるかどうかで。」
「そうかしら。」
「まあ、一つコツはある。」
「あら、またコツですか。」
彼がわかりやすく教えてくれるのは有り難いのですが、由岐枝自身最初からできそうにない気がしていました。
「そう。頭はリラックスしていることだ。」
「ふーん、でも諦めた。私、自分が何人もの人を同時に好きになったら嫌だもん。」
言われてみるとその危険もあるわけで、俊一郎は初めて気付いて感心しました。
「なるほど、それもそうだな。今まで気付かなかった。」
「んもう。あなた、賢いのかあほなのかわからんときあるわ。私でさえ気付くとこ気付かんで、かと思うたら、普通の人にはとてもでけへんようなこと、さらっとやって見せたり。」
「まあ、人間そんなもんよ。でも、由岐枝に沢山の人好きになられたら困るのは私だから、すすめないよ。」
「俊一郎さんは、多重人格とは違いますよね。」
由岐枝は、心配になって聞いた。
俊一郎は、なるほどそんな風に考えることもできるんだなと、こちらも感心していましたが、彼は無意識の内にコントロールしていますから、ばらばらに考えている自分という意識も無く、より上に位置している自分がいますから多重人格にならないで済んでいるのでした。
「そうだね。本当の私が、考えている分身の上にいると言えばいいかな。だから、多重人格ではなく、むしろ多段階の自分が居て、一番下の複数の自分に分業させて、その上の自分に監督させてと、使い分けてる感じかな。」
「ああ、なるほど。でも、普通の人じゃあ、なかなかそうはいかへんわ。」
「そうかも知れないな。」
俊一郎も、そのことは納得しました。
オランジェリー美術館は、ルーヴルとオルセーの近くにあるのですが、見た目に素っ気ないし、ルーヴルに比べるとずっと小さいため、見かけは神殿風というか、何だかわからない建物だったのです。
「変な建物。」
俊一郎が正直に言うと、由岐枝は笑いました。
「でも、この美術館って、最初から印象派の絵が映えるように作ったんだそうですよ。」
俊一郎は、思ったとおりを言ってみました。
「何だか、ぱっと目には大きなお蔵に見えないか。」
確かにそんな風にも見えたので、由岐枝は大笑いしました。
「あっはっはっ、それは言えてます。何だかそんな感じがしてきたわ。」
「さて、じゃあ入ろうか。」
入ってみると間口は狭いが奥行きがあり、部屋の仕切りにも工夫が凝らされていました。
「どうでしたか。」
見終わって、コンコルド広場を腕を組んで歩きながら由岐枝が聞くと、彼は満足気に答えました。
「うん。なかなかよかった。オルセーほどの量はなかったが、気に入った。」
「よかったですね。私もここは初めてだったのですが、いいですね。ピカソまであったんですね。」
「そうだね。パリの人がうらやましいよ。」
「あら、パリはお嫌いじゃなかったんですか。」
由岐枝はおかしくなってたずねると、彼はけろっとした顔で答えました。
「うん。人間性は好きではないが、街は好きだな。」
由岐枝は、ちょっと考えてからクスクス笑いました。
「何だ。」
「うん、俊一郎さん、きっと東京でも同じこと言うでしょうね。」
言われてみると、確かにそんな気がしました。
東京はごちゃごちゃしていて、人間性は冷淡で好きではないのですが、美術館も博物館も全国一沢山あるのです。
だから、由岐枝の言うとおりで、同じことが言えました。
「そうだな。確かにそうかも知れない。京都は少々他人のことに立ち入りすぎる嫌いがある。滋賀もそうかな。」
由岐枝の田舎は、良くも悪くも家族的でしたから、俊一郎を連れて行ったら、大変な騒ぎになるだろうなと思いました。
「似たりよったりでしょうね。私が、あなたを連れて帰ったら、恐らくあっと言う間に町中に噂が広まりますね。俊一郎さんのところはどうですか。」
俊一郎は苦笑しながら答えた。
「まあ、似たものだろうけど、私は、元は大阪人だし、京丹波は大学3年生の時に越していったから、幸まだよそ者で、しかも家には余り寄り付かないから、西都大卒ということ以外では、噂の種にはなっていないだろう。でも、君を連れて帰ったら、噂になるだろうことは同じだ。」
「でも、私の父が、あなたの噂を聞いたことがあったのも、本当に不思議な縁ですね。」
「はっはっはっ。それもありがたい縁だと思おう。それよりも、君の初恋の人告白の方が驚いたよ。」
由岐枝自身、もっと驚いていました。
「私の方が驚きましたよ。まさか以前に会っていたとは、しかも、初恋の人だったとは。」
「でも、私があいさつしに行ったら、きっと驚くだろうね。」
「ええ。それは絶対。」
由岐枝、湖北に帰ってきて地元で就職しろと引き留める両親を振り切って関東に来ていましたから、フランスで京都の男性と知り合って結婚するって報告したら、二人とも腰を抜かすほど驚くだろうなと思いました。
「ところで、君には縁談は無かったのかい。」
「う…。」
由岐枝が言葉に詰まったので、俊一郎はあったに違いないと思った。
「見合いじゃないけど、それとなく引き合わされたことはありました。今津の建設会社の社長の息子さんで、高校の先輩だったんですが、私は乗り気じゃなかったのに、相手はえらく気に入ってしまって…。」
俊一郎はその後の展開が読めたので、先に聞きました。
「今は。」
「あっ、大丈夫です。もう関係はありません。」
「じゃあ、構わない。話さないでいいよ。」
彼がきっぱりと言い切ったので、由岐枝は驚き、感心しました。
普通の男なら、自分が結婚しようとする相手の過去には興味を持つ、いや気にするに違いないと思うのですが、神坂俊一郎は、自分に対する自信の裏返しで、こうと決めた相手の過去には全くこだわらないようなのです。
それはよくわかりましたが、今の内に話しておかないと自分の気が済まないので、顛末を話すことにしました。
「いや、やっぱり聞いてください。」
「君には辛いことではないかな。それなら、無理して話すことはないよ。」
彼に目をじっと見つめられると、その時のことを見抜かれたような気がしましたが、けじめと思って話すことにした。
「いや、やっぱり聞いてください。」
「そうかい、じゃあ聞くよ。」
「そう。初めて会ったのは2年前の成人式に帰省した時だったんですけど、『どうしても付き合ってくれ。』と言われて、去年の正月明けのお休みの時に近江神宮まで初詣に行くのに付き合ったんです。」
「まず、話が合わなかったんじゃないかな。」
俊一郎に話す前から言われて、由岐枝はどきっとしました。
「何故、わかったの。」
「うん。君みたいに東京近郊に居て、時々海外にも出かけている人と、地方で地元の人ばかりと付き合っている人とでは、どうしても話題にギャップが出るのはしょうがないよ。それでなくても、海外に行ける人は、生活レベルも上だからね。」
俊一郎の推理パターンはあくまで合理的なのですが、結論に至るのが直観的と言ってもいいぐらいの速さですから、驚異的に思えました。
「そうなんです。会話が全然かみ合わなくて、それで彼は吸えないくせに緊張しちゃって煙草吸って、私煙くて困ったんですけど余り露骨に言うのも悪いしで、何とか帰ってきてやれやれと思ったら、私の家の前に止めた車の中で、襲いかかってきたんです。」
すると、彼は間の抜けたような声でぽつりと言った。
「オオカミが出たぞ。」
言われて拍子抜けした由岐枝でしたが、彼の優しい笑顔を見ているとその時のことが思い出されてつい彼に抱きついてしまいました。
俊一郎は、一瞬驚いたようでしたが、優しく抱きとめてくれました。
「もういいよ。」
「ううん、最後まで話す。必死に抵抗したら、彼何を思ったか『女はやってしまえば気持ちよくなるんや。おとなしくやらせろや。』なんて言ったもんやから、わたし腹が立つやら悲しいやら、股間を思い切り蹴飛ばして裸足で家に逃げ込んで、一部始終を話して断ってもらったんです。」
つい涙が出てしまったら、俊一郎がハンカチで優しく顔を拭いてくれた。
「大丈夫かい。」
「はい。ごめんなさい、泣いたりして。」
「君を見ていて、男性と女性の考え方の差がよくわかったよ。」
「えっ、どんな。」
彼の胸にもたれて見上げながら聞くと、彼はまた優しく抱きしめながら答えました。
「私だったら、と言っても単純に比較はできないが、もし私が君で同じような経験をした場合、恐らく嫌なことは強いて話そうとは思わないだろう。でも、女の君は、そのあたりまではっきりさせないと気が済まないのかな。」
「そのとおりです。何だか隠し事しているようで嫌なんです。」
「ふーん、その辺では、夫婦喧嘩のもとになりそう。」
「何ですか、それ。」
つまりは、彼は大分隠し事をしていると言う意味ではないかと思い当たると、由岐枝は不安になりました。
「隠す積もりはないが、いい加減なところはあるから、話さないこともあるだろう。」
「そうですか、そんな風には見えませんけど。」
実際、神坂俊一郎は結構いい加減なのですが、要領の良さとその人柄のせいか、信用があり、大抵の人はとてもきちっとしているように感じてしまうのです。
「まあ、いいや。それはその内わかるでしょう。」
「きゃっ、何だか不安。」
「大丈夫、信じなさい。」
「そうですか。」
「私の行動は、時々自分でもこんなんでいいんだろうかと思うぐらい、いい加減なことがあるけど、結果的にはそれがよい方向に働くことが多い、いや、ほとんどそうなるんだよ。だから、信じなさい。」
「はい、信じます。」
由岐枝は素直に応じて、にっこり微笑みました。
二人は、ベンチに腰掛けて話を続けました。
「ところで、神坂さんには縁談みたいな話なかったの。」
「そうだな。例の骨董品屋の娘さんの件だけだな。何せ、母も周囲も、女性には余り興味を示さなかった私は、晩婚だと信じて疑わないようだし、全くナンパもしないから周囲もそんな目で見てるし、今回の君のケースは、最初で最後だな。」
「本当にそうなんですか。」
由岐枝は、彼が信用できることは十分感じていましたが、それでも信じられませんでした。
「嘘ついてどうする。」
「だって、あんなに上手なんだもん、信じられなくって。」
言ってしまった後、由岐枝は真っ赤になりました。
「あっはっはっ。あれは君の才能が大きいよ。それに、私は小学生の8歳の時にはもう既に男と女がすることは知っていたし、参考書もあったから、何とか上手く行って良かった。」
「きゃっ、ませたガキや。」
「それに、何度も言うけど、君とは初めてじゃないんだ。」
「そう、でしたね。私も、そんな気がしました。シャンティーで思い出した、何だか深い湖みたいなところに身を投げた時の記憶の時代にも、あなたはいたような気がします。」
俊一郎は、目をつぶって瞑想するような感じになったので、由岐枝も真似をしてみました。
「それは、レムリアとアストランの頃かな。」
俊一郎が聞いたので、由岐枝はしばらく考えてみましたが、何だかなつかしい感じがした。
「レムリア。何だかなつかしい響きです。」
「じゃあ、トゥーラは。」
「トゥーラ、確か白い、雪の様に白い何か。猫かしら。」
「その猫の目の色は。」
「とってもきれい。サファイアみたい。あっ、違う、目の色が左右で違う。右目がサファイア、左目はトパーズみたい。大きな、とても大きな白い猫。」
俊一郎は驚きました。
彼にもレムリア時代の神官だった記憶があり、その時に白いピューマが2頭いて、その1頭がトゥーラだったのです。
それを知っているということは、由岐枝もつながりがあったことになります。
ピューマのトゥーラは、同じ名前の巫女と一緒にいけにえになったはずでした。
つまりは、その巫女が由岐枝だったのか…。
すると、由岐枝が突然トランス状態になって話しだしました。
「トゥーラは白いライオンの名前、私の名もトゥーラ。私は神の巫女、そしてあなたは大神官、貴方にはミドがいた。ミドも白いライオン。あっ、目の色がトゥーラの反対、ミドの右目はトゥーラよりも赤い、左目はもっと青い。とってもきれい。あなたもミドと呼ばれていた。」
聞きながら、俊一郎は果して全て思い出させてよいものかどうか悩みました。
しかし、途端に由岐枝の声が変わったのです。
「あっ、大地が怒っている。あなたは苦しんでいる。あなたは人々を代表し、全ての人々の苦しみを共有する。とても多くの人々が悶え、苦しみ、死んでいった。私は自然の巫女、大地の怒りは私が受けなくてはいけない。私は、あなたを助けるために喜んで犠牲になる。トゥーラも一緒、深い、青い水の中…。」
俊一郎には、その情景が頭に浮かんだ。
「やめろ、やめるんだ。」
つい大きな声でどなってしまった俊一郎でしたが、由岐枝はその声で半分目覚めました。
「あれ、今のは夢かしら。水の中、深い深い、青い青い水の中。」
「やめてくれ、これ以上苦しみを…。いや、君のは苦しみじゃない。」
俊一郎が感じた由岐枝の前世の巫女の感情は、苦しみではなく、むしろ喜びだったのです。
「そう。私は喜んで死んだのよ。あなたを助けるために。」
俊一郎は、意外な成り行きに驚きました。
そして、由岐枝にも霊能力が備わっていたことを知りました。
「今度は、私を置いていかないでくれ。」
ロマンチックな文句に、由岐枝が俊一郎にもたれかかった瞬間、殺気を感じた俊一郎は、反射的に左腕を持ち上げて由岐枝をかばいました。
すると汚い身なりの男が、ベンチの後ろから木の棒で彼の腕を殴ったのです。
普通なら骨が折れていてもおかしくないところなのですが、生まれつき気をコントロールできる体質の俊一郎がその瞬間に左腕に気を通したため、棒は見事に跳ね返り、逆にその男の方が衝撃で手が痺れました。
次の瞬間、俊一郎の自動反撃機能が働き、彼は魔神に変身していました。
立ち上がって右手を手刀にすると、彼は無造作にその暴漢に向かって突き出しました。
しかし、常人の、いや空手の達人でも果してこれほどの突きができるかと思われるほどのもの凄いもので、もしその男が恐怖で後ずさりしなければ、彼の手刀はまともに顔に入り目をえぐりだしていたかも知れませんでした。
本人の身代わりに、彼がかけていたサングラスが粉々に砕けて地面に落ちました。
続いて魔神の俊一郎は、体勢をぐっと沈めると左手の掌底突きを尻餅をつきながら後ずさっている暴漢の胸に向かって突き出そうとしたのです。
その瞬間、由岐枝が叫びました。
「ミド、ナッ、ソン。ナッ、ミクト、ソン。」
俊一郎の左手は、暴漢の胸の紙一重手前で止まりました。
するとその暴漢、余りの恐怖に大声をあげて逃げ出しました。
由岐枝は、呆然としている俊一郎に抱きついて叫びました。
「大丈夫、俊一郎さん。」
彼は、しばらく沈黙した後我に返ると、由岐枝に礼を言いました。
「ありがとう。君がいなかったら、私はあの男を殺していた。しかし、君は何語を叫んだんだ。フランス語ではなかったようだが。」
由岐枝は、自分でも何と叫んだのかわからなかった。
「何語だったんでしょう。とにかく、あなたに人殺しをして欲しくないって思ったんやけど。」
俊一郎も、何語かはわからなかったが、由岐枝が叫んだ言葉の意味は感じ取っていた。
「君が何を言いたかったのかはわかったな。ミド、やめて、そんな風に殺さないでと言ったであろうことは。」
「そう。私は自分ではそう言ったつもりだったんです。変ですね。本当に何語だったんでしょう。」
「きっと、レムリア語だったんだろうな。前世の物語のついでで。」
「そうなんでしょうね。」
由岐枝がベンチの後ろを振り返ると、警官が使うような硬い木の棒が落ちていたので、慌てて彼の左腕をつかんで確かめました。
「腕は大丈夫ですか。あれ、棒で殴られた後が少し白くなっているだけ。信じられない。」
彼は、笑いながら答えました。
「一種の気功法かな。こんなことに使ったのは二度目だ。バイクをはねとばした時以来かな。」
「何やのそれ。バイクにはねられたの間違いやないの。」
普通なら誰だってそう思うところなのですが、バイクにはねられた俊一郎は、明らかに力学の法則に反したことをしたのです。
「ううん、どっちかって言うと、はねとばしたと言う方があたってるな。先月川崎の独身寮近くで、横断歩道を渡っていたらバイクが突っ込んできたんだ。これは絶対避けられないと感じたから、瞬間的に今の左腕みたいに、ぶつかると思った左足に気を流したんだ。するとぶつかったが、跳ね返ってこけたのはバイクの方だった。」
由岐枝、俊一郎なら前世も超能力者みたいでしたし、何をしても不思議ではない気がしていました。
「超人やね。あっ、右手も見せてください。」
由岐枝は、彼の右手もくまなく点検しましたが、どこにも傷はありませんでした。
ただ、触れると異様に熱くなっていました。
「ああ、よかった。ほんまによかった。」
由岐枝は、彼に抱きつくと涙を流して喜んだ。
彼はようやく落ちつくと、彼女の頭を優しく撫でました。
「私にしてはミスだな。あの男に気付かなかったとは。さっきみたいなことをしているとすきができるようだ。怖いからホテルに戻ろう。」
明るかったのですが、時間としてはもう6時を過ぎていました。
彼は、木の棒を拾いました。
「護身用にこの棒もらっとこ。しかし、このサングラス、どうやったらこんな風に壊せるんだろう。」
指先で突いただけで、レンズが両方とも粉々になっていたので、確かに不思議なのですが、自分でやったことなのに不思議がっている彼も、無邪気なものです。
由岐枝は、先程の恐怖も忘れて笑ってしまいました。
ホテルに戻ると、園子たちは夕食も春子と一緒にするから今日はお二人でどうぞとの伝言がありましたから、一度部屋に戻ってシャワーを浴びて8時から二人ででかけることにしました。
由岐枝が部屋に戻ると電話が鳴ったので、俊一郎かと思って受話器を取るとレセプショニストで外線でした。
「どなたですか。」
思わず日本語で聞くと、相手も日本語で答えた。
「私です。一昨日はごめんなさい。」
電話の相手は、晶子でした。
「圭子さんね。」
由岐枝は晶子を圭子だと思っていたので、晶子はそのまま通すことにした。
「そうね。あなたには圭子よ。俊一郎さんには全て見抜かれてしまったんだけど。私、あなたに折り入ってお願いがあるの。」
由岐枝、彼女の電話に焦っていましたから、「あなたには圭子」という言葉の意味はわかりませんでした。
「えっ、何かしら。」
「一つだけ、あなたに最初で最後のお願いをしたいの。きいてちょうだい。」
何と答えていいかわからりませんでしたが、彼女には恩を感じていましたから、できることならきいてあげようと思いました。
「ええ。できることなら。」
晶子は、ごくっと唾をのみ込んだ後、一気に切りだしました。
「今晩、俊一郎さんに抱いて欲しいの。」
由岐枝は、嫌でした。
彼が、他の女を抱くことは許せなかったのです。
「いや、それだけは…。」
しばらく沈黙の後、晶子は静かに恐ろしいことを言いました。
「じゃあ、私彼を殺すわ。いや、きっと逆に彼に殺されるでしょうね。でもいいの。私どうせそんなに長く生きられないから。彼に殺されるなら本望よ。」
由岐枝は半ばパニックに陥りましたが、彼の言葉『二人いる。一人はさよなら…。』の意味が完全にわかりました。
すると何だか彼女が哀れに思えましたし、先程も由岐枝が止めなければ彼は相手を殺していたように思えましたから、彼が人殺しにならないようにするためにも許す気になりました。
「わかったわ。11時に彼の部屋に行ってちょうだい。でも、後は彼次第よ。抱かれてもいいけど、絶対私に返してね。」
晶子は、由岐枝が余りにあっさりと応じてくれたので驚きました。
「ありがとう。無理なお願いして。これで一生の思い出ができるわ。ありがとう。」
由岐枝は電話を切った後、ベッドに倒れこみました。
すると、また大昔の記憶がよみがえったのです。
大神官ミドの俊一郎と、巫女トゥーラの私は、夫婦だった。
夫婦とは言っても、今風に言えばセックスレスだったが。
そして、自然を司る巫女の私は、大災害の時には犠牲となるのが掟でした。
しかし、国王となった彼は、掟を廃して私を助けようとしたのです。
巫女の生贄にしたところで、何も変わることはありません。
彼が悲しむだけの愚かな行為であることは、私自身も十分わかっていました。
それでも、国王が廃した掟を守るために、私を殺そうとする人は沢山いたのです。
彼は、私を助けるために、その人々を殺しました。
それも、今日やりかけたように、左手の掌底で相手の胸を突いただけで。
でも、彼は人々の苦しみを全て共有する大神官なのです。
殺せば殺すほど、殺した人々の恐怖、苦しみ、悲しみを、自分でも味わうのです。
ですから、彼の方が苦しかったのに違いありません。
黒かった彼の髪は、大異変後半年で銀色に変わったのです。
だから最後は、彼にそれ以上人殺しをさせないため、苦しませないために、私はピューマのトゥーラとともに、自らとても深い湖に身を投げたのです。
溺れるのは苦しいし、この苦しみを彼は共有する。
でも、そのことによって彼は救われる。
そこで記憶は途切れました。
我に帰って由岐枝は考えました。
彼は、圭子に迫られたらどうするだろう。
不安でしたが、昨日彼が『自分からは浮気はしないけど、迫られたらどうかわからない。』と言っていたことを思い出しました。
でも、彼の心は私にあるって言ったもん、そう思って由岐枝は自分を勇気づけました。
二人だけで近くの安いビストロで夕食をとりながら、彼が思い出したように聞いた。
「夕方の事件の時、君は『もう人殺しはしないで。』って思って叫んだって言ったね。」
先刻思い出したことでもあったので、彼女はうなずいた。
「そのこと覚えているんだね。」
言われたので話すことにしました。
「ええ、思い出したんです。レムリアの巫女の私は、掟に寄って生贄になる運命だったのに、あなたは私を助けようとした。国王となったあなたは、そんな掟も廃した。そして、私を殺そうとした何人もの人を殺した。」
俊一郎は、静かに付け加えた。
「そう。生贄はばかげている。」
「でも、あなたは苦しんだ。あなたは心を司る大神官、殺した人の恐怖、苦しみ、悲しみを全て味わう。私も苦しんだ。だから私は、とトゥーラと一緒に湖に身を投げた。」
「君の死で、私は目覚めた。」
「そうです。」
俊一郎はしばらく黙っていましたが、思いなおしたように微笑みました。
「ますます気に入った。やはり君と結ばれる運命だったんだ。」
言われて嬉しい由岐枝でしたが、晶子からの電話のことが気になりました。
「俊一郎さん、一つ聞いてもいいですか。」
さて、今度は何だろうと思いながら彼は答えました。
「いいけど、今度は何だい。」
「私以外の人に迫られたらどうします。」
「断るだろうな。」
彼は即座に答えたので、由岐枝は安心しました。
でも、彼女が圭子だと思っている晶子は、何が何でも彼に抱かれるつもりなのだから、そう簡単には行かないこともわかっていた。
「どうしてもって言われたら、私の時みたいに。」
「今は、君がいるからと断る。」
「それでも抱いてって言われたら。」
「そこまで考えたことはないが、今のところ浮気をする気はない。」
彼らしい答えでしたから、由岐枝もそれ以上聞く気をなくしました。
まあ、なるようになるだろうし、たとえ彼が圭子を抱いたとしても、絶対自分と結婚してくれるという確信がありましたから、安心していたのです。
ホテルに戻って由岐枝がしばらくぼーっとしていると、電話が鳴りました。
驚いてわっと飛び上がってから出ると、今度は園子で、一日楽しく春子と過ごしてきたとの内容でした。
由岐枝は、俊一郎に電話してそのことを伝え、その後に一言付け加えました。
「11時にノックしたら開けてね。」
しかし、俊一郎に電話したあと心臓が高鳴るのを感じました。
そして、11時にそっと忍んで階段に行き、誰かが彼の部屋に入るのを確かめてから自分の部屋に戻ると、どうしようもないほど体が疼いたのです。
後ろめたい気分でしたが、オナニーで何とか自分の体を鎮めることにしました。
俊一郎は、ドアーを開けると飛び込んできたのが晶子だったので驚くと同時に、食事の時の由岐枝の言葉を理解しました。
「何のために来たのですか。」
彼が優しく聞くと、晶子は思い切って彼の胸に飛び込みました。
「お願いです。私を抱いてください。由岐枝さんにも許しを得ましたから。」
由岐枝が妙なことを聞いた理由を理解した俊一郎でしたが、流石に躊躇していると、晶子はさっと服を脱ぎ捨てて裸になってベッドに横たわりました。
由岐枝より背は低いが、細身で魅力的な肢体でした。
「私には由岐枝がいるんだ。何故こんなことを。」
それでも聞くと、晶子は思い詰めた顔で頼みました。
「私、処女です。そして、二度と男に抱かれる積もりはありません。でも、たった一度だけの相手をあなたにして欲しかったんです。お願いです。由岐枝さんには、貴方に抱いてもらえなかった、あなたを殺す、いやあなたに殺されるようにするって無理言って、借りたんです。」
ものみたいに借りたと言われて苦笑した俊一郎でしたが、ここまで言われて拒絶するのも晶子が哀れに思えましたし、西村夕子の時も、自分が抱いていた方が、その後たとえ別れることになったとしても、却って彼女を傷つけないで済んだかも知れないと後悔していましたから、応じる決心を固めました。
「わかったよ。心まではあげられないけど。」
言いながら明かりを消すと、彼も手早く裸になりました。
自分から抱かれにきた晶子でしたが、初めてだけに恥ずかしくて思わず背中を向けてしまいました。
すると、後ろから裸の俊一郎に抱きすくめられたので、思わず小さな悲鳴をあげてしまったのです。
優しくするの言葉通り、彼は彼女の髪の毛をまさぐった後、向きを変えてやさしく抱きしめました。
そして、ゆっくりと彼女を仰向けにし、軽くおおいかぶさりました。
反射的に足を閉じようとした晶子でしたが、彼が足を差し入れたのでうまく行きませんでした。
『あっ』と小さな悲鳴を上げた口が彼の口で塞がれ、吸われると、思わず下半身の力が抜けました。
それに合わせて彼が体重をかけてきたので、裸の体同志が密着しました。
裸体同志が触れ合う間隔に晶子は不思議な快感を覚え、つい声を漏らしました。
「あっ、感じてしまう。」
俊一郎の唇が首筋から乳首に滑り降りてくると、晶子は無意識の内に抵抗していました。
しかし、乳首を吸われると小さく高い声を漏らし、処女ではありましたが軽くエクスタシーに達したのです。
両手をバンザイの形でベッドに押しつけられての愛撫に、晶子は無理やり犯されるかのような錯覚を覚えると、自分でも困惑するぐらい感じ始めて、連続して高い声が漏れました。
そして、最後に彼の唇が彼女の中心を捕らえると、いやいやしながらも足を思い切り開き、手はシーツをつかんで体を反らせ、強いエクスタシーに達していました。
俊一郎は、晶子の反応が由岐枝とは全く違うので新鮮に感じていましたが、由岐枝ほど濡れてはいないようなので、しばらくそのまま唇での愛撫を続けました。
「ああ、いい。もう駄目。お願い、女にして。」
涙を流しながら頼む晶子をしばらくじらした後、俊一郎は十分注意しながらゆっくりと挿入しました。
感触は微妙に違っていて、晶子は小さいので彼の体の下にすっぽり収まり、完全に彼女を包んだような感じになりました。
ゆっくりと根元まで挿入すると、彼女は全身を震わせてまたエクスタシーに達し、高い声を漏らしました。
そして、体を硬直させた後、一気に全身から力が抜けたのです。
反応の差にとまどっていると、晶子はそのままもう一度挑んできました。
今度は小さく動いて再びエクスタシーに導くと、晶子は彼に頼んだ。
「お願い、あなたのものを頂戴。大丈夫だから。」
眉をしかめて、感じながら頼む晶子の表情の魅力に耐えきれず彼は射精しました。
晶子は、実は、どうしても彼の子供が欲しくなったので、無理を言って抱かれたのですが、痛みは余りなく初めてなのに妙な快感を覚えたので、連続してまた求めました。
4回絶頂を迎えて、彼も晶子の希望に応えて4回とも射精してくれたところで、晶子は気が遠くなりました。
俊一郎は、晶子もいとおしくなったので、体を離した後も、しばらく彼女の背中を撫でながら添い寝していました。
晶子が気付くともう12時半を過ぎていましたが、まだ快感に痺れているような感じで、体が思うように動きませんでした。
「ああ、私もう動けない。ごめんなさい。でも、できれば由岐枝さんのところに行ってあげてください。きっと待ってるはずですから。」
俊一郎は、晶子のことも心配になりました。
「君は、朝までここで休んでいなさい。私は、由岐枝のところで寝かせてもらうから。」
「はい。元気になったら帰ります。そして、もう二度とはあなたの前には現れません。無理をきいてくださって、ありがとうございました。」
手足をだらしなく投げ出したまま、晶子は俊一郎に礼を言うと目をつぶった。
「君もとてもよかったよ。もっとすばらしい人に愛されるように元気になろうね。」
目を閉じた彼女の顔が微笑んだので、彼は毛布をかけて眠らせました。
手早くシャワーを浴びて、眠っている晶子を確認すると彼はそっと部屋を出て由岐枝の部屋に向かいました。
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