摩利支天の智(ニャナ) 歳月不待人

@olympia

第1話

1-1


2025 年 8 月 30 日、土曜日。


今日は山梨県市川大門町上町にある摩利支天神社の祭典で、通称【摩利支天さん】とも呼ばれ親しまれているお祭りの日だ。


夏の終わりを告げるお祭りで、最大 7 号玉が打ち上げられる奉納花火が開かれる。


打ち上げ数は総計 50 発程度で、毎年 8 月 7 日の「花火の日」に開催される【ふるさと夏まつり 神明の花火大会】の 2 万発には大きく劣るが、それでも地域密着型の和気藹藹とした鄙びた雰囲気が優しい風物詩として地元民に愛され続けている。


さすがに 20 万人もの観光客が訪れる【ふるさと夏まつり 神明の花火大会】には比べ様もないが、それでも屋台も毎年、十数件は出て、なかなかの賑わいを見せる。



「ちわー! 山縣です! ワイン持ってきましたー!!」


山縣昌智(やまがた まさとも)は、甲府南ICを降りてすぐ左、山梨県甲府市中道の農産物直売所『風土記の丘農産物直売所』のバックヤードに入ると、そう声をかけた。


「おう、智ちゃん、お疲れ! 助かったよ! もう在庫が切れちゃってさ、明日は日曜だし、今夜は【摩利支天さん】だろ? お客さんも、まだ来ると思うんだよね。山縣さんちのワイン、売れ行き良いからさ!」


「いつもありがとうございます!これ、赤と白、各 15 本ずつお持ちしました」


そういって赤ワインの『 PILOT BLACK OLYMPIA(パイロット ブラックオリンピア)』と白ワインの『PI LOT DELAWARE(パイロット デラウェア)』が入った箱を差し出す。


このワインは山縣家が営む『山縣葡萄農園』で栽培された葡萄 100% を使用し、開園 155 年を記念して作られたものだ。


山縣家は明治 3 ( 1,870 )年、これまで従事していた養蚕と共に、新たに葡萄生産にも乗り出した。


これは同じ山梨県甲府広庭町の山田宥教と八日町の詫間憲久が共同で葡萄酒の醸造を始めた事に刺激を受けたから、と伝えられている。


山田と詫間のワイン生産には地元原産の甲州葡萄を用い、大久保利通内務卿より「 3 ヵ年々賦の無利息で 1 千円貸し渡す」など支援を受け、明治 7 年には白ワインで約 900 リットル、赤ワインで約 1,800 リットルの生産量を誇るまでになった。


明治新政府の富国強兵、殖産興業政策を背景に、新時代の殖産興業が叫ばれる中、武田信玄公より厚い信頼を受けていた山縣氏一族も、お国へのご奉公と新たに葡萄生産を開始したのだ。


従来の甲州葡萄ではなく、よりワイン製造に適した西洋種葡萄を新たな試みとして導入し『山縣葡萄農園』を開園した。


白ワイン用として『シャルドネ』を、赤ワイン用として『カベルネ・ソーヴィニヨン』をフランスより導入、フランス人農業技術者を招いて教えを乞うた。


このフランス人農業技術者の招聘には戊辰戦争時、甲府城入城を果たした板垣退助を支援した五代前の当主・山縣昌誠の存在が大きかった。


幕末時、山梨県は直轄領として江戸幕府の圧政に苦しめられており、東山道先鋒総督府参謀として進軍してきた板垣退助(迅衝隊)に大いに期待していた。


その背景として板垣氏が武田二十四将の一人・板垣信方の子孫である事が非常に大きかった。


同じ武田家家臣で、武田四天王・山縣昌景の子孫である昌誠は大いに親近感を抱き、退助の甲府城入城と共に駆けつけ、資金物資援助、参戦を申し出た。


山縣家は、武田家滅亡後、帰農していたが、それでも長百姓として村落自治の中心として名を馳せており、当主・昌誠以下、郎党数十名が『甲州勝沼の戦い』で新政府軍側として従軍した。


昌誠は、甲陽鎮撫隊隊長・新撰組組長・近藤勇(大久保剛)の因州勢ヘ白兵切込みを受け、一族郎党を率いて逆切込みを敢行、昌誠も 5 人を斬り倒す戦働きをし、見事、戦を勝利へと導いた。


総指揮官・退助も昌誠の働きに甚く感動し、義兄弟の契りを結ぶ程だった。


戦勝後、江戸へと向かう迅衝隊(新政府軍)の退助と共に、昌誠も同行する事とし、岩窪村の武田信玄廟所前にて結成式を行い、一族郎党改め『断金隊』となった。


土佐藩(新政府軍)の遊撃部隊となった昌誠らは日光、今市、白河、三春、二本松、会津若松を転戦し、明治 2( 1,869 )年 3 月 3 日、土佐藩命により解散するまで戦い続け、その後、帰郷した。


故郷へと戻った昌誠は、義兄弟・退助からの支援を受け、甲府の殖産興業に尽力し、それが現在の『山縣葡萄農園』へと繋がっている。


現在、『山梨県立笛吹高等学校 果樹園芸科』 2 年の昌智も、この五代前の先祖様、昌誠の武勇伝を嫌という程、聞かされて育った。


山縣家では代々、幼少時より武道が強く奨励されており、昌智も小・中学と剣道を学び、中一時に初段を、中二年時に二段を取得していた。


剣道の二段は、一段習得から一年以上経過しないと取得できない。


最短で中学二年で取得でき、三段は二段習得後、二年経過しないと習得できないので、中学生が習得できる最高位となる。


父・昌鹿からは高校入学後も剣道を続け、高一で三段を習得するる様にいわれたが、昌智は、それを蹴り、独断でライフル射撃部に入部した。


これは、実家を継ぐ為、高校を『山梨県立笛吹高等学校 果樹園芸科』としなければならなかった事への小さな抵抗でもあった。


『山梨県立笛吹高等学校 果樹園芸科』の偏差値は 39 であり、昌智としては甚だ不本意な進学と言えた。


しかし、家業である葡萄栽培を学ぶとなると、選択肢は『山梨県立笛吹高等学校 果樹園芸科』一択であり、是非もなかった。


もし自由に進学先を選べるなら県下第一の進学校である『甲府南高等学校』(偏差値 69 )へと進み、その後は防衛大学校か防衛医科大学校を経て、最終的には国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(Japan Aerospace Exploration Agency:JAXA)に入職、宇宙飛行士になりたかった。


これは元自衛隊出身の宇宙飛行士である油井亀美也氏、金井宜茂氏の存在が大きかった。


2025 年時点で日本人宇宙飛行士は、総計 12 人で、その内、自衛隊出身は 2 人。


他の経歴に比べ、防衛大学校、防衛医科大学校の出身は宇宙飛行士選抜に有利である、と昌智は考えていた。


学力的には、なんの問題なかった。


学力判定でも『甲府南高等学校』 A 判定を貰っていた。


しかし、『山梨県立笛吹高等学校 果樹園芸科』行きは覆る事なく、昌智は進学した。


一年後、年子の妹・桜が『甲府南高等学校』へと進学した時、昌智は妹への祝福の気持ちと共に、諦観の念を強めた。


“俺も自由に生きたかった”


きっと二歳年上の兄・昌信も同じ気持ちだったのだろう、と思う。


昌信も実家のワイナリーを継ぐ為に『山梨県立笛吹高等学校 食品化学科(ワイン製造実習)』へと進学を余儀なくされていたのだ。


現在、高校を卒業した昌信は、大学へは進学せず、より本格的にワイナリーを学ぶべく、本場フランスへと長期留学中であった。


『山縣葡萄農園』の従業員は 13 人で、繁忙期にはアルバイト百人を募集する程の大農家だ。


そして、姉妹会社である『山縣ワイナリー』の授業員は 17 人。


昌信、昌智の兄弟の双肩には、彼ら 30 人と、その家族の人生が重く圧し掛かっていたのだ。

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