EP 2

最初の産声、最初の奇跡

森の夜は、赤子にとってあまりにも過酷だ。冷たい土が体温を奪い、闇に蠢く全ての物音が恐怖を煽る。

(うわあああ……!何も出来ない!手も足も、ろくに動かせやしない!このまま獣に食われて野垂れ死ぬのか!? 俺!?)

桐島勇馬の20年の人生で培った知識も経験も、この無力な肉体の前では何の役にも立たない。湧き上がるのは、原始的な恐怖と絶望。アルトの体は本能に従い、生存を求めてただ泣き叫ぶことしかできなかった。

「オギャアアア! オギャアアアア!」

その泣き声が、最悪の捕食者を引き寄せてしまった。

茂みの奥で、二対の光が爛々と輝く。低い唸り声と共に、闇から現れたのは、飢えた一匹の狼――この世界のモンスター、【フォレストウルフ】だった。

グルルル……。

涎を垂らし、赤子(アルト)を簡単な獲物と定めて、ゆっくりと距離を詰めてくる。死が、牙を剥いてすぐそこに迫っていた。

(食われる! くそっ、何か、何か無いのか!? あの女神が言ってたスキル!なんだっけ!? ちきゅうびん? 使えるのか!? 赤ん坊の俺に!)

思考が焦げ付く。ウルフが地面を蹴り、鋭い爪を立てて飛びかかってきた。スローモーションに見える世界の中で、アルトの魂は最後の力を振り絞って叫んだ。

(うわああああっ! 【地球便】ッ!!)

――何を、とは考えられなかった。

ただ、目の前の脅威を排除したい。潰してしまいたい。その一心だけだった。

瞬間、アルトの頭上に、ありえないほどの質量を持った影が生まれた。それは、勇馬が地球でよく見かけた、造成地にあるような無骨で巨大な岩。スキル【地球便】は、彼の生存本能に応え、最もシンプルで、最も確実な「障害物」を召喚したのだ。

ズドオオオオオォォンッ!!!

地響きと共に、巨大な岩はフォレストウルフの体を寸分の狂いもなく押し潰した。悲鳴を上げる間も無い、あまりに呆気ない幕切れだった。

「はぁ…はぁ……」

アルトの口から、荒い呼吸が漏れる。赤子の肺ではすぐに息が上がる。

(何だよ、これ……。これが【地球便】……? 冗談じゃない……超絶イージーモードは、一体どこに行ったんだよ……)

命の危機は去った。だが、安堵した途端、別の生理現象が彼を襲う。

きゅるるる……。

(あ、お腹が空いた……)

次の瞬間、アルトの体は再び本能に支配された。空腹と恐怖と、生きている安堵感がごちゃ混ぜになり、赤子に許された唯一の意思表示が森に響き渡る。

「おぎゃああ! おぎゃああああっ!」

そんな、赤子の必死の泣き声を聞きつけた者がいた。

「おや……? こんな夜更けに、赤子の声がするぞ?」

ガサガサと茂みをかき分けて現れたのは、犬の耳とふさふさの尻尾を持つ、屈強な体つきの獣人だった。優しい目をした彼は、岩の隣で泣きじゃくる赤子を見つけ、驚きに目を見開く。

「なんと……本当に赤子がいる。酷いことをする者もいたものだ」

男はアルトを傷つけないよう、そっと、そして優しく抱き上げた。獣人族の温かい体温が、冷え切ったアルトの体を包み込む。

(だ、誰だ……? 獣人…人か?)

勇馬の知識が頭の片隅で囁くが、今はただ、人の温もりが心地よかった。

「おぉ、よしよし。もう心配しなくても良い。すぐに温かい場所に連れて行ってやろう。街の【ミルクファーム】に行こうな。きっと皆が優しくしてくれる」

ワンダフと名乗る犬耳の獣人は、アルトをしっかりと抱きかかえると、慣れた足取りで森を抜けていった。

彼が向かったのは、獣人族の国境近くにある多種族が暮らす街「ムナラス」。その一角にある孤児院【ミルクファーム】。

様々な事情で親をなくした子供たちが、種族の垣根なく暮らすその場所で、皇帝の息子アルト――桐島勇馬の、二度目の人生が静かに始まろうとしていた。

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