第2話俊一郎と園子と由岐枝の旅の始まり

二人は、アメ横の入口付近にあった寿司屋に入りました。

「何にする。」

「一番安い鉄火丼で結構です。」

「おや、今度は早かったわね。」

以前娘と3人で大阪のファミレスに入った時は、散々迷っていて結局何でもよさそうなので、園子が選んだことを思い出して園子はからかいました。

「そう言えば、貴方と食事をするのは二度目でしたね。」

圭子が交通事故で入院した時に、彼が、彼女と母の園子の二人を自分の車で送っていったことがあり、その時大阪で一緒に食事をしたのです。

「そう。前回は、私が決めてさしあげたわよ。」

「そうでした。天王寺近くの確かグリーン何とかって言う名前のレストランで、私と圭子さんはスペシャルメニューで、あなたはスパゲティーでしたね。」

彼にさらっと言われて、園子は驚きました。

「もう、変なこと覚えているのね。」

彼は、笑っていました。

「却って変なことの方が覚えているもんです。その時、あなたと圭子さんは私の正面に並んで片手ずつでメニューを開いて、『これがいいんじゃない。』とか何とか言ってたこととか。」

「凄い記憶力やね。」

娘から聞いてはいましたが、実際に見せつけられると、確かに凄いものだと園子は更に感心しました。

「じゃあ、とにかく注文しましょう。貴方は何を。」

「私は、ちらし寿司。」

俊一郎は片手を上げて合図をしたが、ウェイトレスはなかなか気づいてくれないので、園子は立って大きな声で呼びました。

「すいませーん。」

流石にすぐ飛んできたので、彼は苦笑しながら注文しました。

するとあっと言う間に料理も出てきたのです。

味はまずまずでしたが、ウェイトレスはアルバイトなのか、素っ気なくて感じが良くありませんでした。

「余りサービスはよくないわね。」

「まあ、値段が値段ですからね。」

俊一郎は、東京では安い方だし仕方が無いと割りきっていました。

「大阪なら高いわよ。」

「大阪は特別ですよ。それから、パリでは気をつけて下さい。」

「何のこと。」

「立って、大きな声で店員を呼ぶことです。」

「どうして。」

「苦情を言う時以外は、黙って手を上げるのがマナーなんです。」

「へえー、そうだったの。」

園子は、そんなマナーは知らなかったので、彼が黙って手を挙げた理由がわかりました。

「私、父はアメリカ生まれでしたし、母からも、幼少の頃から国際的なマナーについては厳しく教え込まれたんですよ。」

それを聞いて、逆に彼女はおかしくなって笑い出しました。

「それなのに団体行動ができなかったとは、これ如何に。」

「そう。不思議ですね、確かに。好奇心のおもむくまま、気の向くまま、めちゃくちゃやっていましたね。何といっても、小学校1年の遠足が圧巻でしたね。」

園子は、娘から俊一郎の放埓行動について、少し聞いていました。

「おやおや、また出たわね。あんたのことやから、また何か観察してたんでしょ。」

「そう。春でタンポポが一杯咲いていてきれいだったから、摘んでまわったんです。」

眼前の青年からは、彼がタンポポを摘んでいる姿はとても想像できませんでした。

「女の子みたいやね。当然列は乱れたんでしょ。」

「そう。私の後は千々に乱れて収拾着きませんでしたね。で、大阪から西の京の方に行ったんです。そう、目的地は長岡天神でしたが、私の仕業で大幅に遅れて着きました。それで、先生考えたんですね。その後は、どこに行く時も先生のとなりが私の指定席でした。」

「そりゃ、危険人物やもん。」

園子に言われて、俊一郎は苦笑しました。

「なまじ勉強が図抜けてできたから、余計始末が悪かったんですわ。」

「そりゃそうよ。勉強ができる奴が正しいっちゅう不文律があるんやから。」

「今考えると冷や汗もんですよ。当時は、好奇心を抱くと、頭で考えて物凄くバカなことでもつい試してみたんです。実証してみたと言いますか。」

「へえー。で何したの。」

「例えば、4階建てのアパートの屋上のへりを歩いて一周したとか。」

「当然、手すりぐらいあったんでしょうね。」

「いいえ、つかまるものも何も無くて、へりの幅も10センチぐらいでしたかね。」

「考えただけで鳥肌立つからやめてちょうだい。」

園子は高所恐怖症でしたから、考えるだけでぞっとしました。

「軽業師の素質でもあったんでしょうかね。まだ運動何やっても駄目なころでしたが、ちゃんと一周したんですよ。」

「もう、やめて。」

「じゃあ、次は笑い話を一席。」

「それなら許す。」

「ある所にとても好奇心の強い男の子がおりました。」

「あんたや。」

「ピンポーン。それで、彼、テレビを見ておりますと、マンガで傘さして飛び降りるとパラシュートみたいになるシーンがありました。それ見て彼は、どうしても自分で試してみたくなったのです。それである雨上がりの日に、ジャングルジムのてっぺんから傘さして飛び降りたんです。当然ああは行きません。傘が反ってものの見事に墜落し膝をすりむいたわけです。ところが困ったことに、その好奇心の強い男の子、滅法勉強ができたもんで、常々先生が『あいつのようにできるようになれ。』と言っておったんです。すると、どこにも少々頭の足りない子はいるもんで、その問題の男の子が墜落するのを見ていた運動はできるが勉強ができなかった男の子は、先生の言葉を誤解して、あいつより凄いことをやったら偉いんだとばかり、学校で一番高い登り棒の上から傘さして飛び降りたんです。哀れなことにその子は傘が反っただけでなくまともに飛び降りたので足を骨折してしまいました。『お前がやるから真似して怪我したんだぞ。』と先生が叱ると、その好奇心の強い男の子、こう答えました。『バカだなあ。僕ができないことを証明して見せたのに、あいつ同じことするんやから。』先生一瞬何も言い返せませんでしたが、『お前がやれば、いいことだと思って真似するバカな奴もいるんだから、今後気をつけるように。』と言って彼を帰しましたとさ。」

「あっはっは。それは笑うしかないわ。」

園子が笑うと、俊一郎は真面目な顔で話を続けた。

「ところが、これには後日談があるんですよ。」

「えーっ、聞かせて。」

「5年後のことです。その頭の足りない男の子は6年生になっていました。ある日彼は学校の倉庫になっている部屋の天井から屋根裏に登れることを発見しました。その子が倉庫で何か悪さをしていることに気づいたのは、今は賢い男の子と言われるようになっていた好奇心の強い男の子でした。頭の足りない子、屋根裏のことは秘密にしておきたかったのですが、先生に言いつけないとの約束で、賢い男の子に教えました。賢い男の子は天井を見上げ、屋根裏の構造を理解した後、天井裏に頭を突っ込みながら頭の足りない男の子に注意しました。『ここの天井は抜けそうだから、梁のあるところを歩くんだよ。』梁とは何かを知らなかったバカな男の子は聞きました。『はりってなんだ。』『天井裏から見ると、木が出っ張ってる部分だよ。』でも梁の上は歩きづらくて面白くありません。『俺やっぱりこの平たい板の上いい。』賢い男の子は叫びました。『あっ、そこは危ない。』次の瞬間バキッと大きな音がしたかと思うとバカな男の子の姿は消え、屋根裏が明るくなりました。慌てて降りてみると、転落した男の子は、また足を骨折して泣いていました。」

「何だかイソップ物語みたいね。」

園子は、呆れました。

「この時はほとんど怒られませんでした。危険を指摘して注意した方でもあったので。」

「でも、あんたその子に取っては疫病神みたいなもんやね。」

「そうですね。ただ、私は運が良かっただけとも言えるんです。最初に天井裏に上がった時点で、これは抜けると直感したぐらいですから。」

「運って変なものね。」

園子がつぶやくように言うと、俊一郎は意味あり気に微笑みながら付け加えました。

「一つ順番を間違えると、全ては狂う。」

園子は愕然として、彼の顔を見つめました。

実はその言葉、最初の結婚の前に易者から言われた言葉だったのです。

「何故それを…。」

彼は、微笑んだまま何故自分がそう言ったか答えました。

「別に不思議なことではないんです。以前お宅に伺った時、私が圭子さんを双子の姉の方だと思っていたことで『順番を間違えた。』と言ったら貴方の顔色が変わりました。だから、きっとそんなことがあったんだろうと思っただけです。」

園子は、改めて俊一郎を怖いと思いましたが、彼は優しい口調で付け加えました。

「でも、世の中順番なんていくらでもあるんです。運も自分で作るものです。」

「どんな風に。」

「まず、自分は運がいいと思うことですね。」

「それが、なかなかできひんのよ。」

園子は、最初の結婚以来、自分は不運に付きまとわれているように感じていたのです。

「そうですね。では、私が不思議に幸運に何でもできる秘訣の一つをお教えします。」

「私にできることなら、是非教えてちょうだい。」

二度の結婚生活の破綻だけでなく、今回の娘の失踪で、園子は溺れる者は藁をもつかむの心境になっていました。

「私は、ある感情が生まれつき欠けているとまでは言いませんが弱いんです。」

「何の感情。」

「妬みの感情です。」

言われてみると、園子はいろいろ思い当たることがありました。

娘が、時々言っていたのです。

『神坂さんね。他人の幸福に凄く素直なの。仲のいいアベック見て私が怒ると、不思議そうに見るの。うまく行っていればいいじゃないかって。彼って、他人を妬ましいと思ったことないみたい。』

「一つ聞いていい。」

「どうぞ。」

「妬みと運の関係は。」

「あっ、それは簡単なんです。妬む相手はどんな状態ですか。」

「どんな状態って。」

「つまり、金持ちだとか、美人だとか、いろいろあるでしょう。」

「そやね。まあ、それもあるけど、一番思うのは幸運だってことやね。」

「そう。そう言ってもらえると一番説明がしやすい。」

「なあに、それ。」

「幸運な人がねたましいといいましたね。」

「うん。」

「で、聞きますが、その人の幸運な状態は、もし自分がその立場にいたらどんな状態ですか。」

「何だかややっこしくなってきたわね。どういうこと。」

「つまり、自分が妬まれる側に回って見れば、その状態はどんな状態ですか。」

「うーんと、そう、幸運な状態ね。」

「そう。で、貴方は幸運になりたいですか。」

「そりゃ、当然。」

「じゃあ、妬まないことです。」

俊一郎はあっさり言い切りましたが、園子にはさっぱり訳がわかりませんでした。

「何のこと。その辺の理屈がわからないのよ。説明して。」

彼は、ちょっと考えてから説明しました。

「貴方は幸運になりたい。そうですね。」

「うん。」

「では、言い変えると、幸運は、貴方の目標です。」

「うーん、そうね。その通りやわ。」

「つまり、幸運な人を妬むということは、間接的に自分の目標を否定しているんです。」

「えっ、それがようわからへん。」

「妬むと、そのことをどこかで嫌だなと思ってしまうんです。わかりますか。」

「そうやろね。」

「だから、結局は自分がなりたい状態なのに、他人が同じ状態になると嫌だと思ってしまうんです。」

「それは、わかるわ。」

「つまり、間接的に、心の中の自分の目標を否定しているんです。」

しばらく考えた末に、園子はようやく納得しました。

「わかったわ。でも、なかなかそれができひんし、理解もできひんのが人間ね。」

俊一郎は、笑いながら言いました。

「そのことを表した名言があります。」

「なあに。」

「他人の幸福は私の不幸。他人の不幸は私の幸福。あるいは、他人の不幸は蜜の味。」

園子も、思わず笑ってしまいました。

「そうやって、自分で自分の足を引っ張っているから、人間、自分自身の持っている力を十分発揮できないで終わってしまうんですよ。」

「そうやの。」

「それが真理だと思います。それからもう一つ考えてみて下さい。正直者は、幸福になると思いますか。」

何だか全く違う話題になったような気もしましたが、園子はしばらく考えて答えました。

「そうとも言えへんわ。」

「では、性格のよい人が成功していると思いますか。」

「それも、そうとも言えへん。」

「では、一つずつ説明しましょう。」

「何それ、説明できるの。」

「まあ、ほとんどは説明つきますよ。」

「嘘みたい。」

彼は、そのことの説明を始めた。

「性格がよくて正直な人は、ともするとその前にバカを付けて呼ばれますね。」

「そうね。」

「そのような人は、自分の利益よりも他人の利益を優先する傾向があります。」

「それは言えるわね。」

「特に、中途半端に賢い人ほどその傾向があります。ただ、それでうまく行く人もいます。ですが、大多数はうまく行きません。言い換えれば、そのような人は要領が悪いんです。」

「はあ。そう言われるとわかるわ。」

園子は、俊一郎は優しい割りにはきついことを言うもんだと思いましたが、確かに考えてみればその通りだとも思いました。

「それからもう一つ、幸せが長続きしない人がいますね。」

「そうそう。圭子を産んだときの私。いや、結婚した時の私かしら。」

園子は、他人からは玉の輿に乗ったといわれる結婚をしていたのです。

「うーん、そう言われると言いにくいんですが…。」

「言ってよ。気にせえへんから。」

園子は自分のことについて、彼がどう説明するか知りたいと思いました。

「そうですか。」

「さあ、どうぞ。」

「じゃあ言いますが、ずばりそんな人は優しすぎるか、人に気を使いすぎるかのタイプだと思いますね。」

「うーん、自分じゃ言えんわ。」

「きっとあなたの場合は、今じゃそうでもないかも知れませんが、恐らく当時は気を使い過ぎたんじゃないですか。」

園子は、『今じゃそうでもない…』には思わず笑ってしまいました。

「あっ、それは言えるわ。でも、何故なの。」

「さっきの妬みを、自分自身にしたと思って下さい。」

「どういうこと。」

「つまり、自分はこんなに幸福でいいのかしら、何だか不幸な人に申し訳ないと思ってしまって、結局自分でその幸福を壊すようなつまらないことをしてしまうんですよ。」

「うーん。」

当たっているだけに胸に突き刺さる言葉でしたが、違う人もいると思って聞いてみました。

「でも、優しくもなく、気を使う訳でもないのに駄目な人も、逆に幸運な人もいるんじゃないの。」

「ええ、よく気がつきましたね。」

俊一郎は微笑みました。

「それって、どんな人やの。」

「簡単です。ダメな人は、幸福に気づかない鈍感な人か、バカな人か、妬みの強い人です。幸運な人は、小さなことにこだわらないことが良い方向に働いている人です。」

「なるほど。あんた、坊さんになれるわ。」

園子、素直に感心しました。

「確かに、説教には苦労しないでしょうね。」

俊一郎は、自分で笑っていました。

「そう。それに話すのうまいもん。普段余り話さないって圭子からは聞いてたんやけど。」

園子、娘と付き合っていた頃の俊一郎のイメージは寡黙な男でしたから、今日彼と旅してみて、結構きついことも含めていろいろ話してくれたのは意外だったのです。

「そうですね。私は、余程親しい相手でないと、余り話しませんね。」

「あら、私はその余程親しい相手と認めてくれたんや。」

園子、彼の言葉に年甲斐もなく嬉しくなりました。

「そりゃあ、婚約者の母親ですからね。」

「もう。あれは、嘘も方便やって。」

「いや、とにかく御縁のあるお母様ですから、親しいと認めさせていただきました。」

「ほんまにあんた、そんなに芝居がかったこと言えるとは、思わへんかったわ。」

俊一郎自身、友人の母である園子にこんな風に話すのは意外だったのです。

「正直言いますと、自分でも意外ですね。でもまあ、深刻な雰囲気は嫌いですから、軽妙洒脱に行きたいと思います。お許しください。」

園子、その言葉に彼なりに配慮していたことを知りました。

「気つかってくれて、ありがとさん。」

「いえいえ、ついでに、何となく自分は不運だと思っているあなたは、これからどうすればいいかお教えましょう。」

「凄い。そこまで言う。」

「理論は簡単なんです。幸福は、自分のものであれ、他人のものであれ、素直に認めて喜ぶことなんです。不幸な人に必要なのは同情じゃありません。」

「じゃあ、何やの。」

これにも、彼女は興味を覚えました。

「変革です。変に同情することは、どこかでその状態を認めることになります。同情は、言って見れば親切な顔をしながら、お前は情けない奴だと宣言しているようなものなのです。不幸な人には、自分を変える意欲を持たせることの方が、はるかに大切です。」

「自分が不幸なら。」

立場が変わればどう変わるのか、園子は興味を覚えた。

「まあ、それも素直に認めて、幸福になってやろうと思うことです。自分をよい方向に変えることです。ああ、なんて素晴らしい経験をさせてもらったんだろうと感謝して。」

「ふーん。」

園子、彼の言葉には感心を通り越して呆れてしまいました。

そして、ふと思いついて園子が何か言おうとすると、俊一郎が先に言いました。

「どうせ、私は爺さんです。」

園子は、自分が言おうとしたことを先に言われて、びっくりしました。

「どうして、私が言いたいことがわかったのよ。」

「何となくそう言われそうな気がしたんですよ。」

「圭子はあんたのこと、預言者って呼んでたんやけどその通りね。」

彼の言うことは、大抵見事にあたったため、圭子は彼を預言者とも呼んでいたのです。

「でも、私の預言って、余り役に立ちませんね。その時になってみないとわかりませんし、圭子さんの時のように、懇切丁寧に警告してあげても、天の邪鬼にその通りにやられてはたまりません。私は、圭子さんに良かれと思って預言したにもかかわらず、彼女は不幸にするし、青木さんまで巻き込むし、後片付けに加わって自分が疲れることもついでに招いたようで、後になって考えると、どうも納得いきませんでしたから。」

圭子と青木孝一の事件は、俊一郎が預言して注意していたにもかかわらず、圭子が天の邪鬼に全て預言通りに実行してしまい、結局ドツボにはまった二人を助けることになったのも彼でしたから、彼自身から見れば、全ては自らが蒔いた種で、それを刈り取っただけとも言えたわけです。

「そうだったわね。あなたは『青木さんに注意』と圭子に警告までしていたんですものね。」

「もっと詳しく、「青木さんは、肉体と精神の消耗をもたらす。」と警告したんです。」

「そんな難しい言葉で言ったから、圭子には通じなかったんやないの。」

「圭子さんだって西都大生で、文学部なんですから、いくらなんでも、それはないでしょう。」

彼は、笑った後話題を変えました。

「それで、私自分で時々思うんです。」

遠いところを見るような目つきでした。

「何を。」

「今の人生より前、つまりは前世ですね。」

「少しわかるって言ってたわね。」

「そうです。しかし同時に思う。いや、感じるんです。神様がいるとすれば、大変忍耐強い教育者だなあと。」

彼の言葉は、深遠過ぎて理解できませんでした。

「なあにそれ、私にもわかるように言ってよ。」

「神様は、同じ問題と言いますか、試練と言いますかを、その人が解けるまで何回もやらせているように感じるんです。」

「どんな感じ。」

さっぱりイメージがわかない園子は、聞くだけ聞いてみた。

「そうですね。何か困難なことが起きますね。すると、ああ、昔同じことがあったなあ、と懐かしいような、またかいな、と憎らしいような、複雑な気持ちになるんですよ。でも、現世ではそんな経験をした記憶はありませんから、きっと前世でのことを思い出しているんだと思います。」

「ふーん、だからじいさんなのね。」

いくつもの人生の記憶があるとすれば、彼が異常に落ち着き払っている理由は単にその年月の経験によるものであり、不思議はないと言えた。

「何百歳、いや何千歳かのじいさんですね。だからその経験から、人の反応を見て心の中を見抜くこともできるのかも知れません。」

「なるほどね。そんな考えもできるわね。ところで一つ聞いていいかしら。」

「何なりと。」

園子は、核心に触れる質問をしてみた。

「今回の事件、結局どうなると思う。」

俊一郎は、一瞬背筋が寒くなるほど悲しげな目をした。

すぐ元の優しげな顔に戻りましたが、園子は、大きなショックを受けました。

「誤解しないで下さい。」

惣一郎、自分が悲しい顔をしたことに気付いて慌てて弁解しました。

「だって、あんな顔するんやもの。いくら鈍感な私にやってわかるわよ。何か知ってるんでしょう。隠さずに話してちょうだい。その方がショック少ないから。」

しかし、俊一郎も今回の事態については、良い結果がでるのか悪い結果がでるのか、正直測りかねていた。

「うーん、そうじゃないんです。少なくとも圭子さんは無事でしょう。」

「その割りには、凄く悲しそうな顔したやないの。どうしてやの。」

園子は、彼の悲しい顔の理由が知りたかった。

「何故かはよくわかりませんが、貴方方親子は、出会いと別れを繰り返しているような気がするんです。私は、その時の貴方と娘さんの悲しみに心で直接触れてしまったんです。」

その言葉に、園子は本当に背筋が寒くなりました。

神坂俊一郎は、彼女が圭子にさえ隠していた過去の暗い出来事を感じ取ったように思えましたから。

しかし園子は、彼が「圭子さん」と言わずにわざわざ「娘さん」と言ったことの意味には気付きませんでした。

実は俊一郎、園子が別れたのは圭子一人だけではないと確信していましたから、敢えて「娘さん」と表現していたのです。

園子は、彼の言葉に昔を思い出しました。

20年前の園子は、圭子を、いや双子の圭子と晶子を産み、旧家の御曹司熊谷敬一の令室としての地位を約束されていました。

未婚ではありましたが、子供ができたら結婚させると敬一の両親に約束してもらっていたのです。

園子の両親は、彼女が女学校の時に亡くなっており、熊谷家の嫁兼女中としてもらわれて花嫁修行をさせられてきた関係だったのです。

夫の敬一は7歳年上でしたが、優しいが覇気はなく、今で言うマザコン亭主でした。

圭子は、俊一郎も知っていたとおり、双子の妹として産まれました。

二人の出産で正式に敬一と結婚した園子は、産後1年ぐらいは無事に、むしろ幸せに過ごすことができたのですが、夫の浮気が発覚し、二人の子供のためにと強く諌めたところ、母親がしゃしゃりでてきて浮気するのは妻が悪いとばかり、屋敷から追い出されてしまったのでした。

そんなことがあっても産後の妻をかばおうとしない夫には愛想が尽きましたが、子供には未練があったので、義母が異常に世間体を気にするのを逆手に取って、子供を返さなければ自殺すると脅迫を繰り返し、妹の圭子を取り戻していたのです。

しかし、その1年後、夫から晶子が死んだと言われ、戒名入りの位牌をよこされた時は、悲しみの余り、自分のしてしまったことを呪ったものでした。

もしかしたら、彼が触れたのは、その時の、晶子を亡くした時の私の悲しみだったのかもしれない、そんな気がしたのです。

そして、俊一郎が言ったように、圭子本人さえ知らなかったことだったのですが、園子と圭子は、一度は別れた親子だったのです。

園子がつい考え込んでいますと、俊一郎は心配そうに声をかけました。

「大丈夫ですか、何だか顔が蒼いですよ。」

「あっ、大丈夫よ。それよりもう行きましょうよ。成田で打合せもあるでしょうから。」

「じゃあ、参りますか。」

大きなトランクを、軽々と片手に持って彼が立ち上がって行ったので、園子は、後を慌てて追いかけました。

「私が出すわよ。」

「いいえ、最初だけは私に出させて下さい。後は、そうは行きませんから。」

「そう。じゃあ、御馳走さま。」

店を出て道路を渡ると地下に京成上野駅があり、切符を買ってホームに降りると丁度成田空港行きの特急が発車するところでした。

「さて、これからまた約1時間10分の電車の旅ですね。」

彼に言われると、まだ彼女は先程のことが気にかかっていたのでまた聞きました。

「貴方の予想を、もっと詳しく教えて下さらない。」

俊一郎は、園子の顔をしばらく見つめていたが、またゆっくりとした口調で話しだした。

「貴方は、以前私が圭子さんのことを占ったことを、ご存じですか。」

「ええ。嫌になるぐらい当たってるって言ってたわよ。」

「では、その内容は教えてもらえましたか。」

「いや、流石にそこまでは教えてくれなかったわ。で、それが何か。」

「大したことではない、と言いたいところなのですが、実際は結構大したこともありまして、その一つはその通り起きて、解決されましたので、今回は第二弾となります。」

彼が淡々と話すのを聞いている内に、園子は青木孝一と破局を迎えた時の娘の告白を思い出しました。

『本当は私、神坂さんには青木さんに近づくなって言われたんよ。でも、その時の私は、彼と結婚して普通に幸せな生活を送ることに妙に憧れていたんやわ。だから、彼の忠告に従わんかった。結局、彼の言うとおりお互いを傷つけ合って、神坂さんにまで迷惑をかけてしまったんや。でも彼、もう一回ありそうやとも言ってた。だから、神坂さん、もう一回だけは助けてくれるんやと思う。』

つまりは、彼はそこまで知っていて付き合ってくれたことになるのです。

「貴方こそ、ほんまに忍耐強いわね。」

言うと彼は笑いました。

「アフターケアですかね。まあ、これも何かの縁です。第二弾ですが、これは私にも意外な展開でしたのでよくはわかりません。しかし、少々不可解なことになるかも知れません。」

不可解なことが何かはわかりませんが、園子、その前に言った言葉の方が気になったので聞いてみました。

「さっき貴方、私と圭子は出会いと別れを繰り返すと言ったわよね。」

「ええ、そんな気がしました。ただ前世でのことかも知れませんから、それほど気にしないで下さい。」

「いいえ、貴方に言われて思い当たったんやけど、その通りやの。」

「うーん。」

俊一郎は言葉に詰まりました。

彼は、一種の霊感によりいろいろな結果を考えていましたが、それらを組み合わせて現段階の情報を組み合わせてみると、不合理な結果しか出てこないのでした。

「どうなの。それで貴方の予想は。」

「正直言って、現段階ではお手上げです。私の予知能力と頭脳を組み合わせて得た結果は大変不合理なので。」

「ふーん、じゃあ途中経過だけでも教えて下さらない。」

俊一郎はためらったが、一つずつゆっくりと話しだした。

「私は、青木さんと別れた圭子さんには、こう預言しました。『君は一人で生きていく方を選ぶだろう。ただし、今の友人は一生頼りになるだろう。』とね。」

「貴方のことやね。」

園子が微笑みながら確かめると、俊一郎はぶすっとした顔で答えました。

「本人としては、そう思いたくはなかったのですが。」

「厄介払いし損ねたってとこかしら。」

「まあ、そこまではいいませんがね。そして、実はもう少し細かく占ったものもあったのです。」

「えっ、それはどうやの。」

園子、それこそ今のことを示しているんではないかと期待した。

「圭子さんの未来というか、当面の運命は、まず小さな別れ、現状からの脱却。そして旅。それから大きな別れと新しい生活だったんです。」

「旅までは、そのまんまだからわかるわね。」

青木孝一との別れとテニス同好会を辞めたこと、そして今回の旅行と考えれば、前半は確かにそのままでした。

「ええ。」

「でも、あんたにも、大きな別れと新しい生活の意味がわからへんっちゅうわけね。」

「ええ。」

「出会いと別れって言ったわね。だったら、私から離れて外国で新しい生活を始めると言えないかしら。」

「まあ、常識的に考えればそのとおりですが、圭子さん、恩のある、たった一人の肉親である貴方のことを、そう簡単に捨てられるのでしょうか。」

如何にわがままな圭子とは言え、理由もなく母の彼女を捨てるとは、考え難かった。

「うーん、保険金殺人なんちゃって。」

「変なこと言わないで下さい。それでなくても奇妙なんですから。ところで保険金って言いましたが、そんなにかかってるんですか。」

「えーっとね。旅行保険が1億で、生命保険は3千万円だったわよ。」

「はあ。」

俊一郎は、園子が勘違いしているようなので呆れた。

「そんな線はないかしら。」

「貴方が仕組んだのなら、考えられますが。」

園子は、ようやく勘違いに気づきました。

「あっ、そうやった。私が受取人や。」

俊一郎、笑いながら園子を安心させようと考えました。

「私は、圭子さんは元気に生きていると思います。でも、解けない謎があるのです。まず、圭子さんには、あなたと、それから私から、逃げ出したい理由がありますか。それがあれば、わかりやすくなるのですが。」

「それは難問ね。」

園子も、その心当たりは無かった。

「ですから行き詰まったのです。他に何かあるとすれば、そして、それが故意であるとすれば、何らかの要因と、少なくとも他に1人か2人の共犯者がいないと成り立たないでしょう。だから友人と一緒に行きましたか、と聞いたんですよ。」

「そうだったんや。」

園子は、彼の質問の意味をようやく理解しましたが、それ以上何も思い浮かびませんでした。

俊一郎は、続けました。

「それから、もう一つ疑問があります。」

「何やの。」

「おこがましい言い方ですが、圭子さんは、私の能力を十分知っているはずです。また、今回問題を起こせば、また私が出てくることも十分想像はついているはずです。それなのに、敢えて私に挑戦してくる理由があるのでしょうか。」

園子は、彼の言葉を聞いて笑ってしまいました。

俊一郎は、誠実ですが、高慢とも言えるほどの自信家でもあります。

そして圭子は、彼も知っているが、大変天の邪鬼なのです。

したがって、俊一郎を何とかへこませてやろう、と考えるのは、圭子にとってはそれほど不思議なことではありません。

しかも、彼がよく知らないフランスを利用してとなれば、更にあり得るのです。

「圭子ならやりかねないわよ。確かに行く前から貴方を指名したようなフシもあるし、私のことも巻き込んでるし、その理由は、さっぱりわからへんけど。」

「私も、どうにもその理由がわからないので、しばらく思考停止です。考えてもわかりませんから、新しい情報が入るまで考えないことにします。何か思い出したら教えて下さい。」

「じゃあ、どうするの。」

「夢でも見ます。成田までお休みなさい。」

そう言うと彼は目をつぶったので、園子も真似をすることにしました。

横目で見ると、俊一郎は眠っているわけではなく瞑想しているように見えました。

考えてもわからないときは考えない。天才の思考方法は違うな、と思いましたが、よく考えれば、至極当然のことでもありました。

ドリルで穴を空けていて硬くてどうしようもない岩にぶつかったら当然ドリルを止めて他の方法を考えるわけで、きっと彼は、その岩を爆破できる火薬を探しているのだろうと思い当たりました。

園子もしばらく目を閉じて考えごとをしていましたが、圭子は、決して彼のような天才ではないことを思い出しました。

だから、そんな彼女だからこそ、この機会に彼に挑戦したくなったのではないかとの考えも浮かんだのです。

昨年の青木孝一とのいざこざを、彼は全て見通しており、圭子は、西遊記で孫悟空がお釈迦様の掌の上で暴れていたようなものだったと話してくれていました。

でも、確かに圭子一人だけじゃやりにくいことも確かです。

謎は謎、俊一郎の考えたとおりなのです。

園子も考えるのが面倒になりましたから、彼の真似をして本当に眠ることにしました。


終点少し手前の成田で、俊一郎は目を開け、園子を起こしました。

「あのう、ターミナルは1か2かどちらでしょうか。」

聞かれたものの、園子全然わからないので答えようもありませんでした。

「なんのこと。二つもあるの。」

「ええ。成田には、ターミナルが二つあるんですよ。航空会社はどこですか。」

「えーと、日本の航空会社じゃなかったわよ。エール何とかってあるかしら。」

「エールフランスですか。」

「うん。確かそうだったと思うわ。」

「じゃあ第1ターミナルですね。古い方です。」

「へえー、じゃあ成田って大きいのね。」

「日本の空港じゃ一番大きい方じゃないですか。」

「良かったわ、貴方がいて。」

園子は、成田空港に二つのターミナルがあることすら知りませんでしたから、彼に感謝しました。

「それぐらいは、お役に立たなくては申し訳ないですからね。」

彼も全く初めてで、車内の案内を見て初めて気付いたのですが、そのことは言いませんでした。

終点の第1ターミナルで降りると、意外に人が少なくて気味が悪く感じましたし、空港の入口でパスポートの検札を受けたことには、二人とも驚きました。

航空券のことも聞かれたのですが、窓口で受け取ることになっていると答えて通してもらいました。

エスカレーターで3階上がって2階の出発ロビーに出ると、カウンターが並んでいました。

流石に出発までにはまだ早すぎましたから、乗客は誰もいませんし、窓口自体まだ用意されていない状況でした。

俊一郎が窓口の準備をしているらしいエールフランスの係員に聞いてみると、確かにエコノミーで3名分リザーブされているとのことで、まず一安心しました。


俊一郎は、園子に旅行社に電話するように頼んで自分は売店に行き、パリの案内書とヨーロッパ4か国語会話集を買ってきました。

正直言って、フランス語は全く自信がありませんでしたが、まあ何とかなるさと呑気にかまえることにしました。

園子は、しばらくすると戻ってきましたが、何だか機嫌が悪いようです。

「どうしました。」

「どないもこないもないわよ。チケットは、同行する社員に届けさせるから、とにかくパリに行ってくださいって。」

「と言うことは、情報はなしですか。」

「一つわかったのは、パスポートは持って出てるらしいってことかしら。だから、自分で勝手に行動している可能性もあるって無愛想なの。」

「そうですか、ところでそのチケットは何時届くんですか。」

「30分後ぐらいだって。」

「ふーん、じゃあその時に私も聞いてみますよ。」

「ええ、そうしてちょうだい。」

「ところで、これ買ってきましたから、見ておいて下さい。」

そう言いながら俊一郎は、パリの観光案内を園子に渡しました。

「あら、わざわざ買ってくれたんや。私が払うわよ。」

「いいえ、今後の参考にさせてもらいますからいいですよ。会話集も買いましたから。」

「手回しいいわね。頼もしいわ。」

自分は何も考えていませんでしたから、園子は素直に感心し、感謝しました。

「頼りになるかどうかはわかりません。英語ならともかく、フランス語ですから。」

「まあ、それでも頼りにしてるわ。」

しばらく待っていると、それらしい濃いピンクの制服を着た若い女の子がやってきました。

「失礼ですが、斉藤さまでしょうか。」

聞かれたので、俊一郎は思わず自分の名を答えてしまった。

「いいえ、神坂俊一郎です。」

はっと気づいて、慌てて付け加えた。

「あっ、いや斉藤圭子の関係者です。」

園子が横から言いました。

「私が、斉藤圭子の母です。」

その女の子は、園子に頭を下げた。

「ジャパン旅行の宮川でございます。申し訳ございません、こんなことになりまして。私どもも、詳しい情報はつかんでおりませんが、現地で不自由のないように取り計らいたいと思いますので…。」

俊一郎は、眼前の娘は自分よりも若いのではないかと思ったのですが、何よりもプロポーションがすばらしいので、珍しいことについ見とれてしまったのです。

「では、私たちは二人でパリまで行けば向こうでどなたかが迎えてくれるんですね。」

彼が顔をじっと見つめながら聞くと、彼女は、恥ずかしそうに小さな声で答えました。

「私が、パリでもご一緒させていただきます。宮川由岐枝と申しますので、よろしくお願いいたします。」

二人とも驚いたような顔をしたためか、彼女は恐縮していました。

「申し訳ございません。生憎ベテランの添乗員は、全員出払っておりまして。」

俊一郎は、エコノミーが3人分予約されていると聞いていたことを思い出し、何と言っていいかわからないでいる園子に代わり、優しい声で答えました。

「わかりました。よろしくお願いします。ところで、出発は何時ですか。」

彼女はほっとしたような顔をした後、忘れていたと見えてセカンドバッグから二人分のチケットを出して園子と俊一郎に渡しました。

「行きは今夜20時20分発になっておりまして、その分は予約済ですが、帰りの分はオープンチケットになっております。」

「オープンチケットとはどう言う意味ですか。」

俊一郎はわからなかったので聞くと、由岐枝はまた慌てて頭を下げながら答えました。

「あっ、すいません。予約のない航空券のことでして、向こうで帰りの予定が決まってから予約する形になるチケットです。」

『すいません』の一言と一瞬のイントネーションの変化から、俊一郎は、由岐枝は関西出身であることを見抜きました。

「わかりました。では、貴方も用意があるでしょうし、出発まで大分時間がありますから、後ほどどこかで待ち合わせすることにしましょう。」

俊一郎が答えると、えらくものわかりのいい相手で安心したのか、彼女は少し関西弁が混ざった言葉で話した。

「じゃあ、私も旅の用意をしてから、2時間後にここに参ります。すいませんけど、それまでどこかでお待ちになっていて下さい。」

「わかりました。もし何かわかることがありましたら、調べておいて下さい。」

俊一郎が言うと、彼女は何度も頭を下げた後走って帰って行った。

「俊一郎さん、女性には甘いんや。」

黙っていた園子がからかうように言うので、彼は珍しく少しむきになって言い返しました。

「私は、確かに女性には優しいかも知れませんが、少なくとも現在彼女に対して特別な感情は抱いておりませんので、その点はご安心下さい。」

園子は、彼の態度から結構彼女が気に入ったことは窺い知れたので、面白がって付け加えました。

「あなた、圭子にも最初から優しかったわね。」

「ええ、そうですね。」

「でも、今の彼女可愛かったわ。よかったわね。」

彼はむくれて言い返しました。

「確かに、むくつけき男性よりは旅の友としては楽しいのですが、問題は可愛いかどうかよりも、頼りになるかどうかですから、そちらの方が少し心配です。」

園子は、言われて初めて気がつきました。

「あら大変。彼女フランス語はできないし、海外は初めてだったらどうしましょ。」

俊一郎は、つまらなさそうに答えました。

「笑うしかない。」

園子は、自分たちがおかれている状況を忘れて大笑いしました。

「まあ、とにかく出国手続き等は彼女に教えてもらうことにして、しばらくひまつぶしをしましょう。」

言いながらも、俊一郎は、本当に不安になっていました。

元々園子は頼りになりそうもないし、この上宮川由岐枝までだめだったらどうなるだろうかと。

でも、すぐに思いなおしました。

彼女もプロのはしくれだろうし、海外全く初めての二人組よりは役立つだろうから、何とかなるだろうと。


時刻は5時近くで夕方だったのですが、昼食が遅かったこともあって、アフタヌーンティーと洒落こむことにして二人は喫茶店に入りました。

さて、どうしたことかと思っていると、園子も同じことを考えていたと見えて、つぶやきました。

「さて、どうしましょう。」

俊一郎が思わず笑うと、彼女も笑いました。

「まあ、桃太郎とは言いませんが、貴方には犬と雉が仲間に加わったようなものですからまずは安心して下さい。」

園子は、とても面白い例えだと思った。

「面白いわね。貴方は確かに犬みたいな気もするけど、賢すぎてどちらが主人かわからなくなりそうね。」

「まあ、今回の旅行中は大丈夫でしょう。雉は、どう思いますか。」

「余計な時に鳴いたりして。」

俊一郎は、思わず笑ってしまいました。

「雉も鳴かずば打たれまい、ですか。まあ、どんな格好してくるかで、大体の想像はつきますよ。」

彼は、彼女が会社の延長で制服でくるか、観光旅行気分のカジュアルな服装で来るか、それとも我々の付き添いを第一に考えて、実用的に動きやすいながらも、それほどカジュアルではない服装でくるかで大体想像はつくと思っていました。

「ふーん、じゃあ後で教えてね。ところで、お金どうする。」

園子は思い出しましたから、俊一郎に聞きました。

「まさか円を使うわけには行きませんから、お持ちならある程度トラベラーズチェックと現地通貨に替えておいたほうがいいでしょうね。」

「じゃあ、お願い。私初めてだから。」

俊一郎は、私も初めてだと言いかけましたがやめて、何でもやってみることにしました。

すると園子は、何と俊一郎に1万円札の札束を渡したので、彼は目を剥きました。

「これでお願い。」

「あのう、これ一体何万あるんですか。」

「えーと、百万あるわ。」

彼は呆れました。

「商品の買いつけに行くんじゃありませんから、いくらなんでもそんなにいりませんよ。」

「でも、今さら銀行に入れられないでしょ。全部やっちゃってちょうだい。」

「しょうがないですね。じゃあ、10万は貴方が帰国後用に保管しておいて下さい。それで念のためにフランだけでなく、ドルもいれますからね。」

(参考1979年6月の円フラン相場は約50円、円ドル相場は約220円)

園子、聞いただけで面倒くさくなりました。

「全部任せるわ。」

「では、やってきます。」

彼は、2階の東京三菱銀行の窓口に行って、90万円を1万フランと2千ドルのトラベラーズチェックと千フラン少々の現金に替え、彼自身も自分の持ち金を千フラン両替しました。


カフェテリアに戻ると、園子はぼーっとしていたので使い方を説明し、今の内に全部サインをしておくように言った。

「何故サインするの。」

とんまなことを聞くので、彼は仕組みを説明した。

「ふーん、よく考えたものね。ところで、あなた用にこれあげるわ。」

そう言って彼女は千フランの現金をよこしましたが、彼は受け取りませんでした。

「でも、物騒だから半分は預かっておいてちょうだい。」

確かに危険分散は必要かと思いましたから、サインが済んだら現金とトラベラーズチェックの半分を預かることにして、彼は初めての成田空港をもっと散歩してくることにしました。


結構広いし何でもあるので感心しましたが、しばらく見て回ったらあきたのでしばらく本の立ち読みで情報収集することにしました。

それにもあきたのでカフェテリアに戻ろうか、と思いながら約束の時間の40分前にカウンターの前を通ると、丁度宮川由岐枝がやって来たところでした。

彼女の装いは、落ちついたワインレッドのジャケットにロングのキュロットスカート、白のポロシャツ、そして靴もウォーキングシューズだったので、真剣に付き合ってくれる気だなと思いながら声をかけました。

「おや、お早い。」

「あーっ、すいません。準備のことを言い忘れましたので急いで来たんです。」

「準備と言うと。あっ、立ったままも何ですから座りましょう。」

二人は、椅子に座って話しだした。

「トラベラーズチェックのこととか、出国手続きとかなんです。お二人とも全く初めてだと聞いたのですが、そうなんですか。」

やはり関西弁の抑揚だな、と思いながら聞いていた俊一郎でしたが、確かによく見るとほとんど化粧はしていないのに色が白く、美人だなあと彼女の顔を見つめました。

「すいません。顔に何かついてますでしょうか。」

彼女は、赤くなって聞きました。

「いいや、先程はプロポーションの良さしか気づかなかったのですが、貴方は美人だと言うことにも気づいたんですよ。」

彼が正直に答えたところ、由岐枝は更に動揺しました。

彼女今までも客から言い寄られることは多かったが、これほど直接的に褒められたのは初めてでしたから、白い顔が真っ赤になりました。

俊一郎は、何とまあ純情な娘だと驚きましたが、却って心配になりました。

この分では、本当に役に立つだろうかと。

「ほとんどお化粧もしていないんですね。」

付け加えると、ようやく彼女も笑顔を見せました。

「ええ。私、お化粧すると、安キャバレーのホステスみたいになってしまうんです。」

「色も白い。」

「そうなんです。でも、肌が弱いので、水着で海なんか行けないんです。」

「へえー、今時珍しい。」

彼女、恥ずかしそうに白状しました。

「実は、一緒に行ってくれる人いないだけなんです。」

「それはもったいない。私ならほっておかないが。」

言いながら俊一郎は、珍しく柄にもなく口説いたようなことを言ってしまったことを当惑しました。

「失礼しました。あなたを口説くようなことを言ってしまったこと、お許しください。」

由岐枝は、彼の口説き文句に一瞬ぎょっとしましたが、慌てて謝ったので年齢不相応に誠実な紳士だと思い直しました。

しかし、失踪した斉藤圭子の婚約者であるはずの彼からそんなことを言われるのも奇妙でしたし、余りにも冷静な彼の態度にも違和感を覚えていました。

「ところで、斉藤さんのお母さんはどちらですか。」

なんといっていいかわからなくなったので、由岐枝は圭子の母のことを聞いてみました。

「初めての大阪から成田への移動で疲れたと言って、カフェテリアにいます。」

「そうですか。でもご心配でしょう、貴方も彼女のことが。」

俊一郎は複雑な表情をしたので、由岐枝は、更に不思議に思いました。

この人は、本当に斉藤圭子の婚約者なのだろうか。その割には余りにも平静だ。そして、今の複雑な表情はおかしい。

「そうですね。確かに心配です。ですから、斉藤さんはもう少し休ませておきましょう。準備ですが、一応私どもで用意したお金は、トラベラーズチェックと現地通貨等に両替しました。」

由岐枝は、初めてと言う割には手回しがいいので感心しました。

「えーっ、それは申し訳ありません。そこまで説明するように言われていたのですが。」

「その代わり、二人とも海外は本当に初めてですから、その後の手続き等についてはお願いします。」

「はい。でも、信じられません。」

「何がですか。」

俊一郎は、由岐枝が何が信じられないのかわからなかったので聞き返しました。

「貴方は、失礼ですけれど大変落ちついていらっしゃいます。」

正直に言うと、彼はにこっと笑いました。

「私は、22歳で今年就職したばかりですが、確かに何が起きても冷静な方ですね。」

由岐枝、彼が自分と同じ年齢だったのでほっとしました。

「あっ、よかった。私と同じ歳です。」

由岐枝が自分と同じ年齢だったことは、俊一郎にとっても少し意外でした。自分より若そうに感じていましたから。

「そうですか。貴方も若く見えますね。正直なことをお話ししますと、私は心配していたんですよ。貴方が頼りにならなかったらどうしようかと。」

正直に彼が切り出すと、由岐枝は正直に答えました。

「あっ、それはあまり期待しないで下さい。私もフランスは二度行っただけですから。」

「フランス語は。」

「あてにはなりませんが、少々ならなんとかなると思います。短大で少しかじりまして、就職してからは、半分自費で習っていますので。」

俊一郎は、それを聞いて少し安心しました。

「そうですか。私は、英語ならまだしも、フランス語はさっぱりわかりませんから、それを聞いて安心しました。ところで、パリでも貴方がいろいろお世話をしてくれるのですか。」

「手続き関係は、現地の駐在員があたっているはずです。私は、同行して皆様のお世話をするように言われております。」

「そうですか。それは一つ楽しみができました。」

彼がそう言うと、由岐枝はまた赤くなりました。

由岐枝自身、自分でもどうして彼のことをこんなに意識するのか不思議でした。

確かに自分はすぐ顔にでるたちなのですが、今までお客にさんざんからかわれてきていましたし、その場限りの彼らの言葉に真剣になることはありませんでした。

それが、他人の婚約者であるはずの神坂俊一郎には、何故か平静でいられないのです。

思ったことは隠せない由岐枝は、正直に聞きました。

「神坂さんは、斉藤圭子さんとはどのようなご関係なのですか。」

俊一郎は、首を傾げて、逆に聞き返しました。

「会社から、何か聞きませんでしたか。」

彼に見つめられて、また由岐枝はしどろもどろになりました。

「えっ、あっ、はい。斉藤圭子さんの婚約者だと伺っております。」

「そうは見えないのでしょうね。」

聞くと彼女が素直にうなずいたので、俊一郎は笑いました。

「ええ。婚約者の方が外国で失踪された大変な状況なのに、余りに落ちついておられるので、どちらかと言えばお兄さんのような感じを受けました。」

俊一郎、由岐枝には正直に話してもよい気がしたので話すことにしました。

「そうですね。一緒に行動していただけると、いずれはわかってしまいそうですから、貴方には最初に正直にお話ししましょう。しかし、斉藤さんや会社にはあくまでも婚約者で通していただけますか。」

「えっ、あっ、はい。」

由岐枝は思わず返事をしてしまってから、よかったのかどうか悔やみましたが、今更どうしようもないので聞くことにしました。

「私は、斉藤圭子の最も親しい友人であることは認めますが、婚約はしていません。」

「では、何故。」

「これも正直に言いますと、斉藤さんに頼まれたのです。また、出発前には圭子さん自身からも、何かあったらよろしく頼むともいわれていましたから。」

「えーっ、じゃあ実質的には婚約者だったんじゃないですか。」

由岐枝は、半分ほっとしながらも、がっかりしたように言いました。

その様子がおかしかったので、俊一郎は意地悪く聞き返しました。

「宮川さんは、婚約者とはどの程度の関係だと思っていますか。」

由岐枝は、まさか聞き返されるとは思っていなかったので、焦って考えた。

「えーっと、親の許しを得ていて、一緒にデートして、キスして、それから…。」

思わずセックスしてとまで言いそうになって、由岐枝は慌てて口をつぐんだのですが、真っ赤になって恥ずかしがっている様子を、俊一郎はとても可愛いと思いました。

「からかったわけではないので、許してください。ただ、私は圭子さんとはデート以外はしたことはないのです。」

「キスもしてないのですか。」

「ええ。」

「じゃあ、ただのお友達じゃない。」

由岐枝は拍子抜けしました。

「そうなんですよ。」

「でも、引っ張りだされたからには、神坂さんは大変信頼されていらっしゃるんですね。それに、神坂さんにも彼女はいらっしゃらないんですか。あっ、失礼しました。」

彼は即答しました。

「どちらも、その通りですね。」

「あなたみたいな人に彼女がいないなんて、私は、そちらの方が信じられません。」

つい正直に言ってしまって、何か物欲しげじゃなかったかな、と由岐枝は焦りました。

すると、俊一郎はにっこり笑って切り返しました。

「同じ言葉を、お返ししましょう。」

「あっ、私もそうだ。」

由岐枝も、俊一郎に言われると無邪気に笑うことができたのです。

「あなたのような人が一人とは、本当に信じられませんよ。」

歯の浮きそうな言葉ではあったのですが、彼の口から出ると妙に誠実に聞こえるので不思議でした。

「旅行会社って、休みが平日ですから駄目ですね。すれ違いになってしまって、恋人できないんですよ。仕事で行くと、その時だけ大胆になって、旅の恥はかき捨てをやる人は多いんですけど、実がないですし。」

「これは失礼。」

俊一郎は、自分の言葉を反省しました。

「あっ、神坂さんのことやないんです。」

「いいえ、あなたのような美女は、男性に対しては注意の上に注意を重ねるに越したことはないですよ。」

「あら、おかしい。」

「何が。」

「本人が言うんやもん。」

二人は顔を見合わせて笑いました。

由岐枝は、もともと男女交際に対してはとても慎重でしたし、仕事上お客様とは絶対つきあってはならないと再三注意されていましたから、いつの間にか彼と打ち解けてしまっている自分が信じられませんでした。

彼は、それだけ不思議な雰囲気を持っている人だとも思いましたが。

「宮川さんは、関西出身ですね。」

俊一郎は、イントネーションと微妙ななまりから確信していたので、確かめてみました。

「あっ、すいません。ついなまりが出ました。私、滋賀県出身なんです。」

「滋賀県のどのあたりですか。」

「きっと知らないと思います。」

由岐枝、今まで何度か聞かれたことはあったが、答えてわかった人がいなかったし、説明するのも大変なので、ごまかそうとしました。

「滋賀県は私の庭みたいなものですから、大抵はわかりますよ。」

神坂俊一郎は全くなまりがなく、てっきり東京の人だと思い込んでいましたから、由岐枝は驚いて聞き返しました。

「えーっ、じゃあ神坂さん大津あたりの出なんですか。」

「いいえ、私は大阪です。」

「えーっ、変。あっ、ごめんなさい。」

大阪出身で、標準語でなまりもない人には初めて出会いましたから、由岐枝はつい口を滑らせてしまいました。

しかし、初対面の相手ですし、しかも上司からはくれぐれも注意するように言われていたお客さんなのに、こんなに親しく口をきいている自分が信じられませんでした。

「大阪弁使わへんからでんな。」

突然大阪弁に変わったので、由岐枝思わず笑ってしまった。

「そうですね。」

「時と場合によりますがな。」

「器用ですね。」

「ところで、あんたくにどこでっか。」

「あっ、琵琶湖の北の方です。」

「と言うと、今津か長浜か。」

「という歌ありましたね。」

「ああ、私の大学のボート部の歌だ。」

それでは、彼は西都大卒ということになります。

西都大と言えば、日本でも一二の名門大学ですから、彼は、ばりばりのエリートではないですか。

「えーっ、じゃあ神坂さん西都大卒。」

「そうでんねん。」

「だから、何となく教養感じるんや。」

「んなあほな。」

「と言うと、お世辞になりますかねえ。」

「そや。ぼーっとしてると、高校生と間違えられるんやから。」

確かに、神坂俊一郎は、年齢よりも若く見えました。

「そうですよね。私も可愛いかっこしてると高校生に間違えられて、アメリカでお酒を注文したら、『子供は酒を飲んじゃ駄目だ。』って怒られたことあるんです。あっ、何だか脱線しちゃいましたね。でも、貴方みたいな人初めてです。こんなに気安く話してしまってごめんなさい。立場を忘れて、本当に失礼しました。」

謝られた俊一郎も、彼女には何故か親しみを感じていたのです。

「いいや、その方が自然で気楽ですよ。それに、私みたいな人は、私も見たことない。」

彼が自分で言うので、由岐枝は大笑いしました。

「あっ、私出身はマキノなんです。」

「今津の北で、福井との県境の、確か、高島郡マキノ町ですね。」

余り知られていない場所なのに、さらっと答えられて由岐枝は驚いた。

「凄い。私マキノを知ってる人に初めて会いました。」

「でも、知っているにはわけがあって、私の特技の一つは、一度行ったり通ったりしたところは、ほとんど覚えていることなんですよ。」

「流石ですね。西都大卒は違う。」

「みんなができるわけじゃないし、西都大だからそんなに違うわけじゃないよ。」

「でも、エリートやもん。できが違う。」

「それは誤解だ。その気になれば誰でもできる。」

「んなあほなあ。」

「ちょっとしたコツがあるだけや。」

「私にもできますか。」

「うん。」

「どうやって。」

「簡単なんや。」

「じゃあ、教えて。」

「うん。たった三つで違うもんや。」

「一つは。」

図々しいな、と思いながらも由岐枝は友達のように彼に聞いていました。

「できると思うこと。私には才能があると思うことだよ。」

「えーっ、そんなのできませんよ。それに思ってできなきゃ単なるほらふきじゃないですか。じゃあ、二つ目は。」

「何でも面白いな、と思って学ぶことだよ。」

「ふーん、勉強もですか。」

「そう。つまんないと思ってできるわきゃない。」

「そこが違うんですね。じゃあ、三つ目は。」

「これはちと難しい。」

「今までのも十分難しいですよ。」

「できる人を妬まないこと。」

予想外の答えだったので、由岐枝はつい思ったことを言ってしまいました。

「これは、ちっと意外ですね。」

「何がくると思った。」

「毎日繰り返すとか、続けるとか、勉強みたいなことを言われるかと思いましたよ。」

俊一郎は、苦笑しながら付け加えました。

「時間よりもやり方が大事なんだよ。勉強は、やればええっちゅうもんやない。できりゃええんや。」

「ふーん、いいこと聞きましたよ。」

「仕事も同じやろ。」

「そうでしょうね。」

由岐枝は、神妙な顔で彼に言われたことを理解すべく考え込みました。

「あっ、君だけ紹介させてしまいましたが、私は、元々は大阪の高槻に住んでいました。高校までは大阪で、大学が京都、今は事情があって実家は京都の綾部の近くの京丹波に移り、家族は吹田に、私自身は東京の会社に就職して川崎の独身寮に住んでいます。」

「へえーっ、こちらに来ていたんですか。大阪から来たものとばかり思っていました。」

「いや、今日は斉藤さんのおともで、大阪からはるばる成田までやってきましたが。」

「そうだったんですか。でも、何故大阪にいらっしゃったのですか。」

川崎の独身寮に居る彼が大阪から来たのは不可解です。

「ああ、2か月休みなしで働いて、初めて取った有給での大型連休で、京丹波の実家に帰った途端、斉藤さんから召集がかかったんです。」

「それは大変だったんですね。」

「というか、絶妙のタイミングでしたね。たまたま、8日間実質2週間の休暇が取れたところで、斉藤さんから話が来たわけで。」

「じゃあ、もしかしたら、1日2日ずれていたら、あなたは来なかったんでしょうか。」

「まあ、彼女は知らない仲ではありませんから、できる限りは融通したとは思いますが、少なくとも、こうすんなりとは行きませんでしたね。」

「そうだったんですか。あっ、私は、今は成田支店の勤務で、成田のアパート住まいですよ。ですから空港との行き来ばっかりで、海外も空港周辺専門みたいな感じですね。」

俊一郎、初対面の女性にここまで立ち入ったことを聞いたのは初めてでしたから、自分でも不思議だったのですが、これも縁なのだろうから大切にしようと考えました。

「まあ、何はともあれ、今回は斉藤圭子さんの探索部隊ですから、よろしくお願いします。」

深々と頭を下げられたので、由岐枝は恐縮しました。

「あっ、私こそお願いします。それから、いろいろ勉強させて下さい。」

二人で園子のところに行こうとすると、彼女の方が待ちくたびれてやってきました。


待っていてもつまらないので、チェックインして園子は大きなトランクを預け、身軽になって出発ロビーに移ることにしました。

「ところで、切符を見て気付いたのですが、空港使用料、税が含まれているんですね。」

俊一郎が聞くと、由岐枝が感心しながら説明してくれました。

「チケット見ただけでよくそこまでわかりましたね。そうなんです。日本は空港使用料で、海外では使用税のようなかたちで徴収していて、受益者負担と言うべきなんでしょうが、使用料金が含まれているんです。でも、世界の中では成田って高い方だと思いますよ。」

「物価と同じってとこかな。」

「そうかも知れません。それで、その後の手続きですが、まずパスポートを提示しての出国手続きになります。ですが、娘さんあるいは婚約者の捜索と正直に申告しますとややこしくなる可能性がありますし、幸いお二人ともパスポートをお持ちですから、渡航理由は観光にしておいて下さい。そして、期間も10日間ぐらいにしておいて下さい。」

「おおせの通りにいたしましょう。サイトシーイング、テンデイズで行きます。」

俊一郎が芝居がかったことを言うので、二人は笑いましたが、由岐枝はさらっと英語で言える俊一郎に感心しました。

「では、パスポートに一応チケットを添えて見せて窓口の係員に提出して下さい。」

二人は言われた通りにして係員に渡すと、顔とパスポートを見比べた後、パスポートのページに判を押されて出国手続きは終わりました。

余りの呆気なさに、二人は拍子抜けしていました。

「えーっ、これだけなの。」

「これで終わりですか。」

あっけなさに驚いている二人に苦笑しながら、由岐枝は説明しました。

「ええ。出国手続きは簡単なんです。」

「次はなんですか。」

「もう飛行機に乗るだけです。で、次はパリで入国手続きと税関検査になります。変なもの持ってませんよね。」

由岐枝は、まさかそんなことはあるまいと思いながら確かめたのですが、これまた俊一郎が、芝居がかった答で笑わせました。

「少なくとも、私は大変軽装ですし、やばいもんは持ってませんね。」

園子を見ながら俊一郎が言うので、彼女はからんだ。

「あら何よ。私はやばいもん持ってそうってことやの。」

「いえいえ、他意はございません。」

由岐枝は、漫才のような二人のかけあいを驚いて見ていましたが、最後に笑ってしまいました。

と同時に、娘の友人と友人の母親なのに、奇妙に親しくて変な関係だな、とも思いました。


出国エリアに入って出発まで2時間以上あったので、俊一郎は免税店をのぞきに行き、園子と由岐枝は、ベンチに座って待っていることにしました。


ベンチに並んで座ると、園子がすかさず聞いた。

「ねえ、宮田さんでしたっけ。」

最初から間違えたので、笑いながら由岐枝は立ち上がって改めて挨拶した。

「いいえ、私宮川由岐枝と申します。今回の旅の間ご一緒させていただきますので、よろしくお願いします。」

俊一郎からそのあたりはまだ聞いていなかったので、園子は驚いた。

「あら、ずっと一緒にいてくださるの。それはありがたいわ。ところでフランス語わかるの。」

俊一郎と同じこと聞くので、苦笑しながら由岐枝は答えました。

「ええ。たんのうとまでは行きませんが、そこそこは何とかなると思います。」

礼儀正しい彼女が笑ったので、園子は理由を確かめました。

「何故笑ったの。」

「あっ、失礼しました。神坂さんに全く同じことを聞かれたのでつい。」

「そうだったの。ところで、あなた彼氏いる。」

由岐枝が今度は声を出して笑ったので、園子は、これも俊一郎に聞かれたことに違いないと思いました。

「あら、それも聞かれたの、不思議ね。」

園子は、俊一郎がプライバシーに立ち入るような質問を、しかも初対面の相手にすることが信じられなかったのです。

「いいえ、私からお話ししたんですよ。そして、神坂さんにも聞きました。」

「えーっ、じゃあ俊一郎君あんたにはもうばらしたわけ。」

園子は、俊一郎はあくまで娘の婚約者の触れ込みだったので、ばれたら困ると慌てました。

「えーっ、そのう、一緒にいるとわかるだろうからほんとのことを言いますが、会社にもあなたにも秘密にしてくださいと釘を刺されていたのですが、ついあなたにも話してしまいました。当然、会社には言えません。」

由岐枝がしどろもどろになると、園子は畳み掛けるように頼みました。

「そうね。秘密にしてちょうだい。」

「わかりました。そうしないと、ややっこしくなりますから。」

「ところで、あんた、本当に彼氏いないの。」

もう一度同じ質問をすると、由岐枝はさらっと受け流した。

「いません。」

「今までは。」

「短大の時に付き合った相手はいましたが、彼氏と言えるほど深い関係にはなりませんでした。」

由岐枝、短大の時に確かに彼氏のような存在の男性はいたのだが、キスさえしないで別れていたのです。

「ふーん、もったいない。あんたみたいな美人をほっとくなんて。」

由岐枝は、また笑ってしまいました。

「すいません、つい。実は、神坂さんも、同じこと言ったんですよ。」

あの俊一郎が、初対面の女性にそんなことを言うとは、園子は到底信じられませんでした。

「えーっ、ほんまやの。」

「ええ。言われちゃいました。」

由岐枝が嘘をつくようにも思えないので、不思議ですが、俊一郎にとって彼女は特別な存在なのかもしれないと園子は考えることにしました。

「不思議やね。ほんまに面白いわね。あの堅物の神坂さんが、初対面のあんたにそんなこと言うなんて。じゃあ、あんたバージン。」

余りにはっきり聞かれたので、由岐枝は真っ赤になってうつむきながらうなずきました。

「あっ、ごめんなさい。からかったんじゃないの。実はね、神坂さんをあなたの彼氏にどうかなって思ったのよ。」

意外な言葉に、由岐枝は驚きました。

「えーっ、でも娘さんがいらっしゃるでしょう。」

園子は、そう言いながらも由岐枝はかなり脈がありそうに思えたので、更に突っ込みました。

「いいえ、圭子は彼には合わないわ。一時は彼も真剣に考えてくれたんだけど、圭子悩んだ末に断って、別の人に走ったの。」

由岐枝は『走った』と言うからにはその人と寝たのかと想像し、また顔が赤くなりました。

園子は、彼女の反応に感心していました。今時こんな純情な娘がいたのかと。

「あんたが考えたとおり、圭子は神坂さんとはキスさえしてないけど、別の人とはやること全てやったわ。」

「あっ、いや、そんなつもりでは。」

由岐枝は、見抜かれて当惑しました。

「それで、神坂さんのことどう思ったかしら。」

由岐枝は、気を取り直して真面目な顔で答えました。

「とても落ちついていていい方だとは思います。でも、神坂さん、西都大卒なのでしょう。都女子短大卒の私ではとても釣り合わないんじゃないでしょうか。相手にしてもらえませんよ。」

園子、都女子短大は京都にあることは知っていた。

「あら、あんたも京都だったの。」

「いいえ、滋賀県出身です。」

園子は、由岐枝を励ましました。

「大丈夫よ。神坂さんは学歴なんか気にしないわ。それに彼、きっとあなたのこと、とても気に入ったのよ。大分お話ししたんでしょ。」

「ええ。でも、変わった人ですね。」

園子自身、彼は非常に変わっていると思っているので、苦笑しながら確かめました。

「どこがやの。」

「なんだか、あの人とお話ししていると落ちつくんです。今まで会った男の人、大抵は下心見え見えで嫌だったんですけど、何故かあの人はそうじゃないんです。」

「何て言われたの。」

「海にも行けないって言ったら、何故かって聞かれたので、連れて行ってくれる人がいないだけですよって答えたら、『それはもったいない。私ならほっとかないのに。』って言われたんです。普通の人に同じこと言われたら鳥肌ものですけど、何故かあの人に言われると自然に受け入れられたんです。」

園子は、俊一郎がそんなことを彼女に言ったと聞いて驚きました。

「えっ、ほんまに言うたの。」

「えっ、ええ。」

園子は、由岐枝の肩をポンと叩きました。

「おめでとさん。あんた、彼に凄く気に入られたわよ。」

「えっ、そんな。駄目ですよ、私なんて。」

嬉しいことでしたが、園子の前で喜ぶ訳にもいかないので、由岐枝遠慮した。

「あんたは初対面やったし、知らんへんやろうけど、あの人、一種の超能力者やの。」

「えーっ、うっそー。」

由岐枝は、つい素っ頓狂な声をあげてしまいました。

「いいえ、人をとてもよく見抜くし、未来もかなり見通すわ。だから余程のことでない限り、自分から声をかけたりはしないのよ。だから、あんたはほんまに特別よ。あんた、ほんまに彼氏いないんやね。」

園子に異様な迫力で迫られたので、由岐枝はたじたじとなりながら答えました。

「ええ。」

「じゃあ、今回の旅行であの人ものにしなさい。夫にしたら絶対あんたを不幸にはしないはずよ。」

由岐枝は、とんでもない展開に当惑していました。

「でも、それは神坂さんが決めることですから。そんな…。」

「あんた、ほんまに奥手やね。」

園子は、由岐枝を見ていると、昔の純情だった頃の自分を思い出していました。

「えっ、そうでしょうか。」

「じゃあ、私いいこと教えたげる。」

「何ですか。」

「あんたも、彼には好意もったんでしょ。」

「ええ。とてもいい人だとは思いましたけど…。」

「彼、童貞よ。」

「えっ、そんな。」

また由岐枝は、顔を真っ赤にして頬を両手で押さえました。

「パリでは、ホテル取ってあるでしょ。」

「ええ。」

「シングル、それともツイン。」

「シングルです。いいホテルじゃありませんけど。」

ホテル代が異常に高いパリでは、安ツアーで利用できるホテルは限られていた。

「じゃあ、何日かたったら都合が悪いとか言って、シングル一つとツイン一つにしちゃいなさい。」

「えっ、いいんですか。経費浮きますから助かりますけど。」

真意が見えていないので、園子は笑った。

「あんた鈍いわね。それで、あんたと神坂さんがツインに泊まるのよ。」

「きゃーっ、それは困ります。」

由岐枝はうろたえて悲鳴をあげました。

「そんな声出さんでよ。人聞きの悪い。」

「あっ、すいません。でもいくらなんでもそれは…。」

「あんた、まだまだ結婚したくないの。」

由岐枝もまだ22歳なら、まだ早いかなとも思って、園子は確かめた。

「いいえ、そんなことはありません。」

「まだまだ早い。」

「いいえ、そうも思いませんけど。」

由岐枝は、結婚して主婦になるのが夢でしたから、早くてもいいと思っていたのです。

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