第5話パリ到着、園子と由岐枝コンビと俊一郎の二手に分かれて捜査開始

由岐枝の答えに思わず吹き出しかけた俊一郎でしたが、自分なりに分析してみました。

「そうだね。日本食の味付けと違うからじゃないかな。」

「どこが違いますか。」

「日本食は、ご飯が基準になっているから、おかずはやや味付けが濃い。それに比べれば、薄味で塩辛くないからかな。」

由岐枝は、彼の言うとおりだと思いました。

「そう言われてみるとそうですね。確かに味がしないような気がする。」

「付いてきた塩をかければ別だろうけど、パンだってそれなりの味があるんだし、慣れればおいしいと思うよ。」

「ふーん。」

由岐枝は、感心しながら彼の顔を見つめました。

「何だ。どうかしたかい。」

「いや、あなたみたいな人初めてですから。」

彼にとっては常々言われ慣れている言葉だったのですが、このような場面で言われたのは初めてでした。

「どんな風に。」

「ツアーで海外行くと、お客さまは、両極端なんです。どこ行っても日本食欲しがる人と、洋食かぶれになる人と。」

「と言われると、私は、どちらでもないか。」

「そう思いますね。かと言って、味がわからない訳でも、どうでもいい訳でも無さそうだし。」

「味には、うるさいかも知れない。」

「そんな感じがするのに、おいしいって言うから。」

由岐枝は、彼のことが不思議そうでした。

「私は、そのものの味がするものがおいしいと思うんだ。パンにはパンの味が、肉には肉の味がするものが。だから、ジャムの味しかしないパンや、ソースの味しかしない肉は、おいしいとは思わない。」

「なるほど、よくわかりました。じゃあ、大阪出身ですし、薄味ですね。」

「そうだろうと思う。自分で料理でも何でもするが、薄めの味付けであることは確かだ。味噌汁作ったら、醤油入れられたこともあるし。」

「きゃっ、奥さん大変だ。私、料理は余りできない。」

自分が彼の妻になることを想定しながら話していることに驚きながらも、由岐枝は、不安に感じました。

「それは、大丈夫だろう。」

俊一郎はにこにこしながら言うので、由岐枝は尋ねました。

「何故ですか。」

「私は、人が作ってくれたものは、おいしくいただく主義だから。」

「あっ、ちょっぴり安心。」

「しかし、料理も同じだ。」

「何とですか。」

「字や勉強と同じ。うまくなってやろうと言う気持ちが大切だ。」

「あっ、じゃああなたの字みたいやと、失格ですね。」

「ふむ。私も反省して、きれいな字を書く気にならなくては。」

「えらい。あんたはえらい。ちゃんと反省する。」

「当然では。」

俊一郎は、不思議そうに首を傾げました。

「何故。」

「だって、その方が自分のためになるだろう。」

「あっ、なるほど。でも、それって自分を変えてしまうようで、何となく抵抗があるというか、しゃくなんですよね。」

「そうか。でも、その考えはなくすことだ。」

「そう言われてみると、あなたが教えてくれたコツにありましたね。」

由岐枝、彼が話してくれたコツと共通点があることに気付きました。

「そう。人を妬まないことと同じだ。素直にできないのは、どこかでうまくできる人を妬んでいることが多いからね。」

「ふーん。でも、やっぱり普通やない。」

「要は、考え方次第。」

「そうかも知れないけど、そうは行かないのも人間や。」

「人よりよくなりたければ、頭を使うことだ。」

「そうですね。ごちそうさま、これあげます。」

由岐枝は、俊一郎のトレーに、少し硬めの丸いパンを一つ移しました。

「好き嫌いは良くないな。これもおいしい。」

口調が父親みたいなので、由岐枝はからかいました。

「おや、何だかお父さんみたいになってきましたね。」

「人間、飢えた経験があれば、変わるもんだよ。」

「あり、神坂さんそんな経験したの。」

「いいや、今生の神坂俊一郎は、余りしていない。」

余り、と断ったからには、今生でも全くしていないわけではないのだろうなと思いながら、由岐枝は確かめました。

「じゃあ、前世は。」

「したようだ。だから食物を残すのはもったいない。もってのほかだと思う。」

「ふーん、面白い人ですね。」

「自分のものだけでなく、他人の経験もうまく利用することだよ。それだけだ。神様も、それを望んでいるのだろうと思う。」

「同じミスはしないこと、ですか。」

「そう。」

「でないと、何度もやり直しになるんですね。」

「そんな気がする。君とは、少なくとも三回以上は一緒になっているようだし。」

「私には、わからない。」

由岐枝も、彼とは不思議な縁があることは感じていましたが、そこまではっきりとはわからなかったのです。

「わからない方が、幸せかも知れない。」

俊一郎がそう言うからには、かなり恐ろしい前世だったのだろうと思われました。

しかし、彼と一緒にいると安心するのです。

それも縁かなあと思っていると、もう一人縁のありそうな人のことを思い出しました。

「ところで、斉藤さんのお母さん、大丈夫でしょうか。」

「少し見に行ってくるか。」

「あっ、それは私にお任せ下さい。」

由岐枝、自分が通路側だし、彼に任せっきりは心苦しかったので、申し出ました。

「じゃあ、お願いしよう。」

「はーい。見てきます。」

由岐枝は元気よく席を立って、機の後部の方に歩いて行きました。

しばらくすると、彼女は感心したような顔で帰ってきました。

「その顔だと、少なくとも心配はなさそうだね。」

「ええ。ワインのお代わりまでもらったそうです。」

俊一郎は、言葉の壁をどうしたか、興味を覚えた。

「ふーん、どうやって。」

「料理について来たワインの空になった小びんを出して、『プリーズ』とやったそうです。」

「それはうまい手だ。フランスでもやって見よう。」

「プリーズじゃなくて、シル ヴ プレです。」

「シル ヴ プレ か。」

「そうです。短めに言ってください。」

「オウ アイ シー」

「サバ ブレ」

「シュアー」

「神坂さん、フランス語わかるんですか。」

由岐枝は、フランス語に彼が英語で答えたので、不思議に思って聞いてみた。

「いいや、でも何となくそんな意味かなと思って英語で答えてみた。」

「ふーん。でも考えて見れば、言葉はコミュニケーション手段の一つですものね。」

「そう。同じ人間、なんとかなる。」

「その調子で行きましょう。」

「そうだね。さて、後1時間ぐらいだと思うけど、まだ暗いままだね。」

外は、薄暗いままが続いていました。

「そうなんです。西回りで行くと、夜と一緒に飛んでいるようなものです。でも、半日得した気分にはなりますね。」

「と言うことは、帰りは逆か。」

「そう。半日損した気分。でも、まだ今回は日付変更線をまたがないからいいですよ。」

「太平洋回りだと、本当に混乱しますから。」

「そうなんだ。」

「そうなんです。例えば成田を夕方出ますと、ロサンゼルスには昼頃着くんです。」

「うーむ。当然と言えば当然だが。」

「それが、出発した日と同じ日の昼なんです。」

「何じゃそりゃ。」

「例えば、5月15日の夕方成田を出ますと、当然9時間ぐらいかかりますから、着いたら、日本じゃ16日の朝なんです。」

「当然。」

「それが、向うじゃ15日の昼なんです。」

「うーん、思考停止。イメージ湧かない。」

「あっ、面白い。」

由岐枝には、俊一郎が困っているのが面白かった。

「うーっ、意地でも理解してやる。そのままとんぼ返りすれば更に半日たっているから16日の夜か。ロサンゼルスで言うと、15日の昼出るから15日の夜中だが、日付変更線で1日進む。時間は一つだが、場所によって、日は変わる。よしわかった。」

「あっ、すごーい。すぐ理解した。私なんかしばらくかかったのに。」

「要は、…。」

「やる気ですね。」

「そう。」

「神坂さんの天才的な頭脳の秘訣を、見たような気がしました。」

「何だそりゃ。」

「本気で考えると、顔つき変わりましたから。」

確かに、真面目に考えた時は、顔つきまで引き締まっていたのです。

「いや、まだ甘い。」

「えっ、どう甘いんですか。」

「今のは、単純な理論だから、普通に考えればすぐ解ける。」

「そう…ですか。」

そう言うからには、もっと難しいことまで考えるのかと思うと、由岐枝はそら恐ろしくなってきました。

「しかし、もっと難問の時は、逆にリラックスするんだよ。」

「どんな風に。」

「こんな風に。」

そう言うと、俊一郎は目を半分つぶってぼーっとしたような顔をしました。

「何やら、あほみたいに見えますね。」

由岐枝が笑いながら言うと、俊一郎は思わぬことを告白しました。

「白状すると、私は小学校低学年の時は、ずっとこんなあほみたいな顔をしていた。」

「ひえーっ、信じられない。」

「一年生の時の担任は、超ベテランの女の先生だった。」

「でも、あんたみたら悩むわ。」

思わず正直に言ってしまってしまったと慌てた由岐枝でしたが、彼は気にせずに続けました。

「その通り。先生、最初は、特殊学級の知的障害者の生徒が紛れ込んできたと思ったらしい。」

「でも、勉強はできたんでしょう。」

西都大に苦労しないで入った天才だと言うのですから、勉強はできたはずです。

「そう。正直言って、ばかばかしくてやってらんねえよって感じなぐらい。」

「余計悩むわ。」

「ところが、そこに救世主が現れた。」

「何なのそれ。」

「その女の先生の旦那さんがやはり先生で、超ベテランの校長先生だった。」

「それで。」

「私の話を聞いて、こともなげにこう答えたそうだ。『あっ、そんな子はほっといても東都大か西都大に入るわ。お前は、社会に適合させるようにしてやればいい。』」

「よかったですね。」

「今考えるとよかったが、当時の私にとっては、それが、地獄の日々の始まりだった。」

「えーっ、何それ。」

意外な展開に由岐枝は驚きましたが、彼の過去の話なので是非聞いてみたいと思いました。

「私は、マナーはよく知っていた。しかし、それを実行しなかっただけで。」

「変。」

思わず言ってしまった由岐枝でしたが、何となくもう彼と打ち解けてしまっていて彼も気にしないようでしたから安心していました。

「そう。それで担任の先生、心を鬼にして、翌日から私をしばきまくった。」

「ひえーっ、暴力教師。」

「『お前は、根性曲がっているから、叩き直さにゃあかん。』って。」

「それでどうなったの。」

「先生の判断は正しかった。私は、まずしばかれなくては、言うことを聞かなかったから。でも、元々は従順なというよりも、理論的に説明すれば言うことを聞く子だったから、だんだん普通になった。」

由岐枝、つい言ってしまいました。

「あっ、面白くない。」

「いや、あのままだったら、まともに育たなかったよ。でも思うに、私は、その後ずっと自分を隠してきたような気もする。」

「何を隠していたのですか。」

「当時は、体育以外はオールAダントツのトップだった。」

「以外と言うからには体育は。」

「Bだったが、お情けでもらったようなもので、本当ならCだった。」

それが、由岐枝には不思議でした。

「今見た感じでは、がっしりしていて、スポーツマンタイプですけど。」

「そう。自慢じゃないが、今なら大抵のスポーツで人には負けない。」

俊一郎、普通に走っても100メートル12秒台でしたし、テニス以上にサッカーも得意でしたし、大抵のスポーツはこなせたのです。

「しへーっ、スポーツまでできるの、スーパーマンじゃない。」

由岐枝、彼は勉強では天才であることは感じていましたが、運動でもそうだと聞かされると驚きました。

「それ以上に、本来の私は、格闘技でも天才だと思う。」

「怖いですね。」

由岐枝、頭で考えると怖そうに思えたからついそう言ったものの、彼の側に居れば何が起きても安心できそうでしたから、妙に落ち着きました。

「何を隠していたか、だが、格闘技には、何が必要だと思う。」

聞かれたものの、思いつかないので適当に答えてみた。

「うーん、力かな。」

「いや、一番は闘志、つまりはガッツなんだよ。」

「ふーん、それで。」

「今思えば当時は超越していたから、その闘志を全く見せずに済んでいだ。」

「今は。」

「時々スポーツすると顔を出す程度だね。でもそうなると自分でも動きが変わるし、極端な時は、周りが止まって見えることもある。」

「何だか、超人の世界ですね。」

由岐枝は、有名なホームランバッターが、調子が良い時はボールが止まって見えると言った話を思い出しました。

「それから、君には知っておいてもらいたいのだが、私は、本当に自分に危険が迫った時は自動反撃モードに入るから、下手に助けようと手を出さないように気をつけてくれ。巻き込まれると、怪我するから、そんな時は逃げてくれ。」

そう言っている俊一郎には、一種独特の迫力がありました。

「怖い。やっぱり神坂さん怖い。」

「何事も無ければ、紳士だよ。パリで何もなければいいと思うけど。」

何だか不安になった由岐枝は、思わずとんでもないことを言ってしまいました。

「祈りましょう。」

「あんた、クリスチャン。」

俊一郎は、驚いて聞き返しました。

「ううん、どっちかっちゅうとブッディストでしょうね。」

「では、お経でも唱えてくれ。」

由岐枝は、笑ってしまいました。

「はーい。でも、考えてみれば、それが神坂さんのやる気の元なのかも知れませんね。」

「そう。欲望にもつながっている。」

「と言うと、はっ、きゃっ。」

変な想像して真っ赤になる由岐枝に、俊一郎はからかってたたみかけた。

「やったことないけど、きっと強いぞ。」

やったことないと言うのは、自分だけを見てくれそうですから安心した由岐枝でしたが、暴力の方は不安でした。

「きゃーっ、やっぱり怖い。」

「まあ、その分頼りになると思ってくれ。外見のように紳士のままの方が、私にとっても君にとっても、幸せだろうけど。」

「できれば、私を守ってください。何となく怖いんです。」

由岐枝は、自分の不安を正直に話すことにしました。

「何が、怖いんだい。」

「正直に言います。圭子さんは、恐らくこうなることを知っていたと思います。その上、あなたが来ることも予想していたんです。」

「かも知れないな。私にパスポートを無理やり取らせたのは彼女だ。」

「私に、あなたの話をしたのも、彼女です。」

「それで。」

「変な話なんですが、彼女、成田で私の体を触りまくったんです。その上、『いい体してるのね。おもちゃにしたいぐらい。』って言ったんです。」

俊一郎、圭子は由岐枝のように純情な相手をからかうのは好きでしたから、彼女をおもちゃにしたいと言うのはありそうなことに思えましたが、体に触るところまでやるだろうかと、その点では少し違和感を覚えました。

「圭子、人をからかうのは好きだな。でも、怖くはないだろう。」

「それだけなら、私、この体でいつもお客様にからかわれていますから、それほど不思議なことじゃないんですが、その後、『もし私に何かあったら、あなたが来てくれるのかしら。』って聞いたんです。」

「それで。」

「確かに人手の関係から言って、今この日程で日本に残っていて1週間ぐらい融通が利くのは、私しか居ませんでしたから、「そうなると思いますけど、くれぐれもそのようなことがないように気をつけてください。」って注意したんです。」

これでほぼ故意の失踪は確実だな、と俊一郎は確信しました。

「何やら、穏やかならぬ話やな。」

「その後が、もっと具体的だったんです。」

「と言うと。」

「彼女、『もし私に何かあったら、きっと、母と一緒に変な人が付き添ってくると思うけど、とってもいい人よ。まあ、近づかない方が無難かも知れないけど。』と言ったんです。」

「それが私かな。」

「そうとしか思えません。」

「しかし、その話しは、会社にはしていないんだね。」

俊一郎、由岐枝はきっと会社に話していないと考えました。

「ええ。失踪は故意の線濃厚だから、放っておけになりかねませんし。」

「それは、ありがとう。」

俊一郎に感謝されると、由岐枝は妙な気分でした。

「あなたに感謝されるのも、変ですね。」

「いや、圭子の婚約者としては、感謝せねば。」

言われてみると、名目上は彼は婚約者ですから、由岐枝は、うなずきました。

「そうでしたね。あくまで。あなたは斉藤圭子さんの婚約者です。」

「ところで、圭子の悪行は、それだけかい。」

なんだか、叩けばもっとほこりが出てきそうなので、俊一郎は何となく確かめました。

「そうですね。私も気になったから、その変な人って、どんな関係なんですかって聞いたら、『たった一人のお友達よ。』ですって。で、あなたにあって、神坂さんのことだと確信しました。」

俊一郎は、由岐枝の言葉から、圭子の失踪は、完全に故意だなと、更に確信しました。

圭子は、明らかに私に挑戦してきたのではないか、たった一人の友達であるこの私に。

彼女の境遇をよく知っている身として、俊一郎は、『たった一人のお友達』と圭子が言った気持ちはよくわかったのです。

それだけお互いのことを理解はしていましたし、一度は結婚まで考えた仲だったのですから。

しかし、運命は、二人を結びませんでした。

圭子は、俊一郎の預言通り、彼から離れたのです。

運命を変えようとした彼のプロポーズを、悩みに悩んだ末断って。

ただ、彼もその後このような局面を迎えることは、全く予想していませんでした。

自分の予知では、彼女は、一人でたくましく生きていくはずだったので。

それが何故こんなややこしいことになったのか、しかも、自分だけでなく由岐枝まで巻き込もうとしているのか、疑問は深まりましたが、彼は、本能的な感覚で答えていました。

「宮川さん。私は、あなたとの約束は絶対守るから、パリでは、できるだけ我々の行動には関係しないようにしてくれないか。」

その方が、由岐枝には迷惑をかけずに済むし、ことによると彼女を危ない目に合わせかねないと予想できましたから、それも避けられると考えたのです。

由岐枝は、約束は守ると言われて一瞬はっとした表情を見せましたが、しばらく考えた末にきっぱり断りました。

「折角の申し出ですけど、私には仕事ですから、ご一緒します。もしあなたが心配しているとおりなら、圭子さんの行動は、私に対する挑戦でもあると思います。確かに、あなたの言うとおり、私はこのまま知らん振りを決め込むのが一番安全だとは思いますし、むしろ私があなたの足手まといになることも考えられます。でも、そんな私は、あなたにふさわしい女にはなれないと思います。もしかしたら、圭子さんは、私を試す積もりなのかも知れません。今度は、逃げたくありません。」

由岐枝は、短大の時に付き合っていた彼を、親友と思っていた同級生に寝取られたことを思い出して『今度は』と言ってしまったのです。

当時彼氏だった1年年上の西都芸術大の高村幸太郎とは、いわゆる合コンからのグループ交際で親しくなった仲でした。

お互い口には出していませんでしたが、結婚も意識する仲だったのです。

親友だった都女子短大同級生の白川真由美も、グループ交際で一緒でしたし、彼女も幸太郎に好意を持っていたことは知っていました。

でも、私は、彼が好きで、恋人関係と周囲も認めてくれる仲になっていましたし、彼のことも真由美のことも、信じていたのです。

幸太郎は、眼前の神坂俊一郎にどことなく似た雰囲気を持つ好青年だったのですが、それとなく体を求められた時、何となくこのまま流されていってしまいそうで踏み切れなかったのです。

私は、そのことを真由美に話しました。

体の関係に踏み切るのが怖いと、正直に言ってしまったのです。

すると真由美は、最初は親切心から、幸太郎に真意を確かめたのです。

幸太郎は真由美に、由岐枝を愛している、だからこそ抱きたいと思うと答えたのです。

それに対して真由美は、自分なら、愛する相手だったら、今直ぐ抱かれてもいいと思うけど、由岐枝はまだネンネだから、気長に付き合いなさいとアドバイスしてくれました。

しかし、幸太郎は、真由美と二人だけで会っている時に、真由美が、自分に気があることを見抜いたのです。

真由美も、幸太郎を愛し始めていましたし、体を許してもいいなと思ったことから、幸太郎は、何時までも煮え切らない私よりも、もし体を許してくれるなら、乗替えてもいいと思うようになってしまったのです。

そして、私をネタにしてデートした3回目に、二人は結ばれてしまったのでした。

彼と真由美は、私に正直に話し、頭を下げて謝りました。

私は、愛し合っていると信じていた彼に、そして親友と信じていた真由美に、裏切られたことはショックでした。

でも、修羅場は演じたくありませんでしたから、二人を祝福して、逃げたのです。

そしてその後、私は、どこかで心を閉ざしていたのです。

神坂俊一郎が現れるまで。

今回は、彼が言う『試練』なんだろうと思いました。

だからこそ、逃げたくない。

心から、そう思ったのです。

「そうか。でも、できるだけ私の側にいることだ。そして無理しないでくれ。」

俊一郎は、彼女の『今度は』の意味に感付いていました。

「それは守ります。でも、これは私の試練です。あなたにも言われたけど、逃げたら何度もやり直しをさせられそうな気がして、圭子さんに笑われそうな気もして、それで、帰りの飛行機で、胸を張って、約束通りにあなたに告白したいから。」

俊一郎は、由岐枝が思ったよりもずっとしっかりしていることを頼もしく思いました。

「わかった。でも、このことは、斉藤さんには内緒にしておいてくれ。」

当然園子には話せませんから、由岐枝は了承しました。

「はい。わかりました。」

しかし、俊一郎は、むしろ由岐枝の方が心配だったのです。

「そして、約束を守るように、絶対に希望を失わないでくれ。」

「はーい。私、あなたと一緒に両親と会って、祝福されて結婚するのが夢です。」

二人の話がまとまったところでアナウンスが入り、機は着陸体勢に入ったのですが、園子は着陸するまで戻って来ませんでしたから、結局二人の新婚旅行のような旅になりました。

まあ、人が見れば普通のカップルとは大分違うように見えたに違いないと思いましたが。


呆気ないほどスムーズに着陸した機は、シャルル・ド・ゴール2のターミナルに着きました。

その時になって、ようやく園子が帰ってきて、呑気なことを言いました。

「お早う。元気だった。ぐっすり眠れたわ。」


入国審査は、由岐枝のアドバイスの『サイトシーイング10デイズ』さえ答えず、パスポート検閲だけで済んでしまったのですが、園子と由岐枝のトランクが出てくるまで、40分以上かかりました。

この辺は、国内の空港の方が、迅速で親切だと、由岐枝は話してくれました。

しかし、税関も申告なしのフリーパスで済みました。


そうしてようやく空港の外に出ることができたのは良かったのですが、何せ時間は6時、サマータイムのためもあって日本の感覚では5時で、まだ暗くて閑散としているターミナルを出てタクシーを捜すと、小型のベンツが1台止まっていましたから、由岐枝が交渉してそれに乗ることにしました。

シャルル・ド・ゴール空港は、パリからかなり離れているようでしたが、高速と思われる片側4車線の道路を凄いスピードで飛ばして行くと20分足らずで市内に着いてしまいました。

料金は、由岐枝と押し問答がありましたが、俊一郎が払いました。

フランのため余りぴんと来なかったのですが、結構な距離走って割増料金含め120フラン少しでしたから、日本円では6千円少々の勘定となり、日本よりずっと安いことは確かでした。

面白いと思ったのはトランク等の荷物ごとに割増料金を取ることで、フランス語は読めないながらも窓にその表示があったのを見ていたため、俊一郎にも理解できました。


3人が宿泊するホテルは、何と「オテル・ボナパルト」という、ナポレオンにちなんだと思われるふざけた名だったのですが、市街地の中で、小さなホテルだったため周囲の建物と一体的になっており、入口はわかったものの、どこまでがホテルなのか判然としない構造でした。

感じとしては、京都市街のうなぎの寝床風であり、入口から細い通路を入っていくとフロントがあり、旅行社から連絡があったと見えて、30歳前後の茶色の髪のフランス人と思しきレセプショニストがにこやかに出迎えてくれました。

ただ、小さいホテルのためかボーイもいませんでした。

俊一郎と由岐枝が手分けして3人分英文で住所氏名を書き、チェックインしました。

そして、ルームナンバーを聞いてキーを受け取っただけで後は自分たちで荷物を運んで部屋に行く方式で、日本のビジネスホテル並みでシンプルでした。

俊一郎は3階、他の2人は2階だったのですが、笑ってしまったのはエレベーターで、日本では見たことがないほど小さく、2階の二人のトランクを積んだら人は乗れない程で、レセプショニストがアクロバチックなかっこうで乗っていって2階で降ろしてくれたので、後は部屋まで各自で運ぶ方法を取りました。

朝食はどうすると聞かれたので、時間の関係もあるため、少し休憩したら通常の朝食の時刻に朝食も食べて、それから早速調査に取りかかることにしました。


俊一郎は、自分の預言もあって何となく不安でしたから、園子と由岐枝の部屋にも入って中を確かめました。

園子にあてがわれた部屋が、失踪前に圭子が使っていた部屋で、荷物がそのままになっているとのことでしたが、感心したのは外観と廊下の古さの割には、室内は日本のビジネスホテルと違って決して狭くはなく、ベッドもバスも十分大きく、その上に部屋毎に洒落た絵がかかっていたことでした。

2時間後の8時半頃食堂集合で各自部屋に入って休憩することにして別れ、部屋に入ると、俊一郎の部屋の絵が一番大きく、ベッドの横にかかっていました。

黒い猫を抱いた若い女性の絵だったのですが、髪は黒いし日本人的なせいか誰かに似ているなと思っていると、何と圭子に似ているのでした。

ベッドに寝ころんでいると、何だか絵の圭子に見張られているような気がしました。

ふと気づくと誰かが廊下にいるようなのでドアーを開けてみると、廊下の曲がり角に、東洋人らしいルームメイドの女性が立っていました。

突然ドアーが開いたからか、彼女は驚いて走って行ってしまったのですが、この時は、彼女が自分の部屋の外に居たのは単なる偶然で、気にしすぎかと、俊一郎は大して気に止めませんでした。

さて、シャワーでも浴びるかと思ったところで、カルチャーギャップと言うか、日本と違ってバスルームでもバスタブのまわりはじゅうたんで、しかもシャワーカーテンさえ付いていなかったのです。

さて、どうしたものかと、博識な俊一郎も一瞬考えました。

実は、この時3人とも全く同じことをしようと、つまりシャワーを浴びようとしていましたから、園子もありゃ、どないしようと思ったのですが、考えるよりも先に隣室の由岐枝に電話していました。

由岐枝は、裸になった瞬間に電話のベルがなったため、一瞬心臓が止まるかと思いましたが、出てみると園子だったので、ほっとしました。

聞くとシャワーの使い方だったのですが、バスタブの外にはお湯をこぼさないようにと注意し、簡単に説明したものの、自分もバスルームに入って見ると、何と絨毯の上に大きなバスタブがドンと乗っかっているだけの構造ですから、確かに日本人には入りにくい風呂で大変だなあと思いました。

園子は、結局外にこぼさないように注意するしかない、との由岐枝のアドバイスには半ば感心し、半ば呆れましたが、自分なりに工夫して、まず少しだけお湯を入れて水遊びのように体を洗ってから座り込んで控えめに全身にシャワーを浴びるだけにしました。

由岐枝は、いくらか慣れていますから、欧米式に半分ぐらいまでお湯を溜めてから中でごしごしやっていましたが、俊一郎はどうしたかなとの疑問が浮かびました。

まあ、博識な彼のことですから、フランス風にやるか、でなくとも何とかするに違いないと安心しており、後で確かめてみることにしました。

由岐枝は、洗った後のお湯を捨てた後、少なめにお湯をはって、浸ってゆったりした気分になると、今日はどんな日になるだろうと半ば心配し、俊一郎と冒険できるような気もして半ば期待している自分に気付きました。

今でも信じられないのですが、俊一郎が結婚前提の交際を受け入れてくれたし、園子も応援してくれたことは、凄く嬉しかったのですが、圭子が失踪した結果であることを思うと、奇妙な気分でした。


さて、俊一郎はと言うと、数秒間考えた末に園子と同じ方法を取りました。

日本人ですから、考えることは似たものだったのです。

それからパジャマ代わりに持ってきたTシャツ1枚でベッドに寝ころがって室内を見回すと、部屋自体は古い割にはきれいなのですが、置いてある家具、特にタンスが異様に古いことに気付きました。

しかし、開閉がちょっとひっかかるぐらいで支障は無いから、日本と違って古いものでも使えるものは大切にするのかな、と納得しました。

十分な広さの上にテーブルと椅子もありましたし、ベッドも日本ならダブルサイズでしたし、洗面所兼バスルームにはドライヤーも付いていましたし、設備としては十分なものでした。

最初はぎょっとした絵もしばらく見ているとなかなか味があり気に入りましたし、中庭に向かっている窓を開けてみると、窓枠の外には植木鉢に花が植えられており、中庭自体が京都の坪庭的なものよりもずっと広く、花に彩られていていい雰囲気でした。

1時間半どうやって過ごすかな、と考えた彼は、フロントでもらった無料の地図を広げてパリ市内の位置関係を確かめてみました。

パリの中でも、サンジェルマン・デ・プレ寺院のすぐ側のこのあたりは中心に近く、ルーブルも、ノートルダムも大して遠くないので、歩いて観光して回るのにも便利なことがわかりました。

大体の位置関係が頭に入ったところで、次は日常仏会話の方にとりかかりました。

挨拶の「ボン ジュール」は日本でもなじみがありましたが、由岐枝に教わった「シル ヴ プレ」はなじみがありませんでした。

ただ、比べてみている内に「エクスキュゼ モア」は、「エクスキューズ ミー」だし、ドイツ語よりもむしろ英語に近いことを発見しました。

それでもつまらなくなったので、今朝まで着ていた服を洗濯し、足ふきマットにくるんで踏んで水を切ってからバスルームに干し、着替えて外に出てみました。


人通りは早朝で少なかったのですが、ふと見ると通りの向かいがパン屋兼ケーキ屋でしたから、早速本場のクロワッサンに挑戦して見ようと中に入ってみました。

実はこの店、後年世界一とも言われることになる有名なパティスリーが開店したばかりのお店だったのですが、当然ながら彼はそんなことは全く知りませんでした。

他の客がどうするのか見ていましたが、客も店員もあまりしゃべらないし、しゃべっている言葉もフランス語でよくわからないし、会話集を見るのも面倒なので、クロワッサンを指して指で3つと示して「シル ブ プレ」と言ったら、それだけで何とか通じました。

適当にお札を出して、お釣りをもらって、「メルシ」と言って外に出ました。


地図によるとサン・シュルピス寺院の方が近かったので行ってみますと、ほんの数十メートルぐらいで広場に出たのでよく見るとそこでした。

サン・シュルピス寺院は二つの塔がつながったような外観で、広場にベンチがあったのでそこに座ってみました。

街路樹は、日本人的感覚では、みなトチノキでしたが、フランスだからマロニエと言うべきなのかなあ、なんて考えながら、焼き立てなのかまだあたたかいクロワッサンをかじってみました。

ところが、味が余りなく、思ったほどはおいしくなかったので失望しました。

これなら、大学の前の有名な喫茶店兼パン屋のパンの方がおいしいのではないかなと思いましたから、残りの二つは持って帰って試しに園子と由岐枝の二人に食べさせてあげることにしました。

しかし、中世風の寺院のたたずまいには感動したので、久々に絵を書きたくなり、持っていた小さなノートにシャープペンで書いてみたのですが、小学生の時以来でしたから、お世辞にもうまいとは言えない代物になったので苦笑しました。


周囲を見回すと、犬を散歩させている人の姿が見えましたが、小便はともかく、道路に平気で大までさせて片付けもしないで知らん振りなのには驚きました。

パリの香りは香水の香りと聞いた覚えがありましたが、空港では何の香りも感じませんでしたし、今こうして座っていると犬の糞尿の悪臭しか匂わなかったのです。

また、公園の隅の方には、ホームレスらしい人もごろごろしていました。

30分ぐらい座っていると、通りに何故か水が流れだし、清掃人夫が申し訳程度に掃除して行きました。

時間はまだありましたがホテルに戻ると、フロントの奥の小部屋が食堂になっており、既に二組の客が食事をしていました。

まだ二人は来ていなかったので別にあったソファーに腰を下ろしていると、レセプショニストが食事にしますか、と英語で話しかけてきました。

「ノー センキュウ ナウ。 アイル テイク ブレックファスト ウィズ マイ コリーグ レイター。」

と答えると、二組の客が一瞬彼の方を注目しましたが、彼の見たところでは、一組はアメリカ人夫婦で、もう一組は日本人の女学生二人組のようでした。

しばらく座ってフランス語の雑誌をながめていると、日本人とおぼしき二人組が食事を終えて部屋に戻るので、英語で話しかけてみた。

「エクスキューズ ミー。 アー ユー ジャパニーズ。」

二人とも一瞬びっくりしていましたが、背が高く髪の長い方の女性が答えた。

「イエス ウイ アー ジャパニーズ。」

恐らく圭子のツアーの仲間だろうと思われたので、日本語に切り換えて話しかけた。

「ああ、良かった。もしかしたらジャパン旅行社のツアーの方ですか。」

二人とも彼が日本人とわかってほっとした顔をしていましたが、背が低くて短髪の彼女も気安く話しかけて来ました。

「あら、日本人だったんですか。英語でさっと答えたから、一瞬中国人かと思いました。確か、昨日まではいらっしゃらなかったですよね。」

「ええ、今朝着いたばかりなんです。」

「あっ、じゃあ斉藤さんの関係の方ですか。」

背の高い方が聞いてきたので、一応建前上の答えを返しました。

「ええ。私、斉藤圭子の婚約者の神坂俊一郎と申します。」

二人とも意外そうな顔をしたので、俊一郎は圭子がどう捉えられていたのか、確かめてみないといけないなと思いました。

「えーっ、彼女に貴方みたいな人がいたなんて知りませんでした。私、田中友子と言います。」

背の高い方が自己紹介すると、低い方の女性も続けました。

「あっ、私は、糸島広子と言います。」

ちょっと心地悪そうな雰囲気でしたが、仕方が無いので少しだけ話を聞くことにしました。

「あっ、よろしかったらソファーに座って少しだけお話を聞かせていただけませんか。」

「いいですよ。出発までは、随分時間がありますから。」

友子が応じると、広子もうなずきました。

「お二人とも、圭子とは一緒に行動されたことがありましたか。」

「ええ。初日はルーヴルだったので、8人ぐらいで一緒に行ったんです。で、2日目はオペラ座界隈にショッピングに出掛けて、3日目が自由で別々だったんですけど、その朝だから、おとといの朝ここで一緒に食事した後、行方がわからないんです。そうよね。」

「うん。そうだったわ。別に不審な感じはしなかったんですけど。」

友子が説明してくれた後、広子が付け加えました。

「ありがとう。ではきっとツアーの他の人達も、同じでしょうね。」

「きっとそうでしょうね。私たちは同じホテルだったから一番一緒にいたと思うんですよ。」

今度は、広子が答えました。

「他の人と一緒に行動してはいませんでしたか。」

「そうね。それはないと思います。でも、時々電話してたみたい、彼女。」

友子が思い出して答えてくれたのですが、俊一郎は、電話にひっかかりました。

園子から、パリの圭子から電話がきたとは一言も聞いていませんから、電話の相手は園子ではなかったことになります。

「そうそう。『あっ、彼氏にだ。』ってからかったら、ふくれっ面で『そんな人いたら一人でパリに来ると思って。』って言い返したから、まさか貴方みたいな人がいるとは思わなかったんです。」

広子の答えで、彼女らが意外そうな顔をした理由がわかりましたが、苦しい言い訳をしました。

「私、つい3日前まで会社の新人研修で留守にしていましたから、彼女と連絡を取り合えなかったんですよ。他のホテルの人は、どうでしょうか。」

「うーん、別のホテルの島村さんと木原さんとも一緒でしたけど、斉藤さんって、意外に無愛想で孤独な感じだったし、余り他の人と一緒に行動しなかったんです。でも、いなくなる素振りもなかったし、あっそうだ。ベトナム人のルームメイドの子とは、親しそうにしていました。でも、ほんと信じられないって感じですよ、いなくなったのは。」

友子が言うと、広子もうんうんとうなずきました。

「すみませんでした。一応皆さんに聞いて見て捜してみます。私としても、どうも失踪するような心当たりはないので。」

「私たちも気をつけて見る積もりですが、当初の予定が変わって、パリには後3日の滞在で、今日はシャンティーに行ってこようかと思っているんですよ。」

広子に言われて、俊一郎は考えました。

「圭子の母が一緒に来ていますから、よろしかったらご一緒させていただくかも知れません。」

「結構ですよ。でも、旅行社の人は。」

「宮川さんという女性が一緒です。」

俊一郎が答えると、友子があっと声を出して言いました。

「あのスタイルのいい子だ。斉藤さん、その子のこと、散々からかったんですよ。」

「そのようですね。来る時に飛行機の中で聞きましたよ。」

「本当、妬いてるみたいで、おかしかったんですよ。」

「そうそう。もうからかうのやめなさいって止めたぐらい。」

広子も付け加えましたが、その時ふと見上げると、その当人が食堂に入ってきました。

「噂をすれば影ですね。その彼女が現れましたよ。」

彼が言うと、二人は顔を見合わせて笑っていました。

わけのわからない由岐枝は、きょとんとしながら挨拶しました。

「おはようございます。あっ、ツアーの方ですね。今回はありがとうございます。」

俊一郎は、由岐枝に説明しました。

「今少しお話を聞いていたんです。」

「神坂さんは、お休みにはならなかったのですね。」

「はい。つまらなくなって外出してきました。あっ、そうだ。食後で申し訳ないが、これをどうぞ。」

俊一郎は、二人に先刻のクロワッサンを渡しました。

「あっ、クロワッサンだ。まだあったかい。どこで買ったんですか。」

友子が袋を覗きこんで聞いたので、俊一郎は、正直に答えました。

「向かいのパン屋さん、いや、お菓子屋さんかな。」

すると、広子がうらやましそうに言った。

「あっ、あそこ新進気鋭のパティスリーなんですって。いいですねえ、言葉話せる人は。」

俊一郎、全く知らずに入って買ったわけで、説明しました。

「そうだったんですか。いや、全く知らずにそこにあったから入ったのですが。それに私、フランス語は全く話せませんよ。」

すると友子が聞きました。

「じゃあ、どうやって買ったんですか。」

「そのものを指でさして、個数もこう指で示して、プリーズじゃない、シル ヴ プレで通じましたよ。で適当にお金を出して、受け取ったら メルシー それだけで何とかなりますよ。」

「わあ、それはいいこと聞きました。私たちもやってみます。」

友子が喜んで言うと、広子が続けた。

「じゃあ、私たち失礼します。9時半に出る積もりですから、シャンティー組はどうぞ。一緒に行きましょう。」

「じゃあ、誰が行くかわかりませんが、その時はよろしくお願いします。」

俊一郎が答えましたが、由岐枝は、何がどうなっているのかわからないのでポカンとして聞いていました。

「いろいろ聞いたけど、失踪するような心当たりはないようでした。それで、今日はシャンティーに行くって言うから、誰か一緒に行くかも知れないからと頼んだんですよ。」

ようやく事情が飲み込めた由岐枝は、早速動いている俊一郎に感心しました。

「朝から散歩して早速事情を聞くなんて、感心しました。」

「地図とにらめっこして、ここはとても便利な場所で、近くにサン・シュルピス寺院もサンジェルマン・デ・プレ寺院もあることがわかったので、サン・シュルピスまで散歩に行ってきたんです。」

「クロワッサン買ってですか。」

「そう。本当は、斉藤さんと君にと思ったのだが、思いがけず出会って話を聞けたから彼女等にあげました。あっ、あの二人は、田中友子さんと糸島広子さんでした。」

「そうだったんですか。でもいいなあ、有名なお店のクロワッサン、私も食べたかったなあ。」

ふざけてからんでみると、俊一郎は小さな声でそっと言いました。

「実は、一つ食べてみたんだけど、余りおいしくなかったんですよ。」

それを聞いて、由岐枝は無邪気に笑いました。

レセプショニストがまたやってきて、朝食はと聞くので、俊一郎は英語で尋ねました。

「キャナイ フォン トゥ ミシズ サイトウ。」

「オウ イエース。 ユーズ テリフォン オーバー ゼア。」

「センキュー。」

呆気に取られて見ている由岐枝を尻目に部屋の番号を回すと、しばらくして出たので俊一郎は、ふざけて、覚え立てのフランス語で呼びかけてみた。

「アロ ムシュー カミサカ ア ラパレイユ。」

すると、園子の答えが最高だった。

「オー、私フランス語わっかりませーん。」

大笑いしてそれ以上話せない俊一郎に気づいた園子は、慌てて言いなおした。

「あらっ何だ。神坂さんだったの。」

俊一郎は笑いつづけていたので、代わりに由岐枝が出て、都合を聞いた。

「よろしかったら朝食はいかがですか。私たち今1階にいますから。」

「あら、そう。じゃあ、行くわ。見せたいものもあるし。」

「はーい。じゃあ待ってます。あっ、コーヒーか紅茶かどちらがいいですか。」

「あっ、私コーヒーいただくわ。」

「じゃあ、注文しときます。」

「お願いするわ、直ぐ行くから。」

「はーい。」

由岐枝が見ると、俊一郎はまだお腹を押さえて笑っていたのだ、不審に思って聞いた。

「神坂さん、何があったんですか。」

俊一郎が園子の言葉を話して聞かせると、今度は由岐枝が大きな声で笑いだしました。

レセプショニストが笑顔でやってきたので、俊一郎は、由岐枝に聞きました。

「カフェー オア ティー。」

由岐枝はまだ笑いながら答えました。

「私はティー、斉藤さんはカフェー。」

「ワン ティー アンド トゥー カフェー プリーズ」

一郎が注文すると、直ぐ園子が降りてきました。

見ると由岐枝が笑いすぎて涙目になっていましたから、園子は俊一郎をなじりました。

「神坂君、由岐枝さん泣かして、何してんのよ。」

俊一郎は、ぶすっとして答えました。

「泣かしたのはあなたです。」

「どうして。」

「笑わして。」

「あら、そんなにおかしかったかしら。」

「いや、本当に変な外人でしたよ。」

「私、なんて言ったっけ。」

俊一郎がそっくり真似て言うと、今度は、園子本人が笑いだしました。

「あら、そんなこと言ったの私。」

俊一郎は、本来深刻であるべき雰囲気が吹っ飛んで、本当にこれでいいんだろうかと不安になりましたが、直ぐに食事が出てきたので3人そろって食べました。

フランスはコンチネンタルブレックファストで、パンとゆで玉子とジュースにコーヒーか紅茶で、簡素なものでしたが、量は少なくなかったので丁度よいぐらいだったのです。

「フランスの朝食は質素だって言いますが、十分ですね。」

俊一郎が言うと、園子も同意しました。

「下手すると、日本の朝食の方がひどいんやない。パン1枚と牛乳1杯とか。」

「そうですね、私も反省します。ところで、見せたいものって何ですか。」

先程の言葉が気になっていたので由岐枝が聞くと、園子は二人に小さな手帳を見せた。

それには暗号のようにひらがなが並んでいて、どちらからどう読むのかわからなかった。

「からかにのにかにからかにもにかにみにとににかにもにかにのちかにもにみにもらすちからみにとなかにもにかにみにのなすちのにかにみにみにみらすちのちすちのにかにかにとなみち」とあり、少し下に「CHANTILY」と書かれていた。

その手帳の文面を見せて、園子は二人に聞きました。

「どう思う。」

俊一郎は、しばらく見つめていたが無難な答えを返した。

「暗号でしょうね。」

由岐枝は、少し違う答えでした。

「この文字配列、何かひっかかりますね。何かしら。」

「ところで、この下にある『チャンティリー』って何です。」

俊一郎、フランス語表記は読めなかったので、由岐枝に聞きました。

「あっ、それシャンティーですよ。今日あの二人が行くって言ってた。」

「あっ、そうか。」

話が見えないので、園子が聞きました。

「なあに、あの二人って。」

「あっ、先程ここで同じツアーの女の子二人と会ったんで、お話を聞いたんです。」

「おやおや、もう調査始めたの。それで何か。」

「いいえ、残念ながら大して何もわかりませんでした。ところで斉藤さん、圭子さんから電話ありましたか。」

「いや、全然。」

「そうですか、まず食べましょう。」

由岐枝、電話のことをわざわざ聞いたからには、何か意味があるんだろうなと思いましたが、俊一郎がそれ以上触れなかったため、自分も黙っていることにしました。

俊一郎は、それ以上何も言わず、食べる方に精を出しました。

コーヒーを注文すると、カフェオレにするためか、同じぐらいの量の温かい牛乳が付いてきたので混ぜて飲んでみましたが、なかなか美味でした。

しばらく沈黙が続いた後、由岐枝が遠慮勝ちに言いました。

「このメモ、もしかしたらパソコンのキーボード配列と関係あるんじゃないですか。」

言われてみると、俊一郎もそんな気がしました。

「パリ事務所に、日本語のパソコンあるよね。」

「当然ありますよ。」

「じゃあ、キーボード配列をコピーして持ってきてもらって下さい。」

「はい。」

由岐枝は俊一郎に言われて直ぐに立って行こうとするので、彼は慌てて引き止めました。

「あっ、食事の後でいいよ。」

「私もう食べ終わりましたから、大丈夫ですよ。」

確かに食べた後で、園子も食べおわっていました。

「おや、私だけだったのか。皆さんお速い。」

「あんたが遅いんとちゃう。」

「食べ物もゆっくり味わって食べんと、お百姓さんに悪いで。」

彼の言い方に二人とも笑っていましたが、由岐枝は、娘と友人がいなくなったと言うのに、妙に軽いこの二人にはやっぱり奇妙な感じがしました。

「じゃあ、シャンティーの言葉が出たので、宮川さんと斉藤さんは、田中さんと糸島さんの二人と一緒に、シャンティーに行ってくれませんか。」

俊一郎は、考えた末に二人と一人に分かれることを選んだのでした。

「神坂さんは。」

「フランス事務所の人から話を聞いて、他のツアーの人達にも会って来ます。」

由岐枝は、俊一郎が自分から離れるなと言ったこともあって不安でしたが、二手に分かれるとなるとその組み合わせが合理的ですから、その通りにすることにしました。

「ところで、シャンティーって何があるんですか。」

俊一郎は、自分で言ったものの、全く知りませんでしたから、由岐枝に聞きました。

「私も行ったことないんですが、競馬場が有名で、シャンティー城もフランス一綺麗と言われています。」

「競馬は、やっているのでしょうか。」

「わかりません。」

「とにかく気をつけて行ってきて下さい。」

「はい。」

「ところで、変な話しですが、斉藤さん旧姓は何て言いましたっけ。」

「えっ、何か関係あるの。」

「いえまあ、海外の場合、誘拐は、圧倒的に別れた父親が多いんですよ。まあ、関係ないと思いますけど。」

「そうね。柚原、は結婚前の私の姓だった。えーっと、熊谷だわ。でも、確か風の便りに聞いたところによると、前の主人、つまり圭子の実の父は死んだらしいの。」

「じゃあ、違いますね。どうも失礼しました。」

由岐枝は、二人のやりとりを見ていましたが、俊一郎が全く表情を変えないのが不気味でした。

そのことは逆に、彼は、今の質問を決して無駄にしたわけではないことを示していることも何となくわかりました。


由岐枝がパリ事務所に電話すると、担当の加藤錠司と言う嘱託社員が、別の旅行者のツアーの日程や名簿とキーボード配列のコピーを持って9時に来てくれることになりました。

別のツアーは、今日はパリに居てオルセー美術館を見学する予定だとのことでした。

部屋に戻ると、彼が脱ぎ散らかした服がきれいに畳まれており、例の圭子が親しそうにしていたと言うベトナム人のルームメードが掃除をしていました。

彼を見るとちょっと恥ずかしそうにしたが、『メルシー』と声をかけて今朝のクロワッサンで手に入れたばかりのコインで2フラン渡すと、非常に喜んで、『メルシー ボー クー』を連発して何度もお辞儀をしました。

しかし、俊一郎は、彼女が部屋を出る時に何か言いたそうな顔をしたのが気になりました。


一人になってトイレに入って、もう一度彼は自問自答しました。由岐枝を園子とともにシャンティーにやっていいのか。自分が行くべきではないのか。

しかし、合理的に考えれば二手に分かれる場合は、フランス語のできない二人は別々にするべきですし、まして先程話を聞いた二人も、フランス語は全く駄目なようでしたから、やはり由岐枝を園子と二人で行かせるべきとの結論を、変えるには至りませんでした。


9時少し前に用意をして階下に降りると、園子が、レセプショニストと身振り手振りで何か話し合っていました。

見ていると、どうやら日本で言う1階はグランドフロアー、2階が1階になると言ってるように思われました。

そして園子は、大阪のおばんらしく、人なつっこくて図々しい面をうまく生かしているようでした。

「ああ、面白かった。」

言いながら彼のところに来たので、聞いてみました。

「1階と2階の表示に違いの講義を受けていたようですね。」

「そう。ようわかったわね。1Fが2階だから、私たちの部屋は1Fなんだって。」

「考えてみると、1階は地面だと考えるとフロアーのあるのは2階からってことなんでしょうね。」

「なるほろ、それ言えてるわ。」

直ぐ由岐枝も現れ、友子と広子も続いて現れたので、彼は、二人に頼みました。

「通訳付きのおばんをよろしく。」

本人も含め大笑いになったところに、どうやらパリ事務所の職員らしい青年が現れました。

背が低くおとなしそうな感じでしたが、由岐枝が、俊一郎に紹介しました。

「ジャパン旅行社パリ事務所の、加藤譲司さんです。」

俊一郎は、園子を彼に紹介したあと、自己紹介しましたが、譲司は園子の前では恐縮していましたが、俊一郎が圭子の婚約者と聞くと、友子や広子と同じように意外そうな顔をしたのが気になりました。

とその時、例のベトナム人のルームメードが食堂の片付けをしているのが見えたので、由岐枝に頼んで、何か知らないか聞いてもらった。

二人はしばらくやりとりしていましたが、由岐枝が彼のことを話したらしく、彼の方を見て、彼女も意外そうな顔をした後、お辞儀をしました。

由岐枝は、戻ってくると面白いことを話してくれました。

「圭子さんとは何回か話したそうですが、あの子も、あなたのことは意外だったようです。他の二人から聞いたように、何度か電話をしていたから、誰か知り合いがいたのではないかと言っていました。あっ、名前はユンだそうです。」

「じゃあ、メンバーはそろったようなので二手に分かれましょう。くれぐれも気をつけて行ってきてください。」

彼が言うと、由岐枝は、寂しそうに小さく手を振りました。

4人が出発して譲司と二人になると、俊一郎は最初に謝りました。

「どうも、圭子が御面倒をおかけして、申し訳ありませんでした。」

譲司は、思わぬ先制攻撃にあった感じで一瞬顔を強張らせましたが、むしろ安心したようでした。

「いやあ、あなたは話がわかりそうだから安心しました。正直にお話ししましょう。」

「そうして下さい。私は、感情的にはならない積もりですから。」

彼は、まず何枚かの紙を差し出した。

「まず、ご依頼のものをお渡しします。まず他社のツアーの名簿と日程ですが、名簿につきましては、私が個人的な関係で手に入れたものですから、他人にはお見せにならないようにお願いします。それからパソコンのキーボードのコピーですが、何か暗号でもありましたか。」

「まあ、そんなものです。ところで、時間的にどうですか。」

「あっ、そうですね。オルセーまで、歩きながらお話しましょう。」

二人は、外に出るとホテルの前の通りを朝とは反対方向に進みました。

「この通り、リュ・ボナパルトって言うんですよ。日本語に訳せばボナパルト通りです。」

譲司が教えてくれたので、俊一郎は笑いました。

「それで、ホテル・ボナパルトだったのですね。ナポレオンですかね。」

「私も、本当にそうなのかは知らないんですが、きっとそうでしょう。パリの通り名は、偉人の名を付けたものも多いですから。」

「ところで、警察には届けたのですか。」

俊一郎は、気になっていたことを聞いてみた。

「一応は、と言うところでしょうね。正直言いまして旅行保険請求のための証明にしかならないと思って下さい。」

譲司は、俊一郎がどんな反応を示すか心配だったようでしたが、彼が冷静に受け止めてくれているようなので、安心していました。

「私も、そんなものだろうとは思っていましたので、気にしないでください。」

「そう言っていただくと私も気が楽です。しかし、正直なお話をしますと、私は、あなたのような人が来られたのが、意外でした。」

確かにそんな感じに見えたので、理由を聞いてみました。

「何故ですか。」

「斉藤圭子さんでしたね。」

「はい。」

「彼女のことは、不思議に私も記憶にあるのですが、何故か非常に孤独な感じを受けました。まあ、ツアーの人たちとは結構わいわいやっていたようなのですが。」

俊一郎は、譲司がなかなかよく見ていることに感心しました。

「あなたの目は確かですね。確かに圭子は、一見明るいんですが、親しい友達はいなかったんですよ。あっ、いなかったと言うといけませんかね。まあ、私が一番の友人だと思ってください。」

「ですから、あなたのような人がいることが、信じられませんでした。」

そう言いながら、譲司は彼の顔を横目で見ました。

「まあ、私表向きは婚約者ですが、正直なことを申しますと肉体関係はありません。ですから、むしろ兄か父のような関係でした。」

譲司は、その答えで納得したようでした。

「フランスじゃ信じられないような話ですね。ほら、あそこを見てください。」

錠司に言われて見ると、高校生ではないかと思われる若いカップルが、人目もはばからず地下鉄の駅の入口で、長々とキスをしていたのです。

「ところで、あなたは、圭子の失踪をどう思われますか。」

譲司は、単刀直入に聞かれて驚いていました。

「いやあ、あなたは聞きにくいことをずばりと聞く人だ。では、正直に言いましょう。」

「そうして下さい。そのために、今のような聞き方をしたんですよ。」

俊一郎はいたずらっぽく笑いながら言うと、譲司は半ば呆れて答えました。

「怖い人だ。正直に言うと、私は故意に、つまり自分から失踪したんだと思っています。パリでは、よくある話なんです。中には北アフリカに売られていたケースもありましたが、大抵は、どこかで不法滞在者になって生きてますよ。」

譲司は、少し腹立たしげでしたが、俊一郎も同意しました。

「私も正直なところそんな気がします。圭子は家庭におさまるタイプじゃないし、一人で気ままに暮らしてみたいって感じでしたから。ただ一つ、気になることがあるんですよ。」

「何ですか。」

「共犯者がいそうだってことです。」

俊一郎は、一人ではないとほぼ確信していた。

「それは珍しいですね。普通の失踪者は、パリに来てこの東京をもっとひどくしたような相互不干渉的自由にふらふらっときて失踪するんです。特に家庭に問題があったり、世間のしがらみから逃れたくなったりしてですね。」

俊一郎は、直観的に言った。

「もしかして、貴方もそうですか。」

譲司は、はっとした後笑いながら答えた。

「いやあ、あなたは本当に怖い人だ。圭子さんが失踪する原因かも知れませんね。」

「あっそうか。それは、考えていませんでしたね。」

言われて、思わず俊一郎も笑ってしまいました。

「まあ、そんなところです。しかし、私の勘では深追いはしないほうがいいですね。特に共犯者がいるとなると不気味ですからね。」

「そうですか。まあ、私もそんな気はしているんです。ただ、お母さんの手前もありますから。」

譲司は、彼を怖がらせるようにパリの裏の実態を話しました。

「パリにはいろいろな人がいるんです。その気になれば、ワイン1本で人殺しだって雇えるんです。だから、私としては、下手に触れない。危険を感じたらとにかく逃げることをおすすめします。幸い、あなたにはすきが無い。それにその気になれば結構けんかも強そうですから、そんなに心配はないと思いますが、ここは日本じゃありません。それに、パリには日本同様やばい業界もありますからね。下手にかかわらないことです。」

俊一郎は、譲司の言葉にうなずきました。

道はセーヌ川に突き当たって対岸は有名なルーヴル美術館でしたが、渡らずに川沿いに左折してしばらく進むと、左手に見えた大きな建物がオルセー美術館でした。

「さて、早めに着きましたから、しばらく待っていましょう。」

譲司に言われて既に入場者の列ができている側で待っていると、どう見ても日本人、しかも中年のサラリーマン風の男がやって来て、数枚つながっている絵葉書を出して5フランでどうだと言ってきましたが、譲司は断りました。

「安いことは安いですね。」

俊一郎、その辺の店では同じものを8フランから10フランぐらいで売っているのを見ていました。

「ええ。確かにその辺の店より安い。しかし、ブツの出所に不安がありますから、買わない方が無難です。」

「なるほど。でも、彼、どう見ても日本の中年サラリーマンですね。」

俊一郎が思ったことを話すと、譲司は苦笑しながら答えました。

「いや、その通りかも知れません。今は日本語使いませんでしたが、仕事でフランスに来てそのままドロップアウトした組で、日本に妻子がいそうな口ですな。」

「まさか、あなたはそうじゃないでしょうね、まだお若いようですし。」

少し気になっていたので俊一郎が聞くと、譲司は苦笑しながら自分の身の上を話した。

「私は25歳です。日本の大学出て、一旦就職したんですが、一年で嫌になってパリに来たんですよ。今は、パリ大学の学生でもあるんです。」

「と言うと、旅行社のお手伝いは副業みたいなものですか。」

俊一郎に突っ込まれて、譲司は苦笑しました。

「まあ、副業にしては忙しすぎるし、何とも言えませんね。でも、パリには同じよう日本人が結構沢山居て、我々のネットワークもあるんですが、困るのはドロップアウト組の中には、日本人旅行者をカモにしてる奴らがいることなんですよ。」

「どう言うネギですか。」

彼のジョークに笑いながら、譲司は答えました。

「日本人観光客には、フランス人って一見無愛想ですから、同じ日本人見ると安心するんですね。」

「そんな感じですね。同じホテルのツアーの女の子たちも、私がホテルのレセプショ二ストと英語で話したら中国人だと思ったみたいで、日本人だと知ってほっとした顔しましたね。また、彼女たち、フランス語が不安で買い物もできないみたいでしたが、私は平気で身振り手振りでパンを買ってきたと話したら、感心されましたよ。」

譲司は、うなずきました。

「フランス人は、あなたみたいに、ジェスチャーだろうが、日本語だろうが、こちらから働きかけるとちゃんと答えてくれるんです。しかし、働きかけない限りは、個人の問題として答えない。」

「つまりは、お客様気分の日本人は、無視されているみたいに感じてしまうんでしょうね。」

「そうなんです。圭子さんはどうかわかりませんが、日本人でパリに来てドロップアウトするような人は、日本でもドロップアウトしそうな人たちですから、勝手が違うフランスでは尚更うまく行かなくなって、明確な目的を持っている人以外は転落の一途ですよ。それで、日本人観光客から案内とか言って金をせびったり、ひどいと同じ日本人だからと安心させておいて、バッグや財布を盗んだりするケースが、後を絶たないんですよ。」

「それじゃ、さきほどの男はいい方ですね。」

「まあね。でも、やはり品物の出所は不安ですよ。」

俊一郎は、自分のことも話すことにした。

「ああ、私のこともお教えしますと、若く見えるかも知れませんが、22歳で、社会人になったばかりです。」

譲司は、彼は確かに見かけは若く見えますが、今まで会ったことがないタイプの人間だと思っていました。

「そうですか。でも、あなたには感心しますよ。」

「何をですか。」

「実に堂々としている。姿勢もいい。海外では、何故か卑屈になってうつむいて人の目を見ないで歩いている日本人が多いんですよ。」

「確かに言われてみるとそのとおりですね。ああ、向こうからその一団が来ましたね。」

そう言っていると、おあつらえ向きにそのような集団が現れたのです。

「あれこそ典型的で、周囲の人とは目を合わせないようにして、自分たちばかりで固まってしゃべりまくっているでしょう。きっとあれが問題のツアーでしょう。行って見ましょう。」

20歳前後の女の子ばかり8人の集団でしたが、譲司が話しかけると、同じ日本人だからかほっとしたような顔で応じてくれました。

俊一郎が圭子の写真を見せて聞くと、中の二人が、3日前にルーヴルで見かけたが、別人かも知れないと答え、一人は、今この場にはいないが、同じツアーの一人ではないかと答えました。

その子の名前を聞くと、「くまがいあきこ」との答えが返って来たので、俊一郎はぎょっとしました。

園子から、彼女の旧姓というか最初に結婚した時の姓は熊谷と聞き出していましたし、圭子から以前、彼女には幼いうちに死んだ双子の姉がいて、その名前があきこと聞いた覚えがありましたから、偶然にしてはできすぎている気がしたのです。

そっと譲司がくれた名簿を見ると、確かに熊谷晶子とありました。

そして、その晶子は一人で別行動を取っており、今日はどこに行ったかわからないとのことでした。

一通り聞いてからお礼を言って別れると、譲司は割り切ったように言いました。

「まあ、手掛かりなしだと思ってください。」

俊一郎も同感でした。

「見かけた、似ている、この人だ、とばらばらの証言もありましたが、昨日以降は無かったですからね。」

「私の経験から言いますと、余程はっきりとこの人だと言うぐらいでないと信用しない方がいいんですよ。大体同じツアーで、一人だけ似ていると言うのも変でしょう。外人ばかり見ていると、日本人や中国人は誰でも似ているように見えるんですよ。パリは、中国人も少なくないのですが、彼らの方が姿勢がいい。そう、あなたみたいだから、あなたも最初日本人と思われなかったのでしょう。それで、大体日本人観光客と区別がつきますがね。」

「となると、次にやるべきことは。」

俊一郎も思い付かなかったので、彼の意見を聞きました。

「無責任なようですが、果報は寝て待てですな。あなたも美術に興味がおありなら、この機会にオルセーを見て行かれてはいかがですか。ここまで来たら、絶対見なきゃ損ですよ。でなきゃ、帰って暗号解読に挑戦されるのも結構ですが。」

「そうですね。大体地理的にはわかりますし、加藤さんを引き止めても意味は無さそうですから、後は、一人で行動して見ますよ。」

譲司が露骨にほっとした顔をしたので、俊一郎は笑ってしまいました。

「そう言っていただけるとありがたい。実は、本社は勝手なことを言って来まして、とにかく問題にならないように処理しろって言うんですが、人も金も使うなって言うんですよ。しかも、私は、受け入れ業務とも掛け持ちですからね。宮川さんをつけたから、お前は受け入れに精を出して、あなた方には余りかかわらないようにしろと、暗に言っているようなものです。」

俊一郎、譲司が正直に言うので笑いました。

「あっはっはっ。確かに会社の立場から見たら、そんなもんですね。」

「半分宮仕えですからね。何かあったら、ここに連絡してください。」

そう言うと譲司は名刺を渡した。何故か名前と住所、電話番号しかないものだったが、俊一郎は受け取ると礼を言って別れました。


一人になった俊一郎は、折角だからとオルセー美術館に入ってみることにしましたが、入場した途端、日本の美術館とは随分感じが違うので驚きました。

入場料にしても安く感じたのですが、日本語の案内図をもらってからどんな順序で見るべきか考えました。

しかし、どうにも順路が描けない構造になっていることを理解すると、順路通りに見ようと考えるのは日本人的考えで、好きなように見ればいいんじゃないか、と気付きました。

それでも効率主義の抜けない俊一郎は、まず正面中央の通路の左側から進み、つながっている小部屋を含めて全て制覇してから右側に移って入口方向に戻り、それから右側の外側に移って大きな部屋を含めて右半分を左回りに一周し、それから一挙に最上階まで上がって、1回ずつ制覇して降りてくる方法を取ったのです。

彼は、書画骨董に詳しいこともあって、西洋絵画にも明るく、アングルの『泉』を始めとする美術の教科書に載っている名画群には感激しました。

時代的には19世紀以降で限られている分中身が濃い感じで、ゴッホやゴーギャンの絵が多いことにも驚きました。

一周する内に、俊一郎は妙なことに気付きました。

日本人を含め、アジア人の観光客はひたすら絵を見て歩いているのに対し、欧米人は、少し見たと思うと、屋上や2階にあるカフェーやレストランに入って食事やおしゃべりを楽しんでいるのです。

しかし、彼はやはり日本人で、休憩せずに一周した後、今度は気に入った絵だけをじっくり見て回りました。

このあたりは、日本だと順路を逆戻りする感覚で後ろめたさを伴うのだが、ここだと順路も何もないので気兼ねなく見ることができました。

それほど有名ではないように思われましたが、ある女性の肖像画が何故か気に入ったのです。

貴族の夫人の肖像がだったのですが、しばらく見ている内に、少しスリムにすれば由岐枝に似ていることに気づいて苦笑しました。

そこで改めて由岐枝とは縁があるのだと認識しましたが、シャンティーに向かった彼女らが心配になりました。

暗号文の下にシャンティーと書かれていたのですから、なおさら。


俊一郎、オルセーを十分堪能して外に出ましたが、まだ12時前だったのでルーヴルに入るかは別にしてコンコルド広場に行って見ました。

有名ではありますが、俊一郎は大して何と言うこともない広場との感想でした。

オベリスクが立っていて、背後の遠景に凱旋門、ルーブル方向にはミニの凱旋門とルーヴル美術館の入口になるガラスのピラミッドが見えていた。

何となく立ち止まってぼーっとしていると、側を幼稚園児らしい一団が通り過ぎ、女の子の一人が彼を見上げて『エトランジェ』と言いました。

外人さんと言われたわけで、俊一郎は、ようやく自分が外国に来たことを実感しました。

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