第12話 孝臣が背負うもの
孝臣との契約結婚生活が始まって二ヶ月ほど経過した。浅草の一件があってから、孝臣の仕事は多忙の一途を辿るようになった。これまでも忙しそうにしていたが、最近は、日付が変わってからタクシーで帰宅するか、職場に寝泊まりする日が増え、休日も仕事で潰されるようになったのだ。
「歓楽街の浅草が被害を受けたことで、帝都が本気になったんだ。禍物に襲われた時だけ対処するんじゃなくて、あらかじめ被害が起きにくい都市に作りかえようと。都市計画の根幹に関わる大規模な案件だ」
「つまりどういうこと?」
「幹線道路を広くしたり、鉄筋コンクリートの建物を増やしたり、定期的に避難訓練を行ったりとか……」
「……話を聞くだけで気が遠くなるわ」
これでは確かにやることが増えて仕事がパンクするだろう。孝臣はさらに、気になることを言い出した。
「あと、食事も作り置きしなくていいよ。食べられる時が少ないし、捨てるのはもったいないだろう?」
「えっ? じゃあどうするの? 毎日店屋物なんて体に毒だわ」
「大丈夫。馴染みの店だから、特別におにぎりとタクワンくらいの質素なものにしてもらってる。これくらいがちょうどいいんだ」
「大人の男の人がおにぎりとタクワンだけなんて栄養不足になってしまうじゃない!」
「一体どっちなんだい?」
孝臣はプッと吹き出したが、花の心配は払拭しなかった。本音では仕事量を減らしてくれと言いたいが、そんな状況にないことは十分理解している。
それに、単に仕事量が増えただけではない。孝臣が、何かに追い立てられるように仕事に没頭するようになったのが気になるのだ。
(元から仕事熱心だけど、やけっぱちなくらいに打ち込んでいる。浅草の件があってからよ。やはり、光治さんに助けられたのを引け目に感じて焦っているの?)
そんな彼の心に少しでも近づきたいと悶々と考える。毎日げっそりした顔で帰ってくる彼を見たら、健全な状態とはとても思えない。そんな時、通いでお手伝いに来ているキヨがある助言をしてくれた。
「健康を気にするなら、うちからお弁当を差し入れしたらどうですか? 店屋物より体にいいかもしれませんよ?」
「そうね、その手があったわ! キヨちゃんありがとう!」
孝臣がどんなところで働いているかも見られるかもしれない。そんな期待もあった。早速花は弁当作りに取りかかった。母から一通り教えてもらったので、料理の心得はある。キヨと健三にも手伝ってもらいながら、鮭と梅干しのおにぎりを二つ、卵焼きと胡瓜のぬか漬け、夕食にと作っておいた秋刀魚の生姜煮も入れておいた。
「わあ、おいしそう! 栄養満点だし、孝臣様絶対喜びますよ!」
「へへへ……そうかな?」
キヨに褒められまんざらでもない気分になる。夕方になり、花は健三と共に内務省のある大手町に向けて電車を乗り継いで向かった。大きな鉄製の門扉に怖気付き、荘厳な作りの建物の中に入ってから更に怯えるが、思い切って受付に声をかけた。
「あの、特災課の判任官をしている百合塚孝臣の妻ですが……」
妻という響きに後ろめたさを覚えながら名乗る。本当の夫婦でないのにいいのだろうか。そんな花の葛藤などつゆ知らず、受付の女性は事務的な口調でお待ちくださいと告げた。
「天下の内務省だけあって、いかめしい雰囲気ですね。孝臣様はこんなところで働いているんですね」
待合の椅子に座り健三がそっと話しかける。内務省は警察や地方行政など内政全般を扱う。よって、実に多くの内部部局があり、夕方になるのに人の出入りが絶えなかった。
五分ほど経ってから、お手伝いの男性が二人のところにやってきた。腰に白い手拭いをぶら下げ、ペコペコとお辞儀をしながら近づいてくる。
「百合塚さんですが、今大蔵省の方に出向いていてしばらく戻れないとのことですので、こちらでお預かりします」
やっぱり。何となくそんな気はしていた。復興予算の折衝に時間がかかるのだろう。想像するだけで胃が痛くなりそうだ。
「そうですか。では、この弁当をお願いいたします」
花は手にしていた弁当包みを小間使いに渡し席を立ちかけた。背後から二人の男の会話が聞こえてきたのはそんな時だった。
「今、大蔵省に行ってきたんだが、誰だっけ、ほら、特災課の若手官吏の――」
「ああ、華族の次男だろ? 百合塚だよ、禍物祓いで有名な」
孝臣のことだ。腰を浮かせかけたままの姿勢で固まり、再び座り直す。
「そう、それが手練れの古参官吏相手に
「本来なら、上司が扱う案件じゃないか? なんでまたそんな下っ端に根回しさせるんだ? あれか? 華族の次男で出世頭だから場数を踏ませて英才教育のつもりか?」
「それがそうでもないんだよ。あそこの奏任官、叩き上げの古株だろ? エリート坊ちゃんが気に食わないらしいよ? だからきつい仕事ばかり与えて音を上げるのを待ってるんじゃないか? 何もしなくても出世できるんだから仕事なんて適当にこなせばいいのに」
「禍物祓いになれれば大きい顔ができたのにな。才能がなかったんだから仕方ない」
二人の笑い声の残響音が聞こえなくなるまで、花と健三はその場から動くことができなかった。呆然とする花の袖を健三がそっと引く。
「こうしてても仕方ねえ。そろそろ動きましょう」
言われるがままにふらふらと体を動かし、内務省の門を出る。百メートルくらい歩いたところで、花の目からポロポロと涙があふれ出した。
「お嬢……泣くのは家に帰ってから……」
「本人に会わなくてよかった。どんな顔で会えばいいか分からないもの」
「孝臣様はよくやってますよ。何も知らない赤の他人には、好きなように言わせておけばいいんです」
「私何も知らなかった……知っているつもりで孝ちゃの苦しみを何一つ分かってなかった……どうすればいい? どうすれば孝ちゃを楽にしてあげられる?」
「もう十分よくやってます。孝臣様は、お嬢が笑ってるのが一番喜びますよ? そんな泣き顔晒したら逆に心配させてしまいます」
健三の懸命な励ましにも、花の心は晴れなかった。自分が不甲斐ないと思うのと同様に、孝臣も自身の無力さに打ちのめされているのか。彼の負担を肩代わりするには、契約上の妻では役に立たないのか。家に戻るまでそんなことばかり考えていた。
*
帰宅しても泣き止まず、目元が腫れてしまったので、孝臣が帰ってくるまで氷のうで顔を冷やした。先日彼を心配させたばかりなので、これ以上泣いているところを見られたくない。そんな調子だから、夕飯もろくに手を付けられないまま、彼の帰宅をひたすら待った。
孝臣が帰って来たのは、この日も日付が変わる頃だった。タクシーが止まる音が聞こえ、急いで玄関へと向かう。健三は急いで風呂の用意をしに行った。
いつもは疲れた表情を隠せない孝臣だが、花を見ると、精一杯の笑顔を作ってお礼の言葉を言ってくれた。
「今日はありがとう。まさか、職場まで来てくれるとは思わなかった。会えなくてごめんね。とてもおいしかったよ」
あれだけ泣いたにもかかわらず、花はまた涙がこみ上げそうになった。でも、ここで泣いてはいけない。ぐっと腹に力を入れて我慢する。
「よかった。事前に知らせずにごめんなさい。迷惑じゃなかった?」
「迷惑なものか。みんな羨ましがってて鼻が高かったよ」
よかった。孝臣のことだから遠慮して断られるかもと思ったが大丈夫そうだ。ほっとしたら気が緩んだのだろう。口が滑っていらぬことまで喋ってしまった。
「そうだ……忙しくしてるから言いそびれたけど、こないだ百合塚家のお宅に行ってきたの」
「ん? 一人で実家に行ったの? どうして?」
「先日のお礼を言うために決まってるでしょ。まさか、無視するわけにはいかないわ!」
百合塚の名前が出たら、孝臣の声がにわかに鋭くなった。しまったと思ったがもう遅い。それに、いくら兄弟仲が険悪でも、命を救ってもらったお礼もしない恥知らずにはなりたくないと思っていたから、花もつい強めの口調になってしまう。
「ああ……そういうことか。ごめん、疲れのせいかうまく頭が働かなくて」
「私こそごめんなさい……言い方が強かったよね……」
二人ともしゅんとなり下を向く。お互い謝ったことでこの話は終わりかと思われたのだが。
「でも、母様に何か言われなかった? 断髪とか毛嫌いしそうだから……」
「奥様はいらっしゃらなかったので、光治さんとだけ会ってきたの。光治さんは似合ってると褒めてくれたわ」
「兄さんが……?」
孝臣の目つきが鋭くなったのを見て、また失言したことに気付いた。どうして孝臣が疲れている時に限って二度も失敗してしまうのだろう。今度は彼も抑えきれずに、矢継ぎ早に質問を重ねてきた。
「お礼に行っただけなんだろう? なぜ兄さんがそんなことを言うんだ? 他に何かあった?」
「待ってよ。ただの世間話だってば……」
「本当にお礼だけ? 信じていいの?」
「当たり前じゃない……」
「兄さんは何と言ってた?」
「いい加減にして!」
堪えきれずに花は一喝した。孝臣ははっと息を呑んで我に返る。
「こんなに孝ちゃのこと心配してるのに、どうして信じてくれないの? 私にとって光治さんは兄のような存在だけど、それ以上でもそれ以下でもない! あなたが一番に決まってるじゃない!」
さっきまで胸が張り裂けそうなほど心配してたのに、今は怒りがこみ上げてどうしようもない。ここまで思っているのに、全然通じていないことが悔しくて仕方なかった。
「ごめん……本当にどうかしてる……許してくれ、ハナちゃんに嫌われたら僕は……」
花の剣幕に気圧され、孝臣は青い顔になっておろおろとするばかり。すっかり自信を喪失して謝罪の言葉を口にする様は、いつもの彼らしくない。相当疲れているんだ、自分も言い過ぎたと、花も反省する。
「分かってくれたならいいの。私こそ大きな声を上げてごめんなさい。孝ちゃに信じて欲しかったから……」
「いや、僕はどうかしてる……何の言い訳もできない」
どうしよう。この空気を変えたい。孝臣に疑われるのは心外だったが、辛そうな彼をこれ以上見たくない。そう思った花は、あることを思いついた。
「ねえ……急に話変わるけど、こないだ香月屋の大食堂でアイスクリンを食べたよね? 孝ちゃは冬でもアイス食べたい?」
「…………どうして急にそんな話を?」
「だって、これから寒くなるじゃない? それに、お家では仕事の疲れを癒して欲しいの」
「嫌じゃないよ。アイスクリンならいつでも歓迎だ」
「よかった。じゃ、今度機械を実家で借りてくるね。光治さんがいない時ならいいでしょ?」
「別にもう気にしてないよ。ハナちゃんと二人なら何でもいい」
「よし。それじゃ決まり」
何とか話題を変えるのは成功したようだ。まだダメージから完全に抜けきれていない様子の孝臣を見て、花の中で彼を支えたい気持ちが大きくなった。
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