第8話二人居るの真相、誤解による襲撃

晶子のお願いには、圭子の方が驚きました。

そして、自分の挑発を見事なばかりに受け流しつづけた俊一郎がどんな答えを出すか、固唾を飲んで見守ったのですが、彼はあっさりと承諾しました。

「わかったよ。」

そして、俊一郎は晶子を優しく抱きしめました。

晶子も圭子も、由岐枝と違って150センチぐらいの身長で小柄だったため、170センチの俊一郎の胸に顔が埋まり、腕の中にすっぽりおさまったのです。


晶子を抱きしめていると、圭子とユンがうらやましそうな顔をしているので、俊一郎は笑いながら言いました。

「うらやましそうに見ていないで、自分ももっといい恋人見つけてやろうと考えることだよ。晶子さん、君もだよ。」

「でも、私…。」

晶子は、涙が一杯たまった目で彼を見上げました。

自分ではまだまだやりたいことはあるのですが、もう時が残されていないのです。

「魂は永遠と言うのは本当だよ。でも、前世で克服できなかったことは神様意地悪でやり直しさせるものなんだ。人間、何時死ぬかなんて、神様もわかりはしない。病も克服して自分のやりたいことをやってやろうと思うことだよ。」

できないものと諦めていたことに気付いて、晶子は答えました。

「わかりました。この命が続くだけやってみます。」

俊一郎は、もう一つ頼みました。

「体がよくなったら、圭子さんをお母さんに返してあげてね。自分も一緒に。」

晶子は、ゆっくりうなずきました。

しばらく彼の胸の温もりを感じていると気が済んだので、晶子はお礼を言いました。

「ありがとうございました。私、父親に今みたいに抱いてもらいたかったことが、改めてよくわかりました。でも、今ので気が済みました。」

俊一郎は、晶子の耳元でささやきました。

「女同志もいいかも知れないけど、男女の仲もいいものだよ。」

レズであることがばれて、晶子は赤い顔で聞きました。

「由岐枝さんは、どうでした。」

圭子も、彼と由岐枝の関係が気になっていましたから、俊一郎の答えに注目しました。

「君たちのお膳立てのお陰で、結ばれたよ。実は、私も初めてだったのだが、最高によかった。彼女も死にそうなぐらいよかったって言ってくれたから、君たちに感謝しないといけないな。」

実際、彼女たちのいたずらがなかったら由岐枝との仲は進展していなかったと思われたのです。

「ごめんなさい。私、由岐枝さんの美しさについ意地悪したくなって、感度もいいから調子に乗っていじめちゃったんです。」

晶子が、由岐枝にいたずらしたことを白状した。

「やっぱり君か。でも、私も間違っていたな。」

「何がですか。」

「心は確かに大切だが、体も大切なことを無視していたよ。君達のお蔭で由岐枝と愛し合って痛切に感じたよ。」

「意地悪した積もりが、却ってあなたと由岐枝さんを結びつけるきっかけになったみたいですね。」

晶子は笑った。

「そう。それが無かったら、彼女とはまだセックスしてはいなかったはずだ。結果オーライだな。君達もそう言えるようにね。私はもう退散するよ。後は好きにしてくれ。あっ、そうだ。由岐枝が、圭子さん、君に一言言いたいと言っていたから、私が代わりに伝えるよ。」

圭子、由岐枝が何を言いたいのかわからず聞き返した。

「えっ、由岐枝さんが私に何を言いたいんですか。」

「私をいただきますと君に言いたかったんだよ。」

その一言に、圭子は二人が結婚することを確信しました。

「そうですか。じゃあ、俊一郎さん由岐枝さんとお幸せに。」

「そうだな。でも、君たちも幸せを目指してくれ。」

俊一郎が立ち去ろうとすると、晶子は念を押しました。

「母には、秘密にしてもらえるんですね。」

彼は、にっこり笑いました。

「私は、今日由岐枝と二人でルーヴルに行ったので、シャンティーにいる君達には会っていない。」

「ありがとう。」

圭子も素直に言えました。

そして思いました。彼に素直に甘えられていれば、また違った人生もあったかも知れないなと。

でも、今の彼ならいいけど、昔の彼は、もっと独断的だったし、自信の裏返しで人の心もコントロールしようとするところもありましたから、やはりこれはこれでよかったんだろう、と思い直しました。

「私も、ありがとうございました。」

晶子も頭を下げた。

「メルシー ボークー ユン」

彼は、最後にユンに言うとその場を後にしました。


森から出ると、由岐枝が城から出て走ってきて彼に抱きつきました。

「えーん、寂しかった。」

彼は、苦笑しながら彼女を抱きしめた。

すると、由岐枝は彼を突き放して問い詰めました。

「何があったの。」

彼はとぼけて答えました。

「何もなかった。」

「嘘、女と寝たでしょ。」

由岐枝がとんでもないことを言うので、俊一郎は焦りました。

「えっ、何故。」

「あなたの体からプアゾンの香りがする。」

なるほど、晶子がプアゾンをつけていたなと思い出し、彼は感心しました。

「実は、圭子さんをなぐさめてきた。」

晶子は、由岐枝にとっては圭子ですから、俊一郎は圭子と言ったのです。

「えっ、まさか…。」

由岐枝は、不安でつい聞き返しました。

「大丈夫。抱き締めてあげただけだよ。キスさえしていない。」

「それを聞いて安心しました。でも、圭子さん放っておいていいんですか。お母さんがわざわざ捜しに来たのに。」

俊一郎は、苦笑しながら答えた。

「わざわざ捜しに来たのは、私もだな。とばっちりを受けた君もだ。」

「あっ、そうでした。でも、圭子さんをフランスで一人にして、それから、お母さんは日本で一人にして、本当に大丈夫なんですか。」

由岐枝は、どんな事情があるにせよ、それは寂しいし、悲しいと思った。

「さあ、それは神のみぞ知るだな。しかし、彼女は一人じゃない。うまく行けば、日本でまた姿を見ることもあるだろう。」

由岐枝は、逆が気になった。

「うまく行かなきゃ。」

「それでも、圭子さんは元気だ。どうにかなるさ。さあ、帰ろう。」

由岐枝も、彼が心配していないようだから、大丈夫だろうと思うことにしました。

「はーい。まだ早いから、ルーヴルを見て行けますよ。」

由岐枝、本当は圭子の失踪の事情をもっと聞いて見たかったのですが、俊一郎は余計なことは話してくれそうにありませんでしたから、今は諦めることにしました。

「じゃあ、私の解説付きでルーブルに行くとしますか。」

「わーい。」

二人は、腕を組んで駅に向かって歩きだしました。

圭子と晶子、それからユンの3人は、そんな二人を森の中から見送っていました。


またSNCFで北駅に戻り、来る時の逆で今度はルーヴル駅で降りると美術館はすぐでした。

ガラスのピラミッドの入場口から、二人はまずギリシャ彫刻のある方に行っってみました。

ミロのビーナスの前で、由岐枝は、何故か不安になったので彼の左腕にひしとしがみつきました。

「どうしたの。」

「ううん、ごめんなさい。何故か不安になったの。」

不安そうな彼女を、俊一郎はからかった。

「私がミロのビーナスになってしまうよ。」

「なにそれ。」

「腕がもげちゃう。」

「あっ、なるほど。でも、私そんなに重くないもん。」

二人は、笑いながらビーナスを見上げました。

「しかし、このビーナスずいぶんボリュームあると思わないかい。」

「そうですね。もし本当にいたらものすごい大女ですね。それこそ俊一郎さんの腕がもげそう。」

「はっはっ、そんな感じだ。由岐枝が軽くてよかった。」

「でしょ。」

彼は、ふざけて左腕だけで彼女を釣り上げて見せました。

「あら、ずいぶん力持ちなんですね。」

俊一郎、胸の厚さは見た目にはわからないので、体格から見れば意外な怪力の持ち主だったのです。

「まあね、先輩の引っ越し手伝いに行って、一人で金庫を担いで行ったら感心された。」

「えっ、重くなかったんですか。」

「さほどは。60キロぐらいあったんだろうけど、その後で先輩夫婦がなんて言ったと思う。」

「怪力で助かったって。」

「いいや、『金庫には大事なものは入れないようにしよう。』だって。」

「なるほど。簡単に持っていかれるようじゃ金庫じゃないですもんね。」

「そう。」

少し行くと、今度はサモトラケのニケがありました。

これも堂々とした彫刻で、見上げながら俊一郎が言いました。

「こんなことが続いたら、私もああなりそうだな。」

「どうなるの。」

「首がもげそう。」

「あらあら、でも全然平気な顔しているじゃないですか。」

由岐枝は、彼は何の苦も無くいろいろな推理をしたように感じていました。

「そう見えるだろうけど、頭も使うとそれなりに疲れるんだよ。特に今回は、由岐枝の知らないところで、大分使ったからね。」

由岐枝も、どうも彼は自分が思っているよりもずっといろいろなことを考えたであろうことは察していました。

「私がなぐさめてさしあげます。」

「それはありがたい。今晩よろしゅう。」

「きゃー。」

つい嬌声のような悲鳴を上げる由岐枝を、彼は優しく抱き寄せました。

「何だか、出会うべくして出会って、なるべくしてこうなったみたいですね。」

由岐枝は、彼と出会ってまだ2日しかたっていないことに気付いてもらしました。

「私もそう思う。君にしても、私にしても、少なくとも行きずりの相手との情事に溺れるようなタイプではないだろう。それなのにこうなっている。これは縁だ。」

行きずりの情事と言われて顔を赤くした由岐枝でしたが、その通りだと思いました。

「ええ。まじめな恋でないと嫌ですもん。まあ、あっと言う間に最後まで行ってしまったのは自分でも驚きで、今でも信じられないんですけど。」

「同感。でも、よかった。」

彼が自分の感想を正直に言うと、由岐枝は顔を赤らめた。

「もう、恥ずかしいこと言わないで下さいよ。また…。」

快感がよみがえってきたので、由岐枝は言葉を切りました。

「また、どうしたんだい。」

「これ以上恥ずかしいこと言わせないで下さい。」

「ごめんごめん。さあ、絵の方に行くか。」

「ええ。ともかく凄い量ですから、見るだけでも大変です。」

「時間もあるから、ある程度絞って見ようか。君は何に興味がある。」

「そう言われても困りますが、まあ、普通の絵の方がいいですね。」

「じゃあ、リシュリュー翼の方に行こう。」

「はーい。」

移動しながら、由岐枝はリシュリューと言う名前はどこかで聞いたような気がして俊一郎に聞きました。

「リシュリューって、どこかで聞いたことがあるんですけど、どんな人でした。」

「フランスの名宰相だが。」

「うーん、違いますね。何か余りイメージよくない。腹黒そうな感じ。」

俊一郎は思わず笑ってしまったのですが、それである映画を思い出しました。

「『三銃士』って小説知っているかな。あるいは、映画にもなってるから、見たことあるかい。」

「小説の名前は知ってますが、読んだ覚えはありません。もしかしたら、映画はテレビで見たことあるかも知れないけど。」

「その中では、権謀術数に長けた宰相、悪の黒幕として描かれていたよ。」

「あっ、もしかして坊さんみたいな格好してなかったですか。」

「そうだな。フランシスコ・ザビエルの絵みたいな格好してたな。」

「きっとそれだ。それでそんなイメージがあるんだ。」

リシュリュー翼にたどりついて、案内図を見ながら俊一郎は文句を言いました。

「謎が解けたのはいいけど、この部屋の配置何とかならんのか、と言いたくなるな。」

「昔の宮殿ですからね。順序よく回ろうなんて考え自体が間違いでしょうね。」

全てに合理的な俊一郎らしい感想だなと思いながら、由岐枝は答えました。

「そのとおりなんだが、日本人順路の矢印がないと不安になったりして。」

「あっはっはっ。それは言えます。途方に暮れそう。」

それでも彼なりに合理的な順路を設定して、リシュリュー翼に所狭しと並べられた絵を見て行きましたが、途中でつぶやくように言いました。

「何だか、多すぎる。」

由岐枝は、思わず大きな声で笑って周囲からにらまれたのですが、確かに同感でした。

「確かに多いですね。」

「では、中世宗教絵画シリーズは飛ばそう。」

「はーい。私も余りキリスト様シリーズ好きじゃないから。」

「何が好きだい。」

「そうですね。まだ近世の絵画の方がいいですね。」

「じゃあ、オルセーの方が良かったかな。」

「ええ。でも、私あそこは行きましたし、俊一郎さんも昨日行ったでしょう。話の種にはルーヴルの方がいいでしょう。」

それは同感だった。

「まあね。でも、目が疲れそうだし、こう多いと有り難みも薄れるよ。」

「それでも、全てが世界の名画ですからね。モナリザはこちらって案内が出てるのは笑えますね。やっぱり目玉なんですね。」

「よく見ると、客も日本人と中国人とアメリカ人が多いな。」

「ところで、俊一郎さん絵にも詳しそうですけど、何か勉強されたんですか。」

これは面白いとかぶつぶつ言いながら見ているので、由岐枝は聞いてみました。

「私は家庭では大変な経験をさせてもらえたけど、その分徹底したエリート教育も受けたんだよ。」

「例えばどんな。」

何も思いつかなかったので、聞いてみた。

「美術品を鑑賞するにはどうすればいいと思う。」

「うーん、見るとか。」

「そうだね。」

「えっ、当然やないの。」

「そう。当然だが、それが秘訣でもある。」

「もっとわかりやすう教えてよ。」

腕につかまって甘えながら聞くと、彼が一瞬びくっとしたので笑ってしまいました。

「わあ、うぶや。」

「お互いさまよ。今晩許さないぞ。」

「きゃあ。」

色っぽい叫びになってまた周囲の人ににらまれたので、二人はそそくさとその場を離れました。

「つまりね、小さい頃から本当にいいものをたくさん見せてもらったんだよ。美術館や博物館に連れて行ってもらってね。実は僕は、19年前の3歳の時に、ピカソのゲルニカを東京で見ている。そのために大阪から連れてきてもらえたんだ。新幹線が無い時代だから、特急でも一日がかりだったよ。」

「なるほど、それで目も肥えるんだ。」

「だから骨董品屋の親父に誘われたんだよ。『お前は目利きができる。』って。」

「ふーん、そうだったんだ。でも、もったいなくなかったですか、私と同い年の美人のお姉さん。」

由岐枝はまた、福知山の美人姉妹のことを思い出してからかいましたが、俊一郎は平気な顔で答えました。

「いいや、これも運命だ。だから君と結ばれた。それに、君の方が美人だ。」

「そう言ってもらえると嬉しいけど…。」

由岐枝がまだ不安そうでしたから、俊一郎は心配になって確かめました。

「けど、なんだい。」

「帰った後のことを考えると、胸が苦しくなっちゃいます。」

俊一郎にも、彼女の気持ちはよくわかりました。

「まあ、毎日は無理だけど、できるだけ会えるようにするよ。そして、早いうちに何とかするようにするから。」

結婚のことを言っていることはわかりましたから、由岐枝は嬉しかったのですが、一緒にいられない不安が大きかったのです。

「頻繁に、そう、毎日会えないかしら。」

由岐枝は、彼から離れることを考えるだけで、胸が張り裂けそうだった。

「成田と川崎じゃ、上野で会おうと思えば会えるけど、大変だな。それに、毎日会ったらあきるど。」

「そうかしら。」

由岐枝は、彼と毎日会えないと思うだけで、今から不安だったのです。

「まずは丁度いいんだよ。しばらく会えないぐらいが。」

「不安。」

「心配しなさんなって。」

彼はにこにこしているので、由岐枝はふと思い付いて聞いてみました。

「あーっ、俊一郎さん、私たちの未来のこと、何か知っているんでしょう。」

「ばれたか。」

「教えてよ。」

「そうだなあ、どうしようかな。」

「いけず。」

「悪いことじゃないからいいか。ずばり言うと、大丈夫だ。」

「余計いけずやん。何やわからん。」

「ちゃんと結婚して、子供も生まれて、広い家に住んで、猫まで飼っていたな。」

きっと彼はその場面を予知したことはわかったが、どんな状況なのか、由岐枝はもっと知りたがりました。

「ええーっ、生々しい。子供は何人。」

「そこまではわからないけど、私を『お父さん。』って呼んだところをみると、いると思うよ。」

「私、きれいでしたか。」

面白いことを聞くな、と思って俊一郎は笑いました。

「後ろ姿はきれいだった。」

「あっ、またいけずや。」

「人間、幸せならきれいでいられるもんだよ。」

「じゃあ、そうしてください。」

「はいはい。」

しばらく見て回ったが、何となく気が乗らない風なので、由岐枝は聞いてみました。

「俊一郎さん何だか気が乗らないみたいですが、どうしたんですか。」

すると彼は、苦笑しながら白状しました。

「いや、確かにその通り。どうもいい絵がたくさんあって有り難いのだが、正直言うと気に入った絵がないんだ。オルセーなら結構気に入った絵がたくさんあったのだが。それから…。」

言いかけてやめたので、由岐枝は問い詰めました。

「それから、何ですか。」

すると少し恥ずかしそうに彼は聞き返しました。

「聞きたいか。」

「うん。どうしても聞きたい。」

「笑うなよ。」

「はい。」

「絵よりも、君の顔見てた方がいいなって思ったんだよ。」

由岐枝は、真っ赤になって彼を軽くたたきました。

「きゃあ、お上手ね。そんなこと言う人だとは思わなかったわ。」

彼は真面目な顔で答えました。

「絵よりも生身の人間、特に美しい女性の方が素晴らしいよ。それに、君はまだまだ光る玉だもん。」

「えっ、そうかしら。」

由岐枝は、元々人付き合いは悪い方でしたし、こんな言葉は、旅行の時にいかにも遊びでしか言われたことがなかったのです。

当惑しましたが、誠実そのものの彼の言葉ですから、信用できましたし、嬉しくもあったのです。

「でも、嬉しい。」

彼女の表情が輝いたので、彼はまぶしそうに見つめました。

「しかし、君のために見て回るか。」

「なあにそれ。」

「いいや、君の教育のためにとのことだよ。教養は一朝一夕で身につくものではない。磨けば光ると言ったが、これも磨くための一つの手段なんだよ。」

「ふーん、凄い。でも、何だかどこかであったようなないような。」

俊一郎は、圭子と夕子のことが思い出されたので、複雑な顔をしました。

「あれっ、俊一郎さん何か心当たりがありそうですね。」

由岐枝に気づかれて、彼は苦笑しました。

「君は、ピグマリオンって話聞いたことあるかい。」

「うーん、ないけど、ギリシャ神話にでも出てきそうな名前ですね。」

「そう。元はギリシャ神話にある話なのだが、バーナード・ショーって作家知ってる。」

「名前は知ってますが、作品は思い当たりません。」

「じゃあ、マイ・フェア・レディーってミュージカルは。」

そう言われると、由岐枝にもわかりやすかった。

「あっ、それなら見たことある。とっても面白かった。オードリー・ヘップバーンが出てましたね。」

「そう。あの原作がバーナード・ショーの「ピグマリオン」なんだ。」

「へえ、そうだったんですか。じゃあ、私がメアリーであなたが何とか教授。」

「エインリー・イギンズ」

映画の中のメアリーのなまった言い方を真似ると、由岐枝は笑いました。

「そうそう、ヘンリー・ヒギンズ教授でした。でも、似合いますね。」

由岐枝は、彼は自分を理想の女性に仕立て上げてくれそうに思いました。

「うん。自分でもそう思う。男って自分で理想の女性を作り上げたいって夢があるのかも知れないな。」

「うーんっと、平家じゃない源氏物語。」

「そう。私が光源氏で、君が紫の上。」

「きゃあ、いいですね。ロマンチックで、私乗っちゃいますよ。」

「そう。乗ってくれれば、君はどんどん美しくなる。」

何とか誤魔化せたかな、と思っていると、由岐枝は彼の後ろに回ってささやきました。

「旦那、隠し事はいけませんぜ。由岐枝さまは先刻ご承知ですから、白状なさい。」

彼は内心を見抜かれて驚きましたが、由岐枝のことを更に気に入りました。

「あっはっは。ようわかったな。ばれちゃ仕方がねえ。洗いざらいはきやしょう。」

「んで、誰に手出したんや。」

手を出したわけではなかったので、俊一郎はしらを切りました。

「えっ、あっしゃやっぱり知りまへんで。」

「もう。ふざけるとおしおきいたすぞ。」

「どんな。」

「夜伽を命ずる。きゃあ。」

自分で乗せられて言ってしまって、また真っ赤になる由岐枝でしたが、俊一郎はそんな彼女を心底可愛いと思いました。

「実はね、私は最初、圭子にそうしようとしたんだよ。」

本当は圭子だけではなかったのですが、俊一郎はとりあえず圭子だけにしました。

「えっ、圭子さんを…。」

もしかしたら、とは思っていましたが、言われると少しショックでした。

「でも、見事に失敗した。」

「どんな風に。」

「そう。最初はソフトに迫ったところいいムードになった。」

「きゃあ、狼が出たぞ。」

「あんたねえ、キスさえしとらんって言ったでしょうが。」

「そうでしたね。」

何度聞いても、そのことも不思議だったのです。

由岐枝の記憶の圭子は晶子ですから、上品そうで、彼好みに思えていたのです。

「今考えるとそこで間違えたって思えるけど、餌に寄ってきたところで教養攻撃をしかけたら、彼女が中毒したってところかな。その後すれ違いのまま腐れ縁に発展し、肉体的には何の関係もないまま今日に至るってところかな。」

由岐枝は想像して見たが、マイ・フェア・レディーのメアリーと同じで、圭子の気持ちもよくわかりました。

「私、圭子さんの気持ちもわかりますよ。」

「私だって、今は痛いほどわかっている。しかし…。」

そこで珍しく彼が言葉に詰まりました。

由岐枝には、彼の人間性も理解できるようになっていましたから、自分で思ったことを言って見ました。

「俊一郎さんは、圭子さんのことを同情から大切にした。それが仇になったんでしょ。」

「うーっ、残念ながらその通りじゃ。私には圭子の性格は合わないことは最初からわかっていたんだ。彼女にも私は合わないことも。不幸な人に必要なのは同情じゃなかったんだ。」

「じゃあ、何が必要だったんでしょう。」

由岐枝は、彼が珍しく取り乱したので興味をもって聞いてみました。

「変革だよ。それも押しつけではなく、自らの意思による。」

「なるほど。でも、何故失敗したの。」

感心しながらも、そこまでわかっていて失敗した彼の人間性には好感を覚えました。

「失敗の原因は、奇しくも今回、彼女と君に実験付きで教えてもらった。」

「えーっ、何だったの。」

「つまりね、愛で変革させようと思うのなら、スキンシップが、要は、体の関係も必要だったってことだな。」

「あっ、セックスなんだ。」

由岐枝も、セックスが大切であることは実感していました。

「そう。」

「きゃあ、恥ずかしい。」

「言葉だけでも体だけでも駄目で、両方揃っていることが必要だとわかったんだ。ありがとう。」

彼に感謝されると、由岐枝は、奇妙な気分でした。

彼は言葉と言いましたが、体に対照させて考えれば心なんだろうし、自分に置き換えて見ると、もし昨日彼が抱いてくれなかったら、どこかでひねくれてしまったかも知れないし、逆にあの場面で彼に拒絶されていたら、下手したらセーヌに飛び込みかねなかったことを実感していたのです。

「そのとおりです。言葉だけじゃあ素直になれないもんなんですよ。私、あなたと結ばれて本当に幸せですもん。」

「そう言ってもらえると有り難い。圭子の恩返しってとこか。」

死ぬほど恥ずかしかったできごとでしたが、たしかにあの行為がなければ、感じやすい反面自分はセックスに対する抵抗感が人一倍強かったし、彼とスムーズに結ばれることはなかったはずでした。

「そう、ですね。恥ずかしかったけど、心の殻を破ってもらえたみたい。そこに当然のようにあなたが居て、自然に結ばれた感じです。」

「これも運命だな。これからを大切にしないといけないが。」

「どうすればいいんでしょう。」

「この縁を大切にして、よい方向に自分をもっていくきっかけにすればいいんだよ。変に反発しても、意地張ってもいいことはないよ。」

抽象的でわからなかったので、由岐枝は聞き返した。

「よくわかんない。どうすればいいの。」

「要は、普通の恋人同志でいいってことだよ。」

「そうなんだ。」

由岐枝は、幸せをかみしめながら彼と腕を組んで絵を見て回りました。

彼は、腕を組むとまだ少し恥ずかしそうでしたが、時々絵の解釈を交えて彼女を導いてくれました。

閉館時間が6時半だったため、少し他の部分も回ってみましたが、古代エジプト関連のところでは、何故か彼は不機嫌になりました。

「エジプトは、お嫌いですか。」

由岐枝が面白がって聞くと、彼はぼそっと答えました。

「いいや、略奪品の余りの多さに腹が立っただけだよ。」

「なるほど、ナポレオンの頃から一杯持ってきてますもんね。」

「欧米人の思い上がりだ。とばかりも言っていられないか。」

「そう。日本人も少しやってますからね。中国あたりで。」

「そう言う意味では、謝罪すべきかな。」

「そうでしょうね。」

閉館時間が近づくと、どんどん部分的に閉まって行きましたから、二人は追い出されるような感じで外に出ました。

外と言っても地下だったのですが、そこのお店は開いていたので、お土産にと絵葉書や本を買いました。

俊一郎が買った絵葉書は女性の絵のものが多かったので、由岐枝はからかいました。

「あら、俊一郎さん女性画が好きなんですね。」

彼は、にこっと笑って言い返しました。

「うん。女性の美しさが一番だと思うからね。君の絵もあればいいんだけど。」

「あら、お上手。」

さらっと言われて由岐枝は驚きました。

「でも、この絵見てどう思う。」

彼は、オルセーにあった女性の肖像画の絵葉書を見せて由岐枝に聞きました。

「きれいな人ですね。あっ、もしかして好みなんだ。」

彼は悪びれずにうなずいた。

「うん。でも、誰かに似ていると思わないか。」

言われてみると、なつかしいような、親しみのある顔である。

「はて、どこかで見たような気はするんですけど…。」

眉間に皺をよせて考え込んでいる由岐枝を見て、彼は笑いだしました。

「何で笑うの。」

馬鹿にされたようで、由岐枝は、少しツンツンしました。

「うん、気づかないからおかしくって。」

「えっ、誰なの。」

「本当に見覚えないの。」

言われてみると、どこかで見た気がするのですが、どうしても思い出せないので、じれったくなって聞いてしまいました。

「んー、もう我慢できない。もったいぶらずに教えてよ。思い出せないから。」

彼は、にこにこしながら彼女を抱き寄せたのです。

どきっとしながら彼に寄り添うと、彼は奇妙なことをささやきました。

「目を閉じて深呼吸してごらん。」

「何で。」

「そう言わずにしてごらん。」

素直にしてみると、少し気持ちが落ち着いてきました。

「さあ、大きく深呼吸して、朝心地よく目覚めた時のことを思い浮かべてごらん。」

「はい。」

やってみると更に気分は落ち着きました。

「じゃあ、次に洗面所に行って、顔を洗ってごらん。」

やってみると、何となく水の冷たさを感じました。

「何だか、水が冷たい感じ。でも、さっぱりした。」

「じゃあ、タオルで顔を拭いて、目を開けると何がある。」

「えっ。」

一瞬何のことかわからずに聞き返すと、彼は優しく言い換えた。

「目の前に何がある。」

「うーんと、鏡。」

「何が見える。」

「うーんと、自分の顔。」

「よく見てごらん。」

そこまで言われてはっと気づきました。絵葉書の女性は自分に似ていたのです。

「んもう。意地悪。」

やっと気づいた由岐枝は、俊一郎にではなく、自分に腹が立ちました。

「おっ、やっとわかりましたね。では、正解をどうぞ。」

「もう、私の顔やないの。髪伸ばしてもう少しふっくらしたら、あと色もう少し白くしたら、確かに私に似てるわ。」

言いながら、彼が好みだと言ったことを思い出して少し恥ずかしくなった。

「自分の顔って意外に盲点だろ。」

「うーっ、そのとおりですね。くやしい。」

「まあ、おこりなさんなって。私だって昨日オルセーでしばらく考えていたんだから。」

「へえーっ、俊一郎さんでもそうだったんですか。でも、それでこの絵ハガキ買ったんですか。」

「うん。会えない時にこれ見て君を思い浮かべようかと。」

「きゃっ、恥ずかしくなること言わないでくださいよ。」

そうは言ったものの、由岐枝は彼の愛情を感じられてとても嬉しかったのです。

「自分の顔と言えば、小学校の時に面白いことがあったよ。」

「何ですか。」

彼の小学校の時のことと聞いて、由岐枝はとても興味があった。

「向かい合って、相手の絵を描く授業があったのだが。」

「あら、お相手はかわいい女の子だったの。」

「いやあ、それがクラス1のいじめっこ。」

「おー、怖い。」

「いや、私は不思議にいじめられなかったんだよ。」

「ふーん、じゃあ不気味だったとか。」

からかうと俊一郎はちょっとふくれっ面をしたが、その後笑った。

「いや、やっぱり頭のいい子は偉いと思われていたんだろうね。それに、私はやられたらそれなりにやり返したし、当時は背も二番目ぐらいに高くて、力は強い方だったからね。いじめには反撃も必要だよ。」

「ふーん、ところで俊一郎さん絵は上手なの。」

「下手ではないな。当時体育以外全て最高評価だったからね。」

「ひえー、超人。」

「まあ、それはおいといて、肖像画を描いていた。」

「いじめっ子でしたね。」

「で、そのいじめっ子は、下手な絵の見本みたいな目とか唇のばかでかい絵を書いたのだが、私の絵が変だった。」

俊一郎が淡々と話すので、由岐枝は不安になった。

「どう変なのですか、何だかあなたに言われると不気味ですよ。」

「そう。後ろに陰が。」

「きゃーっ。」

おどかすと由岐枝が悲鳴をあげたので、周囲の客の注目を集めてしまいました。

「嘘だってば。」

「もう。あんたの嘘リアルやから、始末に悪いわ。」

「ごめんごめん。でも、それだけ信用あることは確かやな。」

「それでどうしたの。」

「いやあ、うまいはずの絵が、モデルとは全然似ていないんだわ。服とか別の部分はそっくりなんだが、顔だけが似ても似つかないんだな。」

「なあにそれ。」

「本人不思議に思いながらもほとんど書き上がったところで先生が見に来て、大笑いしたんだよ。」

「えーっ、何で。」

「その顔、いじめっ子じゃなくて私の顔だったんだよ。」

「へえーっ、そんなことあるんですね。」

「でも、小さな子の絵って結構無意識のうちに自分の顔描いていること多いよ。」

「でも、超人神坂もかたなしや。」

「それ以来人物画は描いていない。」

これは、事実でした。

「はっはっはっ。意外に傷は深かったんですね。」

「うーん、そう言われてみるとそうだな。でも、いじめっ子喜んでたな。割とリアルで本人よりもハンサムだったから。」

「あっはっはっ。それはよかったじゃないですか。でも、余り考えたことなかったんですけど。」

「何を。」

流石の俊一郎も何のことかわからなかった。

「あなたの顔のこと。」

「が、どうかしたか。」

「そうですね。意外に睫毛が長くて甘い顔なんですね。」

俊一郎は、呆れました。

「何を今更感心しているんだよ。普通そういうことって、ABCの前に考えないかい。」

由岐枝は、そう言われて首を傾げました。

「そうですよね。でも、今回に限って言えばおかしかったんですね、私。」

彼女は、面食いというわけではなかったのですが、漠然ともっと背が高い相手がいいとは思っていましたし、自分のスタイルがいいことも自覚していましたから、もう少し足が長い相手がいいなとも思っていたのです。

俊一郎は、彼女の顔をのぞきこむとぼそっと言った。

「変だなあ。もっと背が高くて、足の長い相手のはずだったのにと考えている。」

由岐枝は、心のなかをのぞかれたと思って慌てました。

「えーっ、どうしてそれを。もう、心のなかのぞかないでくださいよ。」

抗議しながら彼を軽くたたくと、彼は笑いながら種明かしをしました。

「違うよ。君は背も低い方じゃないし、スタイル抜群だから、自然にそう考えるものだろうと思っただけだよ。」

「あっ、そうか。じゃあ、覗いていないの。」

俊一郎は、身内とも言える彼女の心の中は覗きたくなかったのです。

「少なくとも君の心は覗かないよ。その必要がある時は別だが。」

由岐枝は少しほっとしましたが、その必要がある、との言葉が気になった。

「でも、『その必要がある時』ってどんなこと。」

「ああ、それね。君が自分のためにならない悪だくみをしている時とかだね。」

「例えば。」

聞かれたものの、本当はそんなことを想定していませんでしたから、俊一郎は言葉に詰まりました。

そんな彼を見て由岐枝はクスクス笑いました。

「あら、おかしい。」

「何が。」

「あなたが答えに詰まったこと。」

「そうだな。全く考えていなかった。」

彼は、悪びれずに答えました。

「ふーん、そんなに私のこと信用したんだ。」

「当然だろ。人生を任せる相手を信用できなければ悲劇だ。」

言いつつ何か思い当たったようなそぶりを見せたので、由岐枝は、彼が両親のことを思い浮かべたこともわかりました。

「そう言われると嬉しいですね。」

「君は。」

「あっ、私は…。」

聞かれると由岐枝も全然考えていませんでしたから、彼は笑いました。

「私も信じていました。でなきゃ、大切なものあげられませんよ。」

「それは、光栄だ。」

「ところで聞いていい。」

「どうぞ。」

由岐枝は、俊一郎の耳元でそっとささやくように聞きました。

「本当に私が初めてだったの。」

彼は、彼女の肩を軽く抱いて答えました。

「本当だ。」

「お上手ね。」

答えたあと、とんでもないことを言ったことに気づいて、由岐枝はまた赤くなりました。

「前世で、君とは何度もリハーサルしてたからね。」

彼は笑いながら付け加えました。

「この、プレイボーイ。」

「さて、モン・サン・ミシェル組は何時頃帰ってくるのかな。」

「あっ、凄く遠いですから、チャーター便でないと日帰りできないんですよ。だから、夜の10時過ぎますからまだまだ帰って来ませんね。」

「でも、まあ一度ホテルに戻るか。食事は、斉藤さんの都合によりとして。」

「はーい。」

ホテルの近くまで来ると、俊一郎は由岐枝を抱き寄せて耳打ちしました。

「厄介な客人が来たようだから、君は、ホテルのフロントで待っていてくれるか。」

「えーっ、どうしたの。」

「うん、ちょっと変な人がつけてきていてね。君は巻き込みたくないから。」

「大丈夫ですか。」

「私は、武道にかけても天才だ。待っててくれ。」

彼はホテルの入口で彼女を押し込むと、自分だけ何食わぬ顔でサン・シュルピス寺院の前の広場まで行ってベンチに腰掛けました。

すると、東洋系の小柄な男が近寄ってきたのです。

俊一郎、立ち上がって向かい合った瞬間、本能的にこいつは手強いと感じましたが、何故かその男、手に持った鉄パイプを見て一瞬躊躇したのです。

俊一郎、この男、もしかしたらムエンタイの名手か何かで、武器の扱いには慣れていないのではないかと感じましたが、次の瞬間彼はパイプを振り上げてかかってきました。

通常このような場面では人間無意識の内に後退するものなのですが、俊一郎は逆に素早く前進し、男が踏み込んできた足の膝の下を軽く蹴りました。

これ、大学生の時に知人の山菱組のヤクザで柔道空手の有段者だった男から習った喧嘩の必勝法の一つだったのですが、「お前がまともに蹴ったら簡単に骨が折れるから、手加減しろ。」と注意されていたので、手加減したのです。

「ぎゃっ。」

変な悲鳴を上げつつ、男が突進してきた俊一郎を避けようと本能的に上体を反らせると、当然下半身は無防備になって前に出ますから、彼は膝を男のみぞおちにたたき込みました。

失神した男をベンチにさりげなく寝かせると、後ろに気配を感じて彼は振り返りました。

そこには熊谷晶子の姿があったので、彼は低い声で聞きました。

「これはどういうことだ。君の仕業なのか。」

彼女はへなへなとその場に座り込んだので、近づいて立ち上がらせ、抱き抱えるようにして彼は小声で更に聞きました。

「私が信じられないのか。」

晶子は、蚊の鳴くような声で答えた。

「違うんです。彼、ユンの恋人なんです。それで、今日のこと誤解して、あなたが私たちを脅迫すると思ったらしくて、あなたを襲うかも知れないってユンが慌てて連絡してきたから、私が駆けつけてきたんです。」

確かに彼女は息が乱れており、彼が支えていなければ倒れてしまいそうだったので、ベンチに座らせて隣に座りました。

「人を信じろ。信じられない人生なんて味気ないもんだよ。」

「はい。私は信じています。」

俊一郎、襲ってきた男を気付かせると、晶子に通訳を頼んで二人に呼びかけた。

「私は、君達の邪魔をする気はない。ただし、私や由岐枝に手を出すなら別だ。今回は許すが、つまらぬことは二度としないよう、させないようにしてくれ。下手すると、私は襲ってきた相手を殺しかねないから。」

晶子は、彼の言葉の底に隠された迫力に震え、男も俊一郎の強さは十分伝わっていましたから、晶子から彼の言葉の内容を聞いて、頭を下げました。

しかし、そこまで言うと彼は笑顔になりました。

「今日のことは忘れる。君たちも忘れてくれ。」

そして、俊一郎は、息が落ち着くまで晶子の背中をさすったのです。

「つまらない考えが病気を作るんだよ。全てを許せ。そうすれば私のように強くもなれる。元気になって日本で会おう。」

そう言って彼はホテルに向かって立ち去ろうとしました。

俊一郎に背中をさすってもらってとてもいい気分になったので、晶子はお礼を言いました。

「ありがとうございます。お陰でとっても気分が良くなりました。」

「ホテルにいればユンをよこすから、その男をしばらく見張っていてくれ。」

先刻俊一郎を襲った男は、神妙にベンチに座っていたままだったので、彼は晶子に鉄パイプを渡し、にっこり笑ってホテルの方に戻って行きました。

ホテルでは、由岐枝が心配して待っていて、彼の姿を見るや駆け寄ってきました。

「俊一郎さん大丈夫。」

「ああ。私はぴんぴんしている。ただ、私の足につまずいてこけた人がいるから、ユンちゃんいたら呼んでくれるかい。」

何故ユンを呼ぶのか不思議だったが、彼が無事なので由岐枝はほっとしました。

ユンは慌ててとんできて、彼にフランス語で何事か聞きました。由岐枝が通訳すると、結局彼女と同じで、俊一郎が無事かどうかだったので、英語で答えました。

「ノー プロブレム。」

それからサン・シュルピスに晶子とユンの知人がいるから、よろしく頼むと伝えるように言った。

ユンは、由岐枝から聞くと、彼にぴょこっとお辞儀をして慌てて走って行きました。

「一体どういうことなの。」

さっぱり訳の分からない由岐枝は聞きましたが、彼は平然としていました。

「いいや、勘違いで襲われたようだ。」

彼女は呆れました。

「襲われたっていうのに、平然としてるのね。」

「いいや、大したことはない。鏡に映して見せたんだよ。」

「何のこと。」

「その人がやろうとしたことを、ちょっぴり手加減してお返ししただけだよ。」

「それが鏡なの。」

「そう。私の特技だ。」

「まあまあ。」

こんな事態なのににこにこしている俊一郎に呆れていると、ユンが戻ってきて彼に頭を下げ、彼が渡した例の100ユーロ札を広げながら差し出した。

彼は、笑いながら両手を上げてから、彼女の手を押し戻して言いました。

「ノー プロブレム イッツ ユアーズ。あっ、英語だったね。由岐枝さん訳してあげてください。」

由岐枝が、ユンと二言三言言葉を交わしてから彼に言った。

「あれは私の恋人です。ごめんなさいと言ってます。」

「じゃあ、私は絶対秘密は守るから二度とやるな、と伝えてください。」

またユンと二言三言話したあと、また彼に伝えた。

「絶対させないって。どうなってるの。」

俊一郎はそれには答えず、ユンに伝言を頼んだ。

「じゃあ、彼女たちをよろしく頼むって伝えてくれ。」

由岐枝が伝えると、ユンは何度もお辞儀をして帰っていった。

「彼女たちって、圭子さんたちのこと。」

問い詰める由岐枝を、彼ははぐらかした。

「えっ、そうだっけ。」

「んもう。教えてよ。」

「君にはかかわりのないことだ。襲われたくなかったら余計な詮索はするな。」

「でも、私…。」

「何だ。」

俊一郎は、何だか由岐枝が深刻な雰囲気なので聞き返しました。

「貴方の妻になるんですもん。自分一人で全部胸にしまおうなんて考えないで。」

「そう言ってもらえると嬉しいけど、神様はその人が負えるだけの荷物しか与えないものだよ。私はまだまだ大丈夫。君には負わせたくない。」

「そうですか。でも、苦しくなったら教えてください。あっ、後一つ教えてください。」

「何だ。」

「鏡って言いましたね。」

由岐枝は、さっき俊一郎が言った『鏡』のわけがわからなかった。

「うん。それがどうかしたかい。」

「どう言うことなんですか、もっと教えてください。」

「そうだな。今後一番身近にいるであろう君には、危ないから教えておこう。」

「何それ。」

危ないと言われて、由岐枝は更に訳がわからなくなった。

「私はね、前世での修行の賜物かも知れないが、特殊な能力があるんだよ。」

「頭脳だけでも十分以上やないの。」

「それがね、頭ではなくて体の方で、けんかの才能と言うべきなのか、私自身はほとんど何も考えていないから体が勝手に動く感覚なんだが、危害を加えようとする人がいると、無意識の内に反撃するんだよ。」

俊一郎は、本当は暴力だけでなく、悪意もそのまま鏡のように相手に返す恐ろしい力を持っていたのです。

「へえーっ、怖いんですね。」

「だから、まちがっても、悪戯でも、私に下手なことはしかけないほうがいいよ。」

「はーい。十分気を付けます。あなたは私の神様ですから。あれも良かったし…。きゃあ恥ずかしい。」

由岐枝は、また思い出して赤くなりました。

一旦部屋に引き上げてから1時間半ぐらいたったころ、由岐枝から今斉藤さんが帰ってきたので、一緒に食事に行きましょうとの電話がきました。

ついベッドに横になって眠りかけていたため、慌てて時間を見るともう10時を過ぎていました。

遅いなと思いながらフロントに降りると、由岐枝と園子が並んでいたのですが、園子は心持ち蒼い顔をしていた。

「顔が蒼いですね。モン・サン・ミッシェルまでの長旅で、お疲れではないですか。大丈夫ですか。」

声をかけながらも、俊一郎は直感で、もしかしたら彼女は晶子と会ったのではないかと思いました。

「いいえ、大丈夫よ。ただね、帰りにそこの通りで圭子にとてもよく似た子に会ったの。ぼーっとしていたからかぶつかっちゃって、『ごめんなさい。』って謝って顔見たらサングラスかけてたんやけど、似てたから、頼んじゃった。」

やはりそうだったのかと思った彼を尻目に、何も知らない由岐枝は無邪気に聞いた。

「何とですか。」

「顔見せてちょうだいって。」

「それで。」

今度は俊一郎が聞くと、園子はにっこりわらった。

「その子も私とぶつかってしまって焦ったのか、慌ててじたばたしてたんやけど、私の顔見てサングラスを外してくれたんよ。」

晶子だとしたら、実の母に出くわして慌てただろうな、と俊一郎は心の中で思いました。

「それで、どうでした。」

「本当にそっくりだったから、この先のカフェーで少しお話ししてきたの。」

「それで、当然他人だったんでしょう。」

真相を知っている俊一郎でしたから、顔色一つ変えずに聞きました。

「そうやの。全くの他人だったんやけど、圭子のこと話したら、『他人とは思えない。』って、捜すのに協力してくれることになっちゃった。でも、別れて帰ってきたら、何だか幽霊に会ったような気がして、顔色悪かったんかもね。」

「幽霊…。」

由岐枝は変な顔をしましたが、俊一郎は、晶子は死んだことになっているから、そのことだと気付きました。

「何という名前でした。」

よもや本名は言うまいと思ったが、念のため俊一郎は聞いてみた。

「水野春子って名乗ったわ。彼女も観光客やって。」

「ふーん、水野春子さんね。」

俊一郎は、晶子のことだと確信しました。水野は、自分の晶と圭子の圭にかけて、水晶玉にひっかけたのだろうし、春子は晶子の読み秋の反対だと思えましたから。

由岐枝は、俊一郎が何を考えているのかじっと観察していたのですが、園子と一緒の時は見事に平静を装っているため、全く読めませんでした。

逆にそのことは、彼が何かを隠していることを意味していることはわかりました。

「それでね、あさって見送りに来てくれるって。」

「よかったですね。似た人に会えただけでも。」

由岐枝が素直に喜ぶと、園子は更に言いました。

「そうね。でも、俊一郎君も見たらきっと驚いたわよ。髪形と服の好みを圭子と一緒にしたら、私でも見間違えたんじゃないかしら。」

「それは見事ですね。」

「そうなの。圭子の姉が生きていたら、丁度あんな風だったのかしら。」

「えーっ、圭子さんお姉さんがいたんですか。」

知らなかった由岐枝は素っ頓狂な声をあげたので、俊一郎はそれとなく彼女の手を握りました。

「そうなのよ。圭子、双子だったの。でも、姉の晶子は、生まれて半年で死んじゃったの。」

園子が思い出深そうに宙を見ているすきに、俊一郎は由岐枝に耳打ちした。

「斉藤さんには内緒。」

由岐枝はドキドキしながらうなずきました。

「あんたたちはどうしたの。」

「折角ですから、有名なルーヴルを見てきましたが、余りいいとは思いませんでした。」

「私なんか、全然わからなかったんです。俊一郎さん解説してくれたりしたけど、ミロのビーナスとサモトラケのニケとモナリザぐらいは知っていましたけど。」

一寸ぎこちない態度になってしまった由岐枝を、俊一郎がフォローしました。

「エジプトのコーナーでは、余りの略奪品の多さに腹立てて帰ってきました。」

「ふーん、そうだったの。で、俊一郎君気が済んだ。」

園子は、俊一郎はルーブルだけを見ていたわけではないと思いました。

由岐枝とずっと一緒だったかどうかまではわかりませんが、自分を閉め出して何かをしていたことは確かだと思いましたから、かまをかけました。

すると彼は、意味あり気にうなずきました。

「まあ、それなりにふんぎりは付いたと言っておきましょう。でも、パリは物騒なところですね。」

話題をそらせるために、先程のことを持ち出した。

「えっ、また何かあったの。」

「ええ、ルーヴルの帰りにまたつけてくる男がいたので、由岐枝さんだけホテルに放り込んで、そこのサン・シュルピス寺院の公園でちょっとお相手してきました。」

「なあにそれ。あんたにしては珍しいわね。自分から相手するなんて。」

園子は、彼が自ら進んで喧嘩をした話は聞いたことがありませんでした。

「いやあ、私だけならともかく、由岐枝さんもいましたから、巻き込みたくなくて一人で相手しただけです。それに…。」

「それに、何だったのですか。私だけホテルに放り込んで。」

由岐枝も園子に調子を合わせて少し非難するように言うと、彼は両手を上げておどけて答えた。

「それに、自分よりも強い相手とはやりません。」

「もう、しょうもないこと言って。もし相手が銃でも持っていたらどうすんのよ。フランスくんだりまで無理矢理付き合わせて、あんたにもしものことあったら、私、あんたの両親、いや母親に申し訳たたんやないの。以後気をつけてよ。こんな可愛いフィアンセもいるんだから。」

園子に言われて、由岐枝は顔を赤らめました。

すると、俊一郎は奇妙なことを口走ったのです。

「そうだった。私としても、由岐枝さんを悲しませることだけは避けたい。」

由岐枝は、自分のことを気づかってくれることは嬉しかったのですが、母親はどうでもいいかのような言い方だったので不思議に思いました。

優しい俊一郎なのに、何故自分の母には冷たい言い方をしたのだろう、そう思っていると、園子はぼそっと言いました。

「圭子も、そう思ってたんでしょうね。あんたと圭子は似た者同志でもあったから。」

さっぱりわからなくてポカンとしている由岐枝に気づき、俊一郎は園子を誘った。

「ああ、こんなことをしていると、日本のおばんの井戸端会議ですから、食事に行きましょう。」

園子と由岐枝は笑てしまいましたが、確かに日本人は、海外でも周りの迷惑かえりみずに道端で大声で世間話をする傾向があったのです。

「フランスも飽きたから、今日はイタ飯にしない。」

園子が言いましたが、由岐枝は、俊一郎の家庭のことを考えていたため上の空で気づかないでいました。

「由岐枝さん、イタリア料理のお店知っていますか。」

俊一郎が聞くと、由岐枝は気付いて慌てて答えた。

「あっ、ごめんなさい。はい。なんとかなります。パリ事務所の人がよく行くお店がありますから。」

「じゃあ、案内してちょうだい。私おごるから。」

「あっ、それは結構ですわ。」

「そう言わずに。」

「そうですか。では、また御馳走になります。」

由岐枝が断ったのに横から俊一郎が言ってしまったので、彼女も黙ってお辞儀をした。

「では、お言葉に甘えます。」

暗くなりつつあったので、用心のため大通りの明るいところを選んで通り、ノートルダム・ド・パリの近くのイタリア料理店に行くと、日本人の感覚では遅い時間でしたが、フランスではまだ夕食時間で、混んではいましたが、丁度1テーブル空いていたのです。

メニュー(と言うとフランスでは定食の意味となる。カルトゥが日本語で言うメニュー。)を見て、俊一郎は変わったものを注文した。

「私は、トルテリーニにしましょう。」

「何それ。」

園子はイタ飯と言うとスパゲッティーしか思いつかなかったから、トルテリーニは初めて聞く名前だった。

「イタリア風ミニ餃子とでも言いますか、パスタの一種ですね。」

「へえー、詳しいんですね。」

由岐枝も知らなかったので感心すると、彼は笑いながら種明かしをした。

「いいや、大学の後輩にイタリアに住んでいたことのある奴が居まして、イタリアの家庭料理はスパゲッティーよりはむしろトルテリーニで、家に行った時にこれを出してくれるようになったら親しくなった証拠だ、と言ってましたので、試してみようと思っただけですよ。」

「あら、そうだったの。でも、そう言われるとしゃくだから、私にも何か選んでよ。」

「フランス料理の大家としては、何をおすすめですか。」

俊一郎に聞かれて、由岐枝は苦笑しながら明るい声で答えた。

「グルメの私としては、チーズがお嫌いでなければラザニアをおすすめします。」

「なあにそれ。どんなもの。」

「うーん、板状のパスタにチーズやミートソースをはさんだもの、かしら。」

想像してみたがイメージ湧かないので、面倒になって園子はそれにすることにした。

「じゃあ、私そのラザ何とかでいい。ところで、あんたは。」

「私は、ラビオリにしてみます。」

「なあに、それ。」

「やっぱり、イタリア風餃子の一種ですね。」

「みんなで注文してちょっとずつ取って食べてみればいいでしょう。気にならないようなら。」

「あっ、私は大丈夫ですよ。気にしませんから。」

由岐枝が同意すると、園子はからかいました。

「そうよね、あんた神坂さんとはもう他人やないし。」

「きゃっ。」

また真っ赤になる彼女に、園子は呆れました。

「あんた、何時までかまととこいてるのよ。」

「だってえ、私初めてだったんですもん。それにまだ3回しか…。あっ、変なこと言っちゃった。」

また恥ずかしさで涙目になる由岐枝だった。

「あんた、それだけ言やあ十分よ。」

「気にしない、気にしない。そんなもんだよ。」

彼に軽く肩を抱かれて慰められて由岐枝は落ち着いた。

「そうかしら。」

「そうよ。圭子なんかひどかったんだから、男とやることやった途端、人変わったわよ。」

母親である園子が娘のことをそんな風に言うとは、由岐枝は驚きだった。

「えーっ、何ですかそれ。」

「あんたの彼氏に聞いてごらんなさいよ。私よりよく知ってるわ。」

「あのう、そこまで言わせますか。」

俊一郎も、圭子の変貌ぶりを知ってはいたが、まさか園子からそんな風に言われるとは思っていなかった。

「いいわよ。教えたげてよ。」

「はあ。圭子さん、某先輩とやることやってから、がらっと変わったのは事実です。」

「どんな風にですか。」

由岐枝は、自分も変わったようなので興味を持って聞いた。

「そう、人が赤面するようなことを平気で言うようになって驚いた。本人も驚いてたけどね。」

「そうだったんですか。確かに、私も驚いた。」

由岐枝もうなずいた。

「それでいいんだよ。」

「まあ、ほどほどに、やね。あんた、それでなくてもボロ出しやすいやろうから。ご家族、特にお母さんにはバレバレになってまうわよ。」

園子が注意すると、由岐枝は素直にうなずいた。

「はーい、気をつけます。」

注文が終わった後、俊一郎は、由岐枝に話しだした。

「さっき君が少しポカンとしていたから、私は自分の家庭の話をしよう。」

すると、大分内情を知っている園子がおどした。

「そうね。今のうちに聞いてよく考え直すことね。まあ、もう手遅れかも知れないけど、あんたの場合は。」

「きゃあ、怖がらせないでくださいよ。でも、私もうこの人に決めましたから。」

「それは光栄だが、まず父の話をしよう。」

「英語もドイツ語もできたって言いましたね。」

由岐枝が言うと、園子は驚いた。

「へえー、それは知らんかったわ。それなのに何故…。」

圭子を通じて園子が知っている彼の父は、財産を食いつぶした極楽とんぼのイメージしかなかった。

「まあ、インテリはインテリだったんです。名家の出で、外交官の息子としてアメリカで生まれたんですが、幼少期に両親が離婚し、母と別れて日本に帰ってからさんざんいじめられたそうです。それで、勉強にもスポーツにも頑張って優等生だったんです。でも、父親も中学の時に亡くなって、継母には優しく育てられたんだそうですが、結局愛情の点で問題があったんでしょうね。その辺りで既に大分性格がおかしくなっていたのでしょうが、戦争が追い打ちをかけました。実は、知られざる歴史の物語があったのです。」

「何やねんそれ。」

園子も、そこまでは聞いたことがありませんでした。

「父、父と祖父が外交官だったこともあって、英語ドイツ語に堪能だったのです。それで、大学の学費免除を餌に、学徒動員とは別に極秘任務にかり出されることになったんです。不思議なことですが、海軍兵学校に特別に入れられて1ヶ月間訓練を受けた後、呉港ではなく瀬戸内海から大型の潜水艦に乗って出撃したのですが、その潜水艦、フィリピン近くで撃沈されてしまったのです。」

「ようも助かったもんやね。」

単に感心して園子が言うと、続きがありました。

「父以外は誰も逃げなかったそうです。つまり、父以外は極秘任務で失敗イコール死と覚悟していたようだったのです。」

「一体、何の任務だったのですか。」

由岐枝は、興味を持って聞きました。

「結局、わからないままだったそうなのですが、何かを受け取りに行く任務だったらしいとは話してくれました。わざわざ大学生の父がかり出されたところを見ると、機密保持もあったと思いますが、英語ドイツ語の会話能力を買われてのものだった可能性が大ですから、行く先はドイツだったのではないかと思います。」

ドイツの潜水艦Uボートに日本兵が乗り組んでいたという歴史的な事実もありますから、あり得るなと園子は思いましたが、由岐枝はちんぷんかんぷんでした。

「助かったお父様はどうされたのですか。」

「海を3日間漂流していたところを、味方の駆逐艦に救助されたのですが、本人も何の任務か知りませんし、潜水艦が出撃しているという報告もなかったらしく、最初は学徒動員前に何故大学生の軍人が漂流していたのか救助した方もわからず、戸惑っていたらしいのです。しかし、おめおめと一人だけ生きて帰った非国民だと冷たく扱われ、直ぐに小さな水雷艇に乗せられて出撃することになったのです。」

「そんでも、生き残ったわけ。悪運強かったんやね。」

俊一郎が存在するのですから、当然のことなのですが、園子、ついからかってしまいました。

「いや、次は本当に死んでこいと言われて出撃し、3日で米軍機の攻撃でまた撃沈され、今度はなんと腹部を銃弾が貫通する負傷を負ったのです。」

「そんでも生きてたんやから、ほんまに悪運強かったんや。」

俊一郎も、園子の言うとおりだと思いました。

「それで、その時もたった一人の生存者で、奇縁にもまた同じ駆逐艦に救助され、今度は、国賊と言われながらも名誉の負傷がありましたから、野戦病院で手当てされてから宮崎に送り返されてきたそうです。」

「三度目はなかったんや。」

「ええ。でも、本人はどうせ特攻隊に行かされるんだろうって覚悟していたら、思いがけず終戦を迎えて放免されたんです。」

「当然、約束は反故やね。」

「ええ。もっと悲劇でしたね。実は父、アメリカ生まれで3歳の時に帰国したのですが、日本の戸籍では、その時生まれたことになっていたのです。つまり、3歳若いわけで、戦後学籍確認のために戸籍を調べたら、偽学生の疑いを持たれることになってしまったのです。その問題自体は、外交官だった亡父のつてで何とかなったのですが、結局、大学の学費が払えなくなって、中退を余儀なくされたのです。」

彼の父親については、とにかく嘘つきで変な人だったことしか聞いていなかった園子は、その事情を知ると、同情の余地はあるなと思い直しました。

「可哀想な面もあったんやね。」

「そうですね。でも、嘘をついたのはいけません。中退後、これまた亡父の伝で、某有名商社で堅実に働いていたのですが、母と知り合って大卒だと偽って結婚してから人生狂ったんです。」

「えーっ、どうしたんですか。」

祖父は資産家だったと俊一郎に聞きましたから、逆玉で幸せそうに思えるので、由岐枝は不思議でした。

「父は、秀才タイプでコツコツやるのには向いていたと思うのですが、億万長者の娘と結婚したため、人生狂ってしまったんです。祖父は、今買えば2~3百億になるぐらいの財産、土地を持っていたんです。」

「すっ、凄い。」

すると、園子がからかった。

「でも、今は何にもないのよね。」

「まあ、それでも私は十分な教育をしてもらえましたし、ぼろい家だけ残っていますから、その分恵まれていますよ。」

「で、結局あんたの両親どうなったの。」

「離婚しましたよ。で、親父は行方不明、住所不定無職でしょうね。ホームレスでもやってるんでしょうか。」

「ひどい状況ですね。」

由岐枝には、想像もつかない世界の話でした。

「だから、君のご両親には僕の両親のことをなんと説明してよいのやら、それだけは自分のことではないだけに余計困りもんなんだ。」

「うーん。確かに難問ですね。」

由岐枝が難しい顔をすると、園子はなぐさめました。

「大丈夫よ。」

「そうでしょうか。」

心配そうな由岐枝に、園子はずばりと言いました。

「そうよ。いざとなったら、できちゃった、で済むんやから。」

俊一郎は思わず笑ってしまったのですが、由岐枝は悲鳴をあげました。

「いやー。それだけはやめて。」

「もう、何気にしてんのよ。」

園子は、彼とはやることやったんだから、由岐枝が異常に気にするのが不思議でした。

「やっぱり、表向きは俊一郎さんが言われたようにしておいてください。」

「なあにそれ。」

「二人は、清く正しく結婚を前提に交際している仲なんです。」

「何やのそれ。大嘘つきのコンコンチキやん。」

「そうなんです。二人は清いお付き合いなんです。」

「あんたたちねえ、何も嘘つくことないやないの。」

「斉藤さんは部外者。」

俊一郎がからかうと、園子も負けてはいませんでした。

「あーっ、じゃあばらしちゃうもんね。2日で3回もやって、迫ったのは由岐枝さんの方やって。」

結構大きな声で言ったので、俊一郎は慌てて制しました。

「フランスだからと言って、そんな大声ではずかしいこと言わないでくださいよ。何となく通じるんですから。それに、私が言ったのはほんのジョークなんですから。」

由岐枝は、真っ赤な顔で真剣に頼みました。

「お願いします。私の人生かかってますから。」

園子も少し反省しました。

「わかったわよ。人の恋路の邪魔する趣味はないわよ。」

「つまりはですね、結婚を前提として、まじめな交際を清く正しく美しく続けているわけですよ。」

「あら、随分決断速いのね。」

どうでもいい時の優柔不断との差が余りに大きいので、園子はからかってしまいました。

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